ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

山神社と旧参道へ、霧島神宮の本殿脇から山に入っていくと

霧島神宮は鹿児島県霧島市霧島田口に鎮座する。天孫降臨の神話が息づく、格式の高い神社である。島津(しまづ)氏の崇敬も篤く、境内は壮麗な雰囲気なのだ。

勅使殿の向かって左から山のほうへ入れるようになっている。こちらへも行くべし! 霧島神宮の見どころはまだまだある。

 

霧島神宮についてはこちらの記事にて。

rekishikomugae.net

 

 

 

 

 

 

 

山神社

本殿脇のほうへ。こちらは静かな雰囲気だ。

木々の中を歩く

社殿の左手のほうへ

 

山道に出る。「高千穂嶽道(おたけみち)」と呼ばれる古道である。ずっと登っていけば高千穂峰(たかちほのみね)の麓の高千穂河原(たかちほがわら)まで続いている。実際に歩くとなると高千穂河原まで3時間ほどかかるようだ。道案内の看板には「山神社(やまじんじゃ)」とある。ここを目指す。

鬱葱とした山道

高千穂嶽道に出る

 

山道を歩いていくと、すぐに白木の鳥居があらわれる。山神社である。ここは、なんだかすごい雰囲気なのだ。

杉木立の中に白木の鳥居

山神社の入口



杉木立の奥のほうに小さな石祠が鎮座する。お詣りする。

杉木立に石祠がある

鳥居の向こうには、こんな空間が広がる

森の中の神様

山神社の石祠

 

御祭神は大山祇神(オオヤマツミノカミ)である。霧島神宮の御主神はニニギノミコト(天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊、アメニギシクニニギシアマツヒタカホコホノニニギノミコト)。その妻のコノハナサクヤヒメノミコト(木花開姫尊)も相殿神として祀られている。コノハナサクヤヒメノミコトはオオヤマツミノカミの娘である。

山神社は霧島神宮本殿の裏手の山の中。オオヤマツミノカミが婿と娘を見守っているような位置関係となっているのだ。

創建時期はよくわらず。『霧島神宮誌』によると、山での作業安全を祈願して猪・雉・椎茸・野菜なども奉納される祭りも行われるそうだ。

 

 

 

 


旧参道へ

山神社から引き返す。下への道がある。「亀石坂」とある。こちらは霧島神宮の旧参道だ。昭和15年(1940年)以前はこちらから参詣したという。

ここから下り坂、「亀石坂」の文字もある

旧参道、坂の入口

 

坂を下る。しばらく歩くと「亀石」なるものがある。「亀石坂」というのもこの石があることから。亀石の近くには山神の祠もあった。こちらは、山神社とはまた別の神様なのかな。

亀の形に似た石

亀石

 

さらに旧参道をくだると「風穴」というものも。岩穴からいつも風が吹き出ていたことから、そう呼ばれているという。ただ、現在は風が出ていないとのこと。かつては岩の上に観音像も安置されていたという。

参道脇の大岩

風穴

 

鹿児島藩(薩摩藩)が19世紀に編纂させた地誌『三国名勝図会』には旧参道が描かれた絵図がある。参道沿いには「亀石」「観音」「風穴」も確認できる。ちなみに「西御在所霧島権現社」は霧島神宮の古称である。

参道の絵図

『三国名勝図会』巻之三十四より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

森の中の坂道

旧参道

 

西御在所霧島権現社は別当寺として華林寺(けりんじ)を併設していた。旧参道は神社と別当寺をつなぐものでもあった。なお、華林寺は神仏分離令により明治2年(1869年)に廃寺となっている。

ちなみに、慶応2年(1866年)に坂本龍馬・お龍が霧島を訪れているが、このときは華林寺に宿泊している。

 

『三国名勝図会』の詳細はこちら。

rekishikomugae.net

 

 

鎮守神社と性空上人墓

旧参道を下りきると鎮守神社(ちんじゅじんじゃ)。霧島神宮の末社である。御祭神は天照大神(アマテラスオオミカミ)。このあたりは華林寺の境内であった。『三国名勝図会』の絵図では、鎮守神社の建物のあたりは「香堂」となっている。十一面観音が安置されていたとのこと。

森の中の神社

鎮守神社の社殿

 

『三国名勝図会』の絵図を見ると、鎮守神社はもっと参道寄りにあったようだ。正徳5年(1715年)、島津吉貴により本宮社殿とあわせて、こちらも造営されたという。昭和56年(1981)年に香堂跡地に遷座し、現在に至る。

 

「性空上人墓」というのも鎮守神社の脇にある。『三国名勝図会』の絵図には載っていない。

玉垣の中に石塔がある

性空上人墓

 

性空(しょうくう)は天台宗の僧で、霧島神宮の中興の祖とされる。霧島神社(霧島神宮)はもともと高千穂峰の山頂近くの脊門丘(せとお)に鎮座していたという。こちらは延暦7年(788年)の噴火で焼失した。性空は霧島神社を遷座再興する。天慶3年(940年)に御鉢火口西側麓の瀬多尾越(せとおごし)に境内を造営したと伝わる。現在、瀬多尾越の境内跡は「霧島神宮古宮址」と呼ばれている。

 

rekishikomugae.net

 

 

御手洗川と若宮神社

鎮守神社の脇に朱の鳥居と小さな祠がある。若宮神社(わかみやじんじゃ)だ。こちらも霧島神宮の末社である。

朱の鳥居と小さな祠

若宮神社

 

祠のまわりは水が流れている。「御手洗川(みたらしがわ)」と呼ばれている。ここで手を洗ってから参道をのぼる、といのうがもともとの作法であった。御手洗川は湧水で、冬は水が涸れる。

祠の下近くを湧水が流れる

御手洗川

 

若宮神社の御祭神は天忍雲根命(アメノオシクモネノミコト)・水波能売神(ミズハノメノカミ)・市岐島姫神(イチキシマヒメノカミ)・大名牟遅神(オオナムチノカミ)。

アメノオシクモネノミコトはアメノコヤネノミコト(天児屋命)の子で、水と関わりのある神である。中臣氏(藤原氏)の祖先神でもある。ミズハノメノカミもイチキシマヒメノカミも水の神だ。オオナムチノカミはオオクニヌシノミコ(大国主命)の別称。

前述の『三国名勝図会』の絵図では、この場所は「水天」「弁天」とある。「若宮」は現在の性空上人墓の場所に描かれている。若宮(アメノオシクモネノミコト)を水天・弁天(ミズハノメノカミとイチキシマヒメノカミ)の場所に遷座し、合祀したものだろう。

 

 

霧島神水峡

御手洗川からちょっと西へいくと、霧島川が流れている。その下流のほうは「霧島神水峡」と呼ばれている。霧島神宮の一の鳥居近くに観光案内所がある。その裏手のほうを入っていくと、峡谷を散策できるようになっているのだ。

散策路に入ると、水の音が聴こえる。

峡谷を流れる青い川

霧島神水峡

森の中には青い川。差し込む木漏れ日に照らされて光る。火山由来の成分が溶け込んでいるために、こんな色に見えたようだ。

ここもまた、神秘的な雰囲気だった。

 

なお、川の色については条件次第で変わるみたい。水量であったりとか、火山活動に関することだったりとか、陽の光の入り方だったりとか。

 

 

 

 

 

<参考資料>
『霧島神宮誌』
編/霧島神宮誌編纂委員会 発行/霧島神宮

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

ほか