ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

上井城跡にのぼってみた、上井覚兼ゆかりの山城は古代からの激戦地

上井覚兼(うわいかくけん)という人物がいる。16世紀後半に島津義久(しまづよしひさ)の老中を務め、島津氏の勢力拡大の中で活躍した。『上井覚兼日記』という一級史料を残したことでもよく知られている。

上井氏の名乗りは、大隅国囎唹郡(そおのこおり、そおぐん)の上井(うわい)にちなむ。現在の鹿児島県霧島市国分上井のあたりだ。この地にある「国分南公園」は山城跡で、ここが上井城(うわいじょうあと)である。別名に久満崎城(くまさきじょう)とも。

 

なお、日付は旧暦にて記す。

 

 

 

 

 

運動公園の登山口から

国分上井のあたりは平野が広がっている。そこへ山塊から尾根が伸びてきている。その尾根先が上井城跡だ。このあたりの道路を走っていて、とりあえず山のほうを目指す。国分南公園(上井城跡)への入口は、鹿児島県道からちょっと入ったところにある。

車でちょっと高台にのぼって国分南公園へ。駐車場からも上井城跡の山塊が見える。

公園の山城跡

駐車場より見上げる

 

国分南公園は見晴らしの良いところでもある。駐車場からも国分平野と桜島がのぞむ。

桜島と街並みを見る

城下を見渡す


駐車場から歩いていく。公園内には運動場や広場が整備されている。このあたりも城域だと思われる。

ソフトボール場と山城跡

城域の一部は運動公園に

 

山のほうへ向かう。山城跡らしい雰囲気になってきた。こちらの広場は帯曲輪のような感じでもある。

木陰の広場

裏山のほうへ

 

奥へ行くと登城口。杖も用意してある。

山へ続く階段

登城口

 

のぼる。登山道はよく整備されている。とはいえ、山の登りなのでそれなりにキツい。道が鋭角に折れ曲がる。ここには分かれ道もあった。

山中をのぼる

気軽に歩ける雰囲気だ

 

メインの遊歩道とは別の道にちょっと入ってみる。こちらにも曲輪っぽい雰囲気が残っている。ちょっと行くと土橋があった。両脇を石で固めている。

山中の道

土橋っぽい

 

分岐点へもどり、頂上を目指す。虎口のような地形もある。

山中の階段

虎口っぽい地形

山中の階段

虎口っぽいところを上から

 

さらに奥へ。こちらは堀切かな?

掘り込んだ地形

尾根を切ってある?

 

本丸と思われる場所に出た。けっこうな広さがある。奥には、段差がもう一段。

山城の曲輪跡

本丸かな? 広めの曲輪跡


ここが頂上。のぼると三角点があった。

山城跡の頂上

さらに段差をのぼる

 

また、頂上付近には小さな鳥居と石祠もあった。石祠には「三福神」と刻字。中には石像のようなものも見える。詳細はよくわからない。

鳥居と石祠

城の守り神だろうか?

 

駐車場から頂上までの所要時間は15分ほどだった。

 

 

上井氏(諏訪氏)

中世には諏訪(すわ)氏が上井を領するようになる。そして、領地にちなんで「上井」と名乗った。諏訪氏(上井氏)の時代に、上井城も中世山城として整備されたのだろう。

諏訪氏は信濃国の諏訪社(諏訪大社、長野県諏訪市)の社家の一族である。『本藩人物誌』によると、上井氏(諏訪氏)は諏訪御洗祝を祖とするという。大神(おおみわ)姓を称する。家紋は「三つ立ち梶の葉」である。諏訪神社の御神紋と同じだ。

『西藩烈士干城録』によると、上井覚兼までの系譜はつぎのとおり。

諏訪御洗祝→(三世孫)→新大夫為信→四郎為貞→諏訪五郎敦實→蹈入五郎弘氏→(八世孫)→次郎左衞門尉兼喜→筑前守為秋→武藏守薫兼→伊勢守覚兼

 

『本藩地理拾遺集』の「上井城」の条にはこうある。

上古稲入五郎弘氏領之、其子孫諏訪氏守之、三輪姓之人也 (『本藩地理拾遺集 下 大隅国・諸県国』より)

 

『本藩地理拾遺集』は明治時代初め頃の資料とのこと。この情報の出典元は明記されていない。

この情報によるならば「稲入五郎弘氏」の頃には、諏訪氏は上井に入っていたということになる。この人物は『西藩烈士干城録』に見える「蹈入五郎弘氏」と同一だろう。

系譜の代数から逆算すると、「弘氏」は上井覚兼から11代前となる。仮に4代で100年として計算すると、「弘氏」は13世紀~14世紀頃の人となる。


いつ頃、どのような経緯で、信濃国の諏訪氏が大隅国にやってきたのかはわからない。情報は見つからず。

島津氏が信濃国にも所領を持っていたこと、島津氏によって諏訪信仰が持ち込まれたこと。そのあたりとの関連性も想像させられるが、裏付けは取れない。

ちなみに、島津氏領内(現在の鹿児島県と宮崎県南部)には諏訪神社(南方神社)がやたらと多い。上井城下にも諏訪神社が鎮座している。

 

島津氏と諏訪神社の関係については、こちらの記事にて。

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上井氏の戦いの記録

中世の戦いで上井氏の名がいくつか出てくる。『旧記雑録』などを参考に、ちょと拾ってみる。

 

貞治2年・正平18年(1363年)頃、島津氏久(うじひさ)は姫木城(ひめきじょう、霧島市国分姫城)の税所(さいしょ)氏を攻めた。島津氏久は笑隈城(えみくまじょう)に陣取り、3年ほど姫木城を囲んだ。上井氏は島津方として参戦したという。

 

応永4年(1397年)、島津元久(もとひさ)が薩摩国入来院(いりきいん、鹿児島県薩摩川内市入来)の清色城(きよしきじょう)の渋谷重頼(しぶやしげより、入来院重頼)を攻めた。島津方に上井氏の名が見える。

 

応永24年(1417年)、島津久豊(ひさとよ)が薩摩国河邊(かわなべ、鹿児島県南九州市川辺)を攻める。この頃、奥州家の島津久豊に対して、島津氏総州家(そうしゅうけ)や伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)が反抗。内乱状態にあった。河邊は総州家の拠点で、幼主の島津犬太郎がいた。伊集院頼久も援軍を出して激戦となる。この戦いで、奥州家方で「上井筑前守」が従軍している。

決戦は総州家・伊集院方が制する。奥州家方は大敗。「上井筑前守」は戦死した。

 

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永享7年(1435年)、島津好久(よしひさ、島津持久、島津用久、もちひさ)が山田忠尚(やまだただなお、山田聖栄)を小川院の領主とした、という記録がある。上井は小川院のうちにある。

この頃、島津忠国(ただくに)と島津好久(島津用久)の兄弟が争っていた。それぞれを盟主として一門衆・国衆が一揆を形成していた。その中で上井氏は島津忠国についていたようだ。

永享8年(1436年)に島津忠国方として上井氏は戦ったという。「上井四郎光秋」が薩摩国鹿児島(現在の鹿児島市)で戦死、「上井美作守満中」が大隅国溝邊(みぞべ、霧島市溝辺)で戦死したという。


康正2年(1456年)、日向国の伊東氏祐(いとううじすけ)・北原貴兼(きたはらたかかね)が大隅国の上井・敷根(しきね、霧島市国分敷根)・廻(めぐり、霧島市福山)に侵攻。島津忠国は兵を率いて撃退した。

 

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文明17年(1485年)3月、島津忠廉(しまづただかど)が上井城を攻め落とす。

この頃の南九州は、守護(奥州家)の島津忠昌に対して日向国で伊作久逸(いざくひさやさす)・新納是久(にいろこれひさ)らが叛乱を起こしたことをきっかけに内乱状態にあった。島津忠廉は大隅国帖佐(ちょうさ、鹿児島県姶良市)などの領主で、島津一門の有力者であった。豊州家(ほうしゅうけ)とも呼ばれる。島津忠廉(豊州家)は守護家を一時離反して、独自に動いていた。上井城攻めはその頃の出来事である。のちに島津忠廉(豊州家)は帰順する。

文明17年(1485年)6月21日の日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)での戦死者に「上井筑前守」の名がある。「都城の臣」とあるので北郷敏久(ほんごうとしひさ)に従っていたのだろうか?

 

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永正9年(1512年)、「上井筑前守為秋」が島津忠治(ただはる)より薩摩国の阿多城(あたじょう、鹿児島県南さつま市金峰)攻めを命じられた。


大永7年(1527年)6月、「上井筑前守方秋」が大隅国加治木(かじき、姶良市加治木)にて戦死したとある。この頃、加治木の伊地知重貞が叛乱を起こし、島津忠良(しまづただよし)が鎮圧のために出兵している。上井氏がどっちについていたのかはわからず。


島津貴久(相州家)は天文8年(1539年)頃に島津実久との抗争を制する。守護家(奥州家)の島津勝久(かつひさ)は鹿児島に戻れず、分家出身の島津貴久が覇権を握ることになる。そんな中で、13人の有力者が反抗する。島津勝久の家老である本田薫親(ほんだただちか)・肝付兼演(きもつきかねひろ)らが主導し、島津勝久の復権を狙ってのものだろう。

13人衆には「上井筑前守為秋」も加わっている。

天文10年(1541年)12月、本田薫親らが大隅国の生別府城(おいのびゅうじょう)を囲んだ。上井為秋も参戦した。生別府城は島津貴久に協力する樺山善久の居城である。島津貴久は救援を出すも失敗。生別府城の割譲を条件に本田氏と和睦した。

 

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天文17年(1548年)、本田氏に内訌がある。本田薫親に対して、一族の本田親知(ちかとも)が挙兵。上井為秋もこれに呼応し、本田氏領内に兵を出す。これに島津貴久も介入する。本田親知を調略し、上井為秋も島津貴久に帰順した。上井を安堵され、下井(したい、霧島市国分下井)の地も与えられる。

 

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天文22年(1553年)、上井為秋は所領替えを命じられた。上井の地を離れ、薩摩国永吉(ながよし、鹿児島県日置市吹上町永吉)に移ることになった。

上井はその後、島津忠将(ただまさ、貴久の弟)に与えられた。

 

 

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上井覚兼

上井覚兼は天文14年(1545年)に上井城で生まれた。前述の上井為秋の孫にあたる。父は上井薫兼。母は肝付兼固(肝付兼演の父)の娘。母方の肝付氏は加治木の領主である。初名は「為兼」といった。のちに「伊勢守」を称する。

永禄4年(1561年)の廻城の戦いで、上井覚兼は初陣を飾る。天正元年(1573年)に島津義久(よしひさ、貴久の子)の「申次役」に任じられ、天正4年(1576年)には国老となった。島津義久の側近として活躍した。

上井覚兼は転戦する。とくに天正6年(1578年)の大友氏との戦いから名前がよく出てくるようになる。同年9月の日向国新納院石城(にいろいんいしのじょう、宮崎県児湯郡木城町)攻めでは副将を務めた。11月の「高城川の戦い(耳川の戦い)」でも活躍。島津忠平(ただひさ、島津義弘、よしひろ)の指揮下で、前哨戦の松山陣奇襲にも参加している。

 

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天正7年(1579年)以降の、水俣城攻め、阿蘇合戦などを転戦。豊後攻めでも上井覚兼は重責を担った。

天正8年(1580年)には日向国宮崎の地頭に任じられ、宮崎城(宮崎市池内町)を居城とした。島津義久の命令は上井覚兼を通して日向国に伝えられたとぴう。上井覚兼は日向国の領国経営の中心的な立場にあった。

天正14年(1586年)、島津氏は九州北部の大友義統(おおともよしむね)の領内への侵攻を本格化させる。同年7月の筑前国岩屋城(いわやじょう、福岡県太宰府市浦城)攻めに上井覚兼は従軍。この戦いで、上井覚兼は銃弾を顔に受けて負傷する。宮崎にいったん戻ったあと、同年10月より島津家久(いえひさ、義久の末弟)とともに豊後国(大分県)に出征する。

しかし、大友氏の救援要請により豊臣秀吉が九州へ出兵。大軍が押し寄せる。圧倒的な兵力差もあって、島津軍は押し返された。天正15年(1587年)、上井覚兼は島津家久とともに降伏した。

島津氏の降伏により、宮崎は召し上げられた。上井覚兼は薩摩国伊集院(鹿児島県日置市伊集院)の地頭に任じられた。

天正17年(1589年)6月に上井覚兼は没した。家督は嫡男の経兼が継いだ。なお、経兼の代に名乗りを諏訪氏に復している。

 

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『上井覚兼日記』

上井覚兼の日記が現存している。自筆本が東京大学史料編纂所に収蔵。国の重要文化財にも指定されている。

記されている期間は天正2年(1574年)8月~天正4年(1576年)9月、天正10年(1582年)11月~天正14年(1586年)10月である。

 

『上井覚兼日記』は当時の状況がよくわかる一級史料だ。島津家と敵対勢力の関係性、島津家中での人間関係、島津氏の政治体制の状況、といったことを知ることができる。また、戦国時代の武士の暮らしぶりだったり、どのような思考を持っていたのかだったり、というところも見えてくるのだ。

 

鹿児島県史料の『旧記雑録』にも収録されていて、鹿児島県のホームページでも閲覧が可能だ。

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また、新名一仁(にいなかずひ)氏による現代語訳も刊行されている。読みやすく、ここには上井覚兼の生の声が詰まっている感じだ。丁寧な解説と注釈があるのもうれしい。


『現代語訳 上井覚兼日記 天正十年(一五八二)十一月~天正十一年(一五八三)十一月』。日記の内容は、島津氏が肥後国へ進出していく時期にあたる。

 

 

『現代語訳 上井覚兼日記2 天正十二年(一五八四)正月~天正十二年(一五八四)十二月』。肥後国での戦いが続く。龍造寺氏との対立も激化。「島原合戦(沖田畷の戦い)」の際の島津氏側の状況も書かれている。

 

 

『現代語訳 上井覚兼日記3 天正十三年(一五八五)正月~天正十三年(一五八五)十二月』。阿蘇合戦を制して肥後国を制圧。そして、大友氏との全面対決へと動いていく過程も読み取れる。

 

 

隼人の古城か?

上井城の築城年代は不明。隼人の古城であったとも伝わる。

『薩藩名勝志』の「拍子川(ひょうしがわ)」の条にこんなことが書かれている。

村民伝へいふ、古へ景行天皇の御宇、大人の隼人(おおひとのはやひと)といへるもの、其容貌鬼神の如く大逆無道にして、一族數千人を集め、今の新城と上井城に拠て、更に王命に隨はず。天皇行幸ましまして御子日本武尊を副将とし、屡(しばしば)攻め給へども、官軍戦ふ毎に利を失ひしかば、天皇これを患ひ、諸神に祈り、此川原にて神楽を奏し給ふ。其拍子の面白きに乗じ、隼人居城を出て来りしを日本武尊終に足を討給ふ。此故事によて拍子川と名付、橋の名を拍子橋といふといへり。 (『薩藩名勝誌』より、読みやすくするために、原文に濁点や句読点を追加しています)

 

ちなみに、『薩藩名勝志』とは文化3年(1806年)に薩摩藩の命を受けて編纂された地誌である。編纂は本田親孚と平山武毅による。後年に編纂された『三国名勝図会』でも、ほぼ同じことが書かれている。


『薩藩名勝志』にあるとおり、この地の伝承である。「大人の隼人」というのは隼人族の首領であろう。「大人弥五郎(おおひとやごろう)」「弥五郎どん」という巨人の伝説が南九州にはある。こちらとの関連性もうかがえる。

 

『三国名勝図会』にはこんなことも記されている。

大人隼人記曰、大人彌五郎殿は上小川村の拍子橋にて、日本武尊御討なされたり、その時舞躍して、手拍子を取りたる故に、此の名ありと (『三国名勝図会』巻之三十一より)

 

出典元とされる『大人隼人記』についてはよくわからないが、同じ伝承をもとにしているような感じだ。

新城というのは隼人城(はやとじょう、霧島市国分上小川)のことである。場所は上井城跡を尾根伝いにやや北にいったあたり。現在は「城山公園」がある。


なお、『日本書紀』には景行天皇十二年に熊襲征伐のために筑紫(九州)に行幸したという記述がある。


景行天皇や日本武尊がここまで来て隼人と戦った、という伝説は鵜呑みにできるものではない。ただ、伝説のモデルとなった何かしらの出来事があった可能性はあると思う。

 

史実においては養老4年(720年)に大隅隼人の反乱の記録がある。このときに曽於之石城(そおのいわき)という隼人の城がなかなか落ちなかったという。

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隼人の拠点が7つあったという伝承もある。これを「隼人七隈」と呼んだという。七隈にあたるのは富隈(とみくま)・獅子隈(ししくま)・笑隈(えみくま、さきくま)・平隈(ひらくま)・隈崎(くまさき)・恋隈(こいくま)・星隈(ほしくま)である。

このうちの隈崎が上井城(久満崎城)とされる。麓には久満崎神社(くまさきじんじゃ)が鎮座する。御祭神は大山祇命(オオヤマヅミノミコト)。そして隼人神を祀るとも。久満崎神社はもともと隈崎(上井城)の山上にあったが、のちに麓に遷座したという。

また、上井には「星ノ隈」「恋ノ隈」の小字もある。

 

久満崎神社についてはこちら。

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秦氏の存在も見え隠れする場所

上井城跡のある山の東麓には韓国宇豆峰神社(からくにうずみねじんじゃ)が鎮座する。御祭神は五十猛命(イソタケルノミコト)。豊前国の宇佐宮(宇佐八幡宮、大分県宇佐市)社家の辛島(からしま)氏の祖神とされる。辛島氏は秦(はた)氏の一族とされる。


和銅7年(714年)に豊前国から大隅国へ200戸(5000人くらい)を移住させた、という記録が『続日本紀』にある。

この豊前国の住人は秦一族だったと見られる。韓国宇豆峰神社も大移住にともなって辛島氏が創建したと考えられる。社名からは、渡来神を祀っていることもうかがえる。

豊前国香春(かわら、現在の福岡県田川郡香春町)の香春神社(かわらじんじゃ)と深い関わりがあるとも。香春神社は辛国息長大姫大目命(カラクニオキナガオオヒメオオマノミコト)を主祭神とする。もともとは香春岳三山の一ノ岳山頂に辛国息長大姫大目神社とがあり、ほかの二座の神社とともに麓に合祀されたのが香春神社である。

香春岳は古代から銅の採掘が行われていた。これには技術を持った秦氏が関わっていると考えられている。香春町には「採銅所(さいどうしょ)」という大字もある。

上井城跡の麓のあたりには「銅田(どうた)」という地名もあったりする。

豊前から来た秦氏は上井のあたりに住み着いたのかな? と、そう思わせる要素がかなり揃っている。


秦氏といえば、島津氏もそうである。島津氏は惟宗忠久(これむねのただひさ)を祖とする。惟宗氏は秦一族なのだ。

 

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<参考資料>
鹿児島県史料集44『薩藩名勝志(その三)』
発行/鹿児島県史料刊行会 2005年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集32『本藩地理拾遺集 下 大隅国・諸県国』
発行/鹿児島県立図書館 1992年

『国分郷土誌』
編/国分郷土誌編さん委員会 発行/国分市 1973年

『島津国史』
編/山本正誼 発行/鹿児島県地方史学会 1972年

『旧記雑録 前編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1979年

『旧記雑録 前編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1980年

『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年

『西藩野史』
著/得能通昭 発行/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集50『西藩烈士干城録(二)』
編・発行/鹿児島県立図書館 2011年

『現代語訳 上井覚兼日記 ―天正十年(一五八二)十一月~天正十一年(一五八三)十一月』
著/新名一仁 発行/ヒムカ出版 2020年

『現代語訳 上井覚兼日記2 天正十二年(一五八四)正月~天正十二年(一五八四)十二月』
著/新名一仁 発行/ヒムカ出版 2021年

『現代語訳 上井覚兼日記3 天正十三年(一五八五)正月~天正十三年(一五八五)十二月』
著/新名一仁 発行/ヒムカ出版 2023年

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