天正3年(1575年)に島津家久(しまづいえひさ)は上京する。いちばんの目的は伊勢神宮への参詣であった。5月27日に京を発ち、甲賀と伊賀を越えて6月1日に伊勢に到着した。
前回の記事はこちら。
『中務大輔家久公御上京日記』についてはこちらの記事にて。
史料は東京大学史料編纂所の翻刻より引用。
『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所ホームページ)
島津家久は島津貴久(たかひさ)の四男。詳細はこちらの記事にて。
日記の日付は旧暦。

天正3年5月27日/京を発つ
廿七日、伊勢参詣ニ打立候へハ、五条の橋の本まで紹巴おくり、酒飯をもたせられ、夜の程ハ食事成かたきを見及候や、懇志無比類候、さておの/\ヘ暇乞立別行は、醍醐を打過、近江の内伊井の尾といへる村を過、はたといへる所にて関あり、其次に桜谷の渡賃、猶行てとひ河といへる所に関有、亦なうそといへる所に関有、猶行て野尻といへる所に関有、其よりあさミやといへる村に、いのよ兵衛といへる者の所に一宿、引手四条油小路新覚坊といへる山法師、
京を離れて、伊勢の神宮へ向かう。里村紹巴(さとむらじょうは)が五条の橋のたもとまで見送りにきてくれた。酒と食事(弁当)も渡される。夜は食事をする場所がないだろう、ということでの心遣いがありがたい、と。
挨拶をすませて出立。五条の橋から東へ向かい、醍醐(京都市伏見区の醍醐)を抜けて近江国へ。「伊井の尾」という村(京都府宇治市の二尾か)を過ぎ、「はた」というところ(滋賀県大津市石山の内畑・外畑のあたりか)に関所があった。さらに行くと桜谷(大津市石山東の桜谷)にまた関所あり、渡賃を払う。瀬田川を渡ったのだろう。さらに行くと「とひ河」というところ(富川か、大津市大石富川)にまた関あり。さらに納所(のうそ、大石富川)にまた関あり。また行くと野尻(滋賀県甲賀市信楽町の宮尻のあたり?)に関あり。そして朝宮(甲賀市信楽町の朝宮)に至り、いの与兵衛という人のところで宿をとった。道案内は京の四条油小路(京都市下京区の油小路)に住む新覚坊という山伏とのこと。
Googleマップで道程を確認すると、山城国の醍醐から笠取峠を越えて近江国に入り、現在の国道422号にあたる山道を南下し、甲賀の朝宮へ。距離は30kmくらいか。道中は山越えもあり。それにしても、この区間は関所がやたらと多い。ちょっと行けば関所、またちょっと行けば関所、そしてまた関所、という感じだ。
関所だらけのわりには足止めや揉め事の記載はなく、すんなりと通れたっぽい。
天正3年5月28日/多羅尾の小川城
廿八日、早朝打立、くハうかの内小河の城有、さておたけたうけといへるを越、伊賀の内小田市といへるに関有、さて丸山といへる所に関有、猶行てあをの村、竹室三郎兵衛といへるものゝ所へ一宿、
早朝に出立。道中に小川城(滋賀県甲賀市小川)があった。小川城は多羅尾(たらお)というところにあり、この頃の城主は多羅尾光俊だと思われる。織田家の傘下であった。
ちなみに天正10年(1582年)の本能寺の変の際に、伊賀越えの徳川家康がここに泊まったとも。もう一つちなみに、多羅尾は近衛氏の荘園があったところで、多羅尾氏は近衛氏の末裔でもある。島津氏の名乗りの由来となっていて「島津荘」も近衛家のもの。
さらに余談。甲賀信楽から伊賀上野に抜ける経路は、慶長5年(1600年)に島津義弘(しまづよしひろ)が通ったところでもある。関ヶ原の戦いからの撤退で。
小川城から御斎峠(おとぎとおげ)を越えて、伊賀国に入る。上野の小田市(三重県伊賀市小田町)に関あり、さらに行って丸山(伊賀市枅川)にまた関があった。そこを抜けて阿保(あお、伊賀市阿保)に至る。竹室三郎兵衛のもとで宿をとる。
天正3年5月29日/引き続き関所だらけ
廿九日、あを山越をして伊勢の内入道かいといへる村ニ関有、次ニお山との谷といへる所にて関五有、亦駒のロとて関有、亦大ぬさといへる所にて関、次ニ長野関とてあり、亦田尻ニ伊賀関とて有、其より行てミわたりといへる所を打過、平尾といへる所、産屋といへる者の所ニ一宿、
青山越えをして入道垣内(にゅうどうかいと、三重県津市白山町垣内)に関あり、次に小倭谷(おやまとのたに、津市白山町の上ノ村・中ノ村のあたりか)には関が五つあった。そして駒の口(場所わからず)にも関あり、さらに「大ぬさ」(津市一志町大仰か)に関あり、次に長野関(場所わからず、長野川を渡る?)あり、田尻(津市一志町田尻)に関あり、さらに三渡(みわたり、三重県松阪市小津町のあたりか)を過ぎ、平尾(松阪市大平尾町のあたりか)に至る。「産屋」という者のところで宿をとる。
初瀬街道を通ったものと思われる。あいもかわらず、関所がすごく多い。小倭だけで五つあったりとか。織田信長は関所を廃止したことで知られるが、この頃はまだ関所だらけ。
天正3年6月1日/伊勢に到着、物を奪う禰宜
この日、上京の目的の一つの伊勢詣りを完了する。ちょっと長いので、原文を分割して解説する。
六月朔日、早朝打立、あやい笠といへる村を通る、是はあミ笠をあむ村也、次ニくした河渡賃、其より行て斎宮、其次ニ繪馬をかくる鳥井有り、次ニ笛吹の橋、次ニみやうしやうか茶屋、亦臥見坂、次ニつち大彿・たまるの城みえ侍り、
「あやい笠」という村を通る。ここは網笠を編む村とのこと。場所はわからず。次に櫛田川を渡る、通行料を払って。ここは松阪市豊原町の櫛田橋のあたりだろうか。川をわたって斎宮(さいぐう、三重県多気郡明和町斎宮)を抜け、次に絵馬をかけた鳥居があった。次に「笛吹の橋」。笹笛川というのがあるが、この川を渡ったのだろうか。次に明星茶屋(みょうじょうがちゃや、明和町明星)。街道沿いに茶屋が並び、お伊勢詣りの人で賑わっていた。
臥見坂(詳細わからず)を通り、土大仏と田丸城が見えた。「土大仏」は大仏山(三重県伊勢市小俣町)か。田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)は織田信雄(織田信長の次男)の居城。
さて宮川を渡、はらひ仕候へハ、祢きともあまた来り、よろつの事を申かけ、ものを取候、其おり節、安藝の國の人妻子を引くし参詣なるか、御祓せんとてはた帯のなとをもときおきけるを、袮き是をうはひとらんとするを、河の中より走あかり、はたかすまう成けれは、手にかゝへたる物をも忘、女子の事ハいふにおよはす、諸人のミる目をもはゝからす、ふりまハるこそはかなけれ、
宮川を渡り、祓いをする(場所は伊勢市中島のあたり)。すると禰宜どもがたくさんやってきて、あれやこれやと言って、持ち物を奪い取っていこうとする。「御師(おんし)」と呼ばれる者たちであろう。伊勢神宮は私幣禁断とされていた。天皇以外はお供え物ができないのである。そこで、お供えをしようとするときには、神職の者がその間を取り持って代行する。それが御師であった。祈祷のほか、巡礼者のための宿泊先も提供していた。
つまり旅行者を狙って商売をしているのである。たぶん、客の取り合いが激しく、巡礼者にまとわりついて押し売りが展開されていたのだろう。神職とは関係のないあやしい業者も混ざっていたんじゃないかとも思う。
安芸から妻子を連れて参詣に来ていた男が、お祓いをしようと着物を脱いでいた。宮川の水で清めるのだろう。そこへ御師がやってきて帯などを奪い取っていこうとした。川にいた男は走ってきて取っ組み合いに。裸相撲となった。手荷物も放り出し、人の目もはばからず。「はかなけれ(卑しいものだ、みっともないことだ)」と島津家久は綴る。
其より関二ツ有、やかてやう田の町にてかしき大夫へ着候へは、種々の會尺、其より内外外宮へ参、道すから霊佛れい社神變筆に及はす、殊更六七歳の童女、文殊堂にてかねを打、扇を開、さま/\の曲をなす事、一遍ニ文珠のさひたんかと目を驚候、さて天の岩とに参、其より帰宿、
宮川を過ぎて関所がまた二つあり、しばらく行くと山田(ようだ)の町(伊勢市吹上のあたりか)。「かしき大夫へ着候へは、種々の會尺」の解釈がよくわからない。「神官が厳かに、いろいろと儀礼を執り行った」という意味か? 島津家久も山田で御師を通して供物を捧げたということか?
外宮と内宮に参詣。道すがらに見る寺院や社殿は素晴らしい。とくに文殊堂の様子が素晴らしい。6歳か7歳くらいの童女が鉦を打ち、扇を広げて舞い、いろいろな音曲を奏していた。「一遍ニ文珠のさひたんかと目を驚候(文殊菩薩の生まれ変わりじゃないか、ってくらい驚くほど美しい)」と感動を記す。
そのあと天岩戸(恵利原水穴か)を見てから、宿へ。
天文3年6月2日/伊勢を発つ
二日、御くうあけ、其より下向、さて行て、はたといへる村かひと滿五郎といへるものゝ所へ一宿、
参詣が終わったので戻る。八太(三重県松阪市八太町)の満五郎という人のところに泊まった。
この日は、とても完結。伊勢への参宮は旅のいちばんの目的のはずなのだが……。島津家久のテンションは、あまり上がらなかったのかな?
伊勢をあとにして、今度は奈良へ向かう。つづく……。
<参考資料>
『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録
鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『伊勢の神宮』
編/近畿日本鉄道創立五十周年記念出版編集所 発行/近畿日本鉄道 1961年
ほか