ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

小林城(三山城)跡にのぼってみた、島津の大軍を跳ね返した伊東氏の前線基地

戦国時代の南九州では、島津氏と伊東氏が覇権を争っていた。その中で、元亀3年(1572年)の木崎原(きざきばる)の戦いがよく知られている。島津義弘(しまづよしひろ、島津忠平、ただひら)が寡兵で伊東方の大軍を打ち負かした、というものである。

一方で、伊東氏が島津氏を大敗させた戦いも。その舞台となったのが小林城(こばやしじょう)だ。日向国真幸院三山(まさきいんみつやま、現在の宮崎県小林市真方)にあった山城である。

別名に「宇賀城(うがじょう)」とも。また、「三山城」「三ツ山城」「三ノ山城」「三之山城」とも記されていることが多く、「みつやまじょう」「みつのやまのじょう」「みのやまじょう」など読み方もいろいろあったりする。

じつは三山城(三ツ山城、三ノ山城)はもうひとつある、小林城から南へ3㎞ほどのところ(小林市細野)に。これとは別に伊東氏が城を新築し、こっちも「三山城」「三ツ山城」と呼ぶようになったという。

現在は城山公園として整備され、小林城跡の一部は散策可能だ。ちょっとのぼってみた。

なお、記事中の日付は旧暦で記す。

 


三山城の戦い

16世紀半ば頃、薩摩国(現在の鹿児島県西部)から島津貴久(しまづたかひさ)が勢力を広げる。また、日向国(現在の宮崎県)では伊東義祐(いとうよすけ)が伊東氏の全盛期を築き上げる。真幸院は両者がぶつかるところだった。

島津氏は飯野城(いいのじょう、宮崎県えびの市)に島津忠平(島津義弘)を入れて伊東氏への備えとした。一方、伊東氏は米良重方(めらしげかた)に三山城(小林城)を築かせ、ここを島津攻めの前線基地とした。築城時期は永禄9年(1566年)9月とされる。

同年10月、島津貴久は息子たちに三山城(小林城)攻めを命じた。嫡男の島津義久を大将とし、次男・島津忠平(島津義弘)と三男・島津歳久(としひさ)を副将として大軍を派遣する。末弟の島津家久(いえひさ)が従軍したとも(『日向纂記』より)。兵数は諸説あるが、『明赫記』によると「二万余騎」とされる。

 

島津勢本隊は飯野城で島津忠平(島津義弘)と合流して進軍した。三山城(小林城)までの距離は14㎞ほどである。島津義久は花立口に布陣。島津忠平(島津義弘)隊は水ノ手口から、島津歳久隊は大手口から城攻めを開始した。

三山城(小林城)は城主の米良重方が守る。その弟の米良重矩(しげのり)も須木城(すきじょう、小林市須木下田)から援軍として入っていた。

島津忠平(島津義弘)隊は二ノ丸を落とし、さらに本丸へと猛攻をかける。しかし、米良重方らはよく守る。島津勢もひるまずに攻め立てるが、被害は大きくなるばかりだった。城方はよじ登る兵を上から槍で突き落とし、深い堀が死体で埋まるほどだったという(『日向纂記』より)。

この戦いで島津忠平(島津義弘)は重傷を負った。島津勢は撤退する。

 

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小林城を散策

城跡はJR小林駅からやや北側に位置する。石氷川(いしごおりがわ)が丘陵に沿って湾曲し、その地形を利用して築城されている。国道265号の「大手橋」信号近くに「小林城跡」の標柱があり、そこから入っていく。橋の名前も城跡に由来するもので、こちらが大手口ということになるのだろう。

白い標柱に「小林城跡」

国道から標柱のある道へ入る

 

標柱から少し入ると、真方一区公民館がある。車はここに停めた。小林市役所に問い合わせたところ、ここを利用するよう指示された。徒歩で城跡を目指す。虎口のような地形の先に広場があった。「山ノ神」を祀る祠と小さな鳥居もある。ここは腰曲輪だったと思われる。ちなみに市役所の方からは、広場は地域の方が利用するということで、ここには駐車しないよう言われた。

坂道を登っていく

大手口を登っていく、虎口っぽい形状

山城跡と腰曲輪

広場に出る

 

広場から山塊を見上げる。この上に本丸がある。シラス丘陵の崖もなかなかの迫力だ。

白い地肌の崖

シラスの断崖

 

山ノ神の脇に細い通路があり、そこから城跡への遊歩道が続く。しばらく進むと分かれ道。右手上に行くと本丸方面へ。左手のほうは山城の外側をぐるりと回るルートである。まずは本丸へ向かう。

祠の裏手の細い道

広場入口近くに遊歩道の入口

山の中の遊歩道

右上を登ると本丸跡

鬱葱とした森の中を登る

本丸の虎口のあたり


本丸はけっこうな広さがある。縁のほうまで行き、下をのぞき込むと高い崖。怖い。

木々が茂る城跡

本丸跡

森の中

結構な人数を配置できそうな広さ

城跡の曲輪跡

本丸跡の端、崖下はさきほどの広場

 

本丸をぐるりとまわると、腰曲輪に下りていける。こちらを進めば先ほどの分かれ道につながるはず。

森の中を歩いていく

遊歩道が続く

 

腰曲輪を歩いていると、深く掘り込まれた空堀も確認できる。たぶん、堀の向こう側が二ノ丸だろう。この堀が島津軍を阻み、城は落ちなかった。

遊歩道の「空堀」の看板

この向こう側に深い空堀

空堀をのぞき込む

深さは10mくらいありそう

 

そのまま進んで入口方面に戻る。散策時間は20分ほどだった。城の規模は大きくない。小さな城ながら、敵をさんざんに手こずらせたのである。

 

 

馬頭観世音を祀る

真方一区公民館の敷地には、注連縄がかけられた「馬頭観世音菩薩」と「南無大日如来」の石碑がある。

注連縄のかかった古い石碑

手前が「馬頭観世音」、奥に「大日如来」

 

永禄9年の戦いで馬200頭が焼死した。そこに伊東氏の兵の怨霊の祟りも重なって、牛馬の疫病が流行したと伝わる。祟りを沈めるために馬頭観世音を祭祀するようになったのだという。幕末の頃にも疫病流行で多くの牛馬が死んだ。そこで嘉永5年(1852年)に「馬頭観世音菩薩」「南無大日如来」の石碑を建立し、牛馬の安泰を祈願した。ここでの祭祀は明治時代初期にすたれるが、昭和9年(1934年)に地域住民の手により再興されたとのこと。以上、情報は現地の看板より。

ちなみに、「伊東の祟りで牛馬に疫病が流行る」という話は、木崎原の戦いに関するものも知られている。こちらは木崎原古戦場跡(えびの市池島)にある元巣塚(げんそうづか)は祟りを沈める目的で作られた。また、相馬神社(そうまじんじゃ、えびの市原田)も同様の理由で馬頭観音を祭っている。

 


真幸院三山の歴史

古代はこのあたりを「夷守(ひなもり)」と呼んでいたようだ。延長5年(927年)に完成した『延喜式』に「夷守」の駅が確認できる。

『日本書紀』に記されている景行天皇の熊襲征伐において、日向に「鷹屋宮(たかやのみや)」という行宮を設けて滞在したとされる。その行宮は、古いほうの三ツ山城のあたりにあったとも伝わる。ここには「景行天皇御腰掛石」と伝わる史跡もあったりする。

平安時代には現在の小林市・えびの市の一帯は「真幸院」と呼ばれるようになる。古くは日下部(くさかべ)氏が、院司(郡司)であった。14世紀に日下部氏が没落し、北原(きたはら)氏がこの地を支配するようになる。北原氏は大隅国を拠点に繁栄した肝付(きもつき)氏の庶流である。北原氏は勢力を広げ、16世紀初頭には戦国大名へと発展する。

 

真幸院や北原氏に詳細はこちらの記事にて。

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しかし、永禄元年(1558年)に当主の北原兼守(かねもり)が病没したことから、北原氏は後継者不在となる。この家督相続の問題に伊東義祐が介入し、実質的に北原氏を乗っ取ってしまった。これに対して島津貴久は、北原氏の新たな当主を擁立して対抗。北原氏を支援して、伊東氏から所領を奪い返す。ただし、真幸院のうち三山と高原(たかはる、宮崎県西諸県郡高原町)は伊東氏の支配が続いた。

 

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その後、北原氏は別の領地を与えられて真幸院を出る。代わりに真幸院飯野・加久藤・吉田・馬関田(いいの・かくとう・よしだ・まんがた)は島津氏の直轄地となり、永禄7年(1564年)から島津忠平(島津義弘)が守りを任された。

伊東方となった三山城(古くからあるほう)は平良兼賢(たいらかねから)に任された。もともとこの人物は北原氏の家臣だったという。名に肝付一族の通字である「兼」が入っていて、北原氏の縁者であるかもしれない。

前述のとおり、伊東氏は米良重方に新しい城(小林城)を築かせる。規模がそれほど大きくないことから、もともとは三山城(古いほう)の支城という感じであったのかも。

永禄9年2月、島津貴久は家督を譲る。島津義久が当主となり、3人の弟たちがこれを支える体制となった。そして、同年10月に三山を攻撃するのである。島津側には、三山の備えが整う前に叩いてしまおうという狙いがあったと思われる。

また、この戦いは島津貴久が出陣せず、息子たちに任された。世代交代を意識したものであったようにも思われる。しかし、結果は大敗北であった。この一戦をもって、真幸院では伊東氏がやや押し気味となった。三山から飯野方面へ、たびたび侵攻するようになる。

元亀2年(1571年)6月、島津貴久が没する。伊東義祐はこれを好機とばかりに動く。伊東氏は大隅半島を支配する肝付氏と連携。元亀3年(1572年)、肝付氏は水軍を送り込んで島津氏の本拠地である鹿児島に攻めかかった。島津側は島津義久・島津歳久・島津家久らが応戦し、鹿児島湾岸のあちこちで戦闘となる。

一方、真幸院のほうは島津忠平(島津義弘)が守っていた。しかし、こちらの兵はわずかであった。鹿児島方面での戦いもあって、兵力をまわす余裕はなかった。手薄になったところへ伊東氏は大軍を送るのである。

元亀3年5月、伊東方は三山城(小林城)から加久藤城(えびの市加久藤)へ出征する。加久藤城は島津忠平(島津義弘)の妻が守っていて、家老の川上忠智が指揮を執る。城兵は50ほど。また、島津忠平(島津義弘)の詰める飯野城の兵力も300ほどであった。一方、伊東軍は3000である。数のうえでは伊東方が圧倒的だ。しかし、結果は伊東軍の大敗だった。これが「木崎原の戦い」である。

木崎原では伊東方の有力武将の多くが戦死した。三山城(小林城)主の米良重方も討ち死にしている。

天正2年(1574年)、島津義久は肝付氏を降伏させる。薩摩国・大隅国を平定し、真幸院など日向国の一部も支配下に置いた。そして、天正4年(1576年)頃から伊東氏の攻撃に動き、日向平定も目指すことになる。

天正4年(1576年)、須木城・三山城を守る米良重矩は島津方に寝返る。三山は島津氏の直轄地となり、地頭が置かれた。

天正5年12月(1578年1月)、伊東義祐は豊後国(現在の大分県)の大友氏を頼って逃亡する。日向国も島津氏が制した。

 

木崎原の戦いについて関連記事。

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<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

『日向纂記』
著/平部嶠南 1885年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

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