ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

島原合戦(沖田畷の戦い)と阿蘇合戦/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(6)

肥後国では、島津義久(しまづよしひさ)と龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)による勢力争いが続いていた。

 

天正9年(1581年)8月、島津義久は肥後国水俣(みなまた、熊本県水俣市)を攻めて、相良義陽(さがらよしひ)を降伏させた。

球磨・葦北・八代(熊本県の人吉市・水俣市・葦北郡・八代市のあたり)に勢力を持っていた相良氏が傘下となったことで、島津氏は肥後国のかなりの範囲を支配下に置いた。そして、肥後国に勢力を伸ばす龍造寺氏との対立も激化。また、阿蘇(あそ)氏も抵抗する。

 

rekishikomugae.net

 

激戦が続く。島津義久・島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)・島津歳久(としひさ)・島津家久(いえひさ)の四兄弟は、それぞれに役割を果たしていく。

島津氏と龍造寺氏は、肥前国の島原でぶつかることになる。「島原合戦」あるいは「沖田畷の戦い」と呼ばれるものである。

 

なお、日付については旧暦で記す。

 

 

 

 

 

 

龍造寺隆信、五州二島の太守

龍造寺隆信は傑物であった。肥前国佐嘉(さが、佐賀市)を拠点に一大勢力を築いた。

天正6年(1578年)に高城川の戦い(耳川の戦い)で大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)・大友義統(よしむね)が島津氏に大敗。大友氏が勢いを失ったと見て、一気に動く。それまで肥前国の一部を領するのみだったが、北部九州の広範囲に打って出る。わずか3年ほどの間に、肥前国・筑前国・筑後国・豊前国・肥後国・壱岐国・対馬国に支配領域を広げた。

 

「五州二島の太守」とも呼ばれたりもする。

 

島津氏は薩摩国・大隅国・日向国を押さえ、さらに肥後国へと勢力を伸ばす。島津氏と龍造寺氏の激しい勢力争いが展開されることになる。

 

 

阿蘇神社大宮司家

肥後国の一宮は阿蘇郡の阿蘇神社(あそじんじゃ、熊本県阿蘇市一の宮町)である。創建は孝霊天皇9年と伝わる。阿蘇氏はその大宮司家で、古代からこの地を治めている。

16世紀に阿蘇氏は戦国大名化し、阿蘇郡・益城郡(熊本県阿蘇市・阿蘇郡・上益城郡・下益城郡・宇城市のあたり、ほかに熊本市南区の一部)を領していた。相良氏や、豊後の大友(おおとも)氏と手を組んで勢力を保っていた。この頃の大宮司(当主)は阿蘇惟将(あそこれまさ)であった。

 

天正6年(1578年)に大友氏が大敗したことで、阿蘇氏の立場は難しいものとなる。

阿蘇家を支える重臣に甲斐親直(かいちかなお)という人物がいる。法号による「甲斐宗運(そううん)」の名乗りがよく知られている。御船城(みふねじょう、熊本県上益城郡御船町)の城主である。

甲斐親直(甲斐宗運)は戦場でも強く、外交手腕にも優れていた。その活躍もあって阿蘇氏は独立を保つ。

天正9年(1581年)、阿蘇氏は大友氏と手を切り、龍造寺氏の傘下に入る。相良氏とともに島津氏に対抗することになった。だが、相良氏は島津氏に降る。

 

 

響野原の戦い、相良義陽の最期

相良義陽は島津義久から阿蘇氏攻めを命じられる。天正9年12月2日、阿蘇氏領の甲佐(こうさ、熊本県上益城郡甲佐町)・堅志田(かたしだ、下益城郡美里町)・御船に向けて出陣する。これを、御船城主の甲斐親直(甲斐宗運)が迎え撃った。

 

相良義陽と甲斐親直(甲斐宗運)は、父の代から不戦の誓書を交わしていたという。

『求麻外史』によると、相良義陽は島津家の命令に従うほかなく、かといって甲斐氏との約束も違えたくない。だから、誓書を焼き捨てて出陣し、討ち死にする道を選んだ。……と、そんな感じのことが書かれている。

 

一方で、島津氏側の資料・史料ではだいぶ印象が異なる。相良義陽は手柄を立てて島津氏の信頼を得ようとした、という感じなのだ。

『勝部兵右衛門尉聞書』(『旧記雑録』に収録)ではこんな感じである。

薩广の人々義照慈に参といへとも、其奥意の程いかならんと疑わしく申合り、義照聞之出、去らハ對阿蘇家一軍して、薩广の人との晴闇意とて、其年の十二月三日、高佐・堅志田表に打て出 (『勝部兵右衛門尉聞書』より)

 

「義照(相良義陽)は降伏したけど真意は疑わしい、叛くんじゃないか」と島津家中で言う者もあった。それを聞いて義照(相良義陽)は「ならば、阿蘇家と一戦して疑いを晴らそう」といって、12月3日(実際は2日か)に高佐(甲佐)・堅志田に出陣していった。……と、そんな感じのことが書かれている。

実際にどうだったのかはわからないが、相良義陽の心中には複雑な思いが渦巻いていたのだろう。

『勝部兵右衛門尉聞書』では、「義照」と書かれているのも興味深い。義陽の読みは一般的には「よしひ」とされることが多いが、「よしてる」という説もある。

 

相良軍は12月2日のうちに甲佐城と堅志田城を落とした。相良義陽は響野原(ひびきのはら、響ヶ原、熊本県宇城市豊野町)に本陣を置き、その夜は酒宴を行っていた。甲斐親直(甲斐宗運)はそこを急襲する。相良方は多くの戦死者を出し、相良義陽も討たれた。

 

 

相良頼貞の乱

相良義陽の後継者は、島津家に人質となっていた嫡男の亀千代に決まる。元服して相良忠房(ただふさ)と名乗った。

この相続には島津忠平(島津義弘)が尽力したとも。かつて相良義陽の妹を正室に迎えていて(この頃は離縁)、その縁もあってなのか相良氏の存続のために動いたのだという。

 

そんな中で、相良頼貞(よりさだ)が家督を狙う。相良義陽の異母弟である。

相良頼貞は出家させられていたが、勝手に還俗して肥後国八代(やつしろ、熊本県八代市)に居住。津奈木(つなぎ、熊本県葦北郡津奈木町)の地頭であったとも。兄と不和になって八代の谷山に押し込められていたところ、水俣城が陥落して相良氏が降伏。その頃合いに逃げ出して、島津忠平(島津義弘)を頼ったという。寄寓した地は日向国飯野(いいの、宮崎県えびの市原田)とも、あるいは大隅国栗野(くりの、鹿児島県湧水町栗野)とも。

 

相良義陽の戦死を知ると、島津家の兵を借りて相良氏の本拠地の人吉(ひとよし、熊本県人吉市)に向かう。人吉でも同調するものがあった。相良家から助けを求められた島津義久は、使いを送って相良頼貞を説得をする。相良頼貞は人吉を退去した。島津領内に入ろうとするも拒まれ、日向国に向かった。その後の消息は不明。

 

相良忠房には球磨郡(人吉市のあたり)のみが安堵された。もうひとつの拠点であった八代は島津家の直轄領とされた。八代には島津忠平(島津義弘)を移封することが決まった。

城跡の石垣

相良氏の拠点の人吉城跡

 

 

本能寺の変

京の本能寺で事件が起こる。天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長か明智光秀の謀叛により討たれた。その後は羽柴秀吉が明智光秀を討ち、政権を掌握した。

島津氏と大友氏は、織田信長の仲介で講和(豊薩和平)を結んでいた。織田信長の政権が消滅したことで、豊薩和平の効力も不確かなものとなった。

 

 

 

甲斐宗運に振り回される

島津氏は、阿蘇氏と和睦の交渉をすすめた。天正10年(1582年)11月に島津忠平(島津義弘)・島津家久・伊集院忠棟(いじゅういんただむね)・上井覚兼(うわいかくけん、さとかね)らの軍勢が八代に入る。肥後国の攻略のために、ここを軍事拠点としたのだ。龍造寺氏への対応とともに、阿蘇氏へ圧力をかける狙いもあった。

 

甲斐親直(甲斐宗運)は和睦を承諾する。島津側からは、人質を差し出すことと龍造寺氏との手切れを条件として出すが、これらは履行されなかった。和睦は成立するが、甲斐親直(甲斐宗運)の不誠実な態度に、島津家中では不信感が高まる。家臣団の意志は阿蘇氏攻めに傾いていくことになる。

 

 

 

島津と龍造寺

天正10年(1582年)、筑後国の鷹尾城(たかおじょう、福岡県柳川市大和町)を拠点とする田尻鑑種(たじりあきたね)が島津氏に支援を求めてきた。田尻鑑種は龍造寺氏に従属していたが離反し、攻め込まれていた。

同じ頃に、秋月種実(あきつきたねざね)が龍造寺氏との和睦の仲介を申し出て来た。秋月氏は筑前国の古処山城(こしょさんじょう、福岡県朝倉市)を拠点とする。

島津氏では田尻氏の救援を決めていて、秋月種実の提案を受け入れなかった。その後、救援は失敗し、田尻氏は龍造寺氏に降伏している。

 

肥前国島原の日野江(ひのえ、有馬とも、長崎県南島原市)の有馬鎮貴(ありましげたか、有馬晴信、はるのぶ)も龍造寺氏と手を切って島津氏に従属してきた。

有馬氏の協力要請に応じて、天正11年6月に島原の深江城(ふかえじょう、長崎県島原市深江町)攻めに島津氏は援軍を出す。八代に在番していた新納忠堯(にいろただたか)・川上忠堅(かわかみただかた)らが渡海した。この戦いで新納忠堯は戦死、川上忠堅は負傷する。

 

9月に秋月種実が再び和平案を島津氏に出す。龍造寺氏と秋月氏が島津氏の傘下に入り、島津義久を「九州之守護」と仰ぐこと。大友氏を打倒すること。そういった内容であった。

島津氏としては、龍造寺氏との和睦に傾く。島原への援兵もいったん中止となった。

 

 

阿蘇氏との対立、ふたたび

肥後国の緊張状態は続く。天正11年(1583年)7月に、島津氏は肥後出兵を決める。島津義久も出陣することとしたが、のちに取り止めとなった。

そんな中で、9月に八代に在番していた伊集院忠棟・平田光宗(ひらたみつむね)・上井覚兼らが阿蘇氏領内の堅志田に奇襲を仕掛けようとした。10月にも堅志田を再び攻めた。島津義久の意向に沿わないものだったようで、叱責の使者が八代へ派遣されている。これをきっかけとして阿蘇氏との和睦は破れる。

阿蘇家では、天正11年11月に当主の阿蘇惟将が没する。弟の阿蘇惟種(これたね)が家督を継ぐ。

11月には島津方が堅志田の南西に花之山城(はなのやまじょう、熊本県宇城市豊野町)を築いている。甲斐親直(甲斐宗運)に対する備えとした。圧力をかけつつ、再度の和睦を目指した。

 

 

島原出兵を決めるが……

天正12年(1584年)、島津氏は島原への再度の出兵を決める。これについては、島津家久が強く主張したという。2月2日に島津義久は島原出陣の命令を領内に出し、準備をさせた。

阿蘇氏との和睦交渉は不調であった。阿蘇氏のほうでも花之山城に対する向陣を築き、対決姿勢を強める。

また、合志親為(こうしちかため)からも救援の要請があった。肥後国合志の竹迫城(たかばじょう、熊本県合志市)が龍造寺氏の攻撃を受けていて、島津氏はこちらの支援も検討する。

 

肥後国内での対応が必要なうえに、大友氏が動く可能性もある。島原への出兵を決めたものの、大きな兵力を割くのは難しい状況だった。

3月16日に島津義久が肥後国佐敷(さしき、熊本県葦北郡芦北町)に入った。やや遅れて、島津忠平(島津義弘)・島津歳久も着陣した。島津家中の群臣たちも集結する。

それよりも少し前に、島津家久をはじめとする先遣隊が島原へ向けて出航している。

 

葦北の海と佐敷の街並み

佐敷の港、佐敷城跡より見る

 

 

島原合戦(沖田畷の戦い)

島津家久を大将とする先遣隊は当初は800ほどだった。後続の兵が渡海してきて、島津勢は4000ほどになったという。

島津彰久(あきひさ)・島津忠長(ただたけ)・平田光宗・新納忠元・川上久隅(ひさすみ)・川上忠堅・山田有信(やまだありのぶ)・鎌田政近(かまだまさちか)・猿渡信光(さるわたりのぶみつ)らも従軍した。

島津家久は嫡男を戦場に連れてきた。島津忠豊(ただとよ、島津豊久、とよひさ)である。このとき15歳(数え年)。その初陣は、とんでもなく苛烈な戦いになってしまうのだ。

 

島原での戦いについては、ルイス・フロイスの『日本史』に詳しい。こちらの情報も参考にしつつ、戦況を追ってみる。

 


島津勢は有馬勢と合流し、3月15日に浜の城(はまのじょう、長崎県島原市新町)を囲んだ。城主の島原純豊(しまばらすみとよ)は龍造寺氏に服属している。

この時点では、龍造寺氏が大軍勢を動かすとは、島津勢も思っていなかったようである。

 

龍造寺方は浜の城に20隻の船団を派遣し、食糧を届けようとした。これを有馬勢の水軍が撃退した。島原からの使者が援軍を求めて、龍造寺隆信のいる須古城(すこじょう、佐賀県杵島郡白石町)にやってくる。そして「島津勢が少数である」という情報がもたらされたという。

 

龍造寺隆信は即決する、大軍を率いて一気に敵を殲滅することを。

 

まずは鍋島信生(なべしまのぶなり、鍋島直茂、なおしげ)を大将とする5000の軍勢を、50隻の船団で浜の城へ向かわせる。浜の城には入れず、鍋島隊は三会城(みえじょう、寺中城、じちゅうじょう、長崎県島原市津吹町)に入った。

須古城の龍造寺隆信は3月18日に出陣を決めて大軍勢を編成。19日には龍王崎(須古城の南)を出航し、20日に島原半島の神代(こうじろ、長崎県雲仙市国見町)に到着した。そこから南下して三会城(寺中城)に向かう。

龍造寺方の兵力は2万5000とも、5万7000とも、6万とも伝わっている。諸説あるが、とにかく大軍勢である。


島津勢は龍造寺軍の迅速な動きに気付いていなかった。

 

逃げてきた者があり「伊佐早(いさはや、諫早)に龍造寺の大軍勢が来ている、明日にでもこちらに攻撃に向かうだろう」という情報がもたらされる。伊佐早(長崎県諫早市)は島原からけっこう距離がある。しかし、実際にはすぐ近くまで龍造寺隆信は迫っていた。「伊佐早」というのは誤報なのか? あるいは龍造寺側が流した偽情報なのか?

 

天正12年3月24日(1584年5月4日)未明、龍造寺の大軍勢が襲来する。

 

有馬・島津連合軍は森岳城(もりたけじょう、島原城、長崎県島原市城内)の北側に布陣した。兵力は6300ほどだったという(数字はルイス・フロイス『日本史』より)。

 

龍造寺軍は三会城(寺中城)を出て南下し、布陣する。

 

両軍が対峙したところは「沖田畷(おきたなわて)」とも呼ばれている。

 

龍造寺軍は3隊に分けて展開。中央を龍造寺隆信の率いる本隊が、東側の海沿いを江上家種・後藤家信(えがみいえたね・ごとういえのぶ、ともに龍造寺隆信の子)が率いる部隊が、西側の山の方を鍋島信生(鍋島直茂)の部隊が進軍する。龍造寺隆信は6人の部下が担いだ輿に乗っていた。


龍造寺軍が押し寄せる。

 

しかるに薩摩の連中は、戦場が敵軍に埋め尽くされており、島原から三会まで一里の間というものは敵の軍団以外に何も見えず、それも単なる軍勢ではなく、いずれも高貴で華麗な将兵が金色の鎧をまとい、同じ色で飾られた槍を携え、無数の工夫を施した黄金色の兜をかぶり、大小の刀剣の鞘も、あるものは金、または銀を用いており、若い元気溌剌とした兵士たちで満ちているのを見ると、互いに顔を見合わせ、やがて沈痛な面持ちに変わっていった。 (『完訳フロイス日本史10 大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗』より)


森岳城近くの島津家久の部隊は包囲された。島津・有馬連合軍は柵を築いて守りを固めていた。

ルイス・フロイス『日本史』によると、龍造寺軍は装備も充実していたという。鉄砲を大量に持ち込んでおり、長槍を持った兵も多い。一方の島津方・有馬方は鉄砲が少なく、弓が多い。また、短い槍と長刀を持った兵が多かった。と。

 

戦いは龍造寺軍の1000丁の鉄砲の攻撃からはじまった。激戦となる。

 

勝利の望みがないと考えた島津家久は全軍突撃を決める。味方全員に見えるように馬上にまたがり、近くにいた武将に命じて訓示を述べさせた。

 

「汝らの背後には、逃避を許さぬ海あるのみ。正面には一万二千、ないし一万五千の敵が迫っており、これらの敵の大部分は、いまだ戦闘に着手してはおらぬ。されば汝らに告ぐ。次のことにのみ心がけ、勇猛果敢に、何恐れることなく突進せよ。我ら全員の討死が避けられぬ今となっては、臆病と卑劣により薩摩の名声を消すことなかれ」と。 (『完訳フロイス日本史10 大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗』より)

 

もはや、ヤケクソの突撃命令である。ただ、士気はものすごく上がったようだ。

訓示が終わらないうちに、島津勢は我れ先にと駆け出した。将兵たちは斬って斬って斬りまくったという。矢も射て射て射まくる。刀を振るって長槍を切り払い、鉄砲に弾を込める時間も与えない。戦闘は熾烈を極めた。

 

『倭文麻環(しずのおだまき)』にも島津家久の檄について記されている。こちらは文化9年(1812年)に薩摩の国学者の白尾国柱が著したものである。

 

各心を一にして肥前の地に屍を曝して芳聲を千載に傳ふべし 若生きんと欲して敵に後を見せ 笑を他方に招かば薩州の耻辱ならん (『倭文麻環』より)

 

下の絵は『倭文麻環』にあるもの。

合戦の絵

島原合戦、『倭文麻環』より(国立国会デジタルコレクション)

 

そんな中で、島津勢の川上忠堅らが、輿に乗った人物に出くわした。目の前にいたのは龍造寺隆信だった。輿を担ぐ兵を槍で攻撃すると逃げだした。そして、その場に残された龍造寺隆信は討たれる。

 

大将の戦死を知った兵は逃げ出し、龍造寺軍は崩壊する。

龍造寺方の戦死者は2000人超、負傷者も3000人超だったという。一方の島津方の戦死者は250人ほどとされる。


この戦いは「沖田畷の戦い」と呼ばれている。ただ、この呼び方をしている史料は見つけられなかった。島津家の資料・史料では「島原合戦」と記されることが多いようだ。

 

 

rekishikomugae.net

 

rekishikomugae.net

 

 

「湿地」の件はあったのか?

「沖田畷の戦い」については、「島津家久が綿密な作戦を立てて、それが見事にハマった」というような展開がよく語られる。「沖田畷は足場の悪い湿地(あるいは沼地)で、敵軍をそこに誘い込んだ」とか言われていたりもする。

こういった情報は、島津氏の史料に出てこない。ルイス・フロイスの『日本史』でも見当たらない。

 

では、どこに載っている情報なのかというと……『北肥戦誌』(享保5年/1720年に成立)や『豊薩軍記』(寛延2年/1745年成立)で見られる。いずれも江戸時代の軍記物である。書かれていることが間違っているとも言い切れないが、鵜呑みにもできないだろう。

 

ルイス・フロイスは「沖田畷の戦い」と同時代の人物である。『日本史』に記されていることは、けっこう精度が高い情報だと思う。

こちらでは、龍造寺隆信のほうがほぼ完璧な戦い運びをしている印象だ。だが、本人が討ち取られてしまう、「運が悪い」としか言えないような展開で。

 

こういう「わけがわからない勝利」というのが、島津氏にはときどき見られる。木崎原の戦いとか、泗川の戦いとか。関ヶ原の撤退戦も、負け戦だけどそんな感じである。

 

 

佐敷に援軍要請が届く……しかし

3月25日、佐敷には島原から援軍要請の書状が届いている。『上井覚兼日記』によると、こんなことが書かれていたという。

 

従伊佐早落人来候、龍造寺隆信頃彼方へ着候て、近々嶋原之御陣へ可相絡之由候、嶋原之事ハ今之軍衆にて相應ニ候へ共、若々龍相絡候ハゝ、今少御人数被指渡候て可然之由也 (『上井覚兼日記』より、『旧記雑録』収録)

 

「伊佐早(諫早)からの落人が言うには、龍造寺軍が伊佐早に来ているそうだ。近々攻め寄せてくるつもりであるとのこと。島原攻略(おもに浜の城攻め)は今の兵力でも十分だが、龍造寺軍が攻めてくることに備えて、もう少し軍勢を送ってほしい」といった内容だ。なお、伊佐早の落人のことは、前述のとおりルイス・フロイスも書いている。

 

佐敷では兵を出すことを決め、準備にかかった。しかし、その日のうちに「合戦の大勝利」の報告が届いた。前日の24日に決着していたのである。

3月26日には、龍造寺隆信の首が佐敷に届く。27日に首実検が行われた。

 

『倭文麻環』の絵

龍造寺隆信の首が佐敷に届く、『倭文麻環』より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 

 

龍造寺が降伏、大友が動く

島原での大敗北により、龍造寺氏はすっかり勢いを失った。これを好機と見て、豊後の大友義統が動く。筑後へ戸次鑑連(べっきあきつら、立花道雪、たちばなどうせつ)や高橋鎮種(たかはししげたね、高橋紹運、じょううん)らを出兵させてきた。

 

天正12年(1584年)9月、島津忠平(島津義弘)は肥後国北部へ出兵する。龍造寺氏傘下にあった隈部親泰(くまべちかやす)・小代親泰(しょうだいちかやす)らが帰順する。9月21日には、龍造寺政家(まさいえ、龍造寺隆信の嫡男)が従属の意向を伝えてきた。9月24日に島津軍は龍造寺氏が肥後国の拠点としていた高瀬(たかせ、熊本県玉名市)に入る。25日、島津側は龍造寺との和睦を受け入れる。

 

一方、大友勢は筑後国高良山(こうらさん、福岡県久留米市)に陣取り、龍造寺氏や秋月氏の領内をうかがう。島津氏に対しても協力を求めてきた。島津忠平(島津義弘)はその誘いを断り、撤兵を促す。

大友勢は兵を退かなかった。この頃から、しばらく小康状態だった大友氏との対立が再燃してくるのである。

 

 

島津忠平の「名代」就任

天正13年(1585年)5月頃に島津忠平(島津義弘)は、兄から「名代」に指名される。肥後国の八代城(やつしろじょう、古麓城、ふるふもとじょう、熊本県八代市古麓町)を拠点に九州中北部の攻略を任された。

この頃、島津義久は体調を崩している。また、支配領域が広がった島津家にとって、島津義久ひとりでは統治に手がまわらなくなっていた。そこで、島津義久は鹿児島にあって三州(薩摩・大隅・日向)を見る、島津忠平(島津義弘)は八代にあって六州(肥前・肥後・筑前・筑後・豊前・豊後)を見る、という体制をとることとした。

「両殿(りょうとの)」とも呼ばれる。その後の島津家は、この両殿体制で運営されていくことになる。

 

 

 

阿蘇合戦

天正12年(1984年)8月、阿蘇惟種(これたね)が没した。阿蘇家の当主には阿蘇惟光が擁立された。惟種の子で、まだ2歳である。それでも阿蘇家は島津氏とわたりあっていた、甲斐親直(甲斐宗運)の働きもあって。

しかし、天正13年(1585年)7月に甲斐親直(甲斐宗運)が没する。島津家をさんざんに振り回してきた阿蘇家の支柱がいなくなったのである。その後は甲斐親英(かいちかひで、親直の子)が阿蘇家を取り仕切ることになった。


天正13年(1585年)8月10日、甲斐親英は島津方の花之山城を攻める。これをきっかけに、島津忠平(島津義弘)を総大将として本格的に阿蘇氏攻めが始まる。

閏8月10日に島津忠平(島津義弘)は名和顕孝(なわあきたか)・島津忠長・伊集院忠棟・上井覚兼らとともに八代より撃って出る。翌日には隈荘城(くまのしょうじょう、熊本県上益城郡益城町)を攻め落とす。そして、御船城(みふねじょう、上益城郡御船町、甲斐氏の拠点)から出てきた甲斐勢と対峙する。

島津忠平は自分から動くつもりはなかったが、閏8月13日、血気にはやった部隊が勝手に出陣する。堅志田の麓を焼き、甲佐と萩尾(はぎお、宇城市松橋町萩尾)の城を落としてしまう。このよう事態となって、島津忠平は総攻撃を決める。堅志田城も落とし、閏8月15日に御船城も開城させた。

 

天正13年(1585年)閏8月19日に阿蘇惟光も降伏。肥後国の平定がなった。

つづく。

 

rekishikomugae.net

 

rekishikomugae.net

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 発行/鹿児島県地方史学会 1972年

『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1980年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1986年

『西藩野史』
著/得能通昭 発行/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1972年

『現代語訳 上井覚兼日記2 天正十二年(一五八四)正月~天正十二年(一五八四)十二月』
著/新名一仁 発行/ヒムカ出版 2021年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/KADOKAWA 2021年

『完訳フロイス日本史10大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗―大村純忠・有馬晴信篇2』
著/ルイス フロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論新社/2000年

『豊薩軍記』 ※『改訂 史籍収覧第7冊』より
著/長林樵隠 編/近藤瓶城 発行/近藤活版所 1906年

『求麻外史』
編/田代政鬴 発行/求麻外史発行所 1889年

『新訳 求麻外史』
著/田代政鬴 訳註/堂屋敷竹次郎 発行/求麻外史発行所 1917年

『北肥戦誌』
編/長森伝次郎 編・発行/国史研究会 1918年

『倭文麻環』
著/白尾国柱 発行/山本盛秀 1908年

ほか