ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

「姶良」という地名について

姶良

 

鹿児島県に「姶良(あいら)」という地名がある。

鹿児島湾の奥のほうには「姶良市」がある。「姶良郡」もある。現在の霧島市の一帯ももとは姶良郡だ。桜島の北側の湾は「姶良カルデラ」と呼ばれていたりもする。「姶良というと、あのあたりだな」と認識している人が多いことだろう。

でもこのあたりは、じつは「姶良」ではないのだ。大隅半島の南のほうの鹿屋市に「大姶良(おおあいら)」「吾平(あいら)」というところがあって、こっちのほうが本来の「姶良」なのだ。

 

 

 

大隅国の「姶羅郡」「姶良荘」「大姶良荘」

『続日本紀』によると、和銅6年(713年)に大隅国が設置されたとある。日向国から分立させてのもの、大隅国は「肝杯郡(きもつきのこおり)」「囎唹郡(そおのこおり)」「大隅郡(おおすみのこおり)」「姶羅郡(あいらのこおり)」の4つの郡が置かれていた。

この「姶羅郡」がどのあたりだったのかは、正確にはわからない。ただ、現在の鹿屋市のほうであったと考えられる。ちなみに、現在の「姶良市」のほうは囎唹郡のうちにあったことはほぼ確実で、「姶羅郡」はこっちのほうではない。

 

承平年間(931年~938年)頃に成立した『和名類聚抄』には、大隅国の姶羅郡に「野裏」「串伎」「鹿屋」「岐刀」の郷があったと記される。このうち「鹿屋」は現在も地名が残る、「串伎」は現在の串良だろう。現在の鹿屋市のあたりのかなり広い範囲が「姶羅」であったと推測される。

中世になると「姶羅郡」は消滅している。郡域は時代によってけっこう変わっていて、その中で再編された。大隅郡の中に姶良荘(あいらのしょう)・大姶良荘(おおあいらのしょう)があり、これらが現在の鹿屋の吾平・大姶良にあたる。17世紀以降の藩政時代はそれぞれ「姶良郷」「大姶良郷」とされた。

 

 

「始羅」と「姶羅」がごっちゃに?

姶良市周辺の「姶良」というのは、「始羅(しら)」の誤記であるようだ。

『三国名勝図会』では「始羅郡」と書かれている。同書では、郡内に加治木郷・帖佐郷・重富郷・蒲生郷・山田郷(現在の姶良市全域にあた)と、溝邊郷(現在の霧島市溝辺)が置かれていたとある。なんで「始羅」というのか、その由来はよくわからない。

 

和銅6年(713年)の大隅国の成立時には、始羅郡にあたる場所は囎唹郡のうちにあった。当初の囎唹郡はかなり広く、現在の霧島市・曽於市・姶良市・湧水町・鹿児島市吉田のあたりである。その後、郡域の西のほうが「桑原郡(くわはらのこおり)」として分立。さらに桑原郡から「始羅郡」が分立した。「始羅郡」の成立時期は不明。江戸時代にはその存在が確認でき、16世紀~17世紀初めの頃の成立だろうか。

古い資料を見ていると「始羅(しら)」がしばしば「姶羅」と記されている。字が似ていて、「始羅」を「姶羅」と見間違う人が多かったのだろう。混同されて、誤記の「姶羅(あいら)」のほうが定着してきてしまった、というところか。

そして、明治4年(1871年)に「姶良郡」が正式名称とされる。郡役所は加治木に置かれた。範囲は現在の姶良市・霧島市・姶良郡湧水町の一帯である。ちなみに霧島市は、国分市と「姶良郡隼人町」「姶良郡溝辺町」「姶良郡横川町」「姶良郡牧園町」「姶良郡霧島町」「姶良郡福山町」が2005年に合併したものである。

 

 

姶良町と吾平町

鹿児島県内には「アイラ」という町が二つあった。姶良郡姶良町と肝属郡吾平町である。

 

姶良郡姶良町はかつての帖佐郷・重富郷・山田郷からなり、明治22年(1889年)の市制町村制施行により姶良郡の帖佐村・重富村・山田村となる。その後、昭和17年(1942年)に帖佐村が帖佐町となる。昭和30年(1450年)に帖佐町・重富村・山田村が合併して「姶良町」となった。町名は「姶良郡」にちなむ。

 

肝属郡吾平町はかつての姶良郷。明治22年(1889年)の市制町村制施行で肝属郡姶良村となる。昭和22年(1947年)の町制施行にともなって「吾平町」となった。町内には吾平山上陵(あいらのやまのうえのみささぎ)があり、「アイラ」の漢字表記もこちらにあわせた。

なお、吾平山上陵は神代三陵の一つ。ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト(彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)の陵墓に比定されている。

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なお、2006年に吾平町は合併により鹿屋市の一部になった。鹿屋市の「吾平町〇〇」という字が現在も残る。姶良町は2010年に加治木町・蒲生町と合併し、現在は「姶良市」となっている。

この二つの「アイラ」は、現在も混同されがち。会話の中で「アイラ」と言って、どっちなのかわからないこともしばしば。だから、「アイラシ(姶良市)のほう」と言ったり、「鹿屋のアイラ(吾平)」「大隅半島のアイラ(吾平)」と言ったりもする。

 

 

阿比良比売/吾平津媛

カムヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命/磐余彦尊、神武天皇)の最初の妻は、東征の前に娶ったとされる。名はアヒラヒメ(阿比良比売、『古事記』より)、またはアヒラツヒメ(吾平津媛、『日本書紀』より)という。

この「アヒラ」というのは、大隅半島のアヒラ(吾平のほう)と関わりがあるのかも?

 

 

<参考資料>
『日本歴史地理体系第四七巻 鹿児島県の地名』
発行/平凡社 1998年

『六国史 巻参』増補版(『続日本紀』を収録)
編/佐伯有義 発行/朝日新聞社 1940年

『和名類聚鈔 20巻 第1巻-第10巻』
著/源順 編・校訂/正宗敦夫 発行/風間書房 1954年

『加治木郷土誌』
編/加治木郷土誌編纂委員会 発行/加治木町 1966年

ほか