ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

佐敷城跡にのぼってみた、加藤清正が築いた堅城、梅北一揆で占拠されたりも

山の上に石垣が見える。のぼってみると、すごい眺めだ! 「天空の城」という感じである。

 

佐敷城(さしきじょう)は肥後国佐敷(熊本県葦北郡芦北町佐敷)にあった。花岡山に築かれていて、花岡城という別名もある。築城時期は不明。天正16年(1588年)頃から加藤清正(かとうきよまさ)により近世城郭として整備されたという。

天正20年(1592年)の梅北一揆(梅北国兼の乱)でも知られる。島津氏配下の梅北国兼(うめきたくにかね)は豊臣政権に対して反乱を起こす。一時、佐敷城を占拠した。

なお、日付は旧暦で記す。

 

 

 

 

 

破却された城

現在の佐敷城は復元されたものである。元和元年(1615年)の一国一城令により城は壊された。そして寛永15年(1638年)に、壊し方が不十分としてさらに破壊されたという。

1978年に熊本県教育委員会が発行した『熊本県の中世城跡』によると、当時は遺構が山中に埋もれ、薮に覆われて曲輪の形状もよく見えなかったそうだ。石垣については、『熊本県の中世城跡』発行時より十数年前(1965年前後か)に偶然発見されたとのこと。その後、発掘調査と公園整備が進められて現在の姿に。2008年には国史跡にも指定された。

 

草木が伐り払われて、城郭の形状が露わになっている。視界も抜けていて、芦北の海や街並みもよく見える。そして、半壊状態の石垣もいい雰囲気だ。佐敷城跡は寛永15年の破城直後に近い状態を目指して復元されたとのこと。城内に残された石材を使いながら、石垣を積み足したりもしているそうだ。

この復元具合は絶妙だ! 戦国時代の荒波にさらされてきた城郭の様子を、生々しく感じられるのである。

 

 

天空の城へ

とりあえず「道の駅 芦北でこぽん」を目指すとわかりやすい。ここは佐敷城跡のふもとだ。道の駅でいったん車を停めて、城跡への道を再確認。佐敷川を渡って山への登り口へ向かう。案内の看板もあり、行きやすいと思われる。

 

山をしばらく登ると駐車場がある。ここからも城跡が見える。曲輪は三段構造になっている。

山上に石垣が見える

駐車場近くから見る

 

駐車場から登山道の入口へ。のぼる。

看板に「佐敷城跡」の文字

登山口はすぐ見つかる

 

5分ほどで石垣のある場所についた。すぐに石段があり、こちらが搦手門になる。

半壊状態で石垣を復元

西側の石垣に到達する

石垣と石段

搦手門へ

石段と標柱がある

のぼると本丸西門跡


西門から入ると段差がもう一段。この上が本丸の天守台になる。

石段と石垣が続く

左側が本丸天守台

 

天守台では全方位に眺望が開ける。ふもとの様子がよくわかる。海もよく見える。戦いの際にも、敵の動きがよくわかったことだろう。

城跡と眼下に海岸

天守台、海が見える

眺望がいい

天守台からもう1枚

 

本丸の反対側にあるのが東門。こちらには何か石碑も祭られていた。「山王三所大権現」といい、宝暦10年(1760年)に建てられたものとのこと。

石垣と石碑と

東門跡と山王三所大権現

 

本丸東門を下りると二之丸跡に出た。本丸から一段低い曲輪になっている。二の丸は撮影スポットが多いように思う。写真の枠内に、石垣と眺望を一緒に入れることができる。

段差状の曲輪跡

二の丸から本丸を見上げる

 

二の丸の東門。こちらは築城当時のものが再現されているとのこと。その形状を上から見る。ここからの眺望も素晴らしい。

城跡の麓の街並み

二の丸東門

虎口と天守台

二の丸東門、反対側から

 

東門の下の段差へ。さらに虎口を下りていける。こちらが追手門とのこと。

城門跡と石垣

追手門

 

城の周縁部を歩いてみる。見える景色がいちいち絵になる。

石垣と風景の組み合わせが素敵

本丸下の石垣

曲輪跡と眺望

見晴らしがよくて足がすくむ


規模はそれほど大きくない。標高約87mとあまり高い山でもなく、駐車場からそんなには歩かない。気軽に行けて、かつ見応えがある。素敵な城跡だった。

 

 

佐敷の中世

肥後国葦北郡(現在の芦北町・津奈木町・水俣市のあたり)には、中世に「葦北衆」と呼ばれる国人があったという。そのうち佐敷を治めた者が、佐敷氏を名乗ったという。

葦北衆は檜前(ひのくま)氏を祖としているという。薩摩国牛屎院(うしくそいん、現在の鹿児島県伊佐市大口)にあった篠原(しのはら)氏は、古くは「檜前」を名乗っている。こちらと同族である可能性も高いという(『熊本県の中世城郭』より)。

 

ちなみに、檜前姓にはおおまかに2つの系統があるようだ。

ひとつは東漢(やまとのあや)氏である。東漢氏は大和国の檜隈(ひのくま、奈良県高市郡明日香村の檜前)を拠点としていた。

そして、もうひとつは「檜前部(ひのくまべ)」。こちらは宣化天皇の名代(なしろ、天皇に関わる部民)である。ちなみに宣化天皇は、名を檜前高田皇子(ひのくまたかたのみこ)ともいう。

このいずれかにルーツを持つのだろうか。

「ヒノクマ」は「肥(火)の球磨」であったのでは? という考えも浮かんでくる。葦北郡の南には球磨郡(現在の人吉市のあたり)がある。肥(火)の国の球磨の豪族というような感じだったりとか……?


12世紀末になると、相良(さがら)氏が肥後国球磨郡などの地頭に任じられて入ってくる。相良氏は工藤氏の一族で、もともとは遠江国相良荘(さがらのしょう、静岡県牧之原市)を本貫とする。

14世紀の南北朝争乱期には、南朝方に仕えた名和顕興(なわあきおき、名和長年の孫)が八代を与えられて入る。

一方で、葦北衆も健在であった。康安元年・正平16年(1361年)に島津師久(しまづもろひさ)が豊後に向けて援軍を出そうとした際に、葦北衆に阻まれて引き返している。

至徳元年・元中元年(1384年)頃には九州探題の今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊)の軍勢が葦北に侵攻し、佐敷城を支配下に置いていた。

その後は、葦北郡では相良氏と名和氏による勢力争いが展開される。また、肥後国に古くから土着する菊池氏の影響もあったことだろう。そして、15世紀後半には相良氏が領するようになったようだ。

 

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佐敷の戦国時代

16世紀後半の相良氏の当主は相良義陽(さがらよしひ)であった。本拠地の球磨に加え、葦北や八代も支配下に置く。肥後国南部を制圧していた。相良義陽は南の島津氏とも勢力争いを展開する。日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)とも手を結んで拡大する島津氏に対抗した。

 

島津義久(しまづよしひさ)は大隅国を制圧し、伊東氏を倒して日向国もとる。さらに天正6年(1578年)の高城川の戦い(耳川の戦い)では大友氏を破った。薩摩・大隅・日向(現在の鹿児島県と宮崎県)をおさえて、肥後国にも進出してくる。

天正8年(1580年)、島津氏は佐敷に出兵する。島津忠平(しまづただひら、島津義弘、よしひろ、義久の弟)・島津家久(いえひさ、義久の弟)が海から攻めるが、相良方がこれを撃退した。

天正9年(1581年)に相良義陽は島津氏に降伏する。その際に佐敷は割譲される。島津氏は宮原景種(みやはらかげたね)を佐敷の地頭とし、この地の統治を任せた。

 

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島津義久は天正15年(1587年)に豊臣秀吉の征討を受けて降伏。肥後国は佐々成政(さっさなりまさ)に与えられるが、肥後で国人一揆があったことから改易。天正16年(1588年)に肥後国は北部が加藤清正に、南部が小西行長(こにしゆきなが)に与えられた。

佐敷は肥後国の南部に位置するが、加藤清正が領した。飛び地であった。すぐに加藤清正は佐敷城の整備に着手する。近世城郭へと築きあげていく。

佐敷城の城代は加藤重次(しげつぐ)に任された。この人物はもともとは渋谷(しぶや)氏で、佐々成政に仕えていた。その後、加藤清正に仕えて重臣となり、「加藤」の名乗りを与えられたという。

佐敷城には南の島津氏を見張る役割もあったと思われる。

 


梅北一揆

天正20年(1592年)、佐敷城で事件が起こる。「梅北一揆」である。

この頃、豊臣政権は朝鮮への侵攻に取りかかっていた。島津氏配下の梅北国兼は兵をつれて渡海しようとしていた。島津義弘に合流する予定だった。その道中で、梅北国兼は反乱を企てる。田尻但馬・東郷重影・荒尾喜兵衛・伊集院三河なども反乱に加わった。軍勢は2000名とも伝わる。佐敷城は朝鮮への出征で手薄になっていた。城代も不在だ。6月15日、梅北国兼ら佐敷城を襲い、占拠する。


梅北国兼は島津家の古参の家臣である。この頃は大隅国湯之尾(ゆのお、鹿児島県伊佐市菱刈川北)の地頭に任じられていた。

梅北氏は肝付(きもつき)氏の庶流で、もともとは日向国庄内梅北(宮崎県都城市梅北町)の領主であった。どういういきさつかはわからないが、梅北氏は島津貴久(たかひさ、島津義久の父)に仕えた。

『西藩烈士干城録』などによると、梅北国兼はもともと宮原氏で、初名を「宮原景法」といったという。梅北氏当主が後嗣がないまま戦死しため、こちらの家督をついだ。梅北氏と宮原氏の関係性はわからない。宮原氏も相州家(島津氏の分家のひとつ、島津貴久はこちらの出身)の古参の家臣である。天正9年(1581年)に佐敷地頭になった宮原景種は、名前の感じからも梅北国兼(宮原景法)と同族だったと思われる。兄弟や親子という可能姓もなくはない。ちなみに、宮原景種は、天正15年(1587年)に豊臣軍と戦って討ち死にしている。


梅北国兼は佐敷城を占拠すると、田尻但馬に八代城(やつしろじょう、麦島城、むぎしまじょう、熊本県八代市古城町)を攻めさせる。こちらは小西行長(こにしゆきなが)の所領である。田尻らの軍勢は松橋(まつばせ、熊本県宇城市松橋町)を焼き、小川(おがわ、宇城市小川町)に進軍。八代城(麦島城)へ迫った。しかし小川で鎮圧され、八代攻撃は失敗に終わる。また、佐敷城下では一揆に同心する者を募るが、こちらもうまくいかなかった。

反乱は数日で鎮圧され、梅北国兼らも討たれた。

加藤方の境善左衛門・安田彌左衛門らが謀り、酒肴を持たせた女たちを城に入れたとも。梅北国兼を酔わせて討ったのだという。


梅北一揆のあと、島津氏にも追求がある。豊臣秀吉は島津義久に対して島津歳久(としひさ、義久の弟)の討伐を命じた。島津歳久の配下の者が反乱に参加していたこともあり、梅北一揆への関与を疑われた。天正20年7月18日、島津歳久は大隅国滝ヶ水(竜ヶ水、りゅうがみず)で討たれた。

 

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関ヶ原の戦いのあと、島津勢に囲まれる

慶長5年(1600年)9月15日、美濃国の関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で合戦があった。関ヶ原の戦いである。この頃、加藤清正は所領の肥後国にいた。豊前国中津(なかつ、大分県中津市)の黒田孝高(くろだよしたか、黒田官兵衛、黒田如水)や肥前国佐嘉(さが、佐賀市)の鍋島直茂(なべしまなおしげ)らと結んで、九州の反徳川勢力(西軍)と対峙した。

九州では小西行長・立花宗茂(たちばなむねしげ)・小早川秀包(こばやかわひでかね)が西軍についていた。そして、島津氏も西軍に属した。

関ヶ原の戦いは半日ほどで決した。一方で、九州の戦いはしばらく続く。加藤・黒田・鍋島らの東軍方は、西軍方大名の所領を攻める。

島津氏も国境を固め、応戦した。ちなみに、関ヶ原で戦った島津義弘は戦場を離脱したのち、10月3日に国許に生還している。


肥後国の宇土城は、小西行景(こにしゆきかげ、行長の弟)が守っていた。加藤方に攻められて、島津義久に救援を要請する。これを受けて島津氏は兵を出す。島津忠長(ただたけ、島津氏の重臣、義久の従兄弟)・島津忠倍(ただます、忠長の嫡男)らを派遣。島津勢は水俣から水軍を出して、佐敷城を攻めた。加藤方では加藤重次が籠城し、佐敷城を守り抜いた。

 

 

 

 

 

 

<参考資料>
『熊本県の中世城跡』
編・発行/熊本県教育委員会 1978年

『葦北郡誌』
編/熊本県教育会葦北郡支会 1926年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 発行/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集50『西藩烈士干城録(二)』
編・発行/鹿児島県立図書館 2011年

鹿児島県史料集51『西藩烈士干城録(三)』
編・発行/鹿児島県立図書館 2012年

鹿児島県史料集6『諸家大概・職掌紀原・別本諸家大概・御家譜』
発行/鹿児島県史料刊行会 1966年

『求麻外史』
編/田代政鬴 発行/求麻外史発行所 1889年

『新訳 求麻外史』
著/田代政鬴 訳註/堂屋敷竹次郎 発行/求麻外史発行所 1917年

ほか