ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(1)奥州家と総州家、島津氏の分裂

南九州では南北朝争乱が終焉して、そのまま戦国時代へと突入する。守護家である島津(しまづ)氏は、支配体制をかためつつあった。しかし、島津氏は一族どうしで対立が生まれ、さらに家督争いもからむ。国人衆の争いも絶えず。不安定な状況が続き、乱れに乱れまくるのである。

混乱の14世紀のあとは、大混乱の15世紀へ。

 

南北朝争乱で島津氏はどうなった?

島津氏は鎌倉時代薩摩国の守護となった。とはいえ、支配力はそれほど強いものではなかった。初代・島津忠久(しまづただひさ)と2代・島津忠時(ただとき)は鎌倉在番で、領国経営は部下にまかせていた。その後、元寇に対応するために当主が任地に入るが、博多の鎮西探題での勤めが中心だった。一方で、南九州には鎌倉御家人系・郡司系の領主が土着し、それぞれに地盤を築き上げていた。

 

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元弘3年・正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政の樹立と崩壊、そして足利尊氏の政権の発足と歴史は目まぐるしく動く。 そして、建武3年・延元元年(1336年)より南北朝の争乱へ。全国規模の内乱が14世紀末まで続くことになるのだ。

 

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薩摩・大隅の国人たちは、南朝北朝に分かれて争った。一方で5代・島津貞久(しまづさだひさ)は京にあり、足利氏配下として働いていた。九州での南朝方の反抗は激しく、この平定のために幕府は島津貞久に帰国を命じた。これ以降、島津氏の当主は薩摩国を拠点に活動する。味方陣営の国人衆を束ね、敵対する国人衆を撃つ。戦いを重ねていくうちに、島津氏は南九州に根を下ろしていくことになるのだ。

南北朝の争乱は複数の対立軸がからみあう。島津氏も南朝方についたり北朝方についたりと陣営を行ったり来たりと立ち回る。また、幕府が派遣した武将とも敵対するようになる。大隅国に勢力を広げてきた日向守護・畠山直顕(はたけやまただあき、足利一門)と争い、九州探題今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、いまがわりょうしゅん、足利一門)とも対立した。

 

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明徳3年(1392年)の南北朝合一をもって、とりあえずの決着にいたる。南朝消滅後もしばらくは島津(しまづ)氏は幕府に従わなかったが、今川貞世今川了俊)が九州探題を解任されていなくなると幕府に恭順する。応永4年(1397年)には、島津氏に対抗していた渋谷一族も降伏させた。

島津氏は争乱期をわたりきった。その過程で領国支配の基礎を築き上げたのである。

 

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奥州家と総州

島津貞久は貞治2年・正平18年(1363年)に亡くなる。嫡男の島津宗久(むねひさ)が早世していたため、ふたりの弟を後継者とした。薩摩国守護職島津師久(もろひさ、貞久の三男)へ、大隅国守護職島津氏久(うじひさ、貞久の四男)へと分割して相続させる。

島津師久は上総介(かずさのすけ)を称していたことから、こちらの系統を「総州家(そうしゅうけ)」という。島津氏久陸奥守(むつのかみ)を称していたことから、こっちの系統を「奥州家(おうしゅうけ)」という。

総州家の島津師久薩摩国薩摩郡の碇山城(いかりやまじょう、場所は鹿児島県薩摩川内市天辰町)や山門院の木牟礼城(きのむれじょう、鹿児島県出水市高尾野)を居城として薩摩国の攻略を進める。領内は敵対勢力だらけで、碇山城や木牟礼城はたびたび攻め込まれている。防戦の記録が多く、なかなか苦労したようである。

一方、奥州家の島津氏久大隅方面の攻略を担当。当初は薩摩国鹿児島郡東福寺城(とうふくじょう、鹿児島市清水町)を本拠地とした。守護とは名ばかりで、大隅国には島津氏の支配力は及んでいない。「切り取り次第」であった。大隅では南朝方の肝付兼重(きもつきかねしげ)や楡井頼仲(にれいよりなか)が気を吐き、観応の擾乱の頃(1350年頃)になって畠山直顕が勢力を広げていた。島津氏久は鹿児島から大隅に撃って出て、延文2年・正平12年(1357年)には畠山勢から大隅を奪う。居城も大隅国の大姶良城(おおあいらじょう、鹿児島県鹿屋市大姶良町)、さらには日向国救仁院(くにいん)の志布志城(しぶしじょう、鹿児島県志布志市志布志町)へと移し、大隅の領国化を進めた。大隅経営が安定したからなのか、至徳元年・元中4年(1387年)には鹿児島に戻り、清水城(しみずじょう)を新たに築いて居城とした。

 

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薩摩で防戦続きだった島津師久に対して、大隅を切り取った島津氏久のほうが「やり手」だったと見える。パワーバランスは奥州家優位へと傾き、こちらのほうが主導権を握るようになった。ただ、師久と氏久の兄弟仲はよかったようで、協力しながら敵対勢力にあたった。子の代になっても奥州家・島津元久(もとひさ)と総州家・島津伊久(これひさ)は協力して今川貞世今川了俊)と戦った。

しかし共通の敵がいなくなると、奥州家と総州家の関係は悪化。ついには激しく対立するようになるのである。

以下は、総州家と奥州家の略系図。赤字は総州家当主、青字は奥州家当主である。

島津氏の系図

 

融和から対立へ

奥州家の島津元久には跡継ぎの男子がいなかった。じつは、梅寿丸という名の長男がいるのだが、どういうわけか出家している。梅寿丸はのちに仲翁守邦(ちゅうおうしゅほう)と名乗る僧になった。

そこで、島津元久総州家より生黒丸を養子にむかえた。生黒丸は島津伊久の三男である。仏門に入っていたところを元服させ、島津久照(ひさてる)と名乗らせて奥州家の後継者とした。

総州家では島津伊久と嫡男・島津守久(もりひさ)に不和が生じていた。明徳4年(1393年)には島津守久が島津伊久の居城を攻めるという事態にもなった。島津元久が親子喧嘩を調停し、その返礼として島津伊久は島津氏の家宝を渡したという。なお、いろんな資料で「薩摩国守護職を譲った」としているのだが、それは違う気がする。明徳4年当時は幕府と対立していたので、島津氏は守護職を保持していなかったと考えるのが自然である。ただ、この事件をもって島津氏の宗主権を奥州家に一本化する方針になったと見ていいだろう。

島津伊久と島津守久の不和の原因はわからないが、この両家の融和策に対して島津守久が反発したのかもしれない。あるいは、総州家が家宝を譲った(宗主権を譲った)のには、島津伊久が息子に対して「お前に家督はわたさんぞ」という感情的な当てつけだったのかも……そんな憶測もさせられるが、どうだろう?

しかし、奥州家と総州家の関係が悪化すると、応永7年(1400年)に養子縁組は解消される。島津元久は島津久照と縁を切り、総州家出身の妻とも離縁する。融和路線は決裂した。


鶴田合戦と志布志の戦い

奥州家と総州家は決戦に及ぶ。「鶴田合戦」である。

薩摩国北部に勢力を持つ渋谷一族は、今川貞世今川了俊)に協力して島津氏に反抗。渋谷重頼(入来院重頼、いりきいんしげより)が中心となって激闘を繰り広げた。しかし、今川氏が九州を去り、応永4年(1397年)には清色城(きよしきじょう、入来院氏の居城、薩摩川内市入来)も両島津氏に攻め落とされる。その後は島津氏の配下となっていた。

 

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一族のうち入来院氏・祁答院(けどういん)氏・東郷(とうごう)氏・高城(たき)氏は総州家に従う。鶴田(つるだ)氏のみが奥州家に通じていた。

応永8年(1401年)4月、島津伊久(総州家)は渋谷四氏とともに鶴田重成が守る鶴田城(つるだじょう、薩摩郡さつま町鶴田)を囲む。鶴田城よりやや西の萩之平に陣取った。

鹿児島の城跡

鶴田城跡

鹿児島の城跡

「鶴田城跡」碑もあった

4月、島津元久(奥州家)は薩摩国市来院(日置市東市来)に出兵し、総州家方の市来忠家(いちきただいえ)を攻めようと構えた。これに対して、島津伊久(総州家)は鶴田から援兵を向かわせた。しかし、市来忠家は島津伊久に使いを送って「市来を攻めようと見せて、鶴田救援の策であろう。鶴田に戻ったほうがいい」と伝えてきた。島津伊久は兵を鶴田に還した


同年9月5日、島津元久(奥州家)は3500の兵を率いて鶴田に進軍。9月10日、島津元久(奥州家)軍が鶴田城に入城する。総州家方も奥州家方も各所に兵を配置して合戦に備え、両軍がにらみ合う。総州家方の援軍として肥後国球磨郡熊本県人吉市)の相良実長も参戦した。

10月25日、千町田間(田間田)で両軍入り乱れての合戦となる。総州家方が勝利し、島津元久軍は敗走。鶴田氏は大隅国の菱刈氏を頼って落ちていった。これにより鶴田氏は没落する。

現在、鶴田城跡近くには「鶴田合戦古戦場」碑もある。周辺には田畑が広がっていて、そこが千町田間(田間田)である。田んぼの中に、戦没者のための供養塔(首塚)も建っている。

鹿児島の城跡

「鶴田合戦古戦場」碑、背後の山は鶴田城

鹿児島の史跡

千町田間(田間田)、手前が首塚(供養塔)


同じ頃に、日向国櫛間院(宮崎県串間市)で本田忠親(ほんだただちか)が挙兵。もともと本田忠親は奥州家の重臣である。島津氏久より遺命を受け、両島津家の融和を託されていたという。養子縁組の解消、総州家との絶縁をとめようと島津元久を諫めたが聞き入れられず。怒って、島津元久のもとを去っていた。

本田忠親は島津久照を大将にかついで救仁院志布志に侵攻。宝満寺に陣取って、志布志城を囲んだ。松尾城志布志城の山城群のひとつ)を守る新納実久(にいろさねひさ、島津氏庶流)が撃って出て、島津久照・本田忠親軍を敗走させた。

鹿児島の史跡

志布志の宝満寺跡

 

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島津元久(奥州家)は鶴田で敗れたものの盛り返す。奥州家と総州家の対立は続き、ついには幕府も介入。応永11年(1404年)6月、幕府は島津元久と島津伊久に停戦を命じる。あわせて、島津元久日向国守護・大隅国守護に任じられた。

なお、『島津国史』(江戸時代に薩摩藩が編纂した島津氏の歴史書)では薩摩国守護について触れていない。島津元久守護職任命のみが記される。島津伊久(総州家)に何もないのは不自然が感じもする。島津伊久の死後に島津元久薩摩国守護に任じられていることから考えると、この時点では薩摩国守護が島津伊久に与えられた(あるいはすでに任じられていた)のかもしれない。


伊作久義の勢力拡大

伊作氏は薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上)の領主。伊作久義(いざくひさよし)はその4代目である。伊作氏初代の島津久長(伊作久長、ひさなが)は宗家3代・島津久経の次男である。島津久長(伊作久長)は元寇の際に父とともに九州へ下向し、伊作荘(いざくのしょう)に所領を得た。伊作氏は一門衆として島津本家と協力しながら、南北朝争乱期を戦い抜いた。ただ、時代が下るにつれて、だんだん独自に動くようにもなってくる。

伊作久義は14世紀末頃から伊作近隣の加世田別府(鹿児島県南さつま市加世田)の別府忠種(薩摩平氏の一族)と対立していた。伊作久義が別府城(べっぷじょう)に攻撃をしかけたため、応永5年(1398年)1月に島津伊久・島津元久らが停戦を命じる。両家とも配下の者をつかわして説得し、なんとか兵を退かせた。

鹿児島の城跡

別府城跡

奥州家と総州家が抗争をはじめると、両家は恩賞合戦を展開する。伊作久義にも両家から所領を与える旨が通達される。応永10年(1403年)には島津元久(奥州家)が薩摩国阿多郡田布施南さつま市金峰)を与えると伊作久義に約した。田布施二階堂行貞(にかいどうゆきひさ)の所領である。一方、島津伊久(総州家)も加世田別府の大浦(南さつま市大浦)を与えると約する。ただ、伊作久義はどっちにつくのか態度をはっきりさせていない。

応永11年(1404年)、伊作久義は別府城を再び攻める。伊作久義は二階堂行貞に援軍を要請。二階堂行貞のもとには久義の姉が嫁いでいた。一方で、別府忠種は行貞の娘婿であった。結局、二階堂行貞は出兵に応じなかった。これに怒った伊作久義は二階堂氏を攻めることとし、島津元久(奥州家)に出兵を願い出た。応永12年(1405年)、島津元久は兵を率いて田布施の牟礼ヶ城(むれがじょう、二階堂氏の居城)を囲んだ。

鹿児島の史跡

左手間の山が牟礼ヶ城、右奥が金峰山

応永13年(1406年)に牟礼ヶ城は陥落し、二階堂行貞は城を棄てて逃亡した。島津元久により、田布施は伊作克久(伊作勝久、かつひさ、久義の子)に与えられた。


奥州家で重きをなす伊集院頼久

伊集院氏は島津氏庶流で、薩摩国伊集院(鹿児島県日置市伊集院)を本拠地としている。伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)はその7代目とされる。

南北朝の争乱が始まると、島津一族が北朝方につく中で、伊集院忠国(ただくに、5代)は南朝方につく。島津本家と激しく争った。しかし、14世紀の中頃には島津氏も南朝方に転じたりして、両家の関係は協調路線へ。伊集院久氏(ひさうじ、6代)は島津氏久・島津元久のもとで活躍した。伊集院頼久の代になっても協調路線は続く。島津氏が渋谷重頼(入来院重頼)より奪った清色城は、伊集院頼久に与えられてた。

奥州家とは血縁関係でもつながる。島津氏久は伊集院忠国の娘を正室に迎え、生まれた子が島津元久である。元久にとって久氏は叔父であり、頼久は従兄弟にあたる。さらに、伊集院頼久は島津氏久の娘を正室に迎えている。以下は、その関係図である。

島津氏の系図

伊集院氏は奥州家と親密であり、信任が厚かったことがうかがえる。島津元久が幕府に召喚された際には代理で京に入り、元久の上洛準備をしている。

 

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島津久豊は日向方面へ

島津久豊(しまづひさとよ)は、島津元久の弟である。島津元久は氏久の正室(伊集院忠国の娘)を母とするが、久豊は継室(佐多忠光の娘)の子である。

島津元久日向国の伊東(いとう)氏へのおさえとして、島津久豊に日向国穆佐院(むかさいん、宮崎市高岡町)を守らせた。応永10年(1403年)に島津久豊は穆佐城に入ったとされる。伊東氏との争いが続く中で、島津久豊は伊東祐安(すけやす)の娘をめとって和睦する。これが島津元久の怒りをかって、一時は兄弟で対立。その後、応永17年(1410年)に島津元久が上洛の途上で日向に立ち寄って会談し、ふたりは和解した。

 

島津元久が三州の守護になる

応永14年(1407年)、島津伊久が薩摩郡の平佐城(ひらさじょう、薩摩川内市平佐)で逝去した。嫡男の島津守久は父から後継者として認められず、薩摩国守護も伝えられなかった。同年、島津元久(奥州家)は総州家の本拠地の碇山城を攻撃。守る島津忠朝(ただとも、伊久の次男)は城を棄て敗走した。

応永16年(1409年)、幕府より島津元久(奥州家)は薩摩国守護に補任された。大隅・日向とあわせて三州の守護となった。翌年には上洛し、将軍・足利義持に謁見した。

 

つづく……。

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<参考資料>
『島津国史
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『山田聖栄自記』
編/鹿児島県立図書館 1967年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鶴田町郷土誌』
編/鶴田町郷土誌編集委員会 発行/鶴田町 2005年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか