応永24年(1417年)、島津久豊(しまづひさとよ、宗家8代当主)は伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)を降伏させた。島津宗家(奥州家)の後継問題に端を発した争い(伊集院頼久の乱)は、ひとまず決着する。
薩摩の反抗勢力は、盟主的存在だった伊集院頼久が降伏したことで勢いを失う。島津久豊は領内平定に向けてさらに戦いを続ける。
そして、奥州家(おうしゅうけ)と総州家(そうしゅうけ)の抗争はまだ終わってはいない。もともとは奥州家が大隅国守護、総州家が薩摩国守護を相続していた。しかし、奥州家の島津元久(もとひさ、7代当主、久豊の兄)が薩摩国守護も兼ねるようになり、総州家は守護家としての立場を失っていた。
勢いに乗じて、島津久豊は総州家の抑え込みもはかる。
阿多の戦い
伊作勝久(いざくかつひさ)も大きな力を持っていた。伊作氏は島津氏の庶流で、薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上)を拠点に薩摩半島南部に割拠する。
伊集院頼久が降伏したのち、伊作勝久も島津久豊に従った。応永24年(1417年)冬に、島津久豊は薩摩国の阿多(あた、現在の鹿児島県南さつま市金峰)・日置(ひおき、日置市日置)・南郷(なんごう、日置市南郷)・高橋(たかはし、南さつま市金峰)・知覧院(ちらんいん)の瀬瀬村(せせ、南九州市知覧町瀬世)・河邊郡田部田村(たべた、南九州市川辺町田部田)・加世田別府(かせだべっぷ、南さつま市加世田)の半分・谿山郡の福元村(ふくもと、鹿児島市上福元町・下福元町のあたり)と中村(鹿児島市鴨池のあたり)などを伊作勝久に与える。伊作氏の懐柔をはかったのだ。
応永25年(1418年)、伊作勝久と阿多氏(阿多久清か)が対立。阿多氏は島津氏庶流の町田(まちだ)氏の一族で、阿多に領地を持っていた。前述のとおり阿多は、島津久豊が伊作勝久に与えるとしていた。
伊作勝久より援軍を要請され、島津久豊は兵を送った。また、薩摩国市来院(いちきいん、いちき串木野市市来・日置市東市来)の市来家親(いちきいえちか)も援軍を出した。
一方で阿多氏には、別府氏(べっぷ、加世田別府の領主)や鮫島氏(さめじま、こちらも阿多領主)が加勢し、頴娃・知覧・揖宿・川邊(えい・ちらん・いぶすき・かわなべ、いずれも薩摩半島南部)からも援軍があった。こちらの連合軍は田布施(たぶせ)と貝柄崎(貝殻崎、かいがらさき)に入り、伊作軍と対峙する。
伊作勝久は貝柄崎を攻めるが敗れ、戦死者を多く出した。
島津久豊は揖宿城(いぶすきじょう、松尾城とも、場所は指宿市西方)を奈良氏兄弟(詳細わからず、『三国名勝図会』によると鮫島氏の一族だという)に守らせていた。奈良氏が叛いた(阿多氏らに通じていたのか?)ので、島津久豊はこれを攻撃。城は落ち、兄は頴娃に逃れ、弟は投降した。
島津久豊が揖宿から阿多に兵を進めようとしたので、連合軍諸氏は自領に帰っていったのだ。
永利城の攻防
この頃の総州家は、幼い島津犬太郎(島津久林、ひさもり)が当主。応永23年(1416年)に前当主の島津久世(しまづひさよ)が島津久豊のだまし討ちにより自害したために擁立された。島津犬太郎が薩摩国河邊郡の河邊城(かわなべじょう、平山城とも、鹿児島県南九州市川辺)にあったほか、島津守久(もりひさ、犬太郎の祖父)が山門院(やまといん)の木牟礼城(きのむれじょう、鹿児島県出水市高尾野)を、島津忠朝(ただとも、守久の弟)が薩摩郡山田の永利城(ながとしじょう、鹿児島県薩摩川内市永利)を居城としていた。
応永26年(1419年)、市来家親は入来院重長とともに永利城の島津忠朝を攻めた。
入来院(いりきいん)氏は渋谷氏の一族で、薩摩国入来院(薩摩川内市入来)を拠点に薩摩国北部に勢力を持つ。南北朝時代から島津氏と抗争を繰り返し、その後は総州家と組んで奥州家と対立していた。ここにきて、入来院重長は総州家を裏切った。
1月、市来・入来院連合軍が山田に軍を進めるが、城より撃って出た島津忠朝の軍に敗れる。
入来院重長は島津久豊に救援を求めた。島津久豊は援軍要請を断る。奥州家(守護家)の群臣たちは「入来院氏は長年の宿敵で積年の恨みもある、協力なんかできない」と反対し、島津久豊はこの意見に同意したのである。
入来院重長は再び使いを送り、「助けてくれたら、これからは臣下として忠義を尽くす」と言ってきた。島津久豊は援軍要請を受け入れることにした。佐多久信(島津氏庶流佐多氏の一族か)を援軍として遣わした。
戦いはしばらく膠着状態が続いた。島津久豊は8月に自ら出陣。永利城はなかなか落ちない。
永利城救援のために河邊の島津犬太郎、日向国真幸院(宮崎県えびの市・小林市のあたり)の北原(きたはら)氏、肥後国球磨郡(熊本県人吉市のあたり)の相良(さがら)氏が兵を送った。島津久豊は大軍をもってこれら援兵を撃破した。
永利城を囲むこと数日。食糧が尽き、島津忠朝は永利城を差し出して和睦を申し出た。島津久豊はこれを受け入れた。島津忠朝は隈之城(くまのじょう、薩摩川内市隈之城)に退いた。永利城は島津久豊が取り、入来院重長に与えられた。
頴娃の反乱
応永27年(1420年)、薩摩国頴娃郡(鹿児島県南九州市頴娃)で頴娃(えい)氏が叛く。島津久豊は頴娃城(えいじょう)を攻め落とした。
頴娃城はかつて島津久豊が居城とし、このことから久豊を「南殿」とも呼んだ。応永10年(1403年)頃に日向国の穆佐城(むかさじょう、宮崎市高岡町)に島津久豊が移ると、頴娃城は小牧氏に与えられた。小牧氏は薩摩平氏の一族で、かつてのこの地を治めた頴娃氏の庶流。頴娃城主となったことをきっかけに、本家筋の「頴娃」氏を名乗るようになった。
反乱の平定後、頴娃は肝付兼政(きもつきかねまさ)に与えられた。大隅国の肝付兼元(かねもと、肝付氏11代)の次男にあたる。この兼政が「頴娃」氏を名乗る。伴姓頴娃氏は16世紀半ばまでこの地を治める。
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南薩摩の平定
応永27年(1420年)、加世田別府(鹿児島県南さつま市加世田)にあった別府(べっぷ)氏が降る。幼い当主を支えていた家臣らにはかって帰順させた。別府氏は平安時代末期より南薩摩で繁栄した河邊一族(薩摩平氏)の一派である。幼主を鹿児島に移住させて家名は存続するが、領主としての歴史は終わる。
同年、知覧院(南九州市知覧)の今給黎久俊(いまきいれひさとし)が、伊集院頼久の勧めもあって降伏。ちなみに今給黎久俊は伊集院氏の一族で、伊集院頼久の叔父にあたる。知覧はもともと佐多氏(島津氏庶流)のものであった。島津久豊は知覧城を取ると、佐多親久(さたちかひさ)に改めて与えた。
さらに同年、阿多郡の鮫島氏と阿多氏も降伏を申し出る。領地を差し出して、島津久豊の家臣となった。鮫島氏の阿多領有は、12世紀末に鎌倉後家人の鮫島宗家(さめじまむねいえ)が地頭に補任されてから200年以上続いていた。
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南薩摩はことごとく島津久豊の傘下となった。川邉の総州家当主・島津犬太郎は孤立無援の状況に。ついには河邊を棄てて、山門院に奔る。
伊集院氏を懐柔
伊集院頼久は島津久豊に降ってからは、その臣下として活躍。信頼を得つつあった。島津久豊は伊集院頼久の娘を側室にむかえたほか、総州家の旧領である河邊を与えた。関係のさらなる良化をはかった。
伊集院頼久は河邊に移る。家督を子の初犬千代丸に譲り、こちらが伊集院(現在の日置市伊集院)に入った。初犬千代丸は伊集院煕久(ひろひさ)と名乗る。
これは南薩摩平定直後のことか。なお、『西藩野史』ではこれを応永30年(1423年)の出来事としている。
ちなみに、伊集院煕久は島津元久(宗家7代当主)急死の際に後継者に擁立されるも、島津久豊がこれを阻んだ、という因縁もある。
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隈之城の戦い
島津久豊は総州家を追い詰めていく。応永28年(1421年)8月、島津忠国(ただくに、久豊の嫡男、この時点での名は「島津貴久」)に命じて、隈之城(二福城)の島津忠朝を攻めさせた。
島津忠朝は「城を枕に討ち死にすれば、祖霊の祭祀を断つことになる。また、他州に奔れば家名を汚してしまう。願わくば許しを得て、匹夫として生をまっとうさせてほしい」(『西藩野史』より意訳)と降伏を願い出た。
島津忠国は伊集院にあった島津久豊にこの申し出を伝えた。国老の平田重宗(ひらたしげむね)は「勢いが尽きても、家名のために他国に奔らず。その志は天晴れである。申し入れを受け入れてやってほしい」(『西藩野史』より意訳)と進言。島津久豊は島津忠朝を許した。島津忠朝には鹿児島の和泉崎(場所の詳細不明)に土地を与えられた。出家して道聖と名乗り、四男の島津伊忠とともに住んだ。
隈之城の痕跡は残っていないが、JR隈之城駅近くに二福城(にふくじょう、隈之城の別名)の城址碑がある。
総州家の滅亡
島津久豊は薩摩国をほぼ制圧。残る敵は山門院にある総州家の島津守久と島津犬太郎(島津久林)だけとなった。応永29年(1422年)、島津忠国・伊作勝久をつかわして山門院の木牟礼城を攻撃する。
当初、和泉氏(いずみ、和泉郡の国人、肝付氏庶流)や阿久根氏(あくね、莫祢院の国人)は総州家に応じていたが、奥州家(守護家)方に転じる。木牟礼城は孤立する。肥後国へも救援を要請するが、援兵の到着まで城を持ちこたえることができず。ついには、島津守久・島津犬太郎は城を棄てて肥前国(佐賀県・長崎県)へと逃亡した。島津守久はしばらくして逃亡先で亡くなったという。
総州家は滅んだ。島津久豊は薩摩を平定する。
相良氏と手を組む
山門院は肥後国球磨郡の相良前続(さがらさきつぐ)に与えられた。
島津氏と相良氏の関りは南北朝争乱期より手を組んだり敵対したり。奥州家と総州家の抗争でもちょくちょく兵を出していて、そのときどきでどっちかに味方する。
薩摩と大隅を制圧した島津久豊は、相良氏と良好な関係を築こうとしたようだ。娘(島津忠国の妹)を、相良前続にも嫁がせている。
伊作氏の内紛
伊作勝久が山門院に遠征している間に、本拠地の伊作城(いざくじょう、場所は日置市吹上)で事件が起こる。勝久の叔父にあたる伊作十忠(じっちゅう)が、兄の伊作久義(ひさよし、勝久の父)を殺害。伊作家の家督をわが手にしようとした。
勝久の嫡男である安鶴丸(伊作教久、のりひさ)も命を狙われ、家臣に守られて伊作城にたてこもった。さらに、安鶴丸(伊作教久)らは縁戚の市来(いちき)氏を頼って、市来院(いちき串木野市市来・日置市東市来)に逃れた。
伊作十忠は「久豊公の命でやったこと」と言う。伊作勝久はかつて伊集院頼久の反乱に加担し、総州家とともに戦ったりもしている。帰順したと思ったらすぐに離反したりと、味方にしても油断ならない存在だった。島津久豊は伊作勝久をよく思っていない。伊作十忠の言うとおりに、島津久豊が工作していた可能性もある。
伊作勝久は山門院で変事を聞く。『西藩野史』によると、島津忠国が伊作勝久に他国へ逃れるよう告げ、それに従って亡命したとしている。
島津久豊は伊作十忠を支持する。一方で、新納忠臣(にいろただおみ)・北郷知久(ほんごうともひさ)・樺山教宗(かばやまのりむね)ら重臣が伊作勝久の助命を乞う。この3人はいずれも島津氏庶流で、日向国に領地を持つ。新納忠臣が伊作勝久の甥にあたるなど、血縁的にも伊作氏と近しい関係である。伊作勝久はこの重臣らを通して、「自分は他国へ亡命し、伊作の地を差し出す。これを条件に、安鶴丸に家督をつがせてほしい」と願い出た。島津久豊はこれを許す。
伊作十忠は伊作を逃れ、知覧院に奔った。その後の消息はよくわかっていない。
この事件をきっかけに伊作氏は勢いを失う。
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日向の奪還を目指す
島津久豊が日向国の伊東祐安(いとうすけやす)を攻める。
島津久豊はかつて日向国の穆佐城(むかさじょう、宮崎市高岡町)を本拠地としていた。しかし、応永19年(1412年)に伊東祐安が穆佐院を攻撃し、この地は伊東氏に奪われてしまう。島津氏の家督相続をめぐる争い、奥州家と総州家の対立などもあって薩摩・大隅が乱れたことに乗じてのことだった。島津久豊は薩摩の反抗勢力との戦いに明け暮れ、日向方面まで手が回らず。伊東氏はさらに南下して勢力を広げていた。
総州家と決着をつけ、薩摩国の諸氏をしたがえたこともあり、島津久豊は日向の奪還に向けて動き出したのだ。
応永30年(1423年)、まず島津忠国を出陣させ、油津(あぶらつ、宮崎県日南市)にいたる。ここで募兵するも失敗する。
島津久豊がみずから出陣。油津で兵を招集すると、今度は日向の国人に応ずる者があった。軍を編成して油津を発ち、加江田城(かえだじょう、宮崎市加江田)に向かった。加江田城は守りを堅め、兵は城にこもりっぱなし。島津軍は無理には攻めず、長期戦の構えを見せた。
応永31年(1424年)、島津久豊は再び加江田城を攻め、陥落させた。清武(宮崎市清武)以南は島津氏の支配下となった。
その後、島津久豊は上洛して将軍に謁見しようと計画を立てるが、病気のために取りやめとなった。そして、応永32年(1425年)1月に逝去する。51歳だった。
つづく……。
<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『山田聖栄自記』
編/鹿児島県立図書館 1967年
『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年
『室町期島津氏領国の政治構造』
著/新名一仁 出版/戎光祥出版 2015年
『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年
『川辺町郷土史』
編/川辺町郷土史編集委員会 発行/川辺町 1976年
『知覧町郷土誌』
編/知覧町郷土誌編さん委員会 発行/知覧町 1982年
『伊集院町誌』
編/伊集院町誌編さん委員会 発行/伊集院町 2002年
『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年
『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)
ほか