14世紀の日本は、まさに乱世である。京では足利尊氏(あしかがたかうじ)が樹立した武家政権(室町幕府、北朝)と、吉野に逃れた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の政府(南朝)が並び立つ。北朝と南朝の争いはなかなか決着がつかず、日本中が振り回される。
九州の有力者たちも北朝方と南朝方にわかれて激しく争った。南北朝争乱期の南九州の状況を、島津(しまづ)氏の動きを中心に追っていく。元号は北朝・南朝のものを併記。日付は旧暦で記す。
- 鎌倉時代末期までの島津氏
- 朝廷は弱体化、おまけに分裂
- 後醍醐天皇の倒幕挙兵
- 挙兵再び
- 幕府滅亡
- 建武の新政はじまる、そして崩壊
- 足利尊氏の反乱(建武の乱)
- 九州大返し
- 足利氏の政権と、吉野の朝廷と
- 南九州でも南朝方が蜂起
- 足利尊氏が幕府を開く
- 後醍醐天皇が崩御、後村上天皇が遺志をつぐ
- 懐良親王が薩摩入り
- 観応の擾乱
- 九州では三つ巴の戦いに
- 島津と畠山の抗争
- 南朝方が九州を制圧
- 島津氏、ふたたび幕府方に
- 今川貞世が九州を攻略
- 水島の変
- 島津と今川の対立
- 南北朝合一
鎌倉時代末期までの島津氏
島津氏と南九州との関わりは、12世紀末に惟宗忠久(これむねのただひさ、島津忠久)が薩摩国・大隅国・日向国に所領を得たことに始まる。薩摩・大隅・日向の守護職のほか、3ヶ国にまたがる島津荘(しまづのしょう)の地頭職にも補された。「島津」の名乗りもこれに由来する。
なお、島津忠久は建仁3年(1203年)の比企能員の変に連座し、所領をすべて没収される。のちに薩摩国の守護に復帰するが、大隅国と日向国は鎌倉幕府のもとでは回復できなかった。
当初は遙任であった。当主は鎌倉にあり、南九州へは代官を派遣して領地経営を行わせた。島津氏が薩摩国を拠点にしたのは3代・島津久経(ひさつね)や4代・島津忠宗(ただむね)からである。きっかけは元寇だ。幕府の命令で、九州の守護たちは元軍と戦うために自領へと下向した。久経・忠宗親子は鎮西探題の指揮下で働き、文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)でも活躍した。
島津氏は薩摩に根をおろしはじめたものの、そこには御家人や郡司系領主が入り乱れていた。島津氏に反発する者もあって、まだまだ支配しきれていなかった。
鎌倉時代末期は5代・島津貞久(しまづさだひさ)が薩摩国山門院(やまといん)の木牟礼城(きのむれじょう、場所は現在の鹿児島県出水市高尾野)を拠点に活動していた。島津貞久は文永6年(1269年)の生まれとされ、文保2年(1318年)に薩摩国守護を継いだ。南北朝争乱期は老境にありながらも活発に動く。老獪な立ち回りで時代を乗り切り、島津氏の南九州支配の基礎をつくることになる。
朝廷は弱体化、おまけに分裂
承久3年(1221年)に後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が挙兵するが、上皇方は敗北する(承久の乱)。朝廷の力は弱まり、幕府の支配体制はより強固なものになった。
さらに、天皇家は後継争いから持明院統(じみょういんとう)と大覚寺統(だいかくじとう)に分裂。この対立に鎌倉幕府が介入し、それぞれから交互に天皇を出すように定められた。この体制を両統迭立(りょうとうてつりつ)という。のちに持明院統が北朝へと、大覚寺統が南朝へとつながる。
後醍醐天皇の倒幕挙兵
文保2年(1318年)、大覚寺統の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が即位。後醍醐天皇は両統迭立の破棄(自分の子をつぎの天皇にしたい)を望み、そして親政を望んだ。元亨4年(1324年)、倒幕計画が発覚する。「正中の変」(同年、正中に改元)と呼ばれるものである。幕府は天皇の家臣を処分したが、天皇は罪に問われなかった。
元徳3年(1331年)にまたも倒幕計画が露見する。今度は挙兵し、天皇方は笠置山(現在の京都府相楽郡笠置町)にたてこもった。反乱は幕府により鎮圧され、後醍醐天皇は廃位させられて隠岐(おき、島根県の隠岐島)に流された。
なお、島津貞久は鎮西探題・北条英時(ほうじょうひでとき、赤橋英時)の招集に応じ、薩摩の武士を率いて筑前国博多(福岡市博多区)に参陣。京に出兵し、楠木正成(くすのきまさしげ、河内国の豪族)がたてこもる赤坂城(場所は大阪府南河内郡)の攻撃に参加した。
挙兵再び
笠置山を逃れた護良親王(もりよししんのう、もりながしんのう、後醍醐天皇の皇子)が吉野山で挙兵する。
元弘3年・正慶2年(1333年)閏2月には後醍醐廃帝が隠岐を脱出。伯耆国の船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)で挙兵した。呼応する者が続出して、倒幕方はさらに勢力を増していった。
九州では、後醍醐天皇の綸旨(天皇の命令書)に応じて肥後国(熊本県)の菊池武時(きくちたけとき)が挙兵。鎮西探題を攻撃するが、菊池武時は敗死する。
幕府滅亡
反乱討伐軍にあった足利高氏(あしかがたかうじ、足利尊氏)が倒幕方に寝返り、元弘3年・正慶2年(1333年)5月7日に六波羅探題(京にある幕府の拠点)を落とした。
同じ頃、上野国(現在の群馬県)で新田義貞(にったよしさだ)が挙兵。5月22日に鎌倉を落とす。執権の北条高時(ほうじょうたかとき)は自害。鎌倉幕府は滅亡した。
六波羅陥落の報を受けて、九州でも有力御家人が幕府に反旗をひるがえす。島津貞久・少弐貞経(しょうにさだつね)・大友貞宗(おおともさだむね)が寝返り、5月25日に鎮西探題を攻め滅ぼした。北条英時は自害する。
建武の新政はじまる、そして崩壊
後醍醐天皇は再び即位し、元弘3年(1333年)6月5日に親政をはじめる。「建武の新政」である。島津貞久は綸旨を受けて、薩摩国・大隅国・日向国の守護に任じられた。
新政権では公家が優遇され、武家への見返りは薄かった。新体制づくりに処理能力が追いつかず、土地所有をめぐる裁定なども滞る。御家人たちの不満はふくらんだ。
建武政権に反発しての反乱もあちこちで起こる。その中でもとりわけ大きかったのが「中先代の乱」である。建武2年(1335年)7月、北条時行(ほうじょうときゆき、ときつら、北条高時の遺児)を旗頭として、信濃国(長野県)で旧幕府残党が蜂起した。反乱軍はどんどん膨れ上がり、関東に広がる。7月25日には鎌倉将軍府を陥落させた。
足利尊氏(後醍醐天皇の名「尊治」より一字を拝領して改名)は政府の許可を得ないまま、鎌倉の救援に向かって出陣。鎌倉将軍府は足利直義(ただよし、尊氏の弟)が守っていた。足利尊氏は足利直義と合流して反乱軍を攻めて、8月19日に鎌倉を奪還した。
足利尊氏の反乱(建武の乱)
足利尊氏はそのまま鎌倉にとどまり、京に帰らなかった。そして、戦後の恩賞を勝手に与えはじめた。これを建武政権は叛乱とみなして新田義貞らを出征させた。島津貞久もこれに従軍する。
当初、足利尊氏は戦う気がなく、隠居を宣言して引きこもった。しかし、足利直義が討伐軍を相手に押されていると出てきた。討伐軍を破り、さらには京へと攻めのぼった。政府軍にあった島津貞久は、この頃に足利軍に寝返ったと見られる。建武3年(1336年)1月27日、足利軍は京を制圧する。
その後、東から新田義貞・楠木正成・北畠顕家(きたばたけあきいえ)の軍が京に攻めかかり、足利軍は持ちこたえられず。播磨(現在の兵庫県)から九州へ逃れた。
九州大返し
建武3年(1336年)2月、足利尊氏は九州に入る。島津貞久もこれに従った。ほかに少弐氏・大友氏も足利尊氏に協力する。この3氏はいずれも守護である。足利尊氏は九州の御家人を味方につけていき、勢力を盛り返していった。3月には筑前国の多々良浜(たたらはま、現在の福岡市のあたり)で菊地武敏(きくちたけとし、肥後の有力者)が率いる天皇方の軍勢を破る。この勝利を機に九州で足場をかため、足利尊氏は軍を率いて再び上洛。6月に京を制圧する。
九州はほとんどが足利方についたが、大隅国・日向国に勢力を持つ肝付兼重(きもつきかねしげ)が官軍方として抵抗する。この掃討のため、足利尊氏は島津貞久を薩摩へ帰国させた。
足利氏の政権と、吉野の朝廷と
延元元年・建武3年(1336年)8月、持明院統の光明天皇が即位。新たに天皇を擁立して、足利尊氏が京に政権を打ち立てる。抵抗を続けていた後醍醐天皇だったが、10月に和睦の申し入れを受け入れて投降。建武政権は終焉した。
しかし、後醍醐天皇は幽閉先より脱出し、大和国の吉野(奈良県吉野郡)に逃れて朝廷を開いた。京の朝廷を「北朝」、吉野の朝廷を「南朝」と呼ぶ。南北朝の争乱のはじまりである。
この頃、島津貞久も京にあったようで、足利氏の指揮下で戦っていた。北陸における新田義貞との戦いにも、島津氏配下の武士たちを従軍させている。
南九州でも南朝方が蜂起
後醍醐天皇は自身の子を将軍に任命して地方へと送り込んだ。九州方面へは懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう)を征西大将軍に任命して派遣した。しかし、すんなりとは九州に入れず、しばらくは伊予国(現在の愛媛県)に滞在した。先遣として親王配下の三条泰季(さんじょうやすすえ)が建武4年・延元2年(1337年)3月に薩摩に入る。三条泰季は南朝方に応じた国人たち束ね、勢力拡大を目指した。
薩摩国で南朝方に応じたのは谷山隆信(たにやまたかのぶ)・指宿忠篤(いぶすきただあつ)・知覧忠世(ちらんただよ)・市来時家(いちきときいえ)・矢上高純(やがみたかすみ)・鮫島家藤(さめしまいえふじ)・伊集院忠国(いじゅういんただくに、島津忠国)など。伊集院氏は島津本家とは袂を分かち、敵方にまわった。
島津氏は北朝方として、九州平定をまかされた。また、足利尊氏は九州の守りとして、一色範氏(いっしきのりうじ)や畠山直顕(はたけやまただあき)といった一門の将を残していった。一色範氏は九州探題に任命され、九州北部で活動。畠山直顕は日向国を拠点に、南九州方面を担当した。
畠山直顕は日向国の伊東(いとう)氏や大隅国の禰寝(ねじめ)氏などを味方につけて、日向国・大隅国で踏ん張っていた肝付兼重の攻略に当たった。こちらには島津氏も加勢している。
一方、薩摩国では南朝方と北朝方(島津一族が中心)が激しくやりあう。この頃、島津貞久は京で活動しており、島津頼久(川上頼久、かわかみよりひさ、貞久の庶長子)を帰還させて薩摩の軍事を任せた。
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足利尊氏が幕府を開く
暦応元年・延元3年(1338年)、足利尊氏は征夷大将軍に任じられる。室町幕府のはじまりである。
後醍醐天皇が崩御、後村上天皇が遺志をつぐ
暦応2年・延元4年(1339年)8月、南朝の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が崩御。後村上天皇(ごむらかみてんのう、後醍醐天皇の第七皇子)が即位し、その遺志をついだ。
南朝方は新田義貞や北畠顕家といって有力武将をつぎつぎと失っていた。戦況は北朝方優勢に傾いていった。
懐良親王が薩摩入り
九州では北朝方と南朝方が侵攻しあい、城を攻めあい、一進一退の攻防が続く。暦応3年・延元5年(1340年)には、幕府は京にあった島津貞久と島津宗久(伊作宗久、いざくむねひさ、貞久とは従兄弟)を薩摩に帰す。南朝勢力を掃討するよう命令を下した。てこ入れである。
そして、征西大将軍・懐良親王が薩摩入り。康永元年・興国3年(1342年)5月のことであった。谿山郡(現在の鹿児島市谷山)郡司の谷山隆信(たにやまたかのぶ)に迎え入れられ、谷山城近くに御所を設けて南朝方の拠点とした。
九州の南朝方は勢いづく。貞和3年・正平2年(1347年)には島津氏と南朝方連合軍が谷山で決戦に及ぶ。これに南朝方が勝利すると、懐良親王は谷山を発って肥後国菊地(熊本県菊池市)に移る。菊池武光(きくちたけみつ)に迎え入れら、隈府城(わいふじょう)に征西府を置いた。
観応の擾乱
正平3年・貞和4年(1348年)には吉野山を落とされ、後村上天皇は賀名生(あのう、現在の奈良県五條市)に逃れた。南朝は追い込まれていた。もはやこれまで……と思いきや、幕府内で混乱が生じる。
京では足利直義と高師直(こうのもろなお、足利家の執事)が対立。貞和5年・正平4年(1349年)から正平7年(1352年)にかけて、事態は目まぐるしく動く。
まずは、足利直義が高師直を政権から排除しようと動く。すると、高師直・高師泰(もろやす)兄弟がクーデターをはかり、足利直義を失脚させた。その後、足利直義は京を脱出。なんと南朝にくだる。足利直義は足利尊氏の軍勢を破り、高師直・高師泰の引退を条件に和議を結ぶ。高師直・高師泰は護送中に討たれた。
足利直義は幕府に復帰するが、今度は足利尊氏・足利義詮(よしあきら、尊氏の嫡男)と対立。足利直義は観応2年・正平6年(1351年)7月に挙兵して北陸へ、さらに鎌倉に入る。鎌倉の足利直義軍と戦うために、足利尊氏は南朝と和議を結ぶ。北朝が消滅し、幕府ごとくだった(正平一統)。足利尊氏は鎌倉を攻め、足利直義軍を破る。足利直義は幽閉先で急死した。
一方、京では足利尊氏が留守にしているあいだに、朝廷は足利氏排除に動く。足利尊氏は京に軍をもどす。京を奪還し、さらに男山八幡(石清水八幡宮、京都府八幡市)にたてこもる朝廷方を陥落させる。後村上天皇は賀名生へと逃れた。正平7年(1352年)9月、足利氏は持明院統の後光厳天皇を即位させる。北朝が復活する。
九州では三つ巴の戦いに
幕府の分裂は、九州の領主たちを大いに振り回した。幕府が分裂し、足利直義が南朝にくだったり、足利尊氏が南朝にくだったり……。さらには、足利直冬(あしかがただふゆ、尊氏の庶長子、直義の養子)が足利直義の反乱に呼応し、九州で勢力を広げはじめる(佐殿方)。そんな状況から、幕府方についていた者たちは混乱をきたしたはずである。
九州の南朝方はさらに勢いを増した。大隅国では楡井頼仲(にれいよりなか)が挙兵し、一時は大隅を席巻する。薩摩国では伊集院忠国らが島津方の城を攻める。
畠山直顕は佐殿方(足利直冬党)につき、島津氏の所領である日向国新納院(宮崎県児湯郡)などを攻めとる。楡井頼仲もくだし、大隅にも勢力を広げた。
南朝方に攻め込まれ、畠山直顕(佐殿方)ともやりあって、島津貞久は追い込まれる。ついには南朝にくだった。
島津と畠山の抗争
観応の擾乱の頃から、南九州では島津氏と畠山氏の対立が表面化する。畠山直顕は康永4年・興国6年(1345年)に日向国守護に任じられ、さらに大隅国にも勢力を広げつつあった。島津氏はこれに反発。両氏の関係は悪化し、畠山氏から協力の要請があっても島津氏は応じなくなる。
幕府が北朝に戻ると、島津氏もこれに従った。幕府の命に従って、島津氏久(うじひささ、貞久の四男)・島津師久(もろひさ、貞久の四男)は佐殿方の畠山直顕と戦う。なお、島津貞久は老齢にあり、この頃から息子たちが代理で動くようになる。島津氏久は大隅方面を担当し、のちに大隅国守護を譲られる。島津師久は薩摩方面の担当で、のちに薩摩国守護を継承する。
一方、南朝方は肥後国の菊池武光(きくちたけみつ)を中心に戦勝を重ね、九州を席巻しつつあった。畠山直顕は南朝方とも連携して攻めかかる。島津氏は苦戦続き。たびたび幕府に窮状を訴え、足利尊氏の遠征を要請したりもしている。
延文元年・正平11年(1356年)、佐殿方にあった畠山直顕が幕府(北朝)に帰順する。しかし、これで島津氏と畠山氏が戦いをやめることはなかった。今度は島津氏が南朝方に転じ、畠山勢と徹底的に戦うことを選択した。
南朝方が九州を制圧
薩摩国から南朝勢力が大隅に侵攻。島津氏久も南朝方の主力として参戦。大隅国桑原郡の帖佐や加治木(ちょうさ・かじき、ともに鹿児島県姶良市)で戦い、下大隅(大隅半島南部)に進軍し、畠山氏の勢力下にあった城を落としていった。島津氏久(南朝方)は畠山勢を大隅国から追い出し、さらには日向国救仁院の志布志城(しぶしじょう、鹿児島県志布志市志布志町)も奪う。畠山直顕は本拠地のある日向国穆佐院(むかさいん、宮崎市高岡町)へ撤退した。延文3年・正平13年(1358年)に畠山氏は日向国も追われ、没落する。島津氏久は志布志城に拠点を移し、大隅支配を進めていく。
九州北部では南朝方が九州探題・一色直氏(いっしきただうじ)を打ち破る。一色氏は九州から逃亡する。
延文3年・正平13年(1358年)には足利尊氏が逝去。征夷大将軍は足利義詮がつぐ。
肥前や筑前に地盤を持つ少弐頼尚(しょうによりなお)は一色氏と対立していた。足利直冬が九州に入ると、娘を嫁がせて支援した。その後、足利直冬が没落すると後ろ盾を失い、南朝方に転じる。菊池武光とともに一色氏と戦った。しかし、一色氏の打倒がかなうと、再び幕府方に転じる。
延文4年・正平14年(1359年)7月、筑後国大原(現在の福岡県小郡市)で幕府方(北朝方)と南朝方が激突。両軍合わせて10万の兵がぶつかる大合戦となった。「筑後川の戦い」「大保原の戦い」「大原合戦」と呼ばれるものである。幕府方は少弐頼尚・大友氏時(おおともうじとき)など。南朝方は菊地武光が率いる。島津氏も南朝方に協力した。この戦いは南朝方が勝利した。
康安元年・正平16年(1361年)には、南朝方が大宰府を奪い。ここに征西府を移す。九州は南朝の天下となった。
島津氏、ふたたび幕府方に
島津氏はしばらく南朝方として活動していたが、延文5年・正平15年(1360年)に幕府の求めに応じて幕府方(北朝方)に転じた。
九州の幕府方は苦戦が続く。新たに斯波氏経(しばうじつね、足利一門)を九州探題に任命して派遣する。豊後国を拠点に、大友氏や少弐氏と協力しながら反撃をはかった。しかし、筑前国の長者原(ちょうじゃばる、福岡県糟屋郡粕屋町)で戦い、幕府方は大敗する(長者原の戦い、長者原合戦)。
貞治2年・正平18年(1363年)には島津貞久が逝去。大隅国守護は島津氏久に、薩摩国守護は島津師久に引き継がれる。
斯波氏経は周防国へ退き、そのまま京へ戻っていった。幕府は九州探題に渋川義行(しぶかわよしゆき)を任命するが、渋川義行は九州に上陸できないまま応安3年・建徳元年(1370年)に職を解かれた。
貞治6年・正平22年12月(1369年1月)には、2代将軍・足利義詮が逝去。足利義満(あしかがよしみつ)が征夷大将軍に任じられた。
今川貞世が九州を攻略
今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)が九州探題に任じられ、応安4年・建徳2年(1371年)冬に九州入りする。今川軍は豊後国・豊前国・肥前国の三方より攻めた。征西府のある大宰府をとりかこむように包囲した。また、九州の御家人たちに積極的に声をかけて味方を増やし、足場を固めていった。
九州北部で今川勢が着々と攻略を進めていく一方で、島津氏は南九州の南朝勢を抑えにかかる。この頃はとくに薩摩国北部に勢力を持つ渋谷一族と激しく争っている。渋谷氏の中で入来院(いりきいん)氏が中心となり、島津氏と抗争を繰り広げていた。
応安5年・建徳3年(1372年)8月、今川貞世(今川了俊)は大宰府を攻め落とす。懐良親王・菊池武光は筑後国の高良山(こうらさん、福岡県久留米市)に敗走する。北朝方が12年ぶりに大宰府を奪還した。
さらに幕府方は高良山を攻める。この頃、南朝軍の大黒柱として活躍していた菊池武光が死去。菊池家をついだ菊池武政(さけまさ、武光の子)も相次いで亡くなる。文中3年・応安7年(1374年)には高良山を脱出して、南朝方は肥後の隈府城(熊本県菊池市)に撤退した。
この時期に、懐良親王は征西大将軍の地位を譲っている。後継者は「後征西将軍宮(のちのせいせいしょうぐんのみや)」といい、その人物は良成親王(よしなりしんのう)だとされている。
水島の変
永和元年・天授元年(1375年)、今川貞世(今川了俊)は隈府城を攻めるために、水島(菊池市七城町)に陣取った。総攻撃のために大友親世(おおともちかよ)・少弐冬資(しょうにふゆすけ)・島津氏久を招集。大友・島津はこれに応じたが、少弐冬資は来ず。今川貞世(今川了俊)は島津氏久に参陣を催促させた。少弐冬資は島津氏久の説得に応じてやってきた。
少弐氏は九州探題と対立した過去があり、その後も反発することが多かった。「また裏切る可能性がある」と考えた今川貞世(今川了俊)は、少弐冬資を酒宴に招いて暗殺する。
この事件を知った島津氏久は激怒して国に帰る。少弐氏も南朝に転じ、大友親世も従わなくなった。水島の変で今川貞世(今川了俊)は有力な味方を失った。隈府城攻めも失敗する。
島津と今川の対立
大隅国の島津氏久は南朝方に転じる。幕府方は今川満範(みつのり、貞世の子)を大将として、南九州の攻略にあたらせた。今川貞世(今川了俊)は南九州の有力者たちに書を送りまくり、味方につくよう熱心に誘う。島津氏の支配力が強くなることをよく思っていない者たちは誘いに応じる。反島津包囲網を作り上げた。薩摩国・大隅国・日向国・肥後国の地頭・御家人61人が連名盟書を幕府に出している。これは「南九州国人一揆」とも呼ばれる。南朝方にあった渋谷一族は幕府方に転じる。あくまでも島津氏との対決姿勢を貫いた。
なお、島津師久は永和2年・天授2年(1376年)に逝去し、島津伊久(これひさ、師久の子)が家督をつぐ。島津伊久は幕府方にあったが叛き、島津氏久と歩調を合わせる。幕府は両島津氏の守護職を解任し、今川貞世(今川了俊)が薩摩国守護・大隅国守護となった。
一時、島津伊久・島津氏久が幕府方に帰順したが、しばらくして再び離反した。永和5年・天授5年(1379年)2月、今川満範は日向国庄内の都之城(みやこのじょう、宮崎県都城市)を攻めた(簑原合戦)。幕府方として反島津勢力も多数参戦した。都之城は島津方の北郷誼久(ほんごうよしひさ)が守っていた。島津氏久は志布志城より救援に向かった。戦いは島津方が押し切り、幕府軍を敗走させた。
永徳元年・弘和元年(1381年)に島津氏久・島津伊久が幕府方に帰順する。しかし、至徳2年・元中2年(1385年)にまたも離反。肥後国葦北郡二見(ふたみ、熊本県八代市二見)の戦いでは、一転して南朝方に援軍を出した。
至徳4年・元中4年(1387年)、島津氏久が鹿児島で逝去。嫡男の島津元久(もとひさ)が家督をつぐ。
南北朝合一
九州探題・今川貞世(今川了俊)は南九州で島津氏に手を焼きながらも、九州北部では着々と南朝方を追い詰めていった。明徳2年・元中8年(1391年)にはほぼ制圧する。そして、明徳3年・元中9年(1392年)閏10月5日、京では南朝が和睦の申し入れを受け入れて降伏。これにより南朝は消滅し、南北朝合一がなった。(明徳の和約)。
しかし、島津氏は戦いをやめなかった。今川氏に反抗し、激しい戦いが続く。今川方では渋谷一族が引き続き島津氏に対抗。渋谷重頼(入来院重頼、いりきいんしげより)を中心に反島津勢力が気を吐いていた。
そんなさなか、応永2年(1395年)に今川貞世(今川了俊)が突如として京に召喚され、そのまま九州探題を解任された。島津と今川の抗争はあっけない形で終わる。後任の九州探題には渋川満頼が任命され、応永3年(1396年)に博多入り。島津元久・島津伊久は幕府に恭順する。
急に今川氏がいなくなって入来院氏は孤立。応永4年(1397年)、島津元久・島津伊久の軍が渋谷重頼(入来院重頼)の本拠地である清色城(きよしきじょう、場所は薩摩川内市入来)を攻撃。陥落させた。
これをもって、南九州での南北朝争乱はおしまいである、とりあえずは……。
その後も、南九州では戦乱がおさまらない。むしろ激しくなっていく。混乱の14世紀のあとは、大混乱の15世紀へ。
<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『山田聖栄自記』
編/鹿児島県立図書館 1967年
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
『日本の歴史8 南北朝の動乱』
著/伊藤喜良 発行/集英社 1992年
『動乱の日本史 南北朝対立と戦国への道』
著/井沢元彦 発行/KADOKAWA 2019年
(電子書籍版)
『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)
ほか