ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

蒲生城跡にのぼってみた、島津氏の猛攻に抵抗した堅城

鹿児島県姶良市蒲生にある蒲生城(かもうじょう)跡にのぼってみた。標高約160mの竜ヶ山に築かれた山城で、竜ヶ城(りゅうがじょう)とも呼ばれる。竜ヶ山とは竜が爪を立て伏しているような姿からそういわれている。

鹿児島の城跡

蒲生城跡、西側から見上げる

 

『三国名勝図絵』(19世紀に薩摩藩が編纂した地理誌)によると、蒲生城について「周囲二里三町餘(8kmちょっと)、四方断崖峡谷、山林鬱葱、流泉混々として、守るに利あり、攻るに難し、實に天造の堅城なり」とある。実際に、島津貴久(しまづたかひさ、15代当主)軍が蒲生城を攻め、落とすのにかなり苦労している。

保安4年(1123年)に蒲生舜清(かもうちかきよ)が築城したとされ、弘治3年(1557年)に落城するまで蒲生氏の居城であった。

 

rekishikomugae.net

 

山塊には本丸・二ノ丸・三ノ丸・東が城・二階ノ城・倉ノ城・岩城・下ノ城などがある。現在は「蒲生城山公園(山坂達者の森)」として整備されている。二ノ丸付近は桜の名所として人気で、それなりに整備が行き届いている。本丸付近へも道が伸びている。

なお、現地の案内看板によると遊歩道はさらに広範囲にわたっているようだ。ただ、どうなっているのかはちょっとわからない。藪になっているところもあり、進むのはちょっと怖い感じがした。今回は二ノ丸・本丸のみの散策にとどめた。


まずは二ノ丸から

蒲生と鹿児島市吉田をつなぐ県道25号沿いを車で走っていると「城山公園」と書かれた青い看板が目に入る。そのあたりから山をのぼっていく道がある。くねくねとした林道を2㎞ほど進むと広い駐車場に出る。このあたりが二ノ丸である。二ノ丸はかなりの規模があり、曲輪が5段ほどに区画されている。駐車場は2段になっていて、ここも曲輪の一部だと思われる。

鹿児島の城跡

駐車場から二ノ丸跡の「桜公園」入口

 

上の段のほうの駐車場からは木造の門がふたつ見える、西方向と東方向に。まずは西の門へ。階段を上がると、広い曲輪がある。こちらは展望公園として整備されている。桜の木が植えられ、春は花見客で賑わう。「桜公園」という名前もある。眺望もがよく、麓の様子もよくわかる。敵の動きをしっかりと把握できたであろう。

 

鹿児島の城跡

桜公園は大きな曲輪だ

鹿児島の城跡

天気がいいと霧島連山まで見える

 

曲輪の隅には「蒲生城址」碑がある。昭和31年(1956年)に建てられたものだそうだ。碑の裏面には城の由来も刻字されている。

鹿児島の城跡

「蒲生城址」碑

 

桜公園から一段下がったところには展望所のような場所も設けられていた。ここが竜ヶ山の尾根の北の先端部分にあたる。眼下には蒲生の田園風景が広がる。

鹿児島の城跡

二ノ丸の展望所、東屋っぽいものも

鹿児島の城跡

ここが尾根の端っこ

こちらへは桜公園から降りてくるルートのほか、桜公園の外側をぐるりと回る道からもつながっている。外周の道は掘り込んであって、山城の雰囲気を感じられる。

鹿児島の城跡

「桜公園」の曲輪の外周

鹿児島の城跡

桜公園入口に脇には空堀

 

駐車場にもどって、東側も攻める。山門をくぐると長い階段が見える。こちらを登っていくと3分ほどで二ノ丸の頂上部分に到達。頂上には木造の展望台もあった。

鹿児島の城跡

もうひとつ山門がある

鹿児島の城跡

これを登るのかぁ……

鹿児島の城跡

物見櫓風の展望所

登ってきたのとは逆方向に下りる道がある。ここから本丸方面につながる。


本丸へ向かう

二ノ丸頂上からくだると、立派な堀切がある。堀切には舗装された道があり、その道沿いに南方向奥へと進んでいくと本丸だ。ちなみに、こちらの道は作業車両用のものと思われる。

鹿児島の城跡

本丸と二ノ丸の間の堀切

 

奥へ進むと右手の盛り上がったところが本丸、左手は崖だ。本丸は階段状に5段の曲輪に区切られている。登り口らしき地形も見えるが、草ぼうぼうで入っていけない感じ。途中本丸跡を示す看板があった。入口っぽいところを登ってみたが、そこは薮だった。

鹿児島の城跡

右側が本丸、左側は崖

鹿児島の城跡

本丸を示す看板、入口っぽいけどのぼると薮

 

さらに登っていくと、登り口っぽいものを発見。ここを登ってみる。すると、けっこう広めの空間がある。ここが本丸の最上段である。奥へ進んでいくと、大きな土塁もあった。

鹿児島の城跡

ここは登れる、本丸の最上段へ

鹿児島の城跡

本丸跡

鹿児島の城跡

大きな土塁もあった

道はここまでだったが、本丸の先には倉ノ城があるとのこと。また、現地看板の地図によると岩城や「竜ヶ城摩崖一千梵字仏蹟」のほうへ下りていく道もあるようだが、見つからなかった。薮でふさがっている?

来た道を引き返し、堀切まで戻る。案内標識は3方向を示している。「二ノ丸」と「本丸」と、そして「水の手」と。水の手のほうへ下りてみた。しばらく進むと池があった。城で利用した水源地だろうか。

鹿児島の城跡

これが「水の手」か

さらに進むと、二ノ丸の外周をぐるっとまわるように道が続いている。桜公園入口付近の空堀に至る。そこから駐車場に戻った。


竜ヶ城摩崖一千梵字仏蹟

蒲生城の北側の岩肌に、大量の梵字が彫りこまれている。「竜ヶ城摩崖一千梵字仏蹟」と呼ばれる史跡がある。こっちにも立ち寄る。

車に乗り込んでいったん山をおり、蒲生城北側の車道から回り込む。二車線の道沿いに案内の標柱があるので、そこからやや細い道を入って登っていくと。仏蹟の登山口に到着する。入り口付近には車を停められるスペースもある。

鹿児島の城跡

「竜ヶ城摩崖一千梵字仏蹟」の登山口

山へ入っていくと石段が続く。登っていくと岩肌が見えてきた。無数の梵字がある。派手ではないけど、すごい数だ。

鹿児島の城跡

梵字がいっぱい

 

なお、梵字の数は1000ではなく1700くらいあるそうだ。誰がいつ頃に彫ったものなのかは、よくわかっていない。この梵字群について伝える史料もいまのところ見つかっていないようだ。時代については鎌倉時代中期かそれ以前のものと推測されている。また、「高橋義盛」「高橋」「義盛」「妙盛」「妙春」といった刻字もあるが、これらの人物についてもまったくわかっていない。謎だらけの史跡である。

岩壁のすぐそばまで行けるが、足元がだいぶぬかるんでいる。どこからか水がしみ出しているようだ。無理に進むのは、危なそうである。

 

蒲生の歴史

「蒲生」という地名は、承和7年(840年)に完成した勅撰史書日本後紀』が初出とされている。大隅国桑原郡(くわはら)の「蒲生駅」が置かれていたと記されている。駅(えき、うまや)というのは国の施設である。役人が移動するときなど、ここで馬を乗り継いだ。蒲生駅薩摩国衙(現在の鹿児島県薩摩川内市御陵下町国分寺町のあたり)と大隅国衙(霧島市国分府中のあたり)の間にある。また、南方向には吉田を経由して鹿児島に抜ける。北薩摩・南薩摩・大隅の中継点であり、まさに交通の要衝だ。

 

rekishikomugae.net

rekishikomugae.net

 

蒲生はもともと桑原郡内にあったが、「蒲生院(かもういん)」と呼ばれるようになる。「院」というのは古代の倉院に由来するという。倉院は租税の米を管理し、管轄する区域は「〇〇院」とひとくくりにされた。院は、郡や郷のように行政単位として扱われた。

南九州には巨大荘園が出現する。島津荘(しまづのしょう)と大隅八幡宮おおすみしょうはちまんぐう、鹿児島神宮)領である。蒲生院は多くが大隅八幡宮領であった。

 

rekishikomugae.net

 

11世紀から12世紀にかけて、大隅八幡宮に行賢(ぎょうけん)という人物がいた。執印職(しゅういんしき、神宮の管理者)として荘園の拡大を進めた。ちなみに、行賢は惟宗氏(これむね、秦氏の一族)とされ、父は大隅国司であったという。保安4年(1123年)、藤原舜清(ふじわらのちかきよ)が行賢より蒲生院を任されて、この地に入部する。この藤原舜清が蒲生氏を名乗った。

 

rekishikomugae.net

 

蒲生舜清(藤原舜清)は、関白の藤原教道(ふじわらののりみち、藤原道長の五男)の後裔を称する。父は検校坊教清(藤原教清)といい、豊前国宇佐(現在の大分県宇佐市)の宇佐八幡宮の留守職であったという。教清は宇佐八幡宮宮司の娘を妻とし、生まれた子が舜清である。藤原舜清は保安年間に大隅国の下大隅垂水(現在の垂水市)にまず下向し、そのあと蒲生院に移った。

蒲生舜清は蒲生城を築き、これを本拠地とした。また、宇佐八幡宮より勧請して、蒲生正八幡若宮(蒲生八幡神社)も創建した。この神社には推定樹齢1500年の「蒲生の大楠」もある。

鎌倉期になると島津忠久薩摩国大隅国日向国守護職、および島津荘の地頭職に補任される。建久8年(1197年)の大隅国図田帳によると蒲生院は大隅八幡宮領で、地頭職は中原親能(なかはらのちかよし)。蒲生氏は正宮の支配下にあったようだ。

 

rekishikomugae.net

 

南北朝争乱初期(1336年~1350年頃)、蒲生氏は北朝方にあったようだ。島津貞久に従って蒲生太郎なる人物(9代・蒲生直清か)が戦っている。その後、幕府分裂(観応の擾乱、1350年前後)にともなって足利直冬(あしかがただふゆ)が九州で勢力を広げると、蒲生氏は直冬陣営(佐殿方)に参加したと見られる。『西藩野史』によると佐殿方・畠山直顕(はたけやまただあき)の配下に蒲生彦四郎(10代・蒲生清種、きよたね)が名を連ねている。

 

rekishikomugae.net

 

14世紀末までに島津氏が南九州の支配を強めていく。蒲生氏も島津氏に従うようになった。さらには大きな信任を得ていたようである。12代・蒲生清寛(きよひろ)は守護の島津元久(しまづもとひさ、島津氏7代)の国老に任じられた。

15世紀前半は、島津氏の中で覇権争いが続く。

貞治2年・正平18年(1363年)に逝去した島津貞久(さだひさ、島津氏5代)は後継者をふたり指名した。三男・師久に薩摩国守護を、四男・氏久に大隅国守護を譲ったのだ。島津師久は上総介を称していたことから、こちらの家系を「総州家」という。一方、島津氏久陸奥守を称していたので、こちらを「奥州家」という。南北朝争乱期には兄弟はよく協力した。しかし、子の代になり、孫の代になり……と血縁関係が希薄になるとそうもういかなくなる。さらに、共通の敵もいなくなり、総州家と奥州家は対立するようになった。
なお、幕府からは奥州家が大隅国守護・薩摩国守護・日向国守護に任じられ、こちらが主導権を握る。蒲生氏は奥州家についた。

応永8年(1401年)、薩摩国北部の鶴田(つるだ、鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田)で奥州家と総州家の合戦があった。これに蒲生清寛は従軍し、戦後には島津元久から加増を受けている。

 

rekishikomugae.net

 

応永18年(1411年)に島津元久が急死すると、伊集院頼久(いじゅういんよりひさ、島津氏庶流)が奥州家をわがものにしようと動く。頼久の子の初犬千代丸(伊集院煕久、ひろひさ)を元久の後継者に擁立して家督を継がせようとした。蒲生清寛ら国老たちは相談し、元久の弟である島津久豊(ひさとよ)に知らせた。伊集院頼久は兵を率いて鹿児島に入り、元久の葬式を行なった。そこへ、島津久豊が駆け入る。初犬千代丸が持っていた位牌を奪い、葬式を終わらせた。家督は島津久豊が継ぐことになった(8代当主に)。

伊集院頼久は島津久豊に対して反乱を起こす。これには総州家の島津久世(ひさよ)も同調する。奥州家vs.伊集院・総州家の戦いが展開されることになる(伊集院頼久の乱)。蒲生清寛は島津久豊の配下として、この戦いで活躍する。また、蒲生忠清(ただきよ、清寛の子、蒲生氏13代)も久豊の国老に任じられた。

 

rekishikomugae.net

 

奥州家は伊集院頼久の反乱を治め、さらには永享2年(1430年)には総州家も滅ぼし、島津の混乱をいったんは治めた。しかしながら、国衆の反乱は頻発し、島津氏の分家も独自に争うようになっていく。15世紀半には蒲生院近くの帖佐郷(ちょうさ、姶良市帖佐)に豊州家(ほうしゅうけ、島津氏分家)の島津季久(しまづすえひさ)が入った。豊州家は蒲生院に攻めかかる。当時の蒲生氏の当主は15代・蒲生宣清(のぶきよ)であった。蒲生宣清はまだ16歳と若く、持ちこたえるのは困難だった。長録3年(1459年)、島津忠国(ただくに、9代当主)は蒲生宣清に薩摩国給黎(きいれ、鹿児島市喜入町)を与え、こちらへ国替えとなった。蒲生院はしばらく豊州家の支配下にあった。

 

rekishikomugae.net

 

明応4年(1495年、明応5年説もある)、蒲生宣清に再び蒲生が与えられる。蒲生氏は37年ぶりに旧領に復した。

 

rekishikomugae.net

 

享禄2年(1529年)に17代当主となった蒲生茂清(しげきよ)は養子である。16代・蒲生充清(みつきよ)には男子がなかったため、種子島忠時に嫁いだ姉の子に娘をめあわせてを養子に迎えて後継者とした。

その頃の薩摩・大隅は内紛の真っ最中である。奥州家(宗家)の家督をついだ島津貴久(たかひさ、15代、もとは相州家・伊作家)と、それに反発する薩州家・島津実久(さねひさ)、さらには家督継承をなかったことにした島津勝久(かつひさ、14代)が守護の座をめぐって争っていた。天文8年(1539年)頃に島津貴久が薩摩中南部を平定するが、薩摩北部や大隅の領主たちはすんなりと従わないのである。

天文18年(1549年)、肝付兼演(きもつきかねひろ)は入来院重朝(いりきいんしげとも)・東郷重治(とうごうしげはる)・祁答院良重(けどういんよししげ)・蒲生茂清と共謀して島津を攻撃。大隅国吉田院(鹿児島市吉田)の松尾城(まつおじょう)を襲った。

肝付兼演は肝付氏庶流で、大隅国加治木(鹿児島県姶良市加治木)の領主。入来院氏・東郷氏・祁答院氏は薩摩国北部に勢力を持つ渋谷一族である。

島津貴久の軍勢は、吉田で連合軍を押し返し、さらに加治木を攻めた。肝付兼演は降伏し、蒲生茂清とともに島津貴久のもとへ行き、謝罪した。

この直後、天文19年(1550年)に蒲生茂清は亡くなり、蒲生範清(のりきよ)が18代当主となった。

天文23年(1554年)、蒲生範清と祁答院良重が島津貴久に反旗をひるがえし、島津氏方についた肝付兼盛(かねもり、兼演の子)を攻撃。加治木城を囲んだ。入来院重嗣(いりきいんしげつぐ、重朝の子)・菱刈隆秋(ひしかりたかあき)・北原兼守(きたはらかねもり)も来援し、攻撃に加わった。島津貴久は加治木城を救うために出兵し、帖佐郷平松(姶良市平松)にある岩剣城(いわつるぎじょう)を囲んだ。「岩剣城を攻めれば加治木の囲みを解いて救援にくるだろう」という狙いがあった。

島津方は島津貴久をはじめ、貴久の弟の島津忠将(ただまさ)・島津尚久(なおひさ)、貴久の子の島津義辰(島津義久、よしひさ)・島津忠平(島津義弘、よしひろ)・島津歳久(としひさ)など、一族総出で戦いにのぞんだ。岩剣城は堅固であったが、島津氏の猛攻を受けて落城する。蒲生氏・祁答院氏連合軍は岩剣城救援のために兵を送るが、平地での合戦も島津方が制した。

 

rekishikomugae.net

 

rekishikomugae.net


島津方は岩剣城を奪ったあと、蒲生氏・祁答院氏の攻略をさらに進めていく。そして、島津方は蒲生城の開城を求めるが、蒲生範清はこれをつっぱねた。弘治2年(1556年)、島津貴久は蒲生城攻めを開始する。

島津貴久は支城を落として本城を孤立させる方法を選んだ。一気に総攻撃をかけるには攻め落とせないと考えたのだ。3月に松坂城(まつざかじょう、姶良市蒲生町米丸)を攻撃。大将は島津忠平(島津義弘)が務め、梅北国兼うめきたきにかね)もこれに従った。島津忠平(島津義弘)が矢や弾丸が飛び交う中へ先頭を切って攻めかかった。その姿は大いに士気を上げたという。城方もよく戦い、双方ともに大きな被害を出す。島津方はいったん兵を退いた。10月に再び攻める。島津方は後詰めとして島津貴久が帖佐に軍を進め、島津義辰(島津義久)が山田に入った。野首口に島津忠将が、水の手口に島津尚久が陣取り、島津忠平(島津義弘)・梅北国兼が率いる本隊が西の口から攻めかかった。ほうぼうから攻められて松坂城はついに落ちる。蒲生範清・祁答院良重も松坂城救援の兵を出すが、これも島津貴久の軍が敗走させた。

落城の翌日、島津忠平(島津義弘)は松坂城の北の漆(うるし)に兵を進めた。漆の栫野城や遠江ヶ塁には祁答院氏の部隊が在陣していた。だが、兵たちはろくに戦わずに祁答院へ逃亡した。漆を抑えることで、祁答院から蒲生への補給路を断った。

11月、島津軍は蒲生城を攻めるために、城を包囲するように部隊を配置した。島津義辰(島津義久)・島津忠平(島津義弘)は蒲生城の西側に陣取る。東方向の蒲生新城には島津尚久が在番していて、ここに島津貴久も入った。島津忠将は馬立(住吉池の近くの丘)に陣取って蒲生城を北から見る。

12月も菱刈重豊が蒲生氏救援のために軍を進め、米丸に陣取った。島津軍は菱刈勢に難儀するが、弘治3年(1557年)4月に総攻撃を仕掛ける。菱刈重豊はよく戦ったが追い込まれ、戦場で切腹した。

菱刈勢が敗れたことで、蒲生城は支城の北村城との連絡も絶たれ、孤立する。城中の食料も底を尽く。蒲生範清は使者を島津方に遣わして降伏を願い出る。弘治3年(1557年)4月20日、蒲生範清は城を棄てて祁答院へ落ちていった。

蒲生氏は所領を失った。島津領となった蒲生院には、比志島(ひしじま)氏が地頭として入った。

のちに蒲生地頭には長寿院盛淳(ちょうじゅいんあつ、阿多盛淳)が入った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際に、島津義弘が兵が揃えられず困っていると知り、長寿院盛淳は蒲生と帖佐の衆を率いて参陣する。合戦は半日で決した。戦場に取り残された島津隊は、徳川家康の本陣めがけて突進。前方への撤退である。島津隊は家康本陣をかすめるように進路をとって戦線を離脱した。これは「島津の前退」「島津の退き口」と呼ばれている。この退却戦で長寿院盛淳は島津義弘の陣羽織を着て戦い、その身代わりとなって戦死した。

薩摩藩では外城制という地方統治の仕組みがある。各地に武士を住ませて、集落を「麓(ふもと)」あるいは「郷(ごう)」と呼んだ。蒲生も麓集落が形成され、武家町の雰囲気がよく残っている。

蒲生麓は「薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群『麓』を歩く~」の構成文化財のひとつとして文化庁の「日本遺産」にも認定されている。


<参考資料>
『蒲生郷土誌』
編/蒲生郷土史編さん委員会 発行/蒲生町 1991年

『島津国史
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図絵』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集13 『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1973年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島県の歴史』
著/原口虎雄 出版/山川出版社 1973年

ほか