鹿児島県姶良市脇元に、国の史跡にも指定されている白銀坂(しろかねざか)というのがある。白銀坂の駐車場から赤い鳥居が見える。そこに鎮座しているのが愛宕神社(あたごじんじゃ)である。こちらをお詣りした。
山の端の絶景に祀られる
道路から見えるのは参道の入口だ。鳥居をくぐると崖沿いに石段が続いている。
急勾配だ。入口には上まで「170m」とあった。これは距離なのか? 高さなのか? けっこう登った気がする。
石段をのぼり切ると、ちょっとした広場に出る。小さな鳥居があり、その奥にお社がある。鳥居脇には山の方へ続く道もある。ちなみに、こちらへ行くと白銀坂へとつながる。
創建は寛保4年(1744年)。御祭神は火産霊命(ホムスビノミコト)。火の神であるが、軍神としても崇敬されている。もともとは社殿があったそうだが、建て直すたび暴風で壊れるため、ついには造営されなくなったという。石小祠があり、中には乗馬姿の石像が納められているとのこと。
ここは尾根の先端にあたる。眼下には街並みが広がり、鹿児島湾も見える。晴れていれば、霧島連山(写真の左奥)や隼人三島(写真の右奥)も見える。
白銀坂、薩摩と大隅の国境
鹿児島湾の西側には山塊があり、海沿いにずっと断崖が続いている。愛宕神社はその山塊の端っこにあたる。このあたりは大隅国で、薩摩国との国境の地でもある。薩摩国から大隅国へと抜ける道は山の中。国境は白銀坂のあたり。急峻な地形の難所である。
白銀坂には、江戸時代に整備された石畳の道が山中に続いている。ここは「薩摩街道」の「大口筋(おおくちすじ)」の一部にあたる。
島津義久・島津義弘・島津歳久の初陣の地
天文23年(1554年)、島津貴久(しまづたかひさ)は大隅国平松の岩剣城(いわつるぎじょう)を攻める。大隅合戦の始まりである。ちなみに愛宕神社は岩剣城から東へ1kmほどに位置する。
大隅国蒲生(かもう、姶良市蒲生)を領する蒲生範清(かもうのりきよ)、帖佐本城(ちょうさほんじょう、姶良市鍋倉)を拠点とする祁答院良重(けどういんよししげ)が島津貴久の軍勢と交戦する。
島津貴久は鹿児島から海路でこの地に入る。脇元の海岸から大軍を上陸させた。愛宕神社から見える海岸線がそこにあたる。そして、蒲生・祁答院方の岩剣城を囲む。
岩剣城の戦いでは島津貴久の3人の息子が初陣を飾った。長男の島津義辰(よしたつ、島津義久、よしひさ)、次男の島津忠平(ただひら、島津義弘)、三男の島津歳久(としひさ)である。
城方が平松に出てきて、白銀坂付近で戦闘になったとされる。島津義辰(島津義久)・島津忠平(島津義弘)・島津歳久らもこの戦いに参加した。これが、この兄弟の最初の戦いの記録である。
島津方は狩集(かりづまり、岩剣城の北)に本陣を置き、島津義辰(島津義久)は大将として父とともにこちらに布陣する。島津忠平(島津義弘)は梅北国兼(うめきたきにかね)らとともに別動隊として白銀に陣を敷いた。その場所は白銀坂から愛宕神社にかけての場所だったようだ。
蒲生・祁答院方は岩剣城の救援のために、平松に兵を送り込む。愛宕神社のふもとの一帯がたびたび戦場になったと思われる。敵が襲来するたびに、島津忠平(島津義弘)は白銀陣から撃って出ている。
蒲生・祁答院方は島津方の布陣を崩せず、岩剣城は孤立したままの状態が続く。ついには落城した。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年
ほか