ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

薩摩・大隅に古くから住まう者たち (2) 肝付氏・河邊一族(薩摩平氏)

平安時代以前に薩摩・大隅で大きな勢力を誇っていた氏族をまとめる。その2回目は大隅の覇者となった肝付(きもつき)氏、薩摩南部を席捲した河邊一族(かわなべいちぞく)/薩摩平氏(さつまへいし)について、だ。

 

肝付氏も河邊一族(薩摩平氏)も島津荘(しまづのしょう)の管理者として強大な勢力築き上げていた。

 

 

 

 

 

 

肝付氏

大隅国肝属郡高山(こうやま、現在の肝属郡肝付町)を拠点とし、名乗りはその郡名から。肝付氏は、島津氏よりもずっと古くから南九州に根を張った一族である。

本姓は伴(とも、ばん)氏。安和2年(969年)に伴兼行(とものかねゆき)が薩摩掾に任じられて下向したのがはじまりとされる。出自は大友皇子の九世孫としている。また、大納言の伴善男(とものよしお)の後裔とも伝わっている。

大友皇子の後裔は、さすがに捏造っぽい。伴善男とのつながりも怪しいところ。ただ、伴氏であるというのは、そのとおりだと思われる。

伴氏(大伴氏)は薩摩大隅とけっこう縁が深い。大隅隼人の反乱の際には大伴旅人(おおとものたひと)が征隼人持節大将軍としてやってきた。その子の大伴家持(やかもち)も薩摩国守に任じられている(左遷)。大隅国守として大伴国人という名も確認できる。一族の者が古くから南九州と住み着いていたとしても不思議ではない。

兼行の孫にあたる伴兼貞(とものかねさだ)は大隅国肝属郡の弁済使(べんざいし、荘園を管理する役人)となり、平季基(たいらのすえもと、島津荘の開墾をした人物)の娘を娶って島津荘の荘官の地位を継承した。その後、兼貞の子の兼俊(かねとし)の代から肝付氏を名乗るようになったという。

 

肝付氏は高山城(こうやまじょう)を本拠地とした。肝付兼俊(伴兼俊)が築いたともされている。

山城の曲輪跡

高山城の本丸跡

 

肝付町高山にある四十九所神社は、永観2年(984年)に伴兼行が創建したと伝わる。ここで毎年秋に行われる流鏑馬神事は、西暦1100年頃から行われているという。

流鏑馬神事

四十九所神社の流鏑馬神事(高山流鏑馬)

馬に乗って疾走、的を狙う

高山流鏑馬、駆ける!射る!

 

肝付氏は16世紀まで大隅の覇者として君臨する。支族もかなり多く、島津荘の荘官として薩摩国や日向国にも一族の勢力を広げていった。肝付兼俊の兄弟たちも、それぞれに家を興している。

 

萩原氏(はぎわら)

伴兼貞次男の兼任(かねとう)が日向国三俣院(みまたいん、現在の宮崎県都城市の西部、北諸県郡三股町の北部)を任されたことに始まる。この地を流れる萩原川にちなんで萩原氏を称したとされる。

 

安楽氏(あんらく)

伴兼貞三男の俊貞(としさだ)を祖とする。日向国救仁院安楽(くにいんあんらく、現在の鹿児島県志布志市安楽)の荘園を任された。

 

和泉氏(いずみ)

伴兼貞四男の行貞(ゆきさだ)を祖とする。薩摩国和泉郡(いずみぐん、現在の鹿児島県出水市)に入った。

 

梅北氏(うめきた)

伴兼貞五男の兼高(かねたか)が日向国諸県郡梅北(現在の宮崎県都城市梅北)に入ったことに始まる。ここは島津荘発祥の地でもあり、平季基が創建した神柱宮の祭祀も任された。

 

北原氏(きたはら)

肝付兼俊三男の兼幸(かねゆき)が大隅国串良院(くしらいん、現在の鹿児島県鹿屋市串良)に入ったことに始まる。名乗りは本拠地を木田原(北原)に置いたことからとされる。北原氏の子孫は日向国真幸院(まさきいん、現在の宮崎県えびの市)に移り、この地で有力国人として発展した。


ほかにも剣見崎(けみさき、けんみさき)氏・岸良(きしら)氏・野崎(のざき)氏・三俣(みまた)氏・鹿屋(かのや)氏・頴娃(えい)氏・津曲(つまがり)氏など支族は多い。

 

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河邊一族/薩摩平氏

平安時代末期に河邊一族が薩摩半島南部に繁栄した。平姓とされ、「薩摩平氏」とも呼ばれている。出自の詳細は諸説あり。九州に土着した鎮西平氏の流れとされたり、島津荘を開拓した平季基(たいらのすえもと)と同族とする系図も伝わっている。

12世紀初めに伊作良道(いさよしみち、いざくよしみち)が薩摩国伊作郡(いざく、鹿児島県日置市吹上)に下向したのがはじまりだという。勢力範囲は広大で、その子や孫が各地の郡司となった。良道の長男である道房は河邊氏を名乗り、そのことから「河邊一族」と呼ばれるようになった。一族に連なる者たちは、次のとおり。


河邊道房(かわなべみちふさ)
伊作良道の長男。薩摩国河邊郡(現在の南九州市川辺)の郡司。

給黎有道(きいれありみち)
伊作良道の次男。多禰有道とも。薩摩国給黎郡(きいれ、現在の鹿児島市喜入)を領したと思われる。

頴娃忠永(えいただなが)
伊作良道の三男。薩摩国頴娃郡(えい、現在の南九州市頴娃・指宿市開聞)を領したと思われる。

阿多忠景(あたただかげ)
伊作良道の四男。薩摩国阿多郡(あた、現在の南さつま市金峰)の郡司。周辺の豪族を攻め、一時は大隅まで勢力を広げた。

別府忠明(べっぷただあき)
伊作良道の五男。薩摩国加世田別府(かせだべっぷ、現在の南さつま市加世田・枕崎市)を支配。

鹿児島忠吉(かごしまただよし)
伊作良道の子。薩摩国鹿児島郡(現在の鹿児島市)を領したと思われる。

揖宿忠光(いぶすきただみつ)
頴娃忠永の子。薩摩国揖宿郡(いぶすき、現在の指宿市)を領したと思われる。

知覧忠信(ちらんただのぶ)
頴娃忠永の子。薩摩国知覧院(ちらんいん、現在の南九州市知覧)を領したと思われる。

串木野忠道(くしきのただみち)
頴娃忠永の孫。薩摩国日置郡串木野(くしきの、現在のいちき串木野市串木野)を領したと思われる。

谷山忠光(たにやまただみつ)
別府忠明の孫。薩摩国谿山郡(現在の鹿児島市谷山)を領した。

写真は阿多忠景の本拠地のあった旧阿多郡(金峰町)の風景。水田の向こうに見える山は金峰山。

水田と金峰山

阿多の風景

 

こちらの写真は一族の別府忠明が築いた別府城(べっぷじょう)。南さつま市加世田にある。城跡には別府忠明の顕彰碑もある。

石造りの城址碑

加世田の別府城跡

顕彰碑

別府城にある「別府五郎忠明顕彰碑」

  

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ずっと時代が下って興国3年(1342年)には、谷山隆信(たにやまたかのぶ)が後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねよししんのう)を迎えて南朝方として奮戦したりもしている。

 

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阿多忠景の乱

一時は阿多忠景が南九州を席捲したと見られている。忠景は兄の河邊道房を討って一族の惣領となり、周辺に攻め出して領地を奪っていった。薩摩国の広範囲を支配し、影響力は大隅国や日向国にまで広がったようだ。国司に従わずにさんざん暴れ回った阿多忠景だったが、朝廷から討伐軍を送られる。敗れて、貴海島(きかいがしま、薩摩硫黄島か)に逃亡したという。

海に浮かぶ硫黄島

薩摩硫黄島(指宿市の長崎鼻より見る)

 

『吾妻鏡』の文治3年(1187年)9月22日の記録に、平家残党の追討軍が貴海島に派遣された、というものがある。この中に阿多忠景の名が出てくる。以下は『吾妻鏡』より。

<原文>
而平家在世時。薩摩國住人阿多平權守忠景。依蒙勅勘。逐電于彼嶋之間。爲追討之遣筑後守家貞。家貞粧軍船雖及數度。終不凌風波空。

<大意>
平家の世に、薩摩国の阿多忠景が勅勘(朝廷からのとがめ)を受けて貴海島に逐電した。これを追討するために平家貞が遣わされ、数回にわたって軍船を送り込んだものの、島にたどり着くことができなかった。


『保元物語』の「新院御所各門々堅めの事 附 軍評定の事」に中にも、阿多忠景のことを書いた下りがある。

<原文>
父不孝して十三の歳より、鎮西の方へ追下すに、豊後國に居住し、尾張國の権の守家遠を乳母とし、肥後國阿曾の平四郎忠景が子、三郎忠國が聟になりて、君よりも給はらぬ九國の總追捕使と號して、筑紫を随へんとしければ、……

<大意>
父の言うことを聞かずに暴れるので、源為朝(みなもとのためとも)は13歳のときに九州へ追いやられた。尾張國の権の守家遠の後見のもとに、豊後国(現在の大分県)に住んだ。肥後國阿曾(現在の熊本県阿蘇地方)の平四郎忠景の子である三郎忠國の婿となって、勝手に九州の総追捕使を称して九州を平らげていった……。

この中の「肥後國阿曾の平四郎忠景」は「薩摩国阿多の平忠景(阿多忠景)」を指すとされる。源為朝はその忠景の子である平忠國の婿となったと記される。源為朝の活躍は伝説めいていることもあり、真偽のほどはわからない。ただ、ここで名が挙がるというのは、阿多忠景が南九州でかなりの影響力があったことを物語っているのではないだろうか。

阿多忠景の反乱については、当時はそこそこ知られていた話題だったのかも。『吾妻鏡』と『保元物語』に記された情報からは、なんとなくそんな感じも受ける。

 

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<参考資料>

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『高山郷土誌』改定版
編/高山郷土誌編さん委員会 出版/高山町 1997年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島県の歴史』
著/原口虎雄 出版/山川出版社 1973年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『南九州御家人の系譜と所領支配』
著/五味克夫 出版/戎光祥出版 2017年

『現代語訳 吾妻鏡 3 幕府と朝廷』
編/五味文彦・本郷和人 出版/吉川弘文館 2008年

『日本歴史文庫3』 ※『保元物語』収録
編/黒川真道 出版/集文館 1912年

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