ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

島津義弘の戦歴(2) 大友・龍造寺と激突、そして天下人と対決

天正6年(1578年)から天正15年(1587年)にかけて、九州の情勢は大きく動く。その中での島津義弘(しまづよしひろ)の戦いぶりをたどる。

九州では島津・大友(おおとも)・龍造寺(りゅうぞうじ)の3つの勢力がしのぎを削る。島津氏はこの争いを制し、九州全土に勢力を広げていくことになる。だが、天下人の豊臣秀吉が九州の争いに介入。大軍を送り込んでくる……。

 

なお、日付については旧暦で記す。また、名乗りは時期によって「島津忠平(ただひら)」「島津義珍(よしまさ)」「島津義弘」と変わっていく。

 

天正5年以前の島津忠平(島津義弘)の戦歴はこちら。

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こちらは島津義弘の年譜。

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島津氏の三州統一まで

戦国時代の島津氏は、もともと分家の出身である。相州家の島津貴久(しまづたかひさ)が一族内の抗争を勝ち抜き、覇権を握った。

島津氏は薩摩国・大隅国・日向国(現在の鹿児島県・宮崎県)の守護に任じられている。しかし、南九州は中世から群雄割拠の状況が続いていて、実行支配はできていなかった。「三州統一」は島津氏の宿願であった。島津貴久は反抗勢力を従えていく。永禄12年(1569年)には薩摩を平定し、大隅・日向にも進出する。

 

島津貴久には4人の息子がいた。長男は島津義久(よしひさ)、次男は島津忠平(島津義弘)、三男は島津歳久(としひさ)、四男は島津家久(いえひさ)である。四兄弟は父に従って転戦。いずれも名将として名を挙げていった。

元亀2年(1571年)に島津貴久は没する。三州統一は次代に引き継がれる。長兄の島津義久は永禄9年(1566年)に家督をついでいる。父の補佐を受けつつ、すでに当主としての経験も積んでいた。また、弟たちも兄をよく支える。島津氏の世代交代はうまくいっていたと思われる。

当主の島津義久は薩摩国鹿児島の御内(みうち、内城、鹿児島市大竜町)を居城とする。島津氏の拠点である。

島津忠平(島津義弘)は日向国真幸院の飯野城(いいのじょう、宮崎県えびの市原田)を守る。

島津歳久は大隅国吉田の松尾城(まつおじょう、鹿児島市東佐多町)を任される。なお、ちょっとあとになって薩摩国祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院町)に移る。

島津家久は薩摩国串木野の串木野城(くしきのじょう、いちき串木野市上名)を任されていた。

大隅の肝付(きもつき)氏や日向の伊東(いとう)氏も勢力を拡大し、島津氏とぶつかることに。元亀2年(1571年)から鹿児島湾岸で島津氏と肝付氏は全面戦争を展開。また、元亀3年5月には伊東氏が真幸院の島津領内へ侵攻する。島津忠平(島津義弘)は寡兵で大軍を撃破する。「木崎原の戦い」である。伊東氏はこの敗戦により勢いがなくなる。

天正2年(1574年)には肝付兼亮(きもつきかねすけ)が降る。島津氏は大隅国を制圧する。さらに、日向の伊東氏を攻める。天正5年12月(1578年1月)に伊東義祐(いとうよしすけ)が国外に逃亡。日向国も支配下に入れる。島津義久は三州統一を果たした。

 

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高城川の戦い(耳川の戦い)

日向を逃れた伊東義祐は、大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)を頼って落ち延びる。大友氏は豊後国(現在の大分県)を拠点に九州北部の広範囲を支配。当時、九州でもっとも大きな力を持っていた、

伊東義祐は、大友義鎮(大友宗麟)に日向国の奪還を願い出た。大友氏に従属していた縣(あがた、宮崎県延岡市)の土持親成が島津氏についたことも、大友氏の緊張感を高まらせた。大友義鎮(大友宗麟)は日向侵攻を決める。

天正6年(1578年)3月、大友氏は大軍を発する。4月15日に縣を制圧し、土持親成も命を落とす。また、大友軍の侵攻に呼応して、伊東家旧臣も蜂起する。

8月、大友義鎮(大友宗麟)は縣の務志賀(無鹿、むしか、延岡市無鹿)に入り、ここを本陣とした。そして、大軍を南下させた。兵力は4万とも6万とも8万とも10万とも(諸説あり、数字は資料によりいろいろ)。大将は田原親賢(たわらちかかた、田原紹忍、じょうにん)、副将には佐伯惟教(さえきこれのり、佐伯宗天、そうてん)・田北鎮周(たきたしげかね)・角隈石宗(つのくませきそう)らが名を連ねる。10月20日、島津方の新納院高城(にいろいんたかじょう、宮崎県児湯郡木城町)を囲んだ。

新納院高城は山田有信(やまだありのぶ)が守る。佐土原城(さどわらじょう、宮崎市佐土原町)の守りについていた島津家久らも救援として入っていた。城兵は3000ほど。高城は大軍に囲まれるも、なかなか落ちない。

 

高城が持ちこたえている間に、島津義久は急いで軍を編成。4万ほどの兵を集めて、日向国に進軍した。11月1日に島津義久は佐土原城に入り、ここを本陣とした。島津忠平(島津義弘)は都於郡城(とのこおりじょう、宮崎県西都市)に入った。

島津義久は11月6日に大友軍に決戦を挑むことを決める。しかし、この日は大雨だった。高城の麓を流れる高城川(小丸川)も増水した。決戦の日時は延期される。

11月9日、島津忠平は財部城(たからべじょう、高鍋城、宮崎県児湯郡高鍋町)に入る。島津征久(しまづゆきひさ、島津以久、もちひさ)・伊集院忠棟(いじゅういんただむね)・上井覚兼(うわいかくけん、さとかね)らとともにここから攻撃をしかける。10日夜、4000の兵を3つに分けて伏せさせる。11日に伊集院忠棟が率いる兵300(囮部隊)が松山陣の佐伯惟強(佐伯宗天)隊を釣り出す。伏兵で囲んで混乱したところへ、島津忠平・島津征久らが撃って出る。根白坂(ねじろざか、児湯郡木城町椎木)に布陣していた川上久隅(かわかみひさすみ)・上井覚兼・頴娃久虎(えいひさとら)・鎌田政近(かまだまさちか)らの部隊も押し出す。奇襲は決まった。

田園風景が広がる

高城川原、松山陣近く


そして11日夜のうちに島津義久の本隊が佐土原から移動し、根白坂に布陣する。本隊の兵力は3万とも。さらに高城川(小丸川)の南側の台地に沿って島津忠平・島津征久らも陣を構えた。

11月12日、早朝から大友勢が動き出す。田北鎮周の部隊を先陣として高城川原に攻めかかった。島津方の前線部隊は敗走する。大友勢はさらに勢いに乗って高城川(小丸川)を渡って追撃をかけた。

大友勢が川を渡ったところで、台地上に布陣していた島津義久の本隊が攻めかかる。島津忠平隊や島津征久隊も一気に駆け下りた。高城の兵も攻撃に加わる。包囲された大友勢は総崩れとなった。

大きな川が流れている

小丸川、写真奥の台地の上に島津軍が布陣

 

敗走する大友勢を、今度は島津勢が追撃。高城川(小丸川)は大雨のあとで増水している。竹鳩ヶ淵(だげきがぶち、だけくがぶち)では、多くの大友兵が川を渡れずに溺死したという。

後方に布陣していた田原親賢(田原紹忍)は全軍を撤退させる。大友勢は北へと退却するが、はるか北の耳川(美々川)まで島津勢は追撃したという。

大友軍は壊滅。田北鎮周・佐伯惟教(佐伯宗天)・角隈石宗・斎藤鎮実(さいとうしげざね)・吉弘鎮信(よしひろしげのぶ)らが戦死した。務志賀の大友義鎮(大友宗麟)も本陣を引き払い、豊後へ撤退した。

この島津と大友の決戦は、「高城川の戦い」「高城川原の戦い」「耳川の合戦」と呼ばれる。

 

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肥後攻略

日向国を抑えた島津氏は、続いて肥後国南部の相良義陽(さがらよしひ)と対峙する。相良氏は肥後国球磨(くま、熊本県人吉市のあたり)・葦北(あしきた、熊本県水俣市・葦北郡)に勢力を持る。それまで伊東氏と組んで島津氏に対抗していた。

また、大友氏が大敗して勢いを落としたことで、九州の情勢は大きく変わる。筑前国・筑後国・肥前国・肥後国の大友傘下だった領主たちは動揺。離反し、独立する者も出る。また、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)は急激に勢力を増す。肥後国(熊本県)にも進出してくる。肥後国の領主の中には島津氏を頼る者もあった。

龍造寺氏は「ともに大友氏を倒そう」と島津氏に持ちかけたりもした。しかし、両氏はやがてぶつかることになる。

 

 

佐敷の戦い

天正8年(1580年)9月、島津氏は肥後国葦北の佐敷(芦北町佐敷)に出兵。相良氏を攻める。

島津忠平(島津義弘)・島津家久が30艘の軍船で海から迫る。陸路では新納忠元(にいろただもと)の部隊も進軍した。9月17日、島津方の水軍は斗石(はかりいし、芦北町計石)から上陸。柵をめぐらして待ち構えていた相良勢と交戦する。島津方は破れて撤退する。

この戦いは『求麻外史』に記されている。

 

 

水俣城攻め

天正9年(1581年)8月18日、島津義久は肥後国水俣(みなまた、熊本県水俣市)を大軍で攻める。水俣城は相良家重臣の犬童頼安(いんどうよりやす)・犬童頼兄(よりもり)が守る。兵力は1000に満たなかったという。

島津義久は薩摩国小河内(こがわうち、鹿児島県伊佐市大口小川内)まで出陣し、前線に指示を出す。島津忠平(島津義弘)・島津歳久・島津家久らが水俣城を囲み、激しく攻め立てた。さらに8月20日に島津義久が水俣の本陣に入る。

水俣城は窮し、相良義陽は降伏を申し出る。島津の傘下に入った。

山城の曲輪跡

水俣城跡

 

その後、相良氏は阿蘇(あそ)氏攻めを島津氏より命じられる。響野原(ひびきのはら、響原、響ヶ原、熊本県宇城市豊野町)で阿蘇氏配下の甲斐親直(かいちかなお、甲斐宗運、そううん)と戦い、討たれた。

 

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高瀬へ出兵

島津忠平(島津義弘)は八代(熊本県八代市)を拠点に肥後国の攻略を進める。そして、龍造寺氏とぶつかることに。

天正11年(1583年)10月、龍造寺政家(まさいえ)は肥後国に出兵。島津氏との対決に向けて動いた。龍造寺政家は龍造寺隆信の嫡男で、家督を譲られている。ただし、実権は父が握る。

 

龍造寺政家はみずから兵を率いて肥後に入る。筑前国・筑後国の龍造寺傘下の者たちも加勢に加わり、総勢は3万7000にもなったという(数字は『北肥戦誌』より)。

龍造寺軍は南関(なんかん、熊本県玉名郡南関町)に本陣を置いた。先陣は玉名(たまな、熊本県玉名市)・合志(こうし、熊本県合志市)から高瀬(たかせ、玉名市高瀬)・山鹿(やまが、熊本県山鹿市)方面をうかがう。

この動きに対して、島津忠平も大軍を率いて北上。龍造寺軍と対峙した。

だが、開戦とはならず。秋月種実(あきつきたねざね)が仲介に入って、島津と龍造寺の和平を成立させた。秋月氏は筑前国の秋月(福岡県朝倉市秋月)の国人である。

島津と龍造寺の間で肥後国の国分けを決める。高瀬川(菊池川のことか)を境に南西側を島津領、北西側を龍造寺領と定めた。

 

 

沖田畷の戦い

天正12年(1584年)、島津義久は肥前国島原(長崎県の島原半島)に兵を出す。龍造寺隆信の侵攻を受けた有馬晴信の援軍要請に応えてのことだった。島津家久を大将とし、島津忠長・新納忠元(にいろただもと)・川上久隅(かわかみひさすみ)・山田有信(やまだありのぶ)らを派遣。兵数は4000ほどであったという。この頃の島津氏は甲斐親直(甲斐宗運)に手を焼き、肥後国内でも戦線が膠着。大軍を送ることはできなかった。

島津忠平(島津義弘)は島津義久とともに肥後国の佐敷城に入った。後詰めである。

 

龍造寺隆信は数万の大軍を動員。『島津国史』では「六萬餘騎」としている。数字は諸説あり。対する島津・有馬連合軍はあわせて7000ほどだったという。

島原の決戦は3月24日のことだった。島津家久は沖田畷(おきたなわて、長崎県島原市北門町)で龍造寺軍を迎え撃った。湿地帯に誘い込んで大軍の足を止めてたたく。この作戦が功を奏し、圧倒的な数の差をひっくり返す。龍造寺隆信は戦死。島津・有馬方の大勝利であった。

 

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大友が動く、肥後北部へ出兵

龍造寺政家は島津氏に対して和睦を申し出てきた。またも秋月種実が仲介となる。

島津と龍造寺の交渉が続くなかで、大友義統(よしむね、義鎮の嫡男)も動く。龍造寺氏の力が弱くなったのを好機と見て筑後方面へ進出。戸次鑑連(べっきあきつら、立花道雪、たちばなどうせつ)や高橋鎮種(たかはししげたね、高橋紹運、じょううん)らを出兵させてきたのだ。

天正12年(1584年)9月、島津忠平(島津義弘)が率いる島津軍が肥後国北部へ出兵する。龍造寺氏傘下にあった隈部親泰(くまべちかやす)・小代親泰(しょうだいちかやす)らが帰順する。9月21日には、龍造寺政家から従属の意向を伝えてきた。9月24日に島津忠平は龍造寺氏が肥後国の拠点としていた高瀬を制圧する。25日、島津氏側は和睦の受け入れを決めた。

大友氏側からも協力要請があった、「ともに龍造寺氏を攻めよう」と。島津忠平はこの誘いを受けず。

島津忠平は大友氏に対して撤兵を促す。だが、大友軍は退かなかった。島津氏と大友氏は、高城川の戦い(耳川の戦い)のあとに織田信長の仲介で和睦していた。だが、再び敵対関係へと傾いていくのである。

 

 

島津忠平が「名代」になる

天正13年(1585年)5月頃に島津忠平(島津義弘)は「名代」(「守護代」とも)に就任。『島津国史』によると「六州事」を委ねられたという。肥前・肥後・筑前・筑後・豊前・豊後の6ヶ国の攻略を任されたのだ。

この頃、島津義久は健康状態があまりよくなかった。また、後継者となる男子もいない。もしものときに備えて、自分の代わりに差配できる者を立てたかったようだ。

島津忠平は肥後国の八代城(やつしろじょう、古麓城、ふるふもとじょう、熊本県八代市古麓町)に入る。八代の領主となった(真幸院も領有したまま)。

島津義久は鹿児島にあって三州(薩摩・大隅・日向)を見る。島津忠平は八代にあって六州事に対応する。当主がふたりいるような状況となり、「両殿(りょうとの)」とも呼ばれるようになる。

 

 

阿蘇合戦

肥後国では阿蘇氏が島津氏に抵抗していた。阿蘇氏は阿蘇神社の大宮司家で、肥後国の阿蘇郡(現在の熊本県阿蘇市・阿蘇郡のあたり)や益城郡(現在の熊本県宇城市・上益城郡・下益城郡のあたり)に勢力を持っていた。

阿蘇氏はもともと大友氏の傘下であったが、龍造寺氏と手を組んだりもした。島津氏とも戦ったり、一時は和平を結んだり。交戦と外交を織り交ぜながら独立を維持していたのである。

そんな中で、天正11年(1583年)に当主の阿蘇惟将(あそこれまさ)が没する。弟の阿蘇惟種(これたね)があとを継ぐも、こちらも翌年に没する。惟種の子(阿蘇惟光、これみつ)がわずか2歳で当主に立てられた。

阿蘇家は家老の甲斐親直(甲斐宗運)が取り仕切っていた。戦略・政略に長けた人物で、島津氏は苦労させられていた。だが、甲斐親直(甲斐宗運)はすでに70歳を越える高齢。天正12年(1584年)7月に亡くなる。その後は、甲斐親英(かいちかひで、親直の子)が筆頭家老となった。


島津氏は阿蘇攻略のために花山城(はなのやまじょう、宇城市豊野町)を築いていた。天正13年(1585年)8月10日、甲斐親英はこの花山城を攻め落とす。

これをきっかけに、島津方は猛攻をかける。「名代」の島津忠平(島津義弘)が総大将となり、閏8月10日に八代より撃って出た。翌日には、島津忠平は名和顕孝(なわあきたか)・島津忠長・伊集院忠棟・上井覚兼らとともに隈荘城(くまのしょうじょう、熊本県上益城郡益城町)を攻め落とす。そして、御船城(みふねじょう、上益城郡御船町、甲斐氏の拠点)から出てきた援軍と対峙する。

島津忠平は物見を立ててしばらく様子をうかがうことにするが、閏8月13日、血気にはやった部隊が勝手に出陣する。堅志田(かたしだ、熊本県下益城郡美里町)のほうへ進んで麓を焼き、甲佐(こうさ、上益城郡甲佐町)と萩尾(はぎお、宇城市松橋町萩尾)の城を落としてしまう。そんな状況になったかこともあり、島津忠平は総攻撃を指示。堅志田城も落とす。甲斐氏は御船城を明け渡す。閏8月15日、島津軍は入城した。

閏8月19日には阿蘇惟光も降る。阿蘇家を従属させ、肥後国の平定がなった。

 

 

 

 

豊後へ侵攻

天正14年(1586年)の時点で、島津氏は薩摩・大隅・日向・肥後を平定。龍造寺氏をはじめとする肥前の国衆も従属させ、筑前・筑後の国人も多くが島津氏の傘下となっていた。

九州の敵対勢力は、豊後国・豊前国の大友義統だけとなっていた。大友氏は筑前・筑後に侵攻し、和平も破れている。島津氏は本格的な大友攻めを決める。

大友義鎮(大友宗麟)は島津氏に対抗するために、関白の豊臣秀吉を頼る。大坂城まで出向いて謁見し、豊臣氏の傘下に入った。豊臣秀吉は島津氏に停戦を命じる。大友氏との国分け案も提示した。しかし、島津はこれをつっぱねた。

天正14年7月、島津氏は筑前国に出兵する。島津忠長を大将として大軍を送り込んだ。岩屋城(いわやじょう、福岡県太宰府市浦城)・宝満山城(ほうまんやまじょう、太宰府市北谷)・立花山城(福岡市東区下原)を攻めた。

岩屋城の守将は高橋鎮種(高橋紹運)が守る。その次男の高橋統増(むねます、立花直次、たちばななおつぐ)が宝満山城を、長男の立花統虎(たちばなむねとら、立花宗茂、むねしげ)が立花山城をそれぞれ守る

岩屋城は寡兵ながらも持ちこたえる。なんとか落とすことができた(高橋鎮種は戦死)ものの、島津方の被害も大きくなった。宝満山城は開城させるも、立花山城はついに落ちなかった。

島津軍はいったん兵を退く。筑前の攻略は失敗した。

9月には毛利氏の軍勢をはじめ、豊臣方の援軍が豊前・筑前に入ってくる。島津方に従属していた国人衆を従えていった。また、龍造寺政家も豊臣方につき、島津氏とは手切れとなった。

 

肥後口から豊後へ

天正14年10月、島津氏は豊後に出兵する。

島津義珍(島津義弘、この年に忠平から改名)が約3万の兵を率いて肥後口から、島津家久が約1万の兵を率いて日向口から進軍する。島津義久も後詰めとして、日向国の塩見城(しおみじょう、宮崎県日向市塩見)に入った。

10月22日、島津義珍の軍勢は阿蘇から豊後国に入る。緩木高城(ゆるぎたかじょう、大分県竹田市九重野)をまず攻め落とす。緩木領主の入田義実(にゅうたよしざね)は島津氏に内応。入田義実に誘われて志賀親度(しがちかのり)ら志賀一族も島津氏に寝返った。志賀親度は居城の神原城を開き、島津義珍を迎え入れた。

島津義珍は直入郡・大野郡(竹田市や豊後大野市のあたり)を制圧していく。松尾・鳥嶽・片加世・柏瀬・一萬田・鎧嶽・久多見(朽網)・滑・瀧田・津賀牟礼などの諸城を落とした。

岡城(おかじょう、竹田城、大分県竹田市竹田)は志賀親次(しがちかつぐ)が守っていた。ここは険しい山に築かれた堅城である。志賀親次は志賀親度の子であるが、こちらは大友氏への忠節を曲げず。

志賀親次は寡兵ながらも岡城にこもって島津氏の猛攻をしのぐ。城は落ちなかった。

 

 

豊臣軍襲来、根白坂の戦い

一方、日向から攻め上がった島津家久は戦果を挙げる。

天正14年12月12日(1587年1月)には仙石秀久(せんごくひでひさ)を軍監とする豊臣軍の先遣部隊と戸次川(へつぎがわ、大分市中戸次)で戦い、大勝する。さらには大友氏の本拠地である府内城(ふないじょう、大分市荷揚町)も陥落させる。しかし、島津義珍(島津義弘)の肥後口の戦況が思わしくなく、大友領を制圧しきれない。

大友方が持ちこたえている間に、豊臣軍本隊が九州へ。まずは天正15年(1587年)3月に豊臣秀長を大将として大軍が押し寄せる。率いる兵は10万とも20万とも。さらに豊臣秀吉も大軍を率いて九州に向かっていた。

島津義珍は府内城に入って島津家久と協議。豊後からの撤退を決め、日向に軍を退いた。

豊臣秀長軍は日向国を南下。4月6日、新納院高城(にいろいんたかじょう、宮崎県児湯郡木城町)を囲んだ。高城は山田有信が堅く守る。

4月17日、島津義珍は2万の兵を率いて根白坂(ねじろさか、木城町椎木)の敵陣に攻撃をかける。豊臣方は黒田孝高(くろだよしたか)・南条元続(なんじょうもとつぐ)らが迎え撃ち、豊臣秀長の陣からも援軍が入った。

根白坂の戦いで島津勢は大敗した。

台地の農地

根白坂、バス停には「陣の内」とある

 

 

島津が降る

島津勢は国許に撤退する。また、肥後方面からは豊臣秀吉本隊も薩摩を目指して進軍していた。

5月8日、島津義久は剃髪し、「龍伯(りゅうはく)」と号する。そして、薩摩国川内(せんだい)の泰平寺(鹿児島県薩摩川内市大小路町)に出向き、豊臣秀吉と会う。降伏した。

 

島津義珍(島津義弘)は日向国真幸院の飯野城にこもり、抗戦の構えを見せていた。だが、豊臣秀長軍から降伏するよう説得される。5月19日、島津義珍は野尻(のじり、宮崎県小林市野尻町)の陣にあった豊臣秀長のもとに出向き、降伏を申し入れる。

豊臣秀吉は薩摩国鶴田(つるだ、鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田)に陣を置いていた。5月22日、島津義珍はこちらへ出頭し、豊臣秀吉に謁見した。

「太閤陣跡」に記念碑がある

鶴田の太閤陣跡、豊臣秀吉の陣があったとされる

 

島津氏は豊臣政権に組み入れられた。……戦いは続く。

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

『島津義弘の軍功記』増補改訂版
著/島津修久 発行/島津顕彰会 2000年
※『惟新公御自記』(島津義弘による自伝)を収録・解説

鹿児島県史料『旧記雑録 後編 第1巻』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1981年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編 第2巻』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1982年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『豊薩軍記』 ※『改訂 史籍収覧第7冊』より
著/長林樵隠 編/近藤瓶城 発行/近藤活版所 1906年

『求麻外史』
編/田代政鬴 発行/求麻外史発行所 1889年

『新訳 求麻外史』
著/田代政鬴 訳註/堂屋敷竹次郎 発行/求麻外史発行所 1917年

『熊本県の中世城跡』
編・発行/熊本県教育委員会 1978年

『北肥戦誌』
編/長森伝次郎 編・発行/国史研究会 1918年

『日向纂記』
著/平部嶠南 1885年

『完訳フロイス日本史7 宗麟の改宗と島津侵攻―大友宗麟篇2』
著/ルイスフロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論新社 2000年

『完訳フロイス日本史10 大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗―大村純忠・有馬晴信篇2』
著/ルイスフロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論新社 2000年

『九州戦国城郭史: 大名・国衆たちの築城記』
著/岡寺良 発行/吉川弘文館 2022年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

ほか