ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

戦国時代の南九州、大混乱の15世紀【まとめ】

15世紀の南九州は、ずっと戦乱つづきであった。守護家である島津氏に分裂があり、家督相続問題もあり、そこに対立が生まれた。さらには、旧来からこの地にある国人衆もたびたび反抗する。守護家は支配体制を確立していこうと戦いを重ねていった。

しかし、安定しかかったかと思えば、ほころびがすぐに出て崩れはじめる。また混乱を治めようと動く。そしてまた、ほころびが……。と、その連続だった。

大混乱の15世紀を一気にたどる。

 

 

 

 

 

奥州家と総州家の抗争

14世紀の南北朝争乱期を、島津氏は戦い抜いた。あるときは北朝方につき、状況によっては南朝方に転じ、たくみに立ち回って領内の支配権を強めていった。その過程で、島津氏の宗家が分裂する。5代当主の島津貞久(しまづさだひさ)は薩摩国守護職を島津師久(もろひさ、貞久の三男)へ、大隅国守護職を島津氏久(うじひさ、貞久の四男)へと分割して相続させた。

島津師久の系統を「総州家(そうしゅうけ)」という。薩摩国薩摩郡の碇山城(いかりやまじょう、場所は鹿児島県薩摩川内市天辰町)や山門院の木牟礼城(きのむれじょう、鹿児島県出水市高尾野)を拠点に薩摩国の平定を担った。

島津氏久の系統を「奥州家(おうしゅうけ)」という。薩摩国鹿児島郡の東福寺城(とうふくじょう、鹿児島市清水町)を本拠地に大隅へ侵攻。大隅を支配下に組み込むと、日向国救仁院(くにいん)の志布志城(しぶしじょう、鹿児島県志布志市志布志町)に拠点を移して領内経営にあたる。その後、再び鹿児島に戻り、清水城(しみずじょう)を拠点とした。

総州家と奥州家は敵対勢力との激闘を制し、それぞれ薩摩国と大隅国の覇権を確立する。島津氏は幕府から派遣された九州探題の今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)と対立し、両家は協力して敵にあたった。

 

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だが、今川貞世(今川了俊)が九州を去り、共通の敵がいなくなると総州家と奥州家が対立するようになる。

応永8年(1401年)、島津伊久(これひさ、総州家)と島津元久(奥州家)が薩摩国鶴田(つるだ、鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田)で決戦におよんだ。この戦いには薩摩北部に勢力を広げる渋谷(しぶや)一族も関与する。渋谷一族には入来院(いりきん)・祁答院(けどういん)・東郷(とうごう)・高城(たき)・鶴田(つるだ)の5氏があった。このうち鶴田氏のみが奥州家についていた。島津伊久(総州家)は渋谷4氏とともに鶴田城(つるだじょう、鶴田氏の拠点)を囲んだ。その救援のために島津元久(奥州家)が兵を出し、両陣営がぶつかったのである。

この戦いでは総州家方が勝利した。

古戦場跡の記念碑

鶴田合戦古戦場

 

島津元久(奥州家)は鶴田合戦の敗戦から盛り返す。奥州家と総州家の対立は続いた。応永11年(1404年)には幕府が介入し、両家に停戦を命じる。あわせて、島津元久が日向国守護・大隅国守護に任じられた。

応永16年(1409年)には島津元久(奥州家)が薩摩国守護にも補任された。大隅・日向とあわせて三州の守護となった。

奥州家が主導権を握る。

 

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奥州家の相続問題と、伊集院頼久の乱

応永18年(1411年)に入来院重頼(いりきいんしげより)は薩摩国入来院の清色城(きよしきじょう、鹿児島県薩摩川内市入来)を攻めた。清色城はもともと入来院氏の本拠地であったが、島津氏との戦いで奪われていた。入来院氏と結んだ総州家も援軍を出す。島津元久は鹿児島より兵を出す。日向国穆佐院(むかさいん、宮崎市高岡町)を任されていた島津久豊(しまづひさとよ、元久の弟)も参陣した。

しかし、陣中で島津元久が急病で倒れる。島津元久は鹿児島に戻り、亡くなってしまう。清色城も陥落した。

「清色城跡」標柱と説明看板、奥に登山口

清色城跡

 

島津元久には後継者となる子がなかった。男子はひとりあったが、なぜか出家している。そこで、伊集院頼久(いじゅういんよりひさ、島津氏庶流)の子の初犬千代丸が後継に立てられた。初犬千代丸は元久の甥にあたる。

伊集院頼久は初犬千代丸をともなって鹿児島に入る。この動きに対して奥州家の群臣たちは反発し、日向にあった島津久豊(元久の弟)に急ぎ知らせた。島津久豊が鹿児島へ急行すると、初犬千代丸を喪主として島津元久の葬儀を行っているところだった。島津久豊は葬儀に乱入し、初犬千代丸の手から位牌を奪って葬儀を行った。そして、自身が当主となることを宣言したのだ。

面目をつぶされた伊集院頼久は、8代当主に就いた島津久豊に反旗をひるがえした。また、強引な家督相続に反発して、叛く者も多かった。伊集院頼久を盟主として、反久豊勢力が形成される。総州家も伊集院頼久と組んだ。

応永20年(1413年)、島津久豊は遠征で鹿児島を留守にしたところを衝かれる。伊集院頼久の軍が鹿児島を急襲。清水城を奪い、一時は鹿児島を制圧する。しかし、島津久豊が鹿児島に戻り、軍を立て直して決戦におよぶ。島津久豊は鹿児島を奪還する。

青空の下に市街地が広がる

鹿児島の清水城下、東福寺城から見る

 

島津久世(ひさよ、総州家当主)は、伊集院頼久に呼応して薩摩国河邊(かわなべ、鹿児島県南九州市川辺)で反乱を起こす。しかし、応永22年(1415年)に降伏。島津久豊は大喜びで河邊まで島津久世に会いにいく。そして、鹿児島に招いた。

島津久世(総州家)は鹿児島を訪れた。島津久豊は盛大な宴でもてなすが、その帰りに島津久世は兵に囲まれる。騙し討ちである。島津久豊は「河邉を差し出すか、あるいは死を賜るか」と迫ったのだ。その後、島津久世は自害する。総州家では、久世嫡男の犬太郎を後継とした。

応永24年(1417年)、島津久豊は河邊を攻めた。総州家方には伊集院頼久が援軍を出し、伊集院勢を主力として奥州家方と戦った。この戦いで、島津久豊の軍は総崩れとなる。伊集院頼久に降った。

伊集院頼久は負かした奥州家に対して鹿児島割譲を強く求めた。これが、島津久豊や群臣らの怒りを買った。伊集院頼久は油断していたところを攻め込まれ、今度はこちらが降伏。形勢は逆転した。

 

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島津久豊が領内を制圧

島津久豊は勢いにのって、領内の反抗戦力を叩く。南薩摩に古くからあった諸勢力も滅ぼし、薩摩国の支配権も固めていった。

そして、総州家も潰しにかかる。総州家は幼い島津犬太郎が当主で、河邊を本拠地としていた。ほかに一族の島津守久(もりひさ、犬太郎の祖父)が薩摩国山門院の木牟礼城(きのむれじょう、場所は鹿児島県出水市高尾野)に、島津忠朝(ただとも、守久の弟)が薩摩郡の永利城(ながとしじょう、鹿児島県薩摩川内市永利)にあった。

南薩摩のほとんどが島津久豊の支配下となり、河邊は孤立する。島津犬太郎主従は河邊を放棄して祖父のいる木牟礼城に逃れた。

応永28年(1421年)、島津久豊は島津忠朝を攻めて、これを降す。さらに応永29年(1422年)には木牟礼城に総攻撃を仕掛ける。島津守久・島津犬太郎は城を棄てて肥前国(佐賀県・長崎県)へと逃亡した。総州家は所領をすべて失った。

丘の上に「木牟禮城址」と刻まれた石碑が立つ

木牟礼城跡

 

薩摩と大隅をほぼ平定した島津久豊は、日向に侵攻する。かつて島津久豊が居城とした穆佐城は、薩摩・大隅が混乱している間に伊東祐安(いとうすけやす)に奪われていた。日向侵攻は順調に進んだが、島津久豊は応永32年(1425年)に病没する。

 

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兄弟対立、島津忠国と島津用久

島津久豊のあとは、嫡男の島津忠国(ただくに)が当主となった。父の遺志をついで日向攻略を進めた。

一方、総州家の犬太郎は、長じて島津久林(ひさもり)と名乗る。国外逃亡ののちに、日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市)に潜伏していた。永享2年(1430年)、島津忠国はこれを攻め、島津久林を自害させた。

永享4年(1432年)、伊集院煕久(ひろひさ、かつて当主になりかえた初犬千代丸)を盟主に薩摩で反乱が蜂起する。しかし、島津忠国は反乱を放置して日向侵攻を優先させた。周囲の反対を押し切って出兵し、大敗してしまう。

島津忠国は実権を弟の島津用久(もちひさ)に譲り、自身は大隅国末吉(すえよし、鹿児島県曽於市末吉)に隠居した。これは政変である。群臣の支持をすっかり失った島津忠国は追放され、かわりに島津用久が擁立されたのだ。

島津用久は薩摩の反乱に対応。永享8年(1436年)頃には伊集院煕久と和睦し、反乱を鎮定したようだ。

一方で、末吉の島津忠国も復権を目指して動いていた。やがて、忠国派と用久派とに二分して、対立するようになっていく。

永享12年(1440年)、幕府から謀反の疑いをかけられて逃亡した大覚寺義昭(だいかくじぎしょう)が日向国櫛間(くしま、宮崎県日南市)にいることが発覚する。義昭は6代将軍の足利義教(よしのり)の弟にあたる。幕府は島津氏に討伐を命じてきた。島津忠国は討伐をしぶったものの、催促されてついには実行した。

島津忠国は義昭討伐により幕府の信任を得た。幕府の権威を後ろ盾とし勢力を盛り返し、嘉吉元年(1441年)に鹿児島に入って用久を追い出した。実権を奪い返したのである。

島津用久は、その後も薩摩国谿山(たにやま)の谷山城(たにやまじょう、鹿児島市下福元町)を拠点に対立を続けた。抗争は長引く。

そんな中で薩摩国北部で反乱が蜂起する。これは渋谷一族(入来院氏・祁答院氏・東郷氏・高城氏)が中心となったものであったと考えられる。文安5年(1448年)、島津忠国と島津用久は和睦。協力して反乱にあたった。

 

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父子対立、島津忠国と島津立久

島津忠国は領内を鎮定した。すると、またも専横が目立つようになる。国衆の所領替えをあちこちで行い、旧来の地を離れる者も多かった。また、自身の兄弟を分家として立てて要所に配置するなど、島津一族の優遇も見られた。この頃に薩州家(さっしゅうけ)・豊州家(ほうしゅうけ)・相州家(そうしゅうけ)といった分家が成立する。

 

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国替えには領内の安定化をはかる狙いがあった。しかし、反発も招く。長禄3年(1459年)、島津忠国はまたも追放される。鹿児島を追われ、薩摩国加世田(かせだ、鹿児島県南さつま市加世田)に隠居させられた。守護は嫡男の島津立久(たつひさ)が代行することになった。

島津立久が実権を握ったあとは融和策をとり、領内は安定する。反乱の記録もあまり見られない。日向の伊東氏とも和睦する。

応仁元年~文明9年(1467年~1477年)、幕府の権力闘争から国内を二分しての大乱となる。「応仁の乱」である。島津立久はこれに関わろうとせず、南九州ではほとんど影響がなかった。

文明2年(1470年)、島津忠国が隠居先の加世田城で病に倒れ、死の間際に島津立久は家督と守護職をついだ。ようやく正式に当主となったが、その期間は長くなかった。

 

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薩隅日三州争乱

文明6年(1474年)、島津立久は逝去する。家督は嫡男の島津忠昌がついだ。まだ12歳(数え年)と幼く、長じるまでは国老の平田兼宗・村田経安が政務を代行した。

この国老2人と分家衆が対立する。文明8年(1476年)、島津国久(くにひさ、島津用久の子、薩州家)・島津季久(すえひさ、島津忠国の弟、豊州家)が「奸臣除くべし」と反乱を起こすのである。島津久豊(ひさとよ、忠国の弟、伯州家)・島津忠福(島津立久の従兄弟、羽州家)らも呼応し、混乱は国中に広がった。

島津友久(ともひさ、立久の兄、相州家)が島津国久(薩州家)を降伏させて収束に向かうかと思いきや、今度は島津友久(相州家)が島津国久(薩州家)を誘って叛く。内乱は泥沼化する。

文明9年(1477年)に島津国久(薩州家)・島津季久(豊州家)が降伏。ようやく反乱はおさまった。

分家・有力庶家は連名で島津忠昌に盟書を出す。「支持する」「従う」という内容ではあるが、「連合政権としてやっていく」という意味合いもあった。当主の実権はかなり抑えられ、一門衆の発言力は強くなった。

 

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文明16年(1484年)、今度は日向国櫛間にあった伊作久逸(いざくひさやす)が反乱を起こす。本来は島津氏の敵であるはずの伊東氏と連携し、日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)の新納忠続(にいろただつぐ)を攻撃した。

伊作氏も新納氏も島津氏の庶流。じつは、伊作久逸は本家からの養子で、島津忠国の三男である。また、島津立久の母は新納氏の出身で、島津宗家の信頼も厚い。

伊作久逸の反乱に呼応して、渋谷一族や北原氏(きたはら、肝付氏の一族)なども挙兵する。またも、薩摩・大隅・日向に戦火が広がった。おまけに島津忠廉(ただかど、豊州家)まで離反し、状況はこじれた。そんな中で島津国久が奔走。島津忠廉(豊州家)を説得して帰順させ、薩摩・大隅の反乱を鎮める。

そして文明17年(1485年)、島津忠昌はみずから飫肥へ出征。島津国久(薩州家)や島津忠廉(豊州家)らを主力とする守護方は決戦に勝利。伊作久逸を降伏させて、反乱はおさまる。

 

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伊作久逸は旧領の薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上)に戻される。この伊作の地で久逸の孫が誕生する。のちの島津忠良である。

薩州家で内訌があるなど、その後も領内は安定しない。ちなみに、伊作久逸は薩州家の内紛に関わって戦死している。

ほかにも飫肥・櫛間の新たな領主となった豊州家と、旧領の志布志に戻った新納氏が争ったり……。島津忠昌の側近だった平田兼宗が反乱を起こしたり……。島津忠昌には休まる時はない。

永正3年(1506年)、大隅国肝属郡高山(こおやま、鹿児島県肝属郡肝付町高山)の肝付兼久(きもつきかねひさ)が叛く。島津忠昌は高山城(こおやまじょう)を攻めるが、大敗して鹿児島に逃げ帰った。

快晴の錦江湾、青い海に桜島が浮かぶ

鹿児島湾と桜島、島津忠昌は海の向こう側に遠征

永正5年(1508年)、島津忠昌は自害する。戦いに明け暮れるのに疲れたのか、あるいは領内を治められない責任を感じてのことなのか……。

島津忠昌のあとは嫡男の島津忠治(ただはる)がつぐが、若くして亡くなる。その後は、次男の島津忠隆(ただたか)がつぐがまたも夭折する。領内はどんどん統制がとれなくなっていく。

永正16年(1519年)に島津忠兼(ただかね、のちに島津勝久、忠昌の三男)が当主となるが、もはや島津宗家(奥州家)に力はなくなっていた。

 

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このあと、守護の座をめぐって分家の相州家と薩州家が争うようになる。やがて相州家の島津忠良(ただよし)・島津貴久(たかひさ)が下剋上を成しえるのである。

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『山田聖栄自記』
編/鹿児島県立図書館 1967年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『入来町誌 上巻』
編/入来町誌編纂委員会 発行/入来町 1964年

『吉田町郷土誌』
編/吉田町郷土誌編纂委員会 発行/吉田町長 大角純徳 1991年

『川辺町郷土史』
編/川辺町郷土史編集委員会 発行/川辺町 1976年

『伊集院町誌』
編/伊集院町誌編さん委員会 発行/伊集院町 2002年

『鶴田町郷土誌』
編/鶴田町郷土誌編集委員会 発行/鶴田町 2005年

『出水郷土誌』
編/出水市郷土誌編纂委員会 発行/出水市 2004年

『姶良町郷土誌』
編/姶良町郷土誌編纂委員会 発行/姶良町長 池田盛孝 1968年

『室町期島津氏領国の政治構造』
著/新名一仁 出版/戎光祥出版 2015年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか