天正3年(1575年)の4月から5月にかけて、島津家久(しまづいえひさ)は京に滞在した。連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)の世話になりつつ、京のあちこちを見てまわる。また、連歌会に参加したり、一流役者による能や謡に触れたり。
島津家久は5月27日に伊勢に向けて出立する。『中務大輔家久公御上京日記』より、今回は京滞在の最後の3日間だ。
里村紹巴とともに鞍馬山に行くが、ここでちょっとした事件も……。
前回の記事はこちら。
『中務大輔家久公御上京日記』の詳細はこちらの記事にて。
史料は東京大学史料編纂所の翻刻より引用。
『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所ホームページ)
島津家久は島津貴久(たかひさ)の四男。詳細はこちらの記事にて。
なお、日記の日付は旧暦。

天正3年5月24日/鞍馬の坊主が空気を読めなくて
廿四日、鞍馬一見、紹巴同心候、先市ハらの阿弥陀、さて其邊に小野之石塔有、亦志井の少将のはか有、其より大原なとみえて貴舟、さて鞍馬へ参、御甲御太刀いたゝき候、儅、僧正か谷、うし若殿兵法御傳の所/\、いろ/\のしんひの事拝、
里村紹巴の案内で鞍馬山(京都市左京区鞍馬本町)へ。まずは市原(左京区静市市原)の阿弥陀を参詣。如意山補陀洛寺(にょいさんふだらくじ)のことだろう。ここは小野小町の終焉の地と伝わる。通称「小野寺」ともいう。小野小町の供養塔がある。また「志井の少将のはか」もある、とも。こちらは深草少将の供養塔か。この二基の石塔は、補陀落寺の境内にあり。
深草少将の百夜通い(ももよがよい)、という伝説がある。深草少将が小野小町に求愛したところ「百晩続けて通ったら」と条件を出され、深草少将はこれを実行するも99晩目に雪中で倒れて息絶えた、と。
市原をあとにして貴船(左京区鞍馬貴船町)へ。大原は貴船から東のほうで、遠くに見えたということか。そして、鞍馬寺に入る。兜や太刀をおがんだ。これらはたぶん源義経のものと伝わるものであろう(鞍馬寺に現存する)。そして僧正ヶ谷へ。牛若丸(源義経)が兵法を授かったというところがちこちにあり。いろいろ神秘的な話が伝わっている、と。
日記はさらに続く。
其より薬師坊といへる座敷をかり、紹巴酒飯をもたせらる、其座ハかけ作り、山家の躰哀をもよほすに、紹巴源氏の若紫を被読、其興たゝ成半に、坊主毘沙門の御ききをすゝめ有へき由候へハ、紹巴其氣色替、此座の長居御無心にや、更々御坊の心つかい有ましき事とて、源氏をふところに入、其坐を荒々敷たゝれ候を、坊主紹巴の袂ニすかりけるをふりはらひ、かまのさうをたてゝ庭に飛おり、其下の堂にてさすかに若紫の巻を読取、其下ニとある坊に立入、かさね/\の盃おかしくも哀にもこそ、さてかへさに大雨にて候、
鞍馬寺のうちの薬師坊の座敷を借りて、酒と食事をいただく。そして、里村紹巴は『源氏物語』の「若紫」を読みあげる。その話が盛り上がっていたところで、坊主が不意に「毘沙門天の話でも」と水を差した。里村紹巴は機嫌を損ねた。坊主の無礼にキレて「こんなところに長居は無用ぞ」と。『源氏物語』を懐に入れて荒々しく立ち上がった。坊主は裾にすがりついてなんとか引き留めようとするが、里村紹巴は庭に飛び降りてしまった。そのあと、下の別の堂に入って里村紹巴は「若紫」を最後まで読んだ。
「毘沙門の御きき」とは何だろうか。ちなみに鹿児島県史料『旧記雑録』のほうでは「毘沙門の御まき」と翻刻してある。鞍馬寺の御本尊の一つが毘沙門天像だ。そして、毘沙門天に関する伝説もある。鞍馬山の坊主は毘沙門天の話を聞かせたかったのだろう。それで「毘沙門天の話はいかが」と言ったのだが、タイミングがものすごく悪かった。
その後、お堂で酒宴となるが。「かさね/\の盃おかしくも哀にもこそ」と。微妙な空気だったようだ。
この日は「大雨にて候」と締める。天気までもが悪かった。
天正3年5月25日/名人の歌声
廿五日、飛鳥井殿へ参、くす袴・沓のゆるし申請、帰り候て、観世宗雪・渋屋せいあん・子三郎右衛門食たへさせ候、亂舞承候、宗雪のうたひ、三郎右衛門助音、清安大鼓一ちゃうにてはやし候、歳ハ八十四と申候歟、猶若/\しくみえ聞え候、其晩に大覚寺殿よりかたひら給候、
飛鳥井殿の屋敷を訪ねる。飛鳥井家は蹴鞠の大家である。この頃の当主は飛鳥井雅春か、あるいは息子の飛鳥井雅敦か。「くす袴・沓のゆるし」というのは飛鳥井流蹴鞠が伝授されたということか。
変えると観世宗雪と渋屋清安、その子の三郎右衛門が来ていて食事と酒。観世宗雪というのは、たぶん観世宗節であろうか。観世流の7代目の大夫である。能の名人だ。島津家久は酒席にてこの観世宗節の謡を聞く。渋屋清安とその子の三郎右衛門も芸能の一流どころだろう。二人は演奏をつけた。
観世宗雪(観世宗節か)の謡は見事で、84歳と聞いていたけど、若々しく見えたという。ちなみに観世宗節は永正6年(1509年)の生まれとされ、そうであればこのとき66歳くらい。年齢は、島津家久の聞き間違いだろうか?
晩には大覚寺殿から帷子を贈られた。この人物は大覚寺門跡の尊信だと思われる。前関白の近衛前久の実弟でもある。
天正3年5月26日/小笠原殿から弓掛をいただく
廿六日、小笠原殿へ参、其後飛鳥井殿へも参候、帰り候へハ小笠原殿より弓かけあまた具たまハり候、
小笠原殿の屋敷を訪ねる。そのあとは飛鳥井殿の屋敷へも。島津家久は翌日に伊勢に向けて出立している。京を離れるので、挨拶に行ったのだろう。
小笠原家のこの頃の当主は小笠原秀清か。小笠原家は将軍家に仕え、弓術や弓馬術を相伝している。その小笠原家から弓掛(弓を引くときに手に装着する道具)をもらったのである。
ちなみに島津家は弓馬術競技の犬追物を盛んに行っている。また、小笠原家も犬追物の作法を伝えている。島津家と小笠原家には交流があったのだろう。
つづく……。次回は伊勢へ向かう。
<参考資料>
『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録
鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
ほか