16世紀半ばに、島津貴久(しまづたかひさ)は大隅国蒲生(かもう)を攻めた。この一帯での戦いは「大隅合戦」と呼ばれる。その中で激戦地となったのが松坂城(まつざかじょう)である。場所は鹿児島県姶良市蒲生町米丸。
松坂城跡は城域の一部を歩くことができる。荒々しい雰囲気の山城であった。
なお、日付は旧暦にて記す。
大隅合戦
天文23年(1554年)9月、島津貴久は大隅国始羅郡(しらのこおり、鹿児島県姶良市のあたり)の攻略に乗り出す。蒲生範清(かもうのりきよ)・祁答院良重(けどういんよししげ)らが、加治木城(かじきじょう、姶良市加治木町反土)を囲んだことをきっかけに島津貴久は鹿児島から出兵する。
島津貴久は岩剣城(いわつるぎじょう、姶良市平松)を囲む。敵方は加治木の囲みを解いて、島津方に向かってきた。島津方はこれを叩き、岩剣城も落とす。
天文24年(1555年)3月に祁答院良重の守る帖佐本城(ちょうさほんじょう、姶良市鍋倉)を落とすなど、島津方は帖佐を制圧した。そこから蒲生範清の本拠地である蒲生城の攻略にかかった。ただ、蒲生城は堅城であり、島津貴久は周囲のを城を潰して孤立化を狙う。
松坂城は2本の川が合流する場所にある。丘陵の西側と東側は、川が削った深い谷。要害である。守将は中原加賀という人物であった。
弘治2年(1556年)3月15日に島津貴久は松坂城に軍勢を派遣する。大将は島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)。島津忠平(島津義弘)は島津貴久の次男で、このときはまだ20歳くらい。梅北国兼も出撃し、若い大将を補佐した。この戦いでは、城を落とせなかった。
同年10月19日、島津方は再び松坂城を攻めた。今度は島津貴久も後詰として帖佐に陣取り、島津義辰(よしとき、島津義久、よしひさ、貴久の嫡男)も山田城(やまだじょう、姶良市上名)に入る。本隊の島津忠平(島津義弘)・梅北国兼が西の口から攻め込む。また、島津忠将(ただまさ、貴久の弟)が野首口より、島津尚久が水の手口より攻め立てた。総攻撃である。
本丸西側には「機落とし」と呼ばれる場所がある。城兵の妻子が機織り機を落として応戦したとも伝わる。
松坂城は陥落し、翌日には島津忠平(島津義弘)が漆(うるし、姶良市蒲生町漆)の祁答院氏の軍勢も破る。
島津方は蒲生城の周囲に布陣して圧力をかける。さらに弘治3年(1557年)4月には北村(きたむら、姶良市蒲生町北)を制圧した。
蒲生城は孤立した。蒲生範清は降伏を申し出る。4月20日、蒲生城は陥落する。
大隅合戦の詳細はこちらの記事にて。
切通を抜けて山中へ
蒲生の米丸から後郷川にかかる橋を渡ると、木津志のほうへと抜ける道がある。この道をどんどん山のほうに入っていくと、道路脇に「松坂城址」碑がある。ここから見える山が松坂城跡だ。
城址碑からちょっと坂を上がると、道路脇に広い空間があった。車をここに停めて散策へ。
車を置いた場所からちょっと道路を登っていくと、山の中へ入っていける道があった。
山に踏み入ると、だんだん山城っぽい雰囲気になっていく。曲輪っぽい地形があらわれる。山肌の土は白っぽい。シラスだろう。
さらに進んでいく。こちらの山が城の本体。
迫力満点の切通。ここを抜けていく。
切通を抜けたところにも曲輪跡があった。
ここから山のほうへ階段がある。このあたりが野首口。島津忠将が攻め入ったところである。
登っていく。段差状に配置された曲輪の地形がわかるところもある。
段差をあがって広めの平坦な場所に出た。このあたりが本丸なのかな? もう一段上へ。ここを登ると城の頂上へ行ける。
登りきると、そこは薮だった。
この曲輪には城址碑もある。ちょっと草を分け入っていくと記念碑の頭の部分は見えた。草があまりにすごくて、近づくことを諦めた。散策はここまで。
大隅合戦と関わりのある山城は、いずれも見応えあり。岩剣城跡の登城記、蒲生城跡の登城記、平山城跡(帖佐本城跡)の登城記、高尾城跡の登城記はこちら。
<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年
『蒲生の松坂城跡について』
調査者/下鶴弘 2016年
※南九州城郭談話会会報『南九州の城郭』38号
※姶良市デジタルミュージアムージアムのホームページに掲載
ほか