ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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数奇な運命をたどった島津忠清、その墓標が興国寺跡に埋もれている

鹿児島市冷水町に鹿児島市営の「興国寺墓地」がある。ここにはかつて太平山興国寺があった。興国寺は明治の初めに廃寺となった。その境内はかなりの広さがあり、現在も古い墓石や石造物が残っている。

 

墓地と桜島

興国寺墓地(興国寺跡)

 

この興国寺跡に、薩州家(さっしゅうけ)の島津忠清(しまづただきよ)の墓標だと思われるものが埋もれている。

 

墓標と思われるもの

埋もれた石柱に「島津備前忠清」

 

島津忠清は元和5年(1620年)に没し、享年は50。法名は「恕岳院殿節翁玄忠大禅定門」。

 

 

 

 


埋もれた石柱に

「嶋津備前忠清」と刻まれた石柱。なんでもないところに埋もれている。

埋もれた石柱

踏んでしまいそうな場所に

 

幅は約16㎝、長さは見えている部分だけで130㎝ほど。細長い形状から墓石ではないようだ。墓が誰のものであるかを示すための標柱であろう。

墓標か

「島津」

墓標か

「備前」

墓標か

「忠清」

 

墓石についてはわからず。もしかしたら、墓地内のどこかに積まれていたり、あるいは埋まっていたりするのかもしれない。

 

 

 

太平山興国寺

興国寺は福昌寺の末で、福昌寺住職の泰雲守琮による開山。明応5年(1496年)に島津忠昌(しまづただまさ)が建立し、自身の菩提寺とした。

当初は清水城(しみずじょう、鹿児島市稲荷町)の近くにあった。その後、永正5年(1508年)に上山城下(現在の鹿児島市城山町)に移転。さらに、この地に鹿児島城が築かれることになったために、慶長7年(1602年)に竪野(たての、鹿児島市冷水町)へと移された。

興国寺には亀寿(かめじゅ)の位牌も安置されていた。法名は「持明彭窓庵主興国寺殿」。亀寿というのは島津義久の三女で、薩摩藩初代藩主でもある島津家久(いえひさ、島津忠恒、ただつね)の正室である。

寛永9年(1632年)には、島津光久(みつひさ、2代藩主、家久の子)が再興したとも。

 

広い寺院跡

寺院の痕跡が山の上まで

 

興国寺跡

古い墓と新しい墓が混在している

 

興国寺墓地はものすごく広い。大寺院だったことがうかがえる。敷地内には興国寺の遺構も見られる。ここは鹿児島市中心部の街中だ。そんな立地に、このような空間が存在するというのは不思議な感じもする。

 

 

 

宇土へ連行される

島津忠清は元亀2年(1571年)生まれ。「備前守」を称する。薩州家当主の島津義虎の三男で、母は於平(おひら)という。於平は島津義久(よしひさ)の長女である。

島津忠清の系図

薩州家は島津氏の分家で、薩摩国出水に勢力を持つ。かつて、相州家(そうしゅうけ)の島津貴久(たかひさ)と薩州家の島津実久(さねひさ)は、覇権をめぐって戦った。この抗争は島津貴久が制し、相州家が島津一族の棟梁となった。

その後も薩州家は出水で勢力を維持。島津義虎に代替わりすると、相州家とは同盟関係になった。島津義虎は島津義久の長女(於平)を正室に迎えてた。両家の関係は良好で、島津義久にとっても頼りになる協力者という感じであった。

 

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於平は5人の男子をもうける。そのうちの三男が島津忠清であった。また、長男は島津忠辰(ただとき)といい、こちらが島津義虎の家督をつぐ。

島津氏は九州全土に勢力を広げるが、天正15年(1587年)に豊臣軍に攻められて島津義久は降伏。薩州家の島津忠辰も降り、本領を安堵された。

だが、文禄2年(1593年)5月1日に島津忠辰は改易された。朝鮮へ出兵の際に命令に従わず、豊臣秀吉の怒りにふれてのことだった。島津忠辰は肥後国宇土(うと、熊本県宇土市)を領する小西行長(こにしゆきなが)の預かりとなり、幽閉された。そして、文禄2年8月27日に島津忠辰は朝鮮の加徳島(カトクド)で亡くなる。病死とされる。

薩州家の一族は宇土へ連行された。この中に島津忠清もいた。

 

島津忠清は宇土で妻を迎えた。小西行長の家臣の皆吉続能の娘と伝わる。小西行長はキリシタンとして知られるが、この娘も洗礼を受けている。洗礼名は「カタリナ」。島津忠清は、この妻とのあいだに一女一男をもうけた。

軟禁生活が続いていたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのあと小西家が消滅。宇土は加藤清正(かとうきよまさ)が攻め取り、島津忠清は隈元(くまもと、熊本市)に連れていかれた。

 

島津家では加藤清正に対して島津忠清の返還を求めた。島津義久と島津常久(つねひさ)が熱心に交渉したのだという。

島津忠清は、島津義久にとって孫にあたる。

また、島津常久にとっては叔父にあたる。島津忠清の兄に島津忠隣(ただちか、島津義虎の次男)がいる。島津歳久(としひさ、島津貴久の三男)の養子となっていた。若くして戦死するが、子を残す。その子が島津常久である。

交渉は成立し、慶長14年(1609年)に島津忠清は薩摩国に戻る。

 

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島津忠清の娘、次期当主を産む

島津忠清の娘は、当主の島津家久(島津忠恒)の側室となった。心応夫人という名も伝わっている。そして、この娘が生んだ子のひとりが2代藩主となった。島津光久である。

島津家にとって「島津義久の血」というのが、かなり重要視されていた。だが、島津家久(島津忠恒)は島津義弘の子で、「島津義久の血」をひいていない。そこで、島津義久三女の亀寿を正室に迎えた。亀寿が産んだ子に家督を引き継ぐことが期待されていたのだ。しかし、亀寿とは不仲で、子は産まれなかった。

一方で、島津家久(島津忠恒)は側室との間に30人以上の子をもうけている。島津光久は次男であった。長男は夭折している。

島津光久が後継者に指名されたのには「島津義久の血」を引き継いでいるということに大きな意味があった。亀寿を養母とし、後継者として認められた。亀寿にとっても姉の孫にあたる。

島津忠清は藩主の外祖父となった。

 

 

妻が菩提を弔うが……

元和6年(1620年)に島津忠清は没し、興国寺に葬られた。妻のカタリナは興国寺のある竪野(立野、たての)に住み、夫の菩提を弔ったという。出家して「永俊尼」と号する。また、竪野(立野)に住んだことから「立野殿」「竪野永俊尼」とも呼ばれる。「竪野カタリナ」の通称でも知られている。

その後、竪野永俊尼(竪野カタリナ)は隠れキリシタンであり、棄教を拒んだことから、寛永12年(1636年)に種子島に流される。そして、慶安2年(1649年)に種子島で亡くなった。

 

 

 

断絶と再興と

島津忠清には息子いたが、なぜか家をついでいない。新納(にいろ)氏嫡流の養子となり、こちらの家督を継承した。新納忠影(にいろただかげ)という。

島津忠清の家系は断絶した。なんとなくだが、厚遇されていなかったような印象を受ける。藩主の外祖父となったことから、あまり力を持たないように警戒されていたのか、……と、そんな想像もさせられる。

家系が途絶えて90年以上のちに、島津忠清の家は再興された。島津吉貴(よしたか、4代藩主)は、新納久基に家督の継承を命じる。新納久基は新納忠影の曾孫にあたる。この家系は「薩州家忠清一流」あるいは「薩州家次男家」と呼ばれる。

 

 


島津忠清は島津家にとって重要な人物である。2代藩主の祖父にあたるのだから。だが、あまり語られることがないようにも思う。

それにしても、興国寺跡に埋もれた墓標の扱いが良くない。敷石として使われているような印象もある。せめて立てた状態にならないものだろうか。もっと言えば、史跡指定されてもいいようにも思えるのだが……。

 

 

 

 

 


<参考資料>
『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『旧記雑録 後編五』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1985年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『戦国武将列伝11 九州編』
編/新名一仁 発行/戎光祥出版株式会社 2023年

ほか