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岩剣城跡にのぼってきた、島津義久と島津義弘が攻城戦で初陣を飾った

峻険な山が、街並みの中でひときわ存在感を放つ。それが岩剣城(いわつるぎじょう、岩剱城、岩劔城)である。その名がピッタリの鋭く屹立した山城なのだ。

場所は大隅国帖佐郷平松(鹿児島県姶良市平松)。白銀山(しろかねやま)の尾根の先端にあって、三方は断崖だ。「岩剣山」「剣の平」「剣の崖」とも称される。近隣の白銀森林公園からも、白銀山(しらかねやま)より岩剣城に連なる地形がよく見える。断崖側は攻め登るのが困難で、尾根側も空堀で行く手を遮ってある。守りは堅い。

尾根の先がもこっと盛り上がっている、ここに城があった

白銀森林公園から見る

青空の下に尾根が続く

白銀山(写真左)から尾根の先(右)が岩剣城

 

岩剣城は蒲生(かもう)氏によって築かれたと伝わる。築城者は祁答院良重(けどういんよししげ)とも。築城年代についてはよくわかっていないが、現地の説明看板では「享録2年(1523年)頃」としている。

天文23年(1554年)に島津貴久(しまづたかひさ、島津氏15代当主)が岩剣城を攻めた(岩剣合戦、岩剣城の戦い)。島津義久(よしひさ、貴久の長男、16代当主)・島津義弘(よしひろ、貴久の次男)、島津歳久(としひさ、貴久の三男)が初陣を飾った戦いとしても知られている。

 

 

 

 

とりあえず岩剱神社を目指す

県道57号沿いに「岩剣城跡登山口 1㎞」の案内板がある。そこから川沿いの細い道に入っていく。しばらく道なりに行くと、城の麓の岩剱神社(いわつるぎじんじゃ)に到着。広めの駐車場もある。ここに車を停めて散策へ。

岩剱神社は大己貴命(オオナムチノミコト)・保食命(ウケモチノミコト)を祭る。創建年代ははっきりしない。拝殿の向こう側には岩剣山(岩剣城跡)がそびえ、もともとは山体を御神体といていたようにも思われる。

新緑に包まれた神社、背後に城跡の断崖が見える

岩剱神社から岩剣城を見上げる

神社の入口には古い石橋もある。嘉永2年(1849年)に架けられたものなんだそうだ。

歴史を感じさせる石橋

岩剱神社の石橋

社伝によると、つぎのような話も残っている。岩剣合戦のときに御神体が白銀坂(しらかねざか)の島津貴久の陣に勧請された。そして、島津貴久は「この戦いに勝利したら、神舞を毎年奉納しよう」と願を掛け、城を落とした後に御神体を神社へ還した、と。その後は島津氏により軍神として崇拝された。平松に居館を置いた島津義弘はたびたび参拝し、神舞を奉納したという。

境内には「島津義弘公腰掛の石」なんてものもある。本当に腰掛けたのかどうかはわからないが、座るにはちょうどいい高さではある。

石の近くに「島津義弘公腰掛の石」の看板が立つ

島津義弘公腰掛の石

 

 

攻めるのはタイヘン

岩剱神社の拝殿の裏手に岩剣城跡への登山道入口がある。ここから登っていく。

森の中を進むと登山道

神社の社殿の裏手に登山口

 

しばらく登ると車道へ出る。車道を上へ。途中にはけっこう広い路肩スペースもある。ここに駐車して登城してもいい。車道沿いにさらに坂を上がっていくと、「岩剣城跡登山口」の看板。矢印のほうへ目をやると標柱がある。大手口になるそうだ。ここから山に入っていく。

車道沿いに「岩剣城登山口頂上まで20分」の案内板がある

岩剣城の登山道へ

登山口には白い標柱がある、地図で見学ルートも確認できる

いざ、城攻めじゃ!

 

道中はよく整備されている。登山道は草ぼうぼうということはなく、要所に地図も掲示されていて迷わず散策できるのはありがたい。とはいえ、登るのはタイヘンである。地形はまったくやさしくなく、ところどころはロープをつたって登ることになる。

急峻な地形で、ロープを使って登る場所もある

登山道は険しい

 

足元には小さなものから大きなものまで、石がゴロゴロとある。歩きにくい。攻め登るのは難儀しそう。石は守城側の武器にもなったと思われる。敵兵が歩きにくい山道で足を取られているところへ、上から投げつける、あるいは大きめの石を落とす、といった様子を想像させる。

足元には石がごろごろと

とにかく石が多い

 

息を切らせながら、本丸跡とされる曲輪に到着。当時のものと思われる石垣もあった。この上にはやや広めの平坦な空間がある。高く盛られた土塁もあって、そこにも石組みが確認できる。土塁の向こう側は深さ3mの空堀。尾根からの侵攻に対して、守りを堅めている。

曲輪跡に石垣が積まれている

山上に石垣も確認できる

曲輪の縁に高く盛られた土塁

本丸跡、左奥に土塁

 

尾根の先端に向かって、さらに曲輪が連なっている。そちらへ進んでいく。先端までいくと、ここが頂上になる。標高は220m。さらに、もう一段上がると眺望が開ける。眼下には姶良市街地が広がっている。ここから敵の動きも丸わかりなのだ。

平坦な地形が作られている、写真奥にちょっとした段差がある

尾根の先端方面の曲輪、ここは広い

視界が開けて姶良市街地を一望

山頂付近

 

岩剱神社から頂上までは40分ほどだった。写真を撮りつつ、休みをちょいちょち入れつつ、という感じで。急峻な地形は登るのがタイヘンだったが、下りるのもなかなか怖い。注意しながら下山して、1時間ほどの散策で神社まで戻った。

 

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岩剣城の戦い(岩剣合戦)

天文23年(1554年)から弘治3年(1557年)にかけて、島津貴久は大隅国加治木郷・帖佐郷・蒲生院(かじき・ちょうさ・かもういん、現在の姶良市一帯)で国人衆と激戦を繰り広げた。この一連の戦いは「大隅合戦」と呼ばれている。で、その緒戦となったのが岩剣合戦(岩剣城の戦い)である。

この頃、島津貴久は島津一族の覇権争いを制して、薩摩国の中南部を平定。薩摩の国守としての地位を固めつつあった。島津貴久は薩摩北部や大隅国へ支配を広げていくことになるが、薩摩と大隅の国境に立ちはだかったのが蒲生範清(かもうのりきよ)と祁答院良重であった。

蒲生氏は関白・藤原教通(ふじわらののりみち、藤原北家)の後裔を称する。平安時代後期に大隅国蒲生院(かもういん、姶良市蒲生)に下向して、この地を支配していた。

祁答院氏は13世紀に薩摩北部の地頭として下向した渋谷(しぶや)氏の一族で、桓武平氏・秩父氏の一派である。薩摩国祁答院(現在の鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院町)を領有し、この頃は大隅国の帖佐郷(姶良市の別府川沿いあたり)にも勢力を伸ばしていた。

蒲生氏・祁答院氏は、国人衆と連携して島津氏と対抗。手を組んだのは薩摩国入来院(薩摩川内市入来町・樋脇町)に勢力を持つ入来院重嗣(いりきいんしげつぐ、渋谷一族)、大隅国菱刈郡(伊佐市)の菱刈重州(ひしかりしげくに)、日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市のあたり)の北原兼守(きたはらかねもり、肝付氏庶流)などである。

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天文23年8月29日(日付は旧暦)、蒲生氏・祁答院氏・入来院氏・菱刈氏・北原氏の連合軍は加治木城(姶良市加治木町反土)に侵攻。島津氏傘下の肝付兼盛(きもつきかねもり、肝付氏庶流)を攻めた。肝付兼盛は網掛川に撃って出る。大隅国囎唹(そお)郡より島津方の援軍もあって侵攻を防いだ。島津方では清水城(きよみずじょう、現在の霧島市国分清水)の島津忠将(ただまさ、貴久の弟)、姫木城(ひめぎじょう、霧島市国分姫城)の伊集院忠朗(いじゅういんただあき、島津氏庶流伊集院氏、貴久の家老)、長浜城(ながはまじょう、霧島市隼人町小浜)の樺山善久(かばやまよしひさ、島津氏庶流樺山氏)が援兵を出している。

9月10日に蒲生方が再び加治木城を囲む。また、加治木の稲を刈った。9月12日、島津貴久は肝付兼盛を救うために鹿児島から出兵する。まずは兵を分けて吉田城(よしだじょう、大隅国吉田院、現在の鹿児島市吉田、蒲生の隣地)の守りを堅め、翌13日に帖佐郷平松の岩剣城を攻めた。このとき、岩剣城は西俣盛家(蒲生氏の部下)が守っていた。岩剣城を攻め取ることで蒲生院・祁答院方面との連絡路を断ち切り、加治木を攻撃中の反島津連合軍を孤立させる狙いであった。

戦いの中で稲刈りをした記録がたびたび出てくる。時期的にはまだ青田であろう。当時、米を奪われるというのをかなり嫌がったようだ。敵が稲刈りを始めると「俺たちの米を返せ!」と持ち主も黙っていられないのだ。

島津貴久は嫡男の島津義辰(よしとき、のちに島津義久と改名)を大将とし、伊集院忠朗を軍配として狩集(かりづまり、岩剣城からやや北)に布陣。島津貴久もこの陣に入る。そこから日當比良(ひなたびら、狩集からやや西)へ軍を進め、岩剣城の攻撃を開始した。

城方の兵が脇元に出てきたので、梅北国兼(うめきたくにかね、肝付氏庶流)・宅間与八左衛門らの隊が迎え撃ち、白銀坂付近で戦闘となった。島津義辰(島津義久)・島津忠平(ただひら、のちに島津義弘と改名)・島津歳久も日當比良より兵を率いて戦いに加わった。

島津貴久は島津尚久(なおひさ、貴久の弟)を狩集に遣わして兵を布陣。また、島津忠将の率いる大隅兵を帖佐に進軍させ、岩野原(現在の姶良市加治木町木田)で合戦。帖佐は脇元と加治木の中間にあたり、祁答院良重は帖佐城を拠点として活動していた。

14日、島津忠将が軍艦5艘を率いて脇元を攻撃した。

17日、島津忠平(島津義弘)が白銀坂に布陣。18日には島津忠将の大隅衆が50艘あまりの船を出してまた帖佐を攻撃した。さらに脇元に兵をかえして島津忠平(島津義弘)の鹿児島衆と合流。鉄砲を撃ちかけて敵を敗走させた。

眼下に市街地が広がる、海の向こうには神造島と大隅半島が見える

脇元の海岸付近、岩剣城より見る

 

20日、島津忠平(島津義弘)が兵を率いて脇元に撃って出る。人家に火を放ち、稲を刈らせた。帖佐軍(祁答院氏)がこれを阻もうと脇元に来襲したところで、あらかじめ伏せておいた兵が取り囲んだ。敵に大きな被害を与える。

20日には島津日新斎(じっしんさい、島津忠良、貴久の父)が陣中を訪れる。24日まで滞在した。何か策を授けたのか?

21日、島津忠平(島津義弘)が白銀陣の兵に命じて、脇元川(思川)上流にあった城方の船10艘を奪わせる。

22日、城方300人が焼山(狩集の近く)に登って陣を張った。狩集陣の部隊がこれを攻撃した。

30日、島津貴久・島津義辰(島津義久)が兵を繰り出し、星原(現在の重富小学校のあたり)で合戦。敵を敗走させる。

10月1日、島津貴久が諸将を集めて翌日の岩剣城総攻撃を決める。夜のうちに島津尚久の指揮で狩集の兵を城近くに伏せさせる。

10月2日、島津義辰(島津義久)が城の西門(大手門口か)から攻め、火をかける。島津尚久の部隊も城下に押し寄せた。一方、蒲生軍・帖佐軍(祁答院氏)は岩剣城を救うために兵2000を差し向けた。白銀陣の本隊は星原でこれを迎え撃った。激戦となるも、島津方は渋谷重経(祁答院良重の子)・西俣盛家などの有力武将を討ち取って敵軍を敗走させた。勝敗は決した。

岩剣城は孤立し、降伏を促すが降らず。夜になって城兵は逃亡。岩剣城は陥落した。

岩剣城には島津忠平(島津義弘)が城番として入る。険しい地形で不便だったために、麓に平松城を築いてここを居館とした。重富小学校が平松城の跡地である。現在も石垣が残っている。

「平松城跡」の標柱、小学校の塀には石垣も確認できる

麓の平松城跡

島津氏はこの戦いを足掛かりに、西大隅の攻略を進めていく。帖佐から祁答院氏の勢力を追い出し、弘治3年(1557年)には蒲生氏の本拠地である蒲生城(姶良市蒲生町)を陥落させた。蒲生氏は降伏し、西大隅を制圧する。

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集13 『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1973年

鹿児島県史料集27 『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1987年

鹿児島県史料集36 『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1997年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『姶良町郷土誌』
編/姶良町郷土誌改訂編さん委員会 発行/姶良町 1995年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか