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おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

宣教師が見た沖田畷の戦い、ルイス・フロイスの『日本史』より

ルイス・フロイスの『日本史(Historia de Iapam)』を手に取ってみた。そこに綴られているのは、イエズス会宣教師が見た戦国時代だ。史料としては、かなり面白い存在なのである。

 

『完訳フロイス日本史』(訳/松田毅一・川崎桃太)という全12巻のシリーズが良さそうだったので、こちらを入手。とりあえずは九州の事情が載っているものからつまんでいこうか、と。まずは、こちらの巻だ。

『完訳フロイス日本史10 大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗 -大村純忠・有馬晴信篇2』である。

 

『大村純忠・有馬晴信篇』(9巻~12巻の計4巻)は九州での宣教師の活動を中心に記す。九州には肥前国の大村純忠(おおむらすみただ)や有馬晴信(ありまはるのぶ)、豊後国の大友宗麟(おおともそうりん、大友義鎮、よししげ)といったキリシタン大名が多い。そして、キリスト教が九州の情勢にも大きな影響を与えていくのだ。

この第10巻では、肥前国におけるキリスト教のあり方とともに、勢力を強大化させる龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)のこと、その圧迫を受ける大村氏・有馬氏のことなどが記される。そして、天正12年(1584年)の「沖田畷の戦い」の記録も、かなり興味深いのである。

 

沖田畷の戦い、島津と龍造寺が激突

当時の九州の二大勢力であった島津氏と龍造寺氏がぶつかり、覇権争いを一気に決定づけたのがこの「沖田畷の戦い」だ。

九州においては、もともと大友宗麟が大きな勢力を持っていた。幕府からは豊後国・豊前国・肥前国・肥後国・筑前国・筑後国(現在の大分県・福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県)の守護、さらには九州探題も任される。権威も実力あった。しかし、天正6年(1578年)の「高城川の戦い(耳川の戦い)」で島津義久(しまづよしひさ)に大敗し、大友氏の勢いは失われた。

島津義久は薩摩国・大隅国・日向国(現在の鹿児島県・宮崎県)の守護であり、これらの地の実効支配も確立していた。大友氏を破ったことで勢いを増し、肥後国へも勢力を拡大しつつあった。

龍造寺隆信は没落していた水ヶ江龍造寺氏(龍造寺氏庶流)を再興し、主君の少弐(しょうに)氏を倒して下剋上。さらには龍造寺本家も乗っ取った。そして肥前国を手中にしたあと、弱体化した大友氏の領内も切り取っていく。その勢力は肥前国・筑前国・筑後国・豊前国に広がっていた。こちらも肥後国に進出している。

天正12年(1584年)3月、龍造寺隆信は大軍を率いて肥前国高来郡有馬(現在の長崎県南島原市)の有馬晴信を攻める。有馬晴信は島津氏に援けを求める。島津義久は弟の島津家久(いえひさ、四兄弟の末弟)を大将として援軍を派遣した。


宣教師が見た龍造寺隆信の人物像

ルイス・フロイスは龍造寺隆信をこう説明する。

彼はキリシタン教団の大敵、かつ暴君でありその上キリシタン宗門の迫害者であった。 (『完訳フロイス日本史10 大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗』より)

 

かなり敵視している感じだ。さらにはこんな人物評も。

己が功績と所領は、日本中のいかなる屋形や君侯に比べても劣らぬのみか、隣国の諸侯からも恐れられ、文字どおり主君として仰がれていると思いあがるに至った。 (『完訳フロイス日本史10 大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗』より)

 

その一方で、実力についても冷静に分析されている。「戦略に関して、また自ら示した努力と勇気において傑出した人物」「戦闘において勇敢な武将」といったところだ。出撃についてはこんなことも書かれている。

その細心の注意と配慮と決断は、ユリウス・カエサルとて、それ以上の迅速さと知恵をもって企て得ないかに思われた。 (『完訳フロイス日本史10 大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗』より)

 

古代ローマの英雄を引き合いに出しているのが面白い。

 


島津の大将はナカツカサ

島津氏が派遣した大将は、「中務(ナカツカサ)」という呼称で登場する。島津家久のことである。「中務大輔(なかつかさのたいふ)」の受領名で呼ばれていたことがわかる。ちなみに、有馬晴信は洗礼名の「ドン・プロタジオ」で記されている。

中務(島津家久)については「戦において他の追随を許さぬ勇敢な武将」と評されている。また、15歳の息子を戦の経験を積ませるために連れてきているとも。島津豊久(とよひさ)の初陣でもあった。

島津氏は大軍を送ることができず、当初は800の兵で参陣。遅れて兵が入り、援軍は4000ほどになったという。最終的には有馬氏とあわせて、兵力は6300としている。

 

 

結果は「幸運な勝利」か?

龍造寺軍は大軍であった。ルイス・フロイス『日本史』では戦闘員は12000人とする。

その隊列は見事に配分されていて、まるで彼はヨーロッパの戦術図、ないし戦術計画を入手しているかのようであった。 (『完訳フロイス日本史10 大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗』より)

隊列は豪華な様子だったという。鉄砲や槍など武装も充実していたとしている。ちなみに、『島津国史』や『島津世家』といった島津氏側の記録では60000としている。こちらは誇張もあるかも。だからといって、宣教師の情報が正確であるとも言い切れない。ただ、龍造寺軍が大軍であったことは確かなことである。龍造寺隆信は敵兵の少なさを見て勝利を確信したという。意気揚々と進軍させた。

島津家久は地形を確認して、湿地が広がる沖田畷(おきたなわて)を決戦の地と定めた。足場の悪い場所に敵を誘い込んで大軍の利を活かせないようにするのが狙いだった。

だが、戦場を埋め尽くした敵兵を見ると予想していたよりもずっと多かったようで、島津家久も討ち死にを覚悟したという。そして、名誉の死を遂げようと兵士たちを鼓舞して突っ込んだ。

鉄砲玉を込める余裕もなく、槍を構える時間もなく、激しく斬り合う。海に配置した軍船から大砲も撃ちかけた。島津氏側の記録では、伏兵を配して囮部隊が敵を誘い込んで囲んで叩く「釣り野伏せ(つりのぶせ)」を仕掛けたとされる。

激戦の中で別動隊が龍造寺隆信の籠を急襲。なんと討ち取ってしまうのである。主君の戦死で龍造寺軍は敗走をはじめる。だが、後軍が狭い場所に押し寄せるので兵たちも身動きがとれず。そこを追撃されて総崩れとなった。2000超の戦死者と3000超の負傷者が出たのだという。

ルイス・フロイスはこれを「幸運な勝利」と記している。

当主が討たれる、という思わぬ大敗を喫した龍造寺氏はすっかり勢いを失う。九州は島津の一強となった。

 

 

宣教師の目線で見ると、また違った印象を受ける。当事者による史料では出てこないような情報もけっこう多い。また、日本人とは違う価値観での捉え方もあったりする。

そういえば、NHK大河ドラマに『信長 KING OF ZIPANGU』というのがあったことを思い出す(1992年放映)。これがルイス・フロイスが見た織田信長であり、一般的な信長の印象とはだいぶ違っていた。放送当時は、奇妙に思ったものである。

 

完訳フロイス日本史〈10〉大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗―大村純忠・有馬晴信篇(2) (中公文庫)

 

ほかの巻についても記事あり。

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