ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

2022-01-01から1年間の記事一覧

出水麓の「税所邸」、抜け穴があったり隠し部屋があったり

江戸時代の鹿児島藩(薩摩藩)では、外城制という地方統治の仕組みがあった。各地に武士団を配置し、その集落を「外城(とじょう)」あるいは「麓(ふもと)」「郷(ごう)」と呼ばれた。 薩摩国の出水麓(いずみふもと、鹿児島県出水市麓町)は、外城の中で…

出水麓の「竹添邸」、薩摩の武士の暮らしを垣間見る

出水麓(いずみふもと、鹿児島県出水市麓町)は薩摩国の北部に位置する。ここは肥後国との国境が近いこともあって、精強な武士団が守っていた。 江戸時代の島津家は領内に「外城(とじょう)」を設けて地方統治の拠点とした。また、有事の防衛拠点でもあった…

出水麓歴史館で薩摩武士の気風に触れる、武家町散策はまずここから

鹿児島県出水市にある「出水麓武家屋敷群」にいってきた。個人的には、かなり久々の訪問である。たぶん10年ぶりくらいだろうか。まえに来たときとは、ちょっと変わっている。新しく「出水麓歴史館」というのが出来ていた。こちらは2017年にオープンしたとの…

北山の梅北神社と下城跡、梅北国兼は叛逆者か? それとも忠臣か?

鹿児島県姶良市に北山というところがある。ここはだいぶ山深い感じだ。県道446号を走っていくと、森の中に忽然と参道口が現れる。梅北神社(うめきたじんじゃ)である。 林道の中に鎮座 御祭神は梅北国兼(うめきたくにかね)。天正20年(1592年)に豊臣政権…

山神社と旧参道へ、霧島神宮の本殿脇から山に入っていくと

霧島神宮は鹿児島県霧島市霧島田口に鎮座する。天孫降臨の神話が息づく、格式の高い神社である。島津(しまづ)氏の崇敬も篤く、境内は壮麗な雰囲気なのだ。 勅使殿の向かって左から山のほうへ入れるようになっている。こちらへも行くべし! 霧島神宮の見ど…

霧島神宮へお詣りに、見上げる霊峰は天孫降臨の伝承地

ニニギノミコトが天降ったことから日向三代(ひむかさんだい)の物語が始まる。「天孫降臨」である。そして、建国へとつながっていく。『古事記』や『日本書紀』にはそう記されている。 高千穂峰(たかちほのみね)は天孫降臨の伝承地とされる。そのふもとに…

霧島神宮古宮址、かつての鎮座地は高千穂峰のすぐ近く

霧島神宮(きりしまじんぐう)は高千穂峰(たかちほのみね)の麓に鎮座している。かつては、もっと山の近くにあった。 現在の境内から7㎞ほどの道のりを登っていくと、高千穂河原(たかちほがわら)にいたる。ここは標高約970m。高千穂峰への登山口がある場…

鹿児島の一之宮神社へお詣りに、天智天皇と大宮姫の伝説も息づく

一之宮神社(いちのみやじんじゃ)は鹿児島市郡元に鎮座する。鹿児島市内でもっとも古い神社とも言われている。創建は天智天皇の御代(7世紀後半)と伝わる。 御祭神は大日靈貴命(オオヒルメムチノミコト)。天照大神(アマテラスオオミカミ)と同一とされ…

佐敷城跡にのぼってみた、加藤清正が築いた堅城、梅北一揆で占拠されたりも

山の上に石垣が見える。のぼってみると、すごい眺めだ! 「天空の城」という感じである。 佐敷城(さしきじょう)は肥後国佐敷(熊本県葦北郡芦北町佐敷)にあった。花岡山に築かれていて、花岡城という別名もある。築城時期は不明。天正16年(1588年)頃か…

山田の凱旋門! 日露戦争の勝利を祝して、こんなの建てちゃった

鹿児島県姶良市の山田地区に、やたらと立派な凱旋門がある。明治39年(1906年)3月に山田村兵事会が建設したものだ。前年に日本はロシアとの戦い(日露戦争)で勝利し、これを記念してつくられた。 山田の凱旋門 当時、日本全国で凱旋門が建造された。日露戦…

肥後国の戦火、島津と龍造寺のはざまで/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(5) 

天正6年(1578年)11月、島津と大友が激突した。合戦の地は日向国の高城川原(たかじょうがわら、宮崎県児湯郡木城町高城)。「高城川の戦い」または「耳川の戦い」と呼ばれるものである。 島津義久(しまづよしひさ)はこの戦いに勝利する。一方の大友軍は…

イザナギノミコトが禊祓いをした阿波岐原(檍原)、曽於南之郷の伝承地をめぐる

イザナギノミコトは黄泉国(よもつくに)を脱して、『古事記』によると「竺紫日向之橘小門之阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのおどのあはきがはら)」へといたる。『日本書紀』では「筑紫日向小戸橘之檍原」と記される。そして、身をすすぎ清め、その際…

曽於末吉の佐久良谷、セオリツヒメの住まうという聖域

「佐久良谷(さくらだに)」は鹿児島県曽於市南之郷の山奥にある。「桜谷」とも書く。こちらを訪問した。 この地は『三国名勝図会』で知った。絵図がやたらと目をひく。なんだか強烈な印象を受けるのだ。同書の解説によると「神代の舊跡」だという。 『三国…

市来湯田の稲荷神社をお詣りした、創建したのは島津忠久の母!?

稲荷神社は島津氏の氏神である。そのひとつが市来湯田(いちきゆだ、鹿児島県日置市東市来町湯田)に鎮座する。境内は重厚な雰囲気である。かなりしっかりとした造りで、大事にされてきたことがうかがえる。 承久3年(1221年)に丹後局(たんごのつぼね)が…

西田橋と高麗橋と玉江橋、鹿児島の城下町の風情をつたえる

鹿児島市にある石橋記念公園・祇園之洲公園には、アーチの美しい石橋がある。これらは19世紀半ばにつくられたもので、もともとは甲突川(こうつきがわ)に架けられていた。上流から玉江橋(たまえばし)・新上橋(しんかんばし)・西田橋(にしだばし)・高…

『関ヶ原 島津退き口 -義弘と家康―知られざる秘史-』(著/桐野作人)、撤退戦の壮絶さを生々しく描き出す

「島津の退き口(しまづののきぐち)」。慶長5年9月15日(1600年10月21日)の関ヶ原の戦いの一場面である。島津義弘(しまづよしひろ)の「戦場の鬼」っぷりを印象づけるエピソードのひとつだ。 島津義弘は敗軍の将となり、戦場の真っ只中に取り残された。手…

祇園之洲砲台跡、大英帝国の艦隊と激しく撃ち合った!

文久3年(1863年)、薩摩藩(鹿児島藩)はイギリス艦隊と戦った。薩英戦争である。薩摩藩は領内に砲台場を整備していた。そのひとつが祇園之洲(ぎおんのす)の砲台場である。鹿児島市清水町にある。ここは激戦地となった。 現在、祇園之洲砲台跡は祇園之洲…

鹿児島神社(宇治瀬大明神)をお詣り、桜島と深く関わる鹿児島の地主神

鹿児島神社(かごしまじんじゃ)は鹿児島市草牟田に鎮座する。御神号は宇治瀬大明神(うじせだいみょうじん)。「宇治瀬様(うってさぁ)」とも呼ばれている。 由緒をたどると、かなり古い神社のようだ。ここは南九州の古代の信仰もちょっと感じられる。「鹿…

肝付一族についてまとめてみた、南九州に伴氏が根付き、そして枝葉を広げた

南九州の歴史を見ていくと、肝付(きもつき)一族の存在感がすごく大きいのだ。その歴史はかなり古い。 支流氏族もかなりある。萩原(はぎわら)・安楽(あんらく)・和泉(いずみ)・梅北(うめきた)・救仁郷(くにごう)・北原(きたはら)・川路(かわじ…

谷山城跡にのぼってみた、懐良親王を迎え入れて薩摩の南朝方の拠点に

谷山城(たにやまじょう)は薩摩国谿山郡(たにやまぐん、たにやまのこおり)にあった。場所は鹿児島市下福元町。シラス台地の丘陵に城郭群が築かれている、その東端に谷山本城(たにやまほんじょう)、さらに尾根に向かって弓場城・陣之尾城が連なる。谷山…

富隈城跡にいってみた、大隅国に築かれた島津義久の居城

富隈城(とみくまじょう)は、島津氏16代当主の島津義久(しまづよしひさ)が拠点とした城である。場所は鹿児島県霧島市隼人町住吉。富之隈城ともいう。 文禄4年(1595年)、島津義久は薩摩国鹿児島にある内城(うちじょう、鹿児島市大竜町)から大隅国の富…

石體神社は高千穂宮の跡地? 鹿児島神宮がもともと鎮座していたところ

石體神社(しゃくたいじんじゃ)は鹿児島県霧島市隼人町内に鎮座する。鹿児島神宮(かごしまじんぐう)から水路沿いを北西方向にちょっと行ったところに位置し、その摂社でもある。こちらもまた、なかなか雰囲気のある神社である。 ヒコホホデミノミコトが住…

写真が真っ白! 露出調整が不調になった、その原因はレンズの絞り羽根に

いつものように撮る。カメラの液晶画面を見て違和感を感じた。写真が真っ白なのだ。明らかに露出オーバーである。困った。 私が体験したカメラのレンズに関する出来事について、今回は記事にしてみた。同じような状況に遭遇した人の参考にでもなれば、と。 …

鹿児島神宮の本殿の裏手から参道が続く、末社の稲荷神社はなんとも不思議な雰囲気

鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は大隅国の一之宮。鹿児島県霧島市隼人町内に鎮座する。その歴史は神代から続くとされる。規模も大きく、摂社や末社も多く、稲荷神社も末社のひとつである。 こちらの稲荷神社は不思議な雰囲気。いかにも神威が強そうな感じな…

鹿児島神宮へお詣りに、ヒコホホデミノミコトと八幡様が南九州を鎮護する

鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は大隅国一之宮である。鹿児島県霧島市隼人町内に鎮座する。 ここは「神話が息づく」という言葉がぴったりの雰囲気だ。そして、南九州でもっとも大きな力を持っていたと考えられる神社で、歴史にも大きく絡んできたのである。…

新納院高城跡にのぼってみた、大軍に囲まれても落ちず、大友軍も豊臣軍も攻めあぐねた

天正6年(1578年)、島津(しまづ)と大友(おおとも)がぶつかった! 場所は日向国の高城川原(たかじょうがわら)。現在の宮崎県児湯郡木城町高城の一帯である。両軍ともに数万の兵を動員する大合戦。「高城川の戦い」「高城川原の戦い」「高城合戦」、あ…

耳川の戦い(高城川の戦い)/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(4)

天正5年12月(1578年1月)、島津義久(しまづよしひさ)は伊東義祐(いとうよしすけ)との戦いを制し、日向国(現在の宮崎県)を支配下においた。島津義久は薩摩・大隅・日向の3ヶ国の守護である。名実ともに「三州の太守」となったのである。 一方で、島津…

大友能直って何者なの? 大友氏の出自をちょっと調べてみた

大友(おおとも)氏は豊後国・豊前国(現在の大分県)を拠点に九州北部に君臨した一族である。その歴史は、大友能直(おおともよしなお)がこの両国の守護に任じられたことに始まる。 大友氏の出自を調べていくと、気になることも出てくるのである。 大友能…

田布施城(亀ヶ城)跡にいってみた、相州家の本拠地、島津貴久はここで誕生

田布施城(たぶせじょう)は薩摩国田布施(鹿児島県南さつま市金峰町)にあった山城だ。別名に亀ヶ城(かめがじょう)ともいう。現在は城跡に亀ヶ城神社が鎮座している。 この城は、島津氏の分家のひとつである相州家(そうしゅうけ)の居城だった。相州家3…

黒島神社を『三国名勝図会』より、石橋の向こう側は女人禁制だった

田園風景の中に鳥居が見つかる。山の麓に黒島神社(くろしまじんじゃ)は鎮座。なんとも独特な雰囲気の神社である。場所は鹿児島県姶良市の山田地区(姶良市上名)。県道40号沿いに小さな案内看板があり、そこから小道に入って北上すると着く。 山の麓に鳥居…