ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

桜散る城跡をめぐる、帖佐館跡・平山城跡・岩剣城跡・蒲生城跡

桜の季節の城跡の写真を撮っておこうかと思い、鹿児島県姶良市にある帖佐館(ちょうさやかた)・平山城(ひらやまじょう)・岩剣城(いわつるぎじょう)・蒲生城(かもうじょう)にいってみた。見頃はちょっとすぎている感じで、花びらが落ちて地面をピンク色に染めていた。これはこれで、またイイ感じなのだ。

 


別記事にて精矛神社(くわしほこじんじゃ)の桜も紹介。こちらもどうぞ。

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帖佐館跡(稲荷神社)、島津義弘の居館

姶良市の鍋倉(なべくら)というところに稲荷神社が鎮座する。ここは島津義弘の居館跡である。文禄4年12月(1596年1月か)から慶長11年(1606年)にかけて居住し、「帖佐館」「帖佐御治所(ちょうさごちしょ)」「帖佐御屋地(ちょうさおやじ)」と呼んだりする。

石垣と桜の花

島津義弘が住んだ頃の石垣が残る

石段と石垣、その上に桜の木

帖佐館の大手口跡、ここの桜も見事

 

だいぶ葉が出てきてはいたが、けっこう花びらが残っていた。前日の雨で境内はしっとりとしていて、なかなかいい雰囲気だった。

石造りの記念碑を桜色が飾る

「惟新公邸之跡」と桜の木

鳥居と石段と桜の花

稲荷神社の鳥居から拝殿を見る

 


ちなみに稲荷神社は「高麗稲荷(こうらいいなり)」の別名がある。慶長3年(1598年)に島津義弘は朝鮮出兵に参加した。この遠征の中で泗川(しせん、サチョン、韓国南部にあるサチョン市)で勝利をおさめるが、この戦いでは狐の神威があったのだという。その狐にあやかって創建された神社なのだ。当初は高尾城(たかおじょう、平山城の支城)にあったが、のちに現在地に遷座している。

 

帖佐館跡の詳細はこちら。

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平山城跡(桜公園)、大隅合戦の激戦地

平山城は姶良市鍋倉にある。帖佐館跡(稲荷神社)のやや北に位置する。別名に「平安城(へいあんじょう)」「帖佐本城(ちょうさほんじょう)」「内城」とも。城域には帖佐八幡神社(鍋倉八幡神社、新正八幡宮ともいう)も鎮座する。曲輪の一部は「桜公園」として整備されている。桜はちょっと散り気味であった。

桜の花が散る、地面に花びらも

平山城の桜公園

鳥居と桜色の石段

八幡神社の石段に花びらが落ちる


平山城は13世紀に平山氏(紀姓)によって築かれた。平山氏は15世紀中頃まで大隅国帖佐を支配するが、島津氏に敗れてこの地を去る。その後は、島津氏分家の豊州家(ほうしゅうけ)のものとなり、豊州家が日向国に転封されたあとは島津本宗家の直轄地となった。

戦国島津氏は分家の相州家(そうしゅうけ)の島津忠良(しまづただよし)にはじまるが、この一族にとって平山城は縁のある場所だ。

大永6年(1526年)に島津忠良は本宗家の実権を握る。嫡男の島津貴久(たかひさ)は守護家の後継者となった。しかし翌年、帖佐地頭の島津昌久(まさひさ)が反乱を起こす。その討伐に島津忠良が出ている隙をついて、薩州家(さっしゅうけ、こちらも分家)が動く。相州家の支配する城を攻め落とし、宗家の拠点である鹿児島を奪い、隠居していた前当主を呼び戻した。薩州家が国政の主導権を握った。ここから、相州家と薩州家による紛争が10年以上続くことになる。

島津氏の内訌のどさくさにまぎれて、帖佐には祁答院重武(けどういんしげたけ)が進出。享禄2年(1529年)にこの地を支配下に置いた。祁答院氏は薩摩国北部に繁栄した渋谷(しぶや)氏の一族で、祁答院(鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院町のあたり)を領していた。

島津忠良・島津貴久は薩州家との抗争を制するが、領内には反発するものが多かった。祁答院良重(よししげ、重武の子)も反抗勢力の一翼を担い、たびたび島津氏と戦う。現在の姶良市の一帯は激戦地となった。

そして、天文23年(1554年)に祁答院良重・蒲生範清(かもうのりきよ、蒲生領主)が反乱を起こし、島津氏との全面戦争に突入する。この戦いは「大隅合戦」とも呼ばれ、弘治3年(1557年)の蒲生城陥落まで続いた。

平山城は島津氏によって攻め落とされた。祁答院良重は帖佐を失い、本拠地の祁答院に退いた。

 

平山城の詳細はこちら。

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島津貴久の戦いについてはこちらにまとめてある。

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岩剣城跡、島津貴久がここから攻略

岩剣城(姶良市平松)は薩摩国と大隅国の境界近くにある。尾根の先にあって三方は断崖だ。いかにも落としにくそうな城である。麓の岩剱神社に行ってみると、ちょっとだけ花が残っていた。

神社の境内に春の雰囲気

岩剱神社、背後の山が城跡

桜の花ごじに見る険しい地形の山城跡

白銀公園より岩剣城跡をのぞむ


大隅合戦は祁答院良重・蒲生範清らが加治木城(かじきじょう、姶良市加治木)を囲んだことが発端となる。天文23年(1554年)9月、島津貴久は動く。兵を向けたのは蒲生氏配下が守る岩剣城だった。すると敵方は加治木城の囲みを解いて、岩剣城の救援に動いた。島津軍は城を囲みつつ、野戦を展開する。10月、島津軍は岩剣城を攻め取った。

岩剣城をめぐる攻防戦では島津貴久の3人の息子たちも初陣を飾った。嫡男の島津義久(よしひさ)、次男の島津義弘(よしひろ)、三男の島津歳久(としひさ)である。この地から彼らの活躍は始まる。

 

岩剣城跡の詳細はこちら。

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蒲生城跡、大隅合戦の最終決戦の地

蒲生城は姶良市蒲生にある。別名に「竜ヶ城(りゅうがじょう)」とも。『三国名勝図会』によると「周囲二里三町餘(8kmちょっと)」と大規模な山城だ。現在は城山公園として整備され、二の丸の一部が桜公園となっている。

高台に桜が植えられている

桜の木に覆われた曲輪、ここから麓を見渡す


蒲生氏は、保安4年(1123年)に蒲生を治めるようになった藤原舜清(ふじわらのちかきよ)を祖とする。古くからこの地を治める一族である。

島津貴久が平松と帖佐を制圧したあとも蒲生範清は抵抗を続けた。蒲生城の守りは堅く、なかなか落ちない。島津方は周囲の支城を落とし、蒲生方の援軍を退けて、蒲生城を孤立させていった。

弘治3年(1557年)4月に落城。蒲生範清は祁答院氏を頼って逃亡した。島津貴久は西大隅を制圧した。

 

蒲生城についてはこちら。

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<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

ほか