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都於郡城跡にのぼってみた、堅固な伊東氏の本拠地は戦わずして落城した

曲輪群は船が浮いているようにも見える。そのことから「浮舟城(うきふねじょう)」とも呼ばれる。日向国の都於郡城(とのこおりじょう、宮崎県西都市)は伊東氏の本拠地であった。国の史跡にも指定されている。

 

 

 

 

 

日向伊東氏の本拠地

都於郡城は、建武4年・延元2年(1337年)に伊東祐持(いとうすけもち)が築城したとされる。伊東氏は南北朝争乱期から日向に根をおろし、ここがその本拠地となった。

 

伊東氏は、工藤(くどう)氏の一派である。工藤氏は藤原南家の藤原為憲(ためのり)にはじまり、木工助(もっこうのすけ)に任じられたたことから「工藤」と称するようになったという。工藤氏は伊豆国・駿河国・遠江国(現在の静岡県)に根付き、関東の有力武家へと発展した。ちなみに「伊東」というのは、伊豆国の伊東(現在の静岡県伊東市のあたり)に由来する。

日向伊東氏のはじまりは「曾我兄弟の仇討ち」という事件とも深く関わる。工藤祐経(くどうすけつね)は鎌倉幕府に仕え、多くの所領を得ていた。その中には日向国の土地も含まれている。仇討ちにより工藤祐経は命を落とし、その遺領は嫡男の犬房丸に安堵された。犬房丸は元服して、伊東祐時(いとうすけとき)と名乗った。

 

伊東祐持(祐時から数えて6代目)は足利尊氏に仕え、都於郡の地を与えられる。そして、日向に下向し、九州で戦った。そして、南北朝争乱期を生き抜いた伊東氏は日向国で大きな力をつけていた。15世紀以降は日向南部で島津氏と激しい勢力争いを展開することになる。

16世紀後半の伊東義祐(いとうよしすけ)が当主の頃に、日向伊東氏は最盛期を迎える。その支配領域は「伊東四十八城」とも称された。島津氏との抗争は一進一退であったが、薩摩国・大隅国(現在の鹿児島県)を制圧した島津義久(しまづよしひさ)が次第に優勢となる。その侵攻を受け、天正5年12月(1578年1月)に伊東義祐は国外に逃亡した。

その後、都於郡城は島津氏のものとなった。16世紀末期には使われなくなったようで、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となる。

 

日向伊東氏の詳細は、こちらの記事にて。

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伊東氏と島津氏の抗争については、こちらの記事でにて。

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守りは堅いぞ

都於郡城はシラス台地に築かれている。主要部には本丸・二之丸・三之丸・奥之城・西之城があり、これらをひっくるめて「五城郭」とも呼ばれている。東西約350m・南北約200mの規模である。

さらに南之城・東之城・向之城などの支城も配置。一帯の城郭群をあわせると東西約1.5㎞・南北約1㎞。巨大な要塞である。台地の麓には三財川が流れ、こちらも防御力を高めている。

五城郭周辺は整備が行き届いている。木が伐採され、草もきれいに刈り取られている。曲輪や空堀の形状がとてもよく見える。下から見上げても、上から見下ろしても、山城の雰囲気を存分に感じられるのだ。

 

県道18号沿いに「都於郡城跡」へと入っていく道を示す大きな看板がある。これにしたがって進むと大きな駐車場に到着する。ここに車を停め、徒歩で城郭群を目指す。駐車場脇の地図で位置を確認し、歩ていくこと5分くらい。本丸跡の入口についた。

山城跡の石段

石段をのぼって本丸跡へ

 

なお、本丸の石段のあるあたりから、さらに道を奥にいくと奥之城がある。散策ルートは本丸から二ノ丸、三ノ丸、西之城とめぐっていくことになるので、さきに奥之城のほうから行くのが効率がいいだろう。

 

石段入口横の石柱には「都於郡城本丸跡」、そして「伝説 高屋山上陵」の文字が刻まれている。高屋山上陵(たかややまのえのみささぎ)はヒコホホデミノミコト(彦火火出見尊、日子穂穂手見命)の御陵とされる。ここはその伝説地でもあるのだ。

「都於郡城本丸跡」と「伝説高屋山上陵」と刻まれている

石柱には城跡と御陵跡を併記

 

本丸跡へ。石段をのぼって虎口から曲輪に入る。

折れ曲がった石段

石段をのぼると虎口

 

まずは銅像が目に入る。伊東マンショ(伊東祐益、すけます)である。都於郡城はその生誕地なのだ。伊東マンショは伊東義祐の外孫にあたる。島津氏の侵攻を受けて伊東一族が豊後国に落ちた際に、伊東マンショもこれに同行。その後は大友宗麟(おおともそうりん、大友義鎮、よししげ)の庇護のもとで成長し、洗礼を受ける。天正遣欧使節団には大友氏の名代として参加している。

広い曲輪の跡

銅像が立つ、土塁も見える

宣教師になった伊東一族の少年

伊東マンショの銅像


本丸跡はかなり広い。曲輪の縁には土塁も確認できる。曲輪を区切る空堀も見下ろせる。

芝生が貼られて、整備されている

本丸跡の西側にも広い空間がある


本丸跡には、御陵跡の雰囲気をなんとなく思わせる場所もある。

木立と芝生のある曲輪跡

本丸跡の中央部

城跡の謎の石塔群

石が立ち並ぶ、調べでも何かはわからず

 

本丸の南西側にも虎口があり、こちらから空堀へ下りて二之丸へ連絡できる。

城跡の遊歩道

虎口を下りて二之丸方面へ

空堀と本丸の曲輪

本丸と二之丸の間の空堀

 

二之丸もなかなか広い空間である。2mくらいある高い土塁が、本丸のある側に続いていた。

曲輪の上、土塁が見える

曲輪の縁に沿って土塁が続く

 

二之丸からは三之丸や西之丸もよく見える。曲輪を仕切る大空堀も大迫力だ。

曲輪の形状がよくわかる

二之丸から見た三ノ丸、左奥の方に西之城

掘り込んだ地形

二之丸と三ノ丸の間の大空堀

山城跡をのぞむ

三ノ丸を見上げる


訪問日は、時間切れでまわりきれなかった。見どころが多く、時間に余裕を持って散策したほうがいいと思われる。

 

都於郡城はかなり守りが堅そうな印象である。だが、佐土原城(さどわらじょう、宮崎市佐土原町)にあった伊東義祐は逃亡を選択する。都於郡城も戦わずして落城したのである。

 

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高屋山上陵と伝わる

都於郡城のある丘陵は「高屋山」と呼ばれている。高屋山上陵を取り壊して築城されたと伝わる。その際に出土した石棺の残材は近くの一条院の境内移したという伝説もあるという。宮崎県中部の一帯は、西都原古墳群をはじめ古墳がかなり多い場所である。縄張り図を見ると、本丸と奥之丸をあわせた地形は前方後円墳のように見えなくもない。

古墳を山城や砦として利用することは、けっこう多かったようである。古墳は土が盛られ、周囲に堀もあったりする。戦いにも使い勝手がいいのだ。ちなみに、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵、大阪府堺市堺区)も戦国時代には山城として利用されていた。

ちなみに高屋山上陵は、明治7年(1874年)に鹿児島県霧島市溝辺町の神割岡に治定されている。

 

 

 

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<参考資料>
『西都市埋蔵文化財調査報告書 第5集 都於郡城址本丸跡』
編/西都原古墳研究所 発行/宮崎県西都市教育委員会 1988年

『西都市埋蔵文化財調査報告書 第63集 都於郡城跡発掘調査概要報告書11』
編・発行/宮崎県西都市教育委員会 2012年

『九州戦国城郭史: 大名・国衆たちの築城記』
著/岡寺良 発行/吉川弘文館 2022年

『日向纂記』
著/平部嶠南 1885年

『日向国史 上巻』
著/喜田貞吉 出版/史誌出版社 1929年

『日向国史 下巻』
著/喜田貞吉 出版/史誌出版社 1930年

ほか