一宇治城(いちうじじょう)跡は鹿児島県日置市伊集院にある。別名に伊集院城(いじゅういんじょう)や鉄丸城(てつまるじょう?)など。シラス丘陵に築かれた山城で、周囲は約2.3㎞。三方が断崖で、天然の要害である。域内には神明城(しんめいじょう、本丸にあたる)・上平城(かみひらじょう)・中平城(なかひらじょう)・下平城(しもひらじょう)・釣瓶城(つるべじょう)・中尾城・南之城・伊作城・阿多城などが連なる。
一宇治城は、中世に繁栄した伊集院(いじゅういん)氏の居城であった。また、16世紀には島津貴久(しまづたかひさ、島津氏15代当主)が本拠地とし、ここから南九州の支配を広げていった。
現在は「城山公園(じょうやまこうえん)」として整備。城跡のうち神明城・釣瓶城・中平城・南之城・伊作城などを見学できる。広い駐車場があって、園内も歩きやすい。気軽に城の雰囲気を感じられるのだ。
きれいに芝生がはられた場所が多く、未整備の山城のように樹木に覆われていない。本来の姿ではないけど、曲輪や縄張りの形状はよくわかる。
階段を駆け上がり、釣瓶城と南之城へ
県道24号沿いに「城山公園入口」の案内板があるのでそこから入る。その先は一本道で迷うことはないだろう。しばらく進むと公園に到着。駐車場からやや長い石段が見える。ここが入口だ。城址碑もある。
階段を上がる前に、左手のほうに広場がある。ここも曲輪だったと思われる。そして白い石像があることに気づく。フランシスコ・ザビエル(シャビエル)の像だ。ザビエルはキリスト教の布教で日本にやってきた。天文18年(1549年)に薩摩に上陸し、この一宇治城で島津貴久に謁見した。
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ザビエルとの面会をすませて、いよいよ階段を上へ。階段を登ったところに「釣瓶城」と「神明城」の案内板。まずは入口から向かって左の釣瓶城から行ってみる。
山の縁に近いところに広めの曲輪。眺めも良い。ここは下平城にあたるそうだ。下平城から一段高い曲輪があり、こちらが中平城だ。登ると、ここもきれいに整備された広場だった。
空堀づたいに敷かれた遊歩道を行く。そこかしこに、山城らしい痕跡も確認できる。間もなく釣瓶城に到着。登る。
曲輪の面積は約30aとのこと。縁のほうには土塁も確認できる。土塁の後ろ側ものぞき込めるので、見てみるとそこは断崖。空堀が深く掘り込まれている。中世山城っぽい荒々しい光景である。
釣瓶城には円形の何かの痕跡も。井戸跡だとされている。この場所を掘ったところ、青磁や白磁も出土したという(現地の案内看板より)。島津氏や伊集院氏は交易を盛んに行っていたことがうかがえる。
釣瓶城の奥に曲輪がもう一段ある。南之城だ。こちらも縁にしっかりと土塁が築かれている。広場の中央部には虎口跡と思われるものも確認できた。
さらに登って、神明城へ
いったん入口のほうに戻って、今度は神明城を目指す。右じゃなくて真っすぐ進む。階段を登ると桝形っぽく区切ってある。その先には窪みがあって、「古い井戸跡」とされる。15世紀頃に伊集院氏が使っていたと推定されている。「古い井戸跡」のすぐ近くには中平城への登り口もある。
さらに奥に進むと、遊具のある広場。ここも曲輪である。子供を遊ばせるのにはイイ感じ。よく手入れされているし、緑もいっぱいだ。
広場入口の近くに、登れそうなところ。この上は蔵跡とのこと。ここで食糧や武器を保管していたそうだ。
広場のところから登っていくと神明城である。その前に左手のほうにも行けそうなので行ってみる。
神明城の裏手に出る。こちらの広場が伊作城である。ここには土塁も残っていた。
いよいよ神明城へ。入り口部分は桝形か。そこから奥のほうを見ると何かある。「太守島津貴久 聖師ザビエル 會見の地」の記念碑だ。昭和24年の建碑と刻まれている。この「會見の地」碑の背後が一段下がっていて、そこが伊作城になる。
「會見の地」碑から向かって右へ行くと広場がある。そこが神明城である。一宇治城の主郭で、最も高いところで標高は144mとのこと。物見櫓風の展望台もある。五層構造になっていて、最上段まで登ると眺めよし!
このあと駐車場に戻る。所要時間は撮影しながらで1時間ほどだった。
紀姓伊集院氏
「伊集院」という地名は租税の米を管理する古代の倉院に由来する。院の管轄する区域がそのまま行政単位となった。伊集院の範囲は、現在の日置市伊集院や鹿児島市松元の一帯である。
南九州においては島津荘(しまづのしょう)と大隅正八幡宮領というふたつの巨大荘園が出現する。伊集院は大隅正八幡宮領に属する土地が多かったようである。この地の在地領主として確認できるのが伊集院氏である。伊集院郡司(院司)となり、地名を名乗りとした。
伊集院郡司(院司)の伊集院氏は、島津一族ではなく紀姓である。紀平安時代末期に伊集院四朗時清入道迎清(伊集院時清、伊集院迎清)なる人物が領主だったようだ。この伊集院迎清が一宇治城を築いたとも伝わる。
建久8年(1197年)の『薩摩国図田帳』にも「院司八郎清景」「紀四郎清綱」「紀平二元信」といった紀姓伊集院氏の名が確認できる。
島津一族の伊集院氏
12世紀末に島津氏は幕府より薩摩国守護、および島津荘の惣地頭に補任された。当初は鎌倉在番だったが、蒙古襲来(文永の役は1274年)に備えて3代・島津久経(ひさつね)が任地に下向し、島津氏による所領支配がすすむことになる。そんな中で、島津一族の中から伊集院を任され、その地名を名乗りとする一族が出てくる。
島津庶流の伊集院氏は、2代・島津忠時(ただとき)の七男・忠経(ただつね)の四男・俊忠(としただ)に始まるとされる。俊忠が伊集院を任され、その子の久兼(ひさかね)から伊集院氏を名乗ったのだという。以下、久親(ひさちか)→忠親(ただちか)→忠国(ただくに)→久氏(ひさうじ)→頼久(よりひさ)→煕久(ひろひさ)と続く。下は島津氏・伊集院氏の略系図。
ただ、この系図にはつじつまの合わないところがある。14世紀の南北朝争乱期に名前が出てくる島津貞久(しまづさだひさ)と伊集院忠国を基準に考えると、島津貞久と伊集院忠親(忠国の父)が同年代くらいかと思われる。で、島津忠時から数えて島津貞久は3世代、伊集院忠親は5世代となる。世代数のズレがあるのだ。
文永4年(1267年)、島津忠時は伊集院を島津高久(島津長久)に譲る。この人物は島津忠時の三男。島津氏は信濃国(現在の長野県)にも領地があり、こちらの管理を任されていた。伊集院には地頭代として島津久親が入ったようだ。そして、在地領主化したと思われる。系図上では伊集院氏3代であるが、実際にはこの島津久親(伊集院久親)が初代であった可能性がある。
ちなみに、島津高久(島津長久)の弟が島津忠経であり、久親がその子であればつじつまがあってくる。そうなると、伊集院久親は島津高久(島津長久)の甥にあたる。代官を甥に任せるのは、自然な感じがする。もし伝わっている系図どおりであれば、久親は島津高久(島津長久)の弟の曾孫となってしまう。
もうひとつちなみに、『蒙古襲来絵詞』には弘安の役(1281年)で島津の手勢として「いわや四郎ひさちか」の名がある。伊集院久親のこととされる。伊集院には石谷(いしだに)という場所があり、「いわや」はここだと推測される。
伊集院氏の盛衰
南北朝の争乱において島津貞久は北朝方(幕府方)として活動した。島津一族のほとんどが宗家に従ったが、伊集院忠国(伊集院氏5代)は南朝方につく。また、石原忠光(伊集院忠国の弟)や町田助久(忠国の叔父)が島津氏に従ったりと、伊集院一族内でも敵味方にわかれた。
伊集院忠国は谷山氏・市来氏・鮫島氏・矢上氏らと組んで薩摩のの南朝勢力を形成する。南朝方が島津方の城を攻め込んだり、島津方が伊集院に侵攻したりと激しい攻防戦が展開された。
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その後、島津氏も南朝方に転じる(ときどき北朝方に帰順)と、伊集院氏は島津宗家に協力するようになる。14世紀半ば以降は、伊集院久氏(ひさうじ、忠国の子、伊集院氏6代)・伊集院頼久(よりひさ、久氏の子、7代)が島津氏久(うじひさ、貞久の子、宗家6代)・島津元久(もとひさ、氏久の子、宗家7代)に従って戦功を重ねた。
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両氏の関係は良化し、親密になっていった。島津氏久は伊集院忠国の娘を正室とし、生まれた子が島津元久である。また、島津氏久の娘(元久の妹)が伊集院頼久にとついだ。血の結びつきもあってか、伊集院氏は島津氏の重臣の中で頭ひとつ抜けた存在となっていた。
また、伊集院氏は交易を盛んに行っていたようで、大きな経済力を持っていた。応永17年(1410年)に島津元久が上洛した際に将軍に大量の貢ぎ物を贈っているが、伊集院頼久が舶来の品々を用意している。
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応永18年(1411年)、島津元久が急逝すると、伊集院頼久は息子(のちの伊集院煕久)を元久の後継者として擁立しようとする。宗家の家督を手にしようと動くのである。しかし、これは島津久豊(ひさとよ、元久の弟)に阻まれる。
強引に島津氏の家督を継承した島津久豊(8代当主)に対して、伊集院頼久は反乱を起こす(伊集院頼久の乱)。反久豊派の支持を集めて国一揆を形成し、薩摩国は大乱となった。応永20年(1413年)には、伊集院頼久が鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)を急襲。一時は島津久豊の本拠地を奪った。また、島津久豊が伊集院を攻めたこともあり、一宇治城にたてこもる伊集院勢が島津久豊を打ち負かした。
応永24年(1417年)には河邊(かわなべ、南九州市川辺)で島津久豊と伊集院頼久の軍がぶつかり、鳴野原の合戦にて伊集院勢が大勝した。しかし、島津久豊が反撃に出る。伊集院頼久が守る谷山城を攻めて降伏させる。反乱は終結する。島津氏と伊集院氏は和解し、島津久豊は伊集院頼久の娘を継室に迎えている。また、伊集院頼久のあとに伊集院氏当主となった煕久は、島津忠国(ただくに、久豊の子、島津氏9代)の娘を正室とした。
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だが、8代・伊集院煕久が伊集院領主としては最後になる。宝徳元年(1449年)、伊集院煕久が町田高久(町田氏は島津氏庶流で、伊集院氏とも近縁)を一宇治城に呼んで殺害する、という事件が起こる。土地の所有をめぐるいざこざが原因だった。この事態を知った島津忠国は激怒。大軍を率いて一宇治城を囲んだ。宝徳2年に伊集院煕久は肥後国(熊本県)に逃亡。それ以降、伊集院は島津氏の直轄領となった。
なお、のちに伊集院煕久の孫が薩摩に呼び戻され、伊集院氏嫡流は存続する。
また、伊集院氏には分家も多く、一族の者には他家で活躍する者もあった。伊集院頼久の四男・伊集院倍久の系統が、のちに相州家の島津忠良(ただよし)に仕えた。島津忠良は分家ながら薩摩の有力者となり、子の島津貴久を宗家の後継者に送り込む。島津忠良・島津貴久は敵対勢力を抑え、やがて薩摩の覇権を握る。16代・島津義久(よしひさ、貴久の長男)は大隅国・日向国も制圧し、さらには九州北部にまで勢力を拡大していく。その過程で、伊集院忠朗(ただあき、倍久の孫)・伊集院忠倉(ただあお、忠朗の子)・伊集院忠棟(ただむね、忠倉の子)は国老として活躍した。
島津貴久の居城となる
16世紀に入って島津氏宗家は力を失い、分家どうしが争うようになった。その中で出水(鹿児島県出水市)や加世田(南さつま市加世田)などに勢力を持つ薩州家の島津実久(さねひさ)、相州家と伊作家を相続して田布施(南さつま市金峰)・伊作(日置市吹上)を所領とする島津忠良が台頭する。
大永6年(1526年)、宗家14代・島津忠兼(ただかね、のちに勝久と改名)は守護職を島津貴久(忠良の嫡男)に譲った。しかし、この動きに島津実久(薩州家)が反発。島津忠兼(島津勝久)も「やっぱり守護職は渡さない」とてのひらを返す。
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当初は島津実久(薩州家)が優勢であったが、島津忠良・島津貴久が反撃。薩州家との戦いを制していく。天文5年(1536年)には薩州家の支配下にあった一宇治城を攻め落とした。
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その後、島津貴久は一宇治城を整備し、天文14年(1545年)に本拠地に定めた。それまでは薩摩南部の田布施城(南さつま市金峰)・伊作城(日置市吹上)にあったが、薩摩中央部に居城を移して領内の平定を進めた。この一宇治城を拠点に、島津氏は戦国大名として大きくなっていくのだ。
天文19年12月(1551年1月)に鹿児島の内城(うちじょう、御内、みうち、鹿児島市大竜町)に拠点を移すまで、島津貴久は伊集院にあった。
島津義弘の武勇を伝える
伊集院には妙圓寺(みょうえんじ、妙円寺)という寺院がある。14世紀末頃に石屋真梁(せきおくしんりょう)が開山。ちなみに、石屋真梁は伊集院忠国の十一男である。
島津義弘(しまづよしひろ)はこの妙圓寺(妙円寺)を自身の菩提寺と定め、自身の木像を奉納した。島津義弘は伊集院で育った。幼少より妙圓寺(妙円寺)をたびたび訪れ、石屋真梁の教えに感銘を受けていたという。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに、島津義弘は西軍として参加した。戦いは半日で決着し、西軍は総崩れとなる。戦場に取り残された島津隊は前方に向かって退却(島津の退き口)。徳川家康の本陣をかすめて戦場を離脱し、薩摩まで帰還した。
その武勇を慕って「妙円寺詣り」が行われるようになる。関ヶ原の戦いの前夜にあたる旧暦9月14日に鹿児島から妙圓寺(妙円寺)を目指して歩き、島津義弘の木像を参拝するのである。この行事は現在も続いている。
明治2年(1869年)に、妙圓寺(妙円寺)は廃仏毀釈により廃寺となった。跡地は徳重神社となり、法難を逃れた島津義弘木像を御神体としている。また、妙圓寺(妙円寺)も明治13年(1880年)に再興。こちらには島津義弘の位牌がある。
<参考資料>
『伊集院町誌』
編/伊集院町誌編さん委員会 発行/伊集院町 2002年
『松元町郷土誌』
編/松元町郷土誌編さん委員会 発行/松元町長 九万田萬喜良 1986年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年
『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)
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