ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(3)三州統一へ、伊東義祐の豊後落ち

天正2年(1574年)、島津義久(しまづよしひさ)は長年の宿敵であった肝付(きもつき)氏を従属させた。大隅国を平定し、日向国南部の志布志(しぶし、鹿児島県志布志市)まで島津氏の支配下となった。薩摩国とあわせてその範囲は、現在の鹿児島県全域(島嶼部のぞく)とほぼ重なる。

 

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日向国(現在の宮崎県)の伊東義祐(いとうよしすけ)も、島津氏と争ってきた宿敵である。つぎはこちらへ矛先を向ける。島津義久・島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)・島津歳久(としひさ)・島津家久(いえひさ)の四兄弟の戦いは続く。

 

なお、日付は旧暦で記す。

 


「三州統一」への宿願

島津氏は、12世紀末に惟宗忠久(これむねのただひさ、島津忠久)が薩摩国・大隅国・日向国の守護に任じられたことにはじまる。また、15世紀初頭に7代当主の島津元久が三州(薩摩・大隅・日向)の守護に任じられ、以降は歴代当主が世襲している。

島津本宗家は三州守護ではあったものの、領内を掌握しきれない。内紛あり、一門衆・国人衆の反抗もあり、南九州は乱世が続いていた。とくに日向国は島津氏の支配が及ばなくなり、こちらは伊東氏が台頭することになる。

島津氏の歴代当主は「三州統一」を目指して戦った。島津貴久・島津義久の2代で薩摩と大隅は平定された。残すは日向だけ。しかも伊東氏の勢いは落ちている。「三州統一」実現が、いよいよ見えてきたのである。

 

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天正2年の島津氏領内の配置と同盟勢力

島津義久は各地に地頭を置いて領内を統治する。とくに要所には一門衆や重臣を置いた。そのおもな顔ぶれはつぎのとおり。

島津義久
島津氏の拠点は薩摩国鹿児島である。当主の島津義久は御内(みうち、内城、うちじょう、鹿児島市大竜町)を居城とした。

島津忠平(島津義弘)
次弟。日向国真幸院の飯野城(いいのじょう、宮崎県えびの市飯野)を拠点とし、現在のえびの市の一帯を治めた。すぐ近くには伊東方の三山城(みつやまじょう、小林城、宮崎県小林市真方)があり、戦いの最前線を任されている。

島津歳久
三弟。大隅国吉田(よしだ、現在の鹿児島市の吉田地区)を任されている。薩摩国北部に所領を持つ入来院(いりきいん)氏をはじめ、かつての敵対勢力ににらみを利かせる役割もあったと考えられる。

島津家久
末弟。薩摩国隈城(くまのじょう、鹿児島県薩摩川内市隈之城町)・串木野(くしきの、いちき串木野市串木野)の地頭。串木野城(くしきのじょう、いちき串木野市上名)を居城とした。

新納忠元(にいろただもと)
島津支族新納氏庶流。薩摩国大口(おおくち、鹿児島県伊佐市大口)を守る。肥後国と国境を接し、球磨(熊本県人吉市のあたり)の相良義陽(さがらよしひ)と対峙する。

島津征久(ゆきひさ、島津以久、もちひさ)
島津忠将(ただまさ、前当主の島津貴久の次弟)の子で、四兄弟の従兄弟にあたる。大隅国清水(きよみず、鹿児島県霧島市国分清水)の地頭。

島津忠長(ただたけ)
こちらも四兄弟の従兄弟。島津尚久(なおひさ、貴久の三弟)の子である。薩摩国鹿籠(かご、鹿児島県枕崎市・南さつま市坊津町)を領する。鹿籠は薩摩半島南西端に位置し、坊津(ぼうのつ)という重要な港も有する。

樺山善久(よしひさ)
島津支族。この頃は大隅国横川(よこがわ)を任される。島津貴久の姉を妻とし、一門衆として重く用いられる。戦功も多い。娘は島津家久に嫁いでいて、こちらとの関係も深い。

頴娃久虎(えいひさとら)
肝付氏庶流。薩摩国頴娃(えい、鹿児島県南九州市頴娃・指宿市開聞)の領主。頴娃久虎は大隅攻略戦でかなり活躍している。

喜入季久(きれすえひさ)
島津氏の分家のひとつ。薩摩国喜入(きいれ、鹿児島市喜入町)の領主。

伊集院忠棟(いじゅういんただむね)
島津支族伊集院氏の庶流。島津家の家老。この頃は大隅国姫木(ひめき、霧島市国分姫城のあたり)を任されている。

伊集院久信(ひさのぶ)
下大隅の戦いで活躍し、大隅国牛根(うしね、鹿児島県垂水市牛根麓)の地頭を任される。伊集院忠棟とは同族。

北郷時久(ほんごうときひさ)
島津支族。島津氏とは同盟関係で、協力して伊東氏や肝付氏と戦ってきた。日向国庄内(しょうない、宮崎県都城市・北諸県郡三股町)・大隅国囎唹(そお、鹿児島県曽於市)などを領する。

島津義虎(よしとら)
薩摩国出水(いずみ、鹿児島県出水市)・阿久根(あくね、鹿児島県阿久根市)・長島(ながしま、出水郡長島町)の領主。分家の薩州家の当主で、かつて父の島津実久(さねひさ)が島津貴久と覇権を争った。

 


伊東はあまり動かず

伊東義祐は一族の最盛期を築き上げた。勢力を大きく広げ、その支配領域は「伊東四十八城」とも呼ばれた。また、幕府や朝廷にも働きかけ、従三位(じゅさんみ)を賜る。官位にちなんで「三位入道(さんみにゅうどう)」とも名乗った。

伊東氏の本拠地は日向国の都於郡城(とのこおりじょう、宮崎県西都市鹿野田)であった。伊東義祐は永禄3年(1560年)に嫡男・伊東義益(よします)に家督を譲って、自身は佐土原城(さどわらじょう、宮崎市佐土原町上田島)に隠居する。若い当主を後見し、実権を握っていた。

しかし、世代交代はうまくいかなった。永禄12年(1569年)に伊東義益が早世。その子の慶龍丸(のちの伊東義賢、よしかた)はまだ幼少で、伊東義祐は孫を養育しながら伊東家の指揮をとった。

 

石段をのぼって城跡へ

都於郡城跡、本丸への石段

 

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復元された館と山城

佐土原城跡

 

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永禄5年(1562年)から日向国真幸院(宮崎県えびの市・小林市・西諸県郡高原町)の地をめぐって島津氏と争いを続けた。島津側では、島津忠平(島津義弘)が伊東氏との戦いを任された。

元亀3年(1572年)、伊東氏は木崎原の戦いで大敗。これを機に、伊東氏は勢いがなくなってしまう。

 

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とはいうものの、すぐに没落したわけではない。「伊東四十八城」といわれる勢力は保ったままだ。だが、積極的な動きは見られなくなる。島津氏に攻められた肝付氏からの援軍要請にも腰が重く、わずかばかりの兵を送っただけだった。

伊東氏には戦う意欲がなくなっている感じだ。

伊東義祐は永正9年(1512年)の生まれ。老齢のためか、かつてのような切れ味は見られない。また、政治をあまり見ずに贅沢な暮らしにふけっていた、とも。

 

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足利義昭の使者が来る

天正2年(1574年)4月、幕府の使者が島津義久のもとに遣わされる。使者の名は江月齋という。将軍の足利義昭は京で織田信長と対立し、紀伊国(現在の和歌山県)に落ち延びていた。流浪の将軍は紀伊から全国の大名に向けて、支援を求める手紙を送る。それが島津氏のもとにもきたのだ。

また、将軍側近の一色藤長(いっしきふじなが)は国老の伊集院忠棟・平田光宗(ひらたみつむね)に書を送り、島津義久に将軍家支援を勧めるよう言ってきている。

同年9月、江月齋は鹿児島の島津義久のもとを訪れた。御内で酒宴が催されたという。その後、島津氏は将軍の支援には動いていない。

 

 

入来院重豊に謀反の疑い

天正2年(1574年)8月、北薩摩の国人衆である入来院重豊(いりきいんしげとよ)に謀反の疑いがかかる。

入来院氏は薩摩国入来院(いりきいん、鹿児島県薩摩川内市)を拠点とする。13世紀に下向してきた鎌倉御家人の渋谷(しぶや)氏の一族で、島津氏とも抗争を重ねてきた。元亀元年(1570年)に島津氏に臣従している。

入来院重豊はすぐに鹿児島におもむいて釈明。自身の所領のうち山田・天辰・田崎・寄田(やまだ・あまたつ・たさき・よりた、すべて薩摩川内市)を献じて忠誠を誓うとした。島津義弘はこれを許し、本領の入来院のみが安堵された。

接収した旧入来院領は、島津家久が欲したが島津義久はこれを却下。別の家臣に与えられた。

 

同じ頃、島津義虎の謀反の噂も流れる。驚いた島津義虎は、何度も使者を送って潔白を訴えたという。

 

また同じ頃、大隅国太良・薩摩国曽木(たら・そぎ、鹿児島県伊佐市菱刈南浦・大口曽木)の菱刈重広は「臣節を失した」として罪に問われる。菱刈氏は永禄12年(1569年)に3年間の籠城戦のあとに降伏し、わずかな所領が安堵されていた。本領は取り上げられ、薩摩国伊集院神殿(いじゅういんこうどの、鹿児島県日置市伊集院上神殿・下神殿)に領地替えとなった。

 

結果的に、従属させた旧敵の力を削ぐことになった。得をしたのは島津氏だ。これらの事件には何かしらの謀略があったとも考えられそうだが……どうだろう?

 

 

島津家久・島津歳久の上京

天正3年(1575年)、島津家久と島津歳久が上京する。まずは2月に島津家久が出発する。しばらくしてから島津歳久も京へ向かった。

『中務大輔家久公御上京日記』という史料が残っている。島津家久が記したもので、道中の様子や京での行動を詳しく知ることができる。島津歳久については日記などの史料がなく、こちらの動きはわからない。

上京の目的はつぎのとおり。

今度中務大輔家久上洛の事、薩隅日弓箭無 隙時分、抽忠節、太守三州を治給ふ事、一篇ニ御神慮の徳無疑故、大神宮・愛宕山外諸佛諸神為可 (『中務大輔家久公御上京日記』より)

この頃の島津家は戦のない静かな状況が続いていた。ただし、日向侵攻の準備も進めていたと思われる。そんな中で、三州平定を祈願するために島津家久を派遣。伊勢神宮(三重県伊勢市)や愛宕山(京都市右京区)などの諸仏諸神を参詣させることにしたという。

参拝は表向きの目的であり、国外の様子をさぐる、朝廷への政治工作、覇権を握る織田家とのつながりをつくる、といった狙いもあったと考えられる。島津家久の日記からは、情報収集の匂いは感じ取れる。政治的なことは、後発の島津歳久が動いたのかも。


島津家久は2月20日に出発し、4月18日に入京して愛宕山に参詣。その後、6月1日に伊勢神宮をお詣りし、7月20日に帰還した。京滞在時は、連歌師として著名だった里村紹巴(さとむらじょうは)の世話にまる。里村紹巴の弟子の心前(しんぜん)の屋敷を宿とし、ここから京のあちこちへ見物にも出かけている。

織田信長の軍勢も見物する。織田軍は石山本願寺との戦いから京に戻ったところだった。島津家久は軍備の様子、兵士たちの様子などを詳細に書き残している。また、織田信長が馬上で居眠りをしていた、とも日記にはある。

 

5月14日には、里村紹巴とともに近江国坂本(滋賀県大津市下阪本)の明智光秀に会いに行く。明智光秀は舟で出迎え、湖上で酒宴。琵琶湖から坂本城(さかもとじょう、明智光秀の居城)も見る。翌日には坂本城に招かれ、城内の見学もさせてもらう。また、「宇治の名布」も明智光秀より贈られる。島津家久の着物が旅でくたびれているのを見ての気遣いだった。

明智光秀は、「東国の陣立」のためにバタバタしていたようである。島津家久が城に招かれた日は、長篠の戦いの6日前のことだった。

 


肝付兼亮、追放される

肝付兼亮(きもつきかねすけ、かねあき)は島津氏に降伏したあとも、本領である大隅国高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町高山)や日向国の志布志(しぶし、鹿児島県志布志市)・櫛間(くしま、宮崎県串間市)を保っていた。

肝付兼亮は永禄元年(1558年)の生まれとされ、この時点では20歳にも満たない若者である。兄の肝付良兼(よしかね)が没したことで、肝付兼亮に当主の座がまわってきた。肝付良兼(よしかね)には男児がなかったので、娘を兼亮に嫁がせて後継としたのである。

そんな肝付兼亮に謀反の疑いがかかる。ひそかに伊東氏と通じていたのだという。

このままでは肝付家が保てないと判断した肝付兼亮の母が動く。名を御南(おみなみ)といい、島津貴久の姉である。また、肝付良兼の妻も同調する。こちらは高城(たかじょう)と呼ばれていて、こちらは伊東義祐の娘である。

天正3年(1575年)11月11日、御南と高城は島津氏に使いを送る。そして、肝付兼護(かねもり、兼亮の弟)を新たに当主に立てることを伝えるとともに、伊東氏とは二度と手を組まないと約束した。また、肝付家重臣の薬丸兼将(やくまるかねまさ)は12月7日に伊東氏に使いを送り、絶交を告げている。

肝付兼亮は日向に追放される。妻(肝付良兼・高城の娘)は離縁し、肝付兼護の正室とした。

 

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近衛前久がやってきた

天正4年(1576年)3月、前関白(さきのかんぱく)の近衛前久(このえさきひさ)が鹿児島にやってきた。

同じ頃に、足利義昭からもまた支援要請があった。足利義昭は中国地方に大きな勢力を持つ毛利輝元(もうりてるもと)の庇護を受けている。毛利氏は将軍を担いで、織田信長に対抗した。

近衛前久の九州入りは織田信長の意を受けてのものだった。九州の諸大名どうしを和睦させ、毛利輝元の包囲網を作ることが目的だったようだ。

島津家では歌会や犬追物でもてなした。丁重に扱いながらも、前関白の言うことは聞かなかったようである。

同年6月、近衛前久は鹿児島を発った。

 


高原合戦

島津義久が日向攻略を開始する。天正4年(1576年)8月16日、日向国真幸院の高原(たかはる)に向けて出兵した。また、島津歳久・島津家久・島津忠長・島津征久(島津以久)らも出陣する。18日、島津方は飯野に集結し、島津忠平(島津義弘)も合流した。

芝生の広場と遠くに山々

高原城跡の西側(高原町総合運動公園)

 

島津軍は飯野を発ち、高原城(たかはるじょう、宮崎県西諸県郡高原町西麓)の東側の耳附尾に陣取る。戦いは激しく、双方で多くの戦死者が出たという。島津軍はこの戦いで城方の汲道を断つことに成功する。そして、本陣を霧島山麓の花堂(はなどう、高原城の南西)に移した。20日、伊東方の援軍が猿瀬(さるぜ、高原城の北)まで来る。

21日、島津軍は島津忠平(島津義弘)を先鋒として総攻めをかける。島津歳久・島津家久・島津忠長らを後軍とし、本隊も鎮守尾(高原城の西)にすすめ、四方から高原城を取り囲んだ。高原城を守る伊東勘解由(長倉祐政、ながくらすけまさ)は使いを送って和を乞う。島津家久・島津忠長は喜入季久と相談してこれを受け入れる。人質交換をしたうえで高原城は明け渡され、伊東勘解由(長倉祐政、ながくらすけまさ)はここを去る。23日、島津義久は高原城に入城した。伊東方の援軍も撤退する。

 

高原城陥落のあと、三山(みつやま、宮崎県小林市)を守る米良重矩(めらしげのり)は島津氏に寝返る。三山城(小林城、小林市真方)・須木城(すきじょう、小林市須木下田)を島津氏に明け渡した。また、高崎(たかさき、都城市高崎町)・内木場(うちこば、小林市内木場)・岩牟礼(いわむれ、小林市東方)・須志原(すしはら、小林市須木内山)・奈佐木(なさき、小林市須木奈佐木)の城も降る。

シラスの岩肌が見える山城跡

三山城(小林城)跡

 

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島津義久は三山城に鎌田政年(かまだまさとし)、須木城に宮原景種(みやはらかげたね)を入れて守らせた。高原の地頭は国老の上原尚近(うえはらなおちか)に任される。

 


肝付家のしくじり

肝付兼護は高原合戦に出陣するが戦いには加わらなかった。島津側からはそのことを咎められたようである。

天正4年(1576年)10月、肝付氏は薬丸兼将らを派遣して、日向国飫肥南郷(おびなんごう)で伊東氏と戦う。肝付方は大敗する。

『明赫記』や『日向纂記』には、次のようなことも書かれている。

肝付氏から伊東義祐に使いを送り、「戦うフリ」の協力を求めたという。島津氏から謀反を疑れていたので、肝付氏としては伊東攻めで疑いを晴らそうとした。伊東氏はこれに応じる。肝付氏は出兵。ちょっと戦の真似事をして撤退するつもりであった。しかし、計画が周知されてなかったため、兵士たちは本気で戦ってしまう。戦闘は本格化し、肝付軍は大きな被害を出した。伊東氏は肝付氏領の福島(櫛間)も奪おうとする。

……と。

飫肥の南に位置する櫛間・志布志(ともに肝付氏領)を守るために、島津氏も軍勢を送る。喜入季久・伊集院忠棟・島津征久・鎌田政近(まさちか)らが出兵し、島津義久も志布志に入った。島津勢が攻め立てて、伊東の軍勢を撤退させた。

櫛間・志布志の地は召し上げられ、肝付氏には本領の高山のみが安堵された。櫛間地頭は鎌田政近に、志布志地頭は伊集院忠棟に任された。

 


伊東崩れ

天正5年(1577年)、島津氏の日向攻略は続く。高原・三山をおさえ、さらに島津忠平(島津義弘)らが野尻(のじり、小林市野尻)を攻める。

野尻地頭は福永祐友(ふくなすけとも)であった。苦境を主君に訴えるが、伊東義祐はなかなか動かない。そんな中で、高原城にあった上原尚近は福永祐友に内応を誘う。さらには「福永は島津と通じている」という偽の書を伊東方に流す。伊東義祐は福永祐友の謀反を疑うようなった。

 

同年12月7日、福永祐友はやむなく島津方に寝返る。野尻城を明け渡した。また、内山城(うちやまじょう、天ヶ城、あまがじょう、宮崎市高岡町内山)の野村文綱も申し合わせて島津方に寝返った。福永氏・野村氏は伊東家の重臣である。この二人の寝返りは、伊東家中を動揺させた。

芝生の広場と城郭風の建物

天ヶ城公園(内山城跡)、模擬天守もある

 

8日、島津忠平(島津義弘)は進撃し、戸崎城(とざきじょう、小林市野尻町東麓)・紙屋城(かみやじょう、小林市野尻町紙屋)も調略に応じる。9日には富田城(とんだじょう、宮崎県児湯郡新富町上富田)も降った。島津軍は破竹の勢いで都於郡城・佐土原城に迫った。

また、飫肥城主の伊東祐兵(いとうすけたけ、義祐の三男)も佐土原城に入る。

伊東義祐・伊東祐兵らは城を棄てて逃亡。豊後国(現在の大分県)の大友宗麟(おおともそうりん、大友義鎮、よししげ)を頼って落ちていった。ちなみに、のちに天正遣欧少年使節に参加する伊東マンショ(伊東祐益、すけます、義祐の外孫)も豊後へ逃れている。

城跡の広場に銅像が立つ

都於郡城の本丸、伊東マンショの銅像もある

 

12月19日、島津義久は都於郡城に入城。残る伊東勢の諸城もつぎつぎと降伏した。また、縣(あがた、宮崎県延岡市)を領する土持親成(つちもちちかしげ)も島津氏と結ぶ。島津氏は一族の悲願であった「三州統一」を果たしたのである。

……つづく。

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『日向纂記』
著/平部嶠南 1885年

『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

ほか