南九州は14世紀より戦乱が続く。島津氏は薩摩国・大隅国・日向国の守護職にあるが、一族の抗争が絶えず。ずっと領内を統治しきれないのであった。
14世紀から15世紀にかけての混乱期についてはこちら。
16世紀に入って、ようやく島津氏領内をまとめあげる人物が登場する。島津貴久(しまづたかひさ)である。分家から当主の座につき、反抗する一門衆や国人衆をおさえ込み、支配体制をかためていく。その過程を一気にたどってみる。
- 三州大乱
- 薩州家が主導か?
- 相州家が政権を掌握、島津貴久が擁立される
- 薩州家の反撃、前当主の復帰
- 島津忠良・島津貴久の反撃
- 加世田・谷山・河邊・市来を攻略
- 13人衆の反乱、西大隅の戦い
- 清水の動乱、本田氏の没落
- 大隅合戦
- 飫肥の役
- 廻城の戦い
- 島津氏が真幸院を取る
- 菱刈・大口の戦い、島津貴久が薩摩平定
なお、日付については旧暦で記す。
三州大乱
『島津国史』(江戸時代に島津家が編纂させた歴史書)には、永正7年(1510年)の記事に「薩隅日三州大乱」と出てくる。まずは、この頃の事情について軽く説明しておく。
15世紀後半になって、島津氏には多くの分家が立てられた。薩州家(さっしゅうけ)・豊州家(ほうしゅうけ)・相州家(そうしゅうけ)・羽州家(うしゅうけ)・伯州家(はくしゅうけ)など。このほかに伊作(いざく)・伊集院(いじゅういん)・新納(にいろ)・北郷(ほんごう)・樺山(かばやま)・佐多(さた)といった島津支族も力を持っていた。
島津氏の政権は領内の有力者の支持なしには成り立たなくなっていた。守護家(本宗家)である奥州家(おうしゅうけ)を盟主とした連立政権のような感じである。
本宗家10代当主の島津立久(しまづたつひさ)は、一門衆の協力を得て領内の安定化につとめた。薩州家や豊州家も宗家をよく支えた。また、相州家の島津友久(ともひさ)は立久の兄、伊作久逸(いざくひさやす)は立久の弟にあたる。
しかし、島津立久は42歳の働き盛りで病没してしまう。島津忠昌(ただまさ、11代)が家督をつぐが、まだ12歳(数え年)と幼い。当初は国老衆が政務を代行していたが、一門衆がこれに反発。文明7年(1475年)から文明9年にかけて薩州家・豊州家・相州家が反乱を起こした。また、文明16年(1484年)には伊作久逸(いざくひさやす)が反旗をひるがえす。国人衆も反乱に呼応し、領内は大乱となった。
伊作久逸の乱が鎮圧されたあとも、領内あちこちに戦火があがる。そのたびに島津忠昌は対応し、みずから軍を指揮することも多かった。戦乱をおさめようと奔走していたが、永正5年(1508年)2月に島津忠昌は自害してしまう。混乱を収拾できないことを思い悩んでのことだったとされる。
島津忠治(ただはる、12代、島津忠昌の長男)があとをつぐが、永正12年(1515年)に若くして亡くなる。享年27。そのあとは弟の島津忠隆(ただたか、13代)が家督を継承するも、こちらも永正16年(1519年)に没する。享年23。
島津忠昌の三男は頴娃(えい)氏に養子に出されていた。呼び戻されて家督をつぐことに。島津忠兼(ただかね、のちに島津勝久と改名する)が14代当主となった。こちらも17歳(数え年)で就任と若い。短期間のうちに当主が目まぐるしく交代し、若い当主には経験も権威も不足している。もはや領内を抑える力はなくなっていた。
薩州家が主導か?
16世紀初め頃は島津本宗家の権力が弱まる一方で、分家の影響力がより増していたと考えられる。とくに、力を持っていたのが薩州家・相州家・豊州家である。
薩州家は薩摩国の出水(いずみ、鹿児島県出水市)・阿久根(あくね、阿久根市)・串木野(くしきの、いちき串木野市)・加世田(かせだ、南さつま市加世田・大浦・坊津・笠沙)・河邊(かわなべ、南九州市川辺)・鹿籠(かご、枕崎市)など広大な所領を持つ。当主は島津忠興(ただおき)。
相州家は薩摩国の田布施・阿多(たぶせ・あた、南さつま市金峰)や伊作(いざく、日置市吹上)などを領する。当主は島津忠良(ただよし)。ちなみに島津忠良はもともと伊作氏の出身で、伊作久逸の孫にあたる。母が相州家の島津運久(ゆきひさ)と再婚したことで相州家に入り、島津忠良は相州家・伊作氏の家督をあわせて継承している。
豊州家は日向国の飫肥(おび、宮崎県日南市)・櫛間(くしま)などを領する。当主は島津忠朝(ただとも)。
3家の中では薩州家の勢力が圧倒的に大きい。島津忠兼が宗家当主となってからは、薩州家の島津忠興が政権を主導していたと考えられる。島津忠興(薩州家)は娘を島津忠兼に嫁がしてもいる。
また、島津忠良(相州家)の正室は島津忠興(薩州家)の妹であり、薩州家と相州家も良好な関係であったと推測される。
相州家が政権を掌握、島津貴久が擁立される
大永6年(1526年)11月、島津忠兼は国政を島津忠良(相州家)に委ねた。さらに、11月27日には忠良の嫡男を元服させ、島津貴久(たかひさ)の名を賜る。そして、島津貴久を継嗣とした。翌年には島津忠兼は隠居し、鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)を離れた。
このような状況に至った経緯については、つぎのように伝えられている。薩州家当主の島津実久(さねひさ、忠興の嫡男)は奢り、島津忠兼に対して自分を後継者にするよう迫った。本宗家の家督を奪おうとしたのだ。そこで、島津忠兼は島津忠良(相州家)を頼ったのだという。ただ、これには不審な点がかなりある。島津実久(薩州家)は当時14歳。そんなことをする政治力があるとは思えない。また、薩州家に対抗するためとはいえ、島津忠兼が相州家に実権を譲り渡すことになるのもヘンな話なのである。
実際には島津忠良(相州家)と国老衆が共謀してのクーデターだったのだろう。
じつは大永5年(1525年)に、国政を主導してきたと思われる島津忠興(薩州家)が没している。薩州家の影響力が落ちたところで、島津忠良(相州家)が動いたのだろう。島津忠兼に政権移譲を迫り、自分の子を当主の座にねじ込んだ。そして隠居させた(追放した)。……と、そんな感じだろうか。
薩州家の反撃、前当主の復帰
追い落とされた薩州家も黙っていない。こちらも仕掛けてくる。
大隅国帖佐・加治木(ちょうさ・かじき、鹿児島県姶良市)で反乱が勃発。島津忠良がこちらへ出征している隙をついて、大永7年(1527年)6月に薩州家方は鹿児島と相州家領を攻撃する。諸城を落とし、鹿児島の清水城にも迫る。清水城にあった島津貴久は数人の家臣とともに脱出し、田布施(相州家の拠点)に落ち延びる。帖佐より鹿児島に帰還してきた島津忠良は異変に気付く。こちらも田布施に向かった。
島津忠兼は相州家から伊作城(いざくじょう、日置市吹上町中原)を譲られて、ここを隠居所としていた。薩州家は伊作に使者を送り、守護復帰をうながした。島津忠兼はこれに応じ、鹿児島に戻る。守護に復帰し、しばらくして名も「勝久」と改めた。
一方で、島津忠良は7月に敵方にあった伊作城を奪回。伊作城は堅固な山城で、こちらに拠点を移して反撃の機会をうかがう。
島津忠良・島津貴久の反撃
天文2年(1533年)7月に島津忠良は薩摩国の南郷城(なんごうじょう、日置市吹上町永吉)を攻める。これを陥落させると「南郷」から「永吉」と土地の呼び名を改めた。永吉城には島津貴久・島津忠将(ただまさ、忠良の次男)を入れて守らせた。
この南郷城(永吉城)の奪還から、島津忠良・島津貴久の反撃が始まる。
8月に島津勝久は永吉城に向けて軍を派遣する。永吉城の守りを固め、伊作城から出撃した島津忠良が敵軍の側面をついて撃退した。
天文4年(1535年)、守護の島津勝久(しまづかつひさ)は国老衆や島津実久(薩州家)と対立する。4月に国老の川上昌久(かわかみまさひさ)が自害に追い込まれ、これに反発した国老衆は島津実久(薩州家)とともに挙兵する。鹿児島が落とされ、島津勝久は出奔。清水城には島津実久(薩州家)が入った。
これ以降は、島津実久(薩州家)が国政を執ることになる。正式に守護職についたともされる。
実権を握った島津実久(薩州家)だったが、領内の支持を集めきれなかった。逃亡した島津勝久は一転して島津忠良(相州家)と手を組む。相州家方は薩州家が持つ城の攻略に乗り出すのである。
天文5年(1536年)3月、島津忠良・島津貴久は伊集院の一宇治城(いちうじじょう、鹿児島県日置市伊集院)を攻めて、これを奪う。さらに天文6年(1537年)2月には鹿児島を落とし、清水城を奪還した。
加世田・谷山・河邊・市来を攻略
鹿児島を制した相州家は、薩州家が支配する薩摩国中南部の攻略を進める。天文7年12月から年明けにかけて(1539年)、伊作城にあった島津忠良は加世田城(かせだじょう、別府城ともいう)を攻撃する。ここは薩州家にとって南薩摩の拠点ともいえる城である。島津忠良は苦戦を強いられるも夜襲が功を奏し、加世田城は落ちる。
天文8年(1539年)3月、島津貴久は鹿児島から薩州家方の谷山を攻める。紫原(むらさきばる、鹿児島市紫原)の合戦に勝利して谷山本城(たにやまほんじょう、鹿児島市下福元町)とその支城を落とした。
また、同じ頃に島津忠良は加世田から河邊を攻めた。河邊高城(かわなべたかじょう、別名に松尾城、鹿児島県南九州市川辺町野崎)と平山城(ひらやまじょう、別名に河邊城、南九州市川辺町平山)を落とした。
相州家方が加世田・河邊・谷山を制圧したことで、薩州家は薩摩半島南部の所領を保てなくなった。
8月、島津忠良・島津貴久はさらに市来城(いちきじょう、日置市東市来)と串木野城(くしきのじょう、いちき串木野市上名)を攻略する。
相州家方が薩摩国中部も制圧し、薩州家は本領の出水に引いた。その後は、ふたたび攻撃をしかけてくることはなくなる。薩摩国の覇権は島津忠良・島津貴久が掌握する。実質的に島津貴久が本宗家の後継者となった。
13人衆の反乱、西大隅の戦い
島津忠良・島津貴久は本宗家の実権を握った。だが、領内の支持獲得はすんなりとはいかないのである。大隅国・日向国南部、さらに薩摩北部の渋谷一族(しぶやいちぞく)らが反発。13人の有力者たちが同盟を結んで反乱を起こす。
13人の顔ぶれはつぎのとおり。
島津忠広(しまづただひろ、豊州家)
北郷忠相(ほんごうただすけ、島津支族)
禰寝清年(ねじめきよとし)
伊地知重武(いじちしげたけ)
廻久元(めぐりひさもと)
敷根頼賀(しきね、名の読みわからず)
上井為秋(うわいためあき)
本田薫親(ほんだただちか)
肝付兼演(きもつきかねひろ、加治木を領する肝付氏庶流)
蒲生茂清(かもうしげきよ)
祁答院良重(けどういんよししげ、渋谷一族)
入来院重朝(いりきいんしげとも、渋谷一族)
東郷重治(とうごうしげはる、渋谷一族)
ちなみに前当主の島津勝久は北郷氏のもとに身を寄せている。この反乱は島津勝久をかついで、島津貴久(相州家)に対抗したものと思われる。
天文10年(1541年)12月、反乱軍は大隅国の生別府城(おいのびゅうじょう、鹿児島県霧島市隼人町小浜)を囲んだ。生別府領主の樺山善久(かばやまよしひさ、島津支族)は島津貴久の姉を妻としており、一貫して相州家に協力していた。
島津忠良・島津貴久は生別府城の救援に動くがうまくいかない。また、敵方の加治木城(かじきじょう、肝付兼演の居城、鹿児島県姶良市加治木)を攻めるも大敗する。
戦況が不利になっていく中で、島津忠良は策を講じる。反乱軍の中心的な人物であった本田薫親の調略に動いた。生別府城を引き渡すことを条件に、本田薫親に単独講和を持ちかけた。城主の樺山善久を説得し、こちらには別の所領を与えることに。本田薫親は講和に応じた。これにより反乱軍の勢いを止めることに成功する。
天文14年(1545年)3月、島津忠広(豊州家)と北郷忠相が一宇治城(いちうじじょう)に出向く。島津貴久と会見し、守護と仰ぐことを約束する。日向国では伊東義祐(いとうよしすけ)が勢力を広げつつあり、豊州家・北郷氏は余裕がなくなっていた。そのために島津貴久と同盟を結び、支援を得ようとしたのである。
ちなみに島津貴久は、この年に一宇治城に居城を移している。
なお、北郷氏のもとにあった島津勝久は出奔し、豊後国(現在の大分県)の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)のもとに身を寄せた。その後、島津勝久が薩摩に戻ることはなかった。
また、天文12年(1543年)には種子島に鉄砲が伝わったとされる。島主の種子島時堯(たねがしまときたか)は製造法を研究させ、数年後には国産化に成功する。
清水の動乱、本田氏の没落
本田薫親は大隅国の清水(きよみず、霧島市国分清水)・姫木(ひめき、霧島市国分姫木のあたり)・生別府を領し、この一帯に大きな勢力を持つ。もともとは島津氏の家老を務める家柄であったが、この頃は戦国大名化していた。
全盛期ともいえる状況の本田氏だったが、天文17年(1548年)に内訌があったことから一気に没落する。
本田氏の混乱に乗じて、領内には祁答院氏・肝付氏・蒲生氏・北原氏などが侵攻してくる。ここに島津貴久も介入する。島津軍は乱入した勢力を撤退させ、本田一族にも調略をかける。同年5月、清水城の本田薫親も降伏させた。
しかし8月になって、本田一族が再び叛く。10月に島津方は総攻撃をかけて、本田薫親・本田親兼(ちかかね、薫親の嫡男)らは城を放棄して逃亡した。
島津貴久は本田氏の旧領を得る。清水城は島津忠将に、姫木城は伊集院忠朗(いじゅういんただあき)に与えられた。また、生別府城には樺山善久が復帰し、島津忠良の命で「長浜城(ながはまじょう)」と呼称が改められている。
豊州家・北郷氏を味方につけ、本田氏を滅ぼしたことで、大隅国の領主たちもつぎつぎと島津貴久の傘下に入った。残る反抗勢力は肝付兼演・蒲生茂清・祁答院良重・入来院重朝・東郷重治となった。
天文18年(1549年)5月、島津貴久は加治木城を攻める。伊集院忠朗を大将として出兵し、加治木城の南に位置する黒川崎(くろかわさき、姶良市加治木町反土)に陣取った。肝付勢も日木山川(ひきやまがわ)を挟んで対陣。戦いは半年にも及んだが、11月に肝付兼演は降伏を申し出る。
12月、肝付兼演・肝付兼盛(かねもり、兼演の子)・蒲生茂清は島津貴久に謁見し、降伏が認められる。祁答院氏・入来院氏・東郷氏も使いを送って謝罪した。
肝付氏には加治木を安堵したほか、新たに領地も与えられた。かなりの厚遇ぶりである。その後、加治木肝付氏は島津氏に叛かなくなる。
天文18年(1549年)、イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した。ザビエル一行は島津貴久に謁見し、鹿児島での布教活動が許可された。
天文19年(1551年)、島津貴久は拠点を伊集院から鹿児島に移す。御内(みうち、内城、うちじょう)を新たに築いてここを居城とした。
天文21年(1552年)6月11日、島津貴久は朝廷より修理大夫(しゅりのかみ、しゅりのたいふ)に任じられた。修理職は島津本宗家の歴代当主が名乗っているものである。また、幕府からも正式に守護と認められた。
大隅合戦
天文23年(1554年)、大隅国西部でまたも動乱が勃発。蒲生範清(のりきよ、茂清の子)・祁答院良重らは加治木城を囲んだ。加治木城主の肝付兼盛と蒲生範清との間で不和が生じたことが原因だったという。蒲生氏は祁答院氏と結んで攻めかかかり、入来院氏・東郷氏・菱刈氏・北原氏も攻撃に加わった。
ここから始まる一連の戦いを「大隅合戦」と呼んだりする。戦場は、現在の鹿児島県姶良市のほぼ全域にあたる。
加治木城を救うため、島津貴久は鹿児島から出兵する。こちらは蒲生氏配下が守る岩剣城(いわつるぎじょう、姶良市平松)を囲んだ。また、加治木の西側からは島津忠将・伊集院忠朗・樺山善久らも戦いに加わる。
蒲生・祁答院連合軍は加治木城の囲みを解いて、岩剣城の救援に動いた。島津方は城攻めを続けつつ、野戦で敵軍も叩く。10月2日、岩剣城は陥落する。
なお、岩剣城の戦いでは島津貴久の息子たちが初陣を飾った。長男の島津義辰(よしとき、よしたつ、島津義久、よしひさ)、次男の島津忠平(ただひさ、島津義弘、よしひろ)、三男の島津歳久(としひさ)である。
島津勢は岩剣城を奪ったあと、帖佐(ちょうさ、祁答院氏が領有)と蒲生(かもう、蒲生氏の所領)の攻略をすすめる。天文24年(1555年)4月には祁答院氏の拠点である帖佐本城(ちょうさほんじょう、姶良市鍋倉)が落ち、祁答院良重は本領の祁答院(鹿児島県薩摩郡さつま町のあたり)へ撤退する。弘治3年(1557年)4月には蒲生城(かもうじょう、姶良市蒲生)も陥落した。
島津貴久は西大隅を支配下に置いた。
飫肥の役
日向南部では飫肥・櫛間を領する島津忠親(ただちか、豊州家、北郷忠相の嫡男が養子に入った)が苦戦していた。日向国で勢力を伸ばす伊東義祐が北から攻め立て、南からは肝付兼続(きもつきかねつぐ、大隅半島を支配する肝付氏の嫡流)が侵攻した。
日向国庄内の北郷時久(ときひさ、島津忠親の嫡男)は豊州家を支援。永禄2年(1559年)には島津貴久も援軍を送った。さらに翌年には島津忠平(島津義弘)を豊州家の養子に出し、飫肥城を守らせた。
しかし、肝付氏が大隅国の廻城(めぐりじょう、霧島市福山)を奪ったことで支援が断たれ、島津忠親(豊州家)は和睦の道を選ぶ。飫肥を伊東氏に引き渡し、志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志町)を肝付氏に割譲した。
島津忠平(島津義弘)は豊州家との養子縁組が解消され、鹿児島に戻った。
廻城の戦い
肝付兼続は島津貴久の姉を妻とし、長年にわたって協力関係にあった。しかし、同盟は破れる。
永禄4年(1561年)5月、肝付兼続は大隅国の廻城(仁田尾城ともいう)を攻め取った。城主の廻久元(めぐりひさもと)は島津方であった。
6月、島津貴久は大軍を率いて廻城の奪還に動く。肝付兼続は廻城に入って応戦する。肝付方には禰寝重長(ねじめしげたけ)・伊地知重興(いじちしげおき)も加わった。ともに大隅半島に勢力を持ち、両氏は肝付兼続に従っていた。
7月、廻城近くの竹原山で激戦となり、ここで島津忠将(貴久の弟)が戦死する。島津氏にとって大きな痛手となった。島津貴久は忠将の死を知って竹原山に進撃し、敵軍を撤退させた。
なお、この戦いでは島津家久(いえひさ、貴久の四男)が初陣を飾っている。
島津氏が真幸院を取る
北原氏は日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市)や大隅国栗野院(くりのいん、鹿児島県姶良郡湧水町)・横川(よこがわ、鹿児島県霧島市横川)などを領する。当主の北原兼守(きたはらかねもり)が急死し、後継者となる男子がなかった。永禄5年(1562年)に相続問題から争乱へと発展する。
一族の北原民部少輔(兼守の叔父の北原兼孝か)が家督をつぐことに決まるも、そこに伊東義祐が介入してくる。伊東義祐の娘は北原兼守に嫁いでいた。未亡人となった娘を馬関田右衛門佐(苗字は「まんがた」と読む、北原一族)に再婚させ、伊東氏がこちらを当主に擁立する。そして、北原民部少輔は討たれた。北原氏は乗っ取られたのである。
北原氏家臣の白坂氏は島津貴久に支援を求めた。島津氏は肥後国球磨(熊本県水俣市)の相良義陽(さがらよしひ)と協力し、相良氏のもとに身を寄せていた北原兼親(かねちか)の当主擁立に動く。相良軍は北原兼親とともに真幸院を攻め、飯野城(いいのじょう、えびの市原田)を奪還した。
島津貴久は大隅国溝邊(みぞべ、霧島市溝辺)に出陣し、横川城(よこがわじょう、霧島市横川町中ノ)を攻め落とす。さらに栗野院の諸城を降伏させる。
真幸院三山(みつやま、宮崎県小林市)をのぞいて、北原氏旧領を奪還することに成功した。
だが、相良義陽は一転して伊東義祐と結び、島津氏と敵対する。島津貴久は北原兼親ではこの地を守れないと判断し、北原氏を転封したうえで真幸院・栗野院を直轄地とした。島津忠平(島津義弘)が地頭に任じられ、永禄7年(1564年)11月に飯野城に入った。
菱刈・大口の戦い、島津貴久が薩摩平定
永禄9年(1566年)2月、島津貴久は守護職を嫡男の島津義久に譲る。島津貴久は落髪して「伯囿(はくゆう)」と号した。
島津貴久は隠居したあとも精力的に動く。同年10月には真幸院の三山城に出兵した。島津義久を大将とし、島津忠平(島津義弘)と島津歳久を副将として総攻撃をかけた。だが、城を落とせず撤退する。
永禄10年(1567年)11月には、島津貴久は大隅国菱刈(ひしかり、鹿児島県伊佐市菱刈)を攻めた。菱刈氏は島津氏傘下にあったが、相良氏と協力して反抗した。
島津貴久は7000余の兵を率い、島津義久は8000余の兵を率い、それぞれが菱刈氏の馬越城(まごしじょう、伊佐市菱刈前目)に迫る。さらに真幸院より島津忠平(島津義弘)・新納忠元(にいろただもと)らの部隊も進軍する。
島津忠平(島津義弘)らが馬越城に夜襲をかけて攻め落とす。本城(太良城)にあった菱刈隆秋(ひしかりたかあき、当主が幼いために家督代となっている)は馬越城陥落を知ると城を捨てて、相良氏領の大口城(おおくちじょう、伊佐市大口里、大口小学校の裏山)に逃げ込んだ。
菱刈一族は湯之尾・市山・青木・曽木・山野・羽月・平和泉(ゆのお・いちやま・あおき・そぎ・やまの・はつき・ひらいずみ、大隅国菱刈と薩摩国牛屎院にまたがる、現在の伊佐市一帯)の諸城も放棄。島津方は菱刈氏の領内を一気に制圧した。
菱刈氏・相良氏の連合軍は大口城の籠城する。北薩摩に勢力を持つ入来院氏・東郷氏も城方を支援した。戦いは長引く。島津氏は和睦も画策するが、こちらもなかなかうまくいかない。
大口勢に呼応して伊東義祐も動く。真幸院に兵を出してきた。島津忠平(島津義弘)はこちらの備えにまわり、大口城の戦いには参加できなくなる。また、永禄11年(1568年)1月に伊東氏は飫肥・櫛間の豊州家を攻め滅ぼしている。
永禄11年(1568年)12月13日に島津忠良(島津日新斎)が没する。享年77。島津忠良は長引く戦いに対して、生前に和睦を進言していた。永禄12年(1569年)1月、大口ではいったん和議が成る。
しかし、3月に和議は破談。戦いが再開する。5月、肝付兼盛・新納忠元・島津家久らが仕掛ける。島津家久が輸送隊に扮して大口城下へおもむく。城から兵が出てきた。輸送隊を囮に、うまく釣り出したのである。島津家久は敗走を装って敵を誘い込む。羽月戸神尾(とがみお)で伏兵が敵軍を取り囲み、一気に殲滅した。「釣り野伏せ(つりのぶせ)」が決まった。
8月18日、島津貴久・島津義久は大口城を総攻撃。そして、相良氏・菱刈氏は降伏を申し出た。9月2日に大口城は開城する。大口地頭には新納忠元が任じられ、大口城に在番することとなった。
大口城が落ちたことで、島津氏と敵対していた渋谷一族も持ちこたえられなくなった。元亀元年(1570年)1月、入来院重嗣(いりきんしげつぐ)は東郷重尚(とうごうしげなお)を説得し、ともに島津氏に降伏を申し入れた。
これにて、島津貴久は薩摩国全土を平定した。そして元亀2年(1571年)に没する。享年58。島津氏の戦いは息子たちに引き継がれる。
<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年
鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年
鹿児島県史料集35『樺山玄佐自記並雑 樺山紹剣自記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1995年
『貴久記』
著/島津久通 国立公文書館デジタルアーカイブより
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
『日向纂記』
著/平部嶠南 1885年
『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年
『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年
『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)
ほか