ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

戦国時代の南九州、激動の16世紀(8)廻城の戦い、飫肥の役、真幸院の争乱

島津貴久(しまづたかひさ)は西大隅の帖佐・蒲生(ちょうさ・かもう、鹿児島県姶良市)を制圧し、さらなる勢力拡大をうかがう。ただ、反抗勢力を完全に押さえ込んだわけではなく、火種はあちこちにくすぶっている。

 

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そして、味方っだった者が強大な敵に転じたりもするのである。大隅国の肝付兼続(きもつきかねつぐ)は、島津貴久とは友好関係が続いていた。しかし、両者の関係が急速に悪化し、全面戦争へと突入する!

また、日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)も勢いを増し、こちらとの抗争が激化していく。

 

なお、記事中の日付は旧暦で表記する。

 

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南九州の有力者たち

島津貴久は南九州の支配を徐々に進めていくが、まだまだ群雄割拠の状況が続く。帰順した者もいつ叛くかわからず、同盟関係も強固ではない。永禄元年(1558年)頃の情勢はつぎのとおり。登場人物が多いので、さきに紹介しておく。

 

島津貴久
薩摩国・大隅国・日向国の守護。ただし、実効支配しているのは薩摩国中南部と西大隅の一部。本拠地は鹿児島の内城(うちじょう、御内、みうち、場所は現在の鹿児島市大竜町)。この頃、嫡男の島津義久(よしひさ、次期当主)や三男の島津歳久(としひさ)は鹿児島にあったと思われる。島津貴久は直轄地に地頭を置いた。要所には親族を配置する。

島津忠将(ただまさ)
大隅国清水(きよみず、鹿児島県霧島市国分清水)を任される。島津貴久の次弟で、島津氏の軍事面の主力である。ちなみに、島津貴久は分家の相州家(そうしゅうけ)の出身だが、こちらの家督は忠将が継承している。

島津尚久(なおひさ)
薩摩国鹿籠(かご、鹿児島県枕崎市)を任される。島津貴久の三弟。兄に従って転戦する。

島津忠良(ただよし、島津日新斎、じっしんさい)
貴久・忠将・尚久の父で、相州家の前当主。薩摩国加世田(かせだ、鹿児島県南さつま市加世田)を隠居所としている。

島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)
島津貴久の次男。大隅国帖佐(ちょうさ)の平松城(ひらまつじょう、鹿児島県姶良市平松)に在番。

伊集院忠朗(いじゅういんただあき)
島津支族の伊集院氏の庶流。大隅国曽於郡(そのこおり、霧島市国分姫木・国分重久のあたり)を守る。島津貴久の国老で、大将を任されることも多い。

上井覚兼(うわいさとかね、かくけん)
薩摩国永吉(鹿児島県日置市吹上町永吉)の地頭。上井氏はもともとは大隅国上井(うわい、霧島市国分上井)の領主だったが、この頃には島津貴久の家臣団に組み込まれていたようだ。上井覚兼は、のちに島津義久の側近となる。

樺山善久(かばやまよしひさ)
大隅国長浜(ながはま、霧島市隼人町小浜)の領主。島津支族。島津貴久の姉を妻とし、一貫して協力的な立場をとる。

佐多忠将(さたただまさ)
薩摩国知覧(ちらん、鹿児島県南九州市知覧)の領主。島津支族で、一貫して島津貴久に従う。佐多忠将の母は島津忠良の妹で、さらに佐多忠将の妹は島津忠将に嫁いでいる。

喜入季久(きいれすえひさ)
薩摩国喜入(きいれ、鹿児島市喜入)の領主。島津貴久の国老。島津支族で、一貫して島津貴久に従う。母は樺山氏の出身で、妻は佐多忠将の娘。

頴娃兼堅(えいかねかた)
薩摩国頴娃(えい、南九州市頴娃・指宿市開聞)の領主。肝付氏庶流。島津貴久に従う。

肝付兼盛(きもつきかねもり)
大隅国加治木(かじき、姶良市加治木)の領主。肝付氏庶流。島津貴久の国老。

廻久元(めぐりひさもと)
大隅国廻(めぐり、霧島市福山町)の領主。

菱刈重猛(ひしかりしげたけ)
大隅国菱刈(ひしかり、鹿児島県伊佐市菱刈)などの領主。菱刈氏はたびたび島津氏に反抗するが、この頃は帰順している。

北原兼守(きたはらかねもり)
日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市・小林市のあたり)や大隅国栗野院(くりのいん、鹿児島県姶良郡湧水町)、桑原郡の横川(よこがわ、霧島市横川)や踊(おどり、霧島市牧園町)などを領する。肝付氏庶流。

入来院重嗣(いりきいんしげつぐ)
渋谷一族。薩摩国入来院(いりいきん、鹿児島県薩摩川内市入来町・樋脇町)などを領する。島津氏にたびたび反抗する。

祁答院良重(けどういんよししげ)
渋谷一族。薩摩国祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院町)などを領する。島津氏にたびたび反抗する。大隅合戦で帖佐の地を失い、本領に戻った。

東郷重尚(とうごうしげなお)
渋谷一族。重尚は菱刈氏から養子入りしている。薩摩国東郷・中郷・水引(とうごう・ちゅうごう・みずひき)などを領する。島津氏にたびたび反抗する。

島津義虎(しまづよしとら)
分家のひとつ薩州家の当主。薩摩国出水(いずみ)を領する。父の島津実久(さねひさ)は島津貴久と激しく覇権を争ったが、島津義虎は和睦する。

相良頼房(さがらよりふさ、相良義陽、よしひ)
肥後国南部(熊本県人吉市・水俣市・八代市のあたり)の領主。菱刈氏とは姻戚関係にあり、この頃は薩摩国大口(おおくち、伊佐市大口)にも進出している。

北郷時久(ほんごうときひさ)
日向国庄内(しょうない、宮崎県都城市・北諸県郡三股町のあたり)の領主。島津支族。島津貴久とは同盟関係にある。

島津忠親(しまづただちか)
分家のひとつ豊州家(ほうしゅうけ)の当主。日向国飫肥・櫛間・志布志(おび・くしま・しぶし、宮崎県日南市・串間市、鹿児島県志布志市)を領する。じつは北郷時久の父。もともとは北郷氏の当主だったが、嫡男に家督を譲って、自身は豊州家の養子に入った。島津氏とは同盟関係にあり、北郷氏とも連携。

肝付兼続(きもつきかねつぐ)
大隅国肝属郡高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町高山)を拠点に、大隅半島の広範囲を支配下に置く。島津氏とは同盟関係にある。

禰寝重長(ねじめしげたけ)
大隅国禰寝(ねじめ、肝属郡南大隅町根占のあたり)を領する。肝付氏に従う。

伊地知重興(いじちしげおき)
大隅国下大隅(しもおおすみ、鹿児島県垂水市や鹿屋市のあたり)の領主。この頃は肝付氏に従う。

伊東義祐(いとうよしすけ)
この頃、伊東氏は全盛期をむかえつつあり、日向国の広範囲を治めていた(現在の宮崎市・西都市・日向市・児湯郡のあたり)。さらに、日向国南部にも侵攻する。


肝付兼続が勢力拡大、伊東義祐の侵攻も続く

大永6年(1526年)に相州家の島津忠良は肝付氏と同盟を結んだ。長女を肝付兼続のもとに嫁がせ、また、肝付兼続の妹を島津貴久の正室に迎え入れた(こちらは早世)。それから両家の協力関係は30年以上続いていた。相州家の島津忠良・島津貴久は薩州家との覇権争いを制して守護の地位を確立させる。一方の肝付兼続も大隅半島に勢力を広げていた。

【関連記事】肝付氏のこととか、高山の歴史とか

【関連記事】戦国時代の南九州、激動の16世紀(3)島津忠良の逆襲

 

薩摩で足場を固めて大隅や日向に進出しつつある島津氏と、大隅半島を制圧しつつある肝付氏は、だんだんと利害が一致しなくなってきたのである。

肝付兼続は、かつて豊州家・北郷氏とも協力。天文7年(1538年)には、この3氏が日向国志布志の新納忠茂を攻めて滅ぼす。当初は新納氏の旧領を3氏で分割するが、今度は肝付兼続と豊州家・北郷氏が対立。肝付方が志布志に侵攻し、大崎(おおさき、鹿児島県肝属郡大崎町)・蓬原(ふつはら、鹿児島県志布志市有明町蓬原)・安楽(志布志市志布志町安楽)・松山(まつやま、志布志市松山町)などを奪った。

【関連記事】戦国時代の南九州、激動の16世紀(4)相州家の復権、島津忠良・島津貴久は南薩摩を平定

 

さらに永禄元年(1558年)、肝付兼続は日向国庄内へ出兵して北郷時久と戦う。同年3月には大隅国恒吉宮ヶ原(つねよしみやがはる、鹿児島県曽於市大隅町荒谷)で両軍が戦い、肝付方が北郷氏・豊州家連合軍に大勝する。

また、肝付兼続は飫肥に侵攻する伊東義祐とも手を組む。ちなみに、肝付良兼(よしかね、兼続の嫡男)は伊東義祐の娘を妻にむかえている。永禄元年10月には肝付方が志布志を攻めて島津忠親(豊州家)がこれを撃退するが、11月に伊東義祐も飫肥の新山城(にいやまじょう、宮崎県日南市星倉)を攻める。豊州家は北郷忠孝(島津忠親の弟)らを救援に送るが城を落とされる。北郷忠孝も戦死する。

島津貴久にとっては肝付氏も北郷氏・豊州家も、ともに同盟関係にある。島津氏はどっちとのつながりを重視するのか? ……肝付氏との関係が崩れていくのである。

 

島津忠平(島津義弘)が豊州家に養子入り

島津忠親(豊州家)は、伊東と肝付に攻め立てられて厳しい状況が続く。そこで、島津本宗家からの支援をたのみとした。永禄2年(1559年)6月に伊東方が飫肥に侵攻すると、島津貴久は島津尚久を援軍として送った。また、島津忠良(島津日新斎)も家臣の春成久正を派遣して島津尚久を補佐させた。伊東方との戦いに敗れ、島津方は大きな被害を出す。島津尚久も危ないところだったが、春成久正に助けられて死をまぬがれる。

永禄3年(1560年)3月、本宗家より島津忠平(島津義弘)が豊州家に養子入り。北郷忠孝の娘(島津忠親の姪)を妻とした。島津忠平(島津義弘)は飫肥城に入って守りを固めた。

島津氏は、伊東氏との和睦も模索する。幕府に働きかけて将軍・足利義輝(あしかがよしてる)に和睦の命令書を出してもらったりもするが、和睦は成らなかった。


鶴の羹の一件

島津貴久と肝付兼続は全面戦争に突入する。そのきっかけになったこととして、つぎのような話も伝わっている。

永禄4年(1561年)に肝付兼続が鹿児島を訪れて酒宴が催された。その席で伊集院忠朗(または一族の別人物とも)が「鶴の羹(あつもの)でも出したらどうだ」と戯れに言ったことから口論になった。……と。肝付氏の家紋は鶴である。侮辱されて肝付氏側が怒り、同盟が決裂したのだという。

鶴の羹事件は、『貴久公御譜』や『新編伴姓肝付氏系譜』(ともに『薩藩旧記雑録』に収録)のほか、『島津国史』『島津世禄紀』『島津世家』『明赫記』『貴久記』などに見られる(詳細は資料によって異なる)。

また、『日新公御譜』(『薩藩旧記雑録』に収録)に、「島津忠良(島津日新斎)が関係修復のために高山を訪れて肝付兼続を説得しようとした」という話も出てくる。

近年では、この事件は「後世の創作であろう」という見方が有力とされている。この時点ではすでに島津氏は豊州家・北郷氏の支援に動いていて、肝付氏との抗争は始まっている。

ただ、薩摩藩が編纂したものも含めていろいろな資料に記されている、というのは個人的に気になるところである。創作であるならば、どんな意図があって掲載されたのだろうか?

 

廻城攻防戦

永禄4年(1561年)5月14日、肝付兼続は大隅国の廻城(めぐりじょう、仁田尾城ともいう、霧島市福山町)を攻め取った。城主の廻久元は病のために失明し、後継者となる子もまだ幼かった。そんな状況もあって廻城は落とされる。その後、肝付方は一族の肝付治部左衛門(肝付兼名か)に廻城を守らせた。

山城跡

廻城跡

高台から海と桜島を見る、手前に城址碑

廻城跡、城址碑と鹿児島湾

廻城は鹿児島湾を見下ろし、大隅半島の付け根に位置する。島津貴久の支配下にある大隅国清水にも近い。肝付兼続は廻城を制圧したことで、島津と肝付の勢力争いが本格化するのである。

6月23日、島津貴久・島津義久が出陣。大塚(大墓)を本陣として廻城を囲んだ。大塚は廻城のやや東に位置し、現在は「惣陣ヶ丘(そうじんがおか)」と呼ばれている。また、島津忠将は城の南側の馬立に布陣。竹原山(大塚と馬立の間に位置する)にも島津方諸将が陣取った。一方で、肝付兼続は廻城に入る。肝付方には禰寝重長と伊地知重興も参陣する。

山肌には「フクヤマ」の文字

大塚(惣陣ヶ丘)

山上からの眺め、鹿児島湾と桜島が見える

大塚陣(惣陣ヶ丘)から見る、桜島手前の山が廻城

7月12日、肝付方が竹原山を攻撃する。竹原山の救援のために、馬立から島津忠将が撃って出る。だが、肝付方の伏兵にあって部隊は壊滅。島津忠将も戦死する。

馬立陣の近くの山中には島津忠将の供養塔がある。天正3年(1575年)に島津以久(もちひさ、島津忠将の子)が建立したもの。

山中に建つ石造りの供養塔

島津忠将の供養塔

 

島津貴久は竹原山の敗戦を聞き、竹原山に兵を送る。激闘のすえに肝付方を破る。肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興は恒吉に撤退する。なお、廻城の戦いでは島津家久(いえひさ、貴久の四男)が初陣を飾り、敵将ひとりを討ち取っている。

島津忠将は島津氏の軍事の主力を担っていた。さらに翌年には、三弟の島津尚久も亡くなる(病死か)。彼らの死は島津貴久にとって悲しい出来事であるとともに、大きな痛手であった。

 

島津忠平(島津義弘)、飫肥を去る

肝付兼続が廻城をとったことで、飫肥の島津忠親(豊州家)は島津宗家の支援が断たれる。永禄4年7月(廻城では交戦中)、持ちこたえられないと判断した島津忠親(豊州家)は伊東氏との和睦交渉に動く。宮ノ城(飫肥城の支城か)を引き渡すことで停戦を求めた。さらに、伊東氏は飫肥本城の明け渡しも要求し、島津忠親はこれに応じて翌年に譲渡する。

また、志布志は肝付氏に割譲された。豊州家の所領は櫛間・飫肥南郷を残して大幅に削られたのである。

この頃、豊州家では島津忠平(島津義弘)との養子縁組も解消する。豊州家が伊東氏と和睦したことで宗家とは手切れとなり、島津忠平(島津義弘)は帰らざるを得ない状況となったのであろう。北郷忠孝の娘(島津忠親の姪)とも離縁した。

島津忠平(島津義弘)は永禄5年春に鹿児島へ帰る。

 

北原氏の相続問題に、伊東・相良・島津が介入

北原氏は、日向国真幸院や薩摩国栗野院など大きな勢力を有していた。この頃は伊東氏と手を組んで、庄内の北郷時久を脅かしていた。だが、当主の北原兼守が亡くなる。後継の男子がなく、一族の北原民部少輔(兼守の叔父の北原兼孝か)が家督をつぐこととした。

山城跡から見る市街地

飯野城から真幸院を見下ろす

 

そこに伊東氏が介入する。北原氏の乗っ取りを画策したのである。北原兼守は伊東義祐の娘を妻としていた。永禄5年(1562年)、伊東義祐はその娘を北原一族の馬関田右衛門佐(苗字は「まんがた」と読む)に嫁がせて、こちらを当主に擁立しようとした。北原民部少輔を殺害し、馬関田右衛門佐を真幸院三山(みつやま、宮崎県小林市)に置いた。真幸院・栗野院・横川は伊東氏の支配下となる。


北原氏家臣の白坂下総介・白坂佐渡介らは出奔し、樺山善久(所領の長浜は北原氏領に近い)を介して島津氏に支援を求めた。樺山善久は白坂氏と相談して、肥後国球磨(熊本県水俣市)にいる北原兼親(かねちか)を擁立しようと考える。島津貴久はこれを許す。

長享2年(1488年)に北原氏では家督相続をめぐる内訌があった。後継者争いに敗れた北原茂兼(しげかね)は出奔し、球磨の相良氏のもとに身を寄せた。北原兼親はその孫である。

球磨の相良頼房(相良義陽)のもとに白坂與一左衛門尉を使いを送り、北原兼親の擁立と援兵を求めた。相良頼房(相良義陽)はこの申し出にのった。相良氏は馬関田城(まんがたじょう、別名に東福城とも、場所は宮崎県えびの市西川北)に兵を出し、北原兼親・白坂與一左衛門尉もともに戦う。馬関田城が落ちると、徳満城(とくみつじょう、えびの市東川北)を守る北原八郎右衛門(北原氏の一族)は北原兼親に応じた。5月10日、北原氏の拠点である飯野城(いいのじょう、えびの市飯野)を奪還。北原兼親が入城する。

田園風景と山城跡

飯野城跡

 

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島津貴久は大隅国溝邊(みぞべ、霧島市溝辺)に出陣し、伊東方にあった横川城(よこがわじょう、霧島市横川町中ノ)をうかがう。伊集院忠朗・樺山善久をつかわして横川城主の北原伊勢介(北原兼正か)に降伏をすすめるも応じず。6月3日、島津方は島津忠平(島津義弘)・島津歳久・新納忠元(にいろただもと)・伊集院久春(ひさはる、名は久信とも)らが横川城を攻め落とす。栗野院の諸城は降伏勧告を受け入れ、北原兼親に従った。

山城跡の登山口

横川城跡

 

6月21日、島津氏・相良氏・北原氏・北郷氏が同盟。島津氏重臣の伊集院忠朗・肝付兼盛、相良氏重臣に深水頼金(ふかみよりかね)・東長兄(ひがしながえ)、北原兼親、北郷忠徳(ただのり、北郷氏重臣)連署で盟約を結んだ。

菱刈重猛も島津方に協力し、この戦いに関与したと思われる。永禄4年には、島津貴久より菱刈重猛に栗野院120町があてがわれている。さらに横川も菱刈氏に与えられた。

また、伊東義祐が北原氏領で交戦し、飫肥方面の兵が手薄となっていた。同年9月に島津忠親(豊州家)はこれを好機と見て伊東方を攻め、飫肥城を奪回している。

 

島津歳久が吉田を任される

永禄6年(1563年)、大隅国吉田院(よしだいん、現在の鹿児島市吉田)の松尾城(まつおじょう、吉田城とも)に島津歳久が入った。渋谷一族が勢力を有する祁答院や入来院への備えとして、島津貴久は三男を置いたのである。


真幸院に島津忠平(島津義弘)が入る

北原氏の相続問題には、伊東氏・相良氏・島津氏が首を突っ込む形となった。そこには3氏の思惑が交錯する。あからさまに乗っ取りを画策した伊東と、島津・相良の連合軍が対決。勝ったのは後者であった。

相良頼房(相良義陽)としては相良氏の息のかかった者を北原氏当主にすることができた。島津貴久としては伊東義祐の進出を阻むことができた。両者の利害は一致していた。だが、この地に島津氏が影響力を持つことを、相良氏は良しとしなかった。同盟は崩れる。相良頼房(相良義陽)は一転して伊東氏と手を組むのである。

伊東義祐は真幸院三山を支配下に置いた。北原氏から奪った地である。真幸院の西側からに進出しようとうかがう。また、相良氏は真幸院の北側の球磨から島津氏に圧力をかける。

永禄6年(1563年)2月に島津貴久は飯野城に入り、伊東方の三山を攻めた。

山城曲輪跡

飯野城の本丸跡

また、大河平城(おおこびらじょう、飯野城の北にある)を北原氏家臣の大河平隆利(おおこびらたかとし)が守っていた。大河平氏は永禄5年の北原氏内訌の際に島津氏を頼った。伊東氏方から攻められるが守り切り、その後、島津忠平(島津義弘)の指示で新たに今城(いまじょう)を築いて守りを固めた。

大河平氏と北原兼親の間に不和があり、「今城は飯野城から遠くない」ということを理由に兼親は今城への援兵を戻してしまう。永禄7年(1564年)5月、伊東義祐は手薄になった今城を攻める。大河平隆利が病没したため、この頃は大河平隆次(たかつぐ)が城主となっていた。奮戦するも大河平氏は討ち死にした。

また、大隅国の吉松城(よしまつじょう、鶴亀城、鹿児島県姶良郡湧水町鶴丸)では、城主の北原佐兵衛尉(北原兼親の叔父)が相良氏の兵を引き入れて飯野城を襲おうとしていたことが発覚する。北原佐兵衛尉は出奔する。

島津貴久は、北原氏では真幸院を保てないと判断。真幸院を島津氏の直轄地とすることにした。北原兼親には薩摩国伊集院神殿(いじゅういんこうどの、日置市伊集院町上神殿・下神殿のあたり)に領地を与えて、こちらに移した。

島津忠平(島津義弘)が真幸院の地頭には任じられ、永禄7年(1564年)11月に飯野城に入る。三山の伊東氏に対する備えとした。

 

……つづく。

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

鹿児島県史料集35『樺山玄佐自記並雑 樺山紹剣自記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1995年

『貴久記』
著/島津久通 国立公文書館デジタルアーカイブより

『薩藩旧記雑録 後編 巻二』
編/伊地知季通 国立公文書館デジタルアーカイブより

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『都城市史』
編/都城市政四十周年記念 都城市史編さん委員会 発行/都城市 1970年

『日向纂記』
著/平部嶠南 1885年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか