城のぼり
JR南鹿児島駅前に「牛掛公園」というのがある。このあたりは「牛掛(うしかけ)」と呼ばれるところ。「牛懸」とも書く。あるいは「牛落」「牛下」とも。こちらの読みは「うしおろし」。 牛掛公園 鹿児島と谷山の間では、たびたび合戦があった。そのことも併…
16世紀半ばに、島津貴久(しまづたかひさ)は大隅国蒲生(かもう)を攻めた。この一帯での戦いは「大隅合戦」と呼ばれる。その中で激戦地となったのが松坂城(まつざかじょう)である。場所は鹿児島県姶良市蒲生町米丸。 松坂城跡は城域の一部を歩くことがで…
鹿児島県姶良市鍋倉は、かつての大隅国始羅郡(しらのこおり)の帖佐(ちょうさ)のうち。この地には平山城(ひらやまじょう)という山城があった。別名に帖佐本城(ちょうさほんじょう)ともいう。 この平山城跡に向かう山道の途中に、高尾城(たかおじょう…
日向国の都城盆地の一帯は昔から「庄内(しょうない)」「荘内」と呼ばれている。これは「島津荘(しまづのしょう)のうち」を意味する。そして、宮崎県都城市に「庄内町」というところがある。 この庄内町に山城跡がある。安永城(やすながじょう)という。…
上井覚兼(うわいかくけん)という人物がいる。16世紀後半に島津義久(しまづよしひさ)の老中を務め、島津氏の勢力拡大の中で活躍した。『上井覚兼日記』という一級史料を残したことでもよく知られている。 上井氏の名乗りは、大隅国囎唹郡(そおのこおり、…
江戸時代の鹿児島藩(薩摩藩)では、外城制という地方統治の仕組みがあった。各地に武士団を配置し、その集落を「外城(とじょう)」あるいは「麓(ふもと)」「郷(ごう)」と呼ばれた。 薩摩国の出水麓(いずみふもと、鹿児島県出水市麓町)は、外城の中で…
出水麓(いずみふもと、鹿児島県出水市麓町)は薩摩国の北部に位置する。ここは肥後国との国境が近いこともあって、精強な武士団が守っていた。 江戸時代の島津家は領内に「外城(とじょう)」を設けて地方統治の拠点とした。また、有事の防衛拠点でもあった…
鹿児島県出水市にある「出水麓武家屋敷群」にいってきた。個人的には、かなり久々の訪問である。たぶん10年ぶりくらいだろうか。まえに来たときとは、ちょっと変わっている。新しく「出水麓歴史館」というのが出来ていた。こちらは2017年にオープンしたとの…
鹿児島県姶良市に北山というところがある。ここはだいぶ山深い感じだ。県道446号を走っていくと、森の中に忽然と参道口が現れる。梅北神社(うめきたじんじゃ)である。 林道の中に鎮座 御祭神は梅北国兼(うめきたくにかね)。天正20年(1592年)に豊臣政権…
山の上に石垣が見える。のぼってみると、すごい眺めだ! 「天空の城」という感じである。 佐敷城(さしきじょう)は肥後国佐敷(熊本県葦北郡芦北町佐敷)にあった。花岡山に築かれていて、花岡城という別名もある。築城時期は不明。天正16年(1588年)頃か…
文久3年(1863年)、薩摩藩(鹿児島藩)はイギリス艦隊と戦った。薩英戦争である。薩摩藩は領内に砲台場を整備していた。そのひとつが祇園之洲(ぎおんのす)の砲台場である。鹿児島市清水町にある。ここは激戦地となった。 現在、祇園之洲砲台跡は祇園之洲…
谷山城(たにやまじょう)は薩摩国谿山郡(たにやまぐん、たにやまのこおり)にあった。場所は鹿児島市下福元町。シラス台地の丘陵に城郭群が築かれている、その東端に谷山本城(たにやまほんじょう)、さらに尾根に向かって弓場城・陣之尾城が連なる。谷山…
富隈城(とみくまじょう)は、島津氏16代当主の島津義久(しまづよしひさ)が拠点とした城である。場所は鹿児島県霧島市隼人町住吉。富之隈城ともいう。 文禄4年(1595年)、島津義久は薩摩国鹿児島にある内城(うちじょう、鹿児島市大竜町)から大隅国の富…
天正6年(1578年)、島津(しまづ)と大友(おおとも)がぶつかった! 場所は日向国の高城川原(たかじょうがわら)。現在の宮崎県児湯郡木城町高城の一帯である。両軍ともに数万の兵を動員する大合戦。「高城川の戦い」「高城川原の戦い」「高城合戦」、あ…
田布施城(たぶせじょう)は薩摩国田布施(鹿児島県南さつま市金峰町)にあった山城だ。別名に亀ヶ城(かめがじょう)ともいう。現在は城跡に亀ヶ城神社が鎮座している。 この城は、島津氏の分家のひとつである相州家(そうしゅうけ)の居城だった。相州家3…
鮮やかな緑色の中に、ピンクの花も色を挿す。水堀にはハスが群生する。夏の鹿児島城(鶴丸城、つるまるじょう)は素敵だ! 鹿児島城は慶長11年(1606)年頃に完成。鹿児島藩(薩摩藩)の政治の拠点であった。現在の住所だと鹿児島市城山町。背後にある「城山…
佐土原城(さどわらじょう)跡は宮崎市佐土原町にある。別名に「田島城(たじまじょう)」「鶴松城(かくしょうじょう)」とも。日向国のほぼ中央に位置し、中世にこの地を支配した伊東(いとう)氏の拠点のひとつであった。 戦国時代末期に島津氏の支配下と…
曲輪群は船が浮いているようにも見える。そのことから「浮舟城(うきふねじょう)」とも呼ばれる。日向国の都於郡城(とのこおりじょう、宮崎県西都市)は伊東氏の本拠地であった。国の史跡にも指定されている。 日向伊東氏の本拠地 守りは堅いぞ 高屋山上陵…
戦国時代の南九州では、島津氏と伊東氏が覇権を争っていた。その中で、元亀3年(1572年)の木崎原(きざきばる)の戦いがよく知られている。島津義弘(しまづよしひろ、島津忠平、ただひら)が寡兵で伊東方の大軍を打ち負かした、というものである。 一方で…
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける脱出劇というと、島津義弘(しまづよしひろ)がよく知られている。美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)から国許の南九州まで、長い道のりを生還した。 関ヶ原から南九州まで落ちのびた大名がもうひとりいる…
大隅国末吉の平松城(ひらまつじょう)は国境の山城だ。城跡の現住所は鹿児島県曽於市末吉町南之郷。ちなみに小字は「陣ノ山」で、ここに陣取って戦ったことをうかがわせるものである。 このあたりは国合原(くにあいばる)と呼ばれ、大隅国と日向国が接する…
平松神社(ひらまつじんじゃ)は鹿児島市吉野町の竜ヶ水(りゅうがみず)に鎮座する。御祭神は碧空巌岳彦命(あおぞらいずたけひこのみこと)。島津歳久(しまづとしひさ)のことである。前身を心岳寺(しんがくじ)といい、島津歳久の菩提寺であった。 島津…
加久藤城(かくとうじょう)は宮崎県えびの市小田にあった山城である。「覚頭城」と書かれる場合もある。永禄7年~天正18年(1564年~1590年)に島津義弘(しまづよしひろ)がこの地を領有。元亀3年(1572年)の「木崎原の戦い」の緒戦は、この城であった。 …
戦国時代の島津氏でもっとも知名度が高い人物は島津義弘(しまづよしひろ)だろう。それで、「薩摩の島津義弘」と説明されることも多く、一般的にもそんなイメージだと思われる。だが、島津義弘は薩摩国で城主になったことがない。居城は日向国や大隅国にあ…
宮崎県えびの市は、島津義弘(しまづよしひろ)ゆかりの地である。ここはかつての日向国真幸院(まさきいん)にあたる。永禄7年(1564年)から天正18年(1590年)にかけて、島津義弘は飯野城(いいのじょう、えびの市原田)を居城として真幸院を治めていたの…
桜の季節の城跡の写真を撮っておこうかと思い、鹿児島県姶良市にある帖佐館(ちょうさやかた)・平山城(ひらやまじょう)・岩剣城(いわつるぎじょう)・蒲生城(かもうじょう)にいってみた。見頃はちょっとすぎている感じで、花びらが落ちて地面をピンク…
宮崎県都城市高城町大井手にある三俣院高城(みまたいんたかじょう)跡にいってみた(2021年10月訪問)。別名に月山日和城(がっさんひわじょう)とも。14世紀前半に肝付兼重(きもつきかねしげ)が築いたのが始まりとされる。この地は都城盆地の要衝であり…
戦国島津氏は島津忠良(しまづただよし、島津日新斎、じっしんさい)にはじまる。もともとは分家のひとつの相州家の当主であったが、嫡男の島津貴久を本宗家の後継者に擁立する。そして、一族間の抗争を勝ち抜いて覇権を握った。 島津忠良(島津日新斎)は薩…
宮崎県南西部から鹿児島県北東部にかけて広大な盆地が広がっている。都城盆地は南北約30km・東西約25㎞もの規模があり、2市2町(宮崎県都城市・三股町・高原町、鹿児島県曽於市)にまたがる。 この都城盆地を統治したのが、島津一族の北郷(ほんごう)氏であ…
鹿児島県南九州市知覧の中心地は、多くの観光客が訪れる場所である。知覧麓(ちらんふもと)の武家屋敷群は江戸時代の雰囲気をよく残す。この一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、武家町にある庭園群は国の名勝にも指定されている。その武家屋…