ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

日向伊東氏の栄華と没落、島津氏と抗争を続けて240年余

中世の南九州の歴史は、島津氏と伊東氏の抗争の歴史でもある。当ブログではおもに島津氏について記事を展開しているが、伊東氏のことももうちょっと知りたいのである。そんなわけで、伊東氏の歴史をまとめてみた、とくに島津との関りについて焦点を当てて。

 

 

 

 

 

伊東氏のなりたち

伊東氏は、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)にはじまる藤原南家(なんけ)の流れをくむ一族だとされる。

武智麻呂の九世孫にあたる藤原為憲(ためのり)は、天慶の乱(平将門の乱、939年~940年)で活躍。その恩賞として木工助(もっこうのすけ)に任じられ、「工藤(くどう)」と称するようになった。その後、工藤為憲の子孫は駿河国・伊豆国・遠江国(現在の静岡県)で繁栄。一族の工藤維職(くどうこれもと)が伊豆国の押領使となり、伊東郷(伊藤郷)に入る。「伊東」「伊藤」の名乗りはこれに由来する。

ちなみに、鮫島(さめじま)・相良(さがら)・二階堂(にかいどう)・天野(あまの)なども工藤一族である。のちに鎌倉御家人として活躍する者も多い。

 

 

曾我兄弟の仇討ち

工藤維職の子は工藤祐隆(くどうすけたか、工藤家継、いえつぐ)という。工藤祐隆の嫡男・工藤祐家(すけいえ)が早世したために、後妻の子である工藤祐継(すけつぐ)を後継者として本領の伊東などを譲った。一方、嫡孫の伊東祐親(すけちか)には河津郷を与え、こちらは河津(かわづ)氏とも称した。この相続が、のちに混乱をまねくことになる。

河津祐親(伊東祐親)は平家政権下で活躍し、伊豆に流された源頼朝の監視役も任された。『曾我物語』によると、祐親の三女(後世で八重姫と呼ぶようになる)が源頼朝との間に子をもうけたともされる。

本家のほうでは工藤祐継も若くして亡くなる。子の工藤祐経が家督をつぐが、まだ幼少だったために河津祐親(伊東祐親)が後見した。また、祐経は祐親の娘を妻とした。

河津祐親(伊東祐親)は、嫡流であるはずの自分が本家を継いでいないことに不満を感じていた。工藤祐経が上洛している間に、祐親は伊東の地を横領する。また、娘も離縁させた。祐親は伊東(伊藤)を手に入れたことで、名乗りも「河津」から「伊東(伊藤)」に改めたのだという。「俺が嫡流だ!」という思いの強さがうかがえる。

工藤祐経は伊東祐親の暗殺を計画。郎党に命じて襲撃させるが、伊東祐親を討ちもらす。このとき、祐親の子の河津祐泰(すけやす、河津祐通とも)が討たれている。

 

その後、伊東祐親は源頼朝が率いる鎌倉方に敗れて、降伏後に自害する。

一方、工藤祐経は源頼朝に仕えて、旧領の伊東も取り戻した。建久元年(1190年)、全国あちこちの地頭職にも補任され、この中には日向国の縣(あがた)・田島(たじま)・児湯(こゆ)・富田(とみた)・諸県(もろかた)も含まれていたという。なお、日向には代官を送り、土地の管理を任せている。

建久4年(1193年)、事件が起こる。工藤祐経が殺害されたのだ。これは「曾我兄弟の仇討ち」として知られている。かつて工藤祐経が討った河津祐泰には遺児があり、成長して曾我祐成(そがすけなり)・曾我時致(ときむね)と名乗った。この兄弟が父の仇である工藤祐経を討ち果たしたのである。

 

事件後、工藤祐経の遺領は嫡男の犬房丸に安堵された。のちに犬房丸は源頼朝を烏帽子親として元服し、伊東祐時(すけとき)と名乗った。苗字も工藤から伊東に改めたとされる。この人物が日向伊東氏の初代と数えられている。

伊東祐時は鎌倉にあって幕府の仕事をこなした。祐時は子だくさんでもあり、その中から門川(かどかわ)・木脇(きわき)・田島(たじま)・長倉(ながくら)・稲用(いなもち)など多くの庶流が出ている。

伊東氏の歴史は、その後も家督をめぐる混乱がたびたび起こる。

 

 

 

 

 

南北朝争乱期に日向に根付く

伊東氏嫡流の日向入りは、6代当主の伊東祐持(すけもち)からである。伊東祐持は足利尊氏に仕え、日向国の所領を安堵される。さらに都於郡(とのこおり、宮崎県西都市)を賜り、建武4年・延元2年(1337年)4月に伊豆から日向へ移る。このときに都於郡城も築かれたとされ、ここを居城とした。

虎口跡と大空堀が確認できる

都於郡城跡

 

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伊東祐持は幕府滅亡後も北条方にあったようだ。建武2年の中先代の乱では、北条時行の挙兵に加わっている。降伏したあとは足利尊氏の軍勢に属して活躍した。

伊東祐持の下向は、九州の後醍醐天皇方(南朝方)との戦いのためだった。日向南部の三俣院(みまたいん、宮崎県都城市・西諸県郡三股町)を拠点に肝付兼重(きもつきかねしげ)が南朝方として挙兵。また、日向にあった伊東一族からも南朝方につく者があった。伊東祐廣(木脇祐廣)・伊東祐貞・伊東祐勝らは国富荘(くにとみのしょう、宮崎市の佐土原・清武、西都市や新富町のあたり)や穆佐院(むかさいん、宮崎市高岡町のあたり)に侵攻し、奪い取った。穆佐院は赤橋登子(あかはしとうし、足利尊氏の正室)の所領でもあった。

 

足利尊氏は南九州の攻略のために、畠山直顕(はたけやまただあき、足利一族)を日向に置いた。穆佐城を奪い返したあとは、ここを拠点とした。畠山直顕の軍に伊東祐持も属した。

畠山直顕は日向の国人衆の多くを味方につけ、薩摩の島津貞久(しまづさだひさ)とも連携をとり、戦いを有利に進めていく。暦応2年・延元4年(1339年)8月には三俣院の肝付兼重を下し、日向国をほぼ掌握する。

だが、康永元年・興国3年(1342年)頃に征西大将軍の懐良親王(かねよししんのう、後醍醐天皇の皇子)が薩摩に入ると、南朝方か盛り返す。さらに貞和4年・正平3年(1348年)に懐良親王は肥後国の隈府城(わいふじょう、熊本県菊池市)に入って征西府を置く。菊池武光(きくちたけみつ)の活躍もあり、南朝方はますます強勢となっていった。

 

貞和4年・正平3年(1348年)6月、伊東祐持は幕府より検非違使(けびいし)に任じられる。しかし、上京の途上で病を発し、7月に京で没した。嫡男の虎夜叉丸は幼かったため、伊豆国に住む一族の伊東祐煕(すけひろ)を後継者にしようとなった。家督を奪おうとしたのである。また、伊東祐藤(すえふじ、祐持の弟)も家督相続を望んだ。虎夜叉丸の母は、我が子を後継者とするために幕府に訴えた。裁定は、ひとまず伊東祐煕に家督をつがせて次を虎夜叉丸に、とした。

伊東祐煕は伊豆を発って日向を目指した。だが、事件が起こる。周防灘で船が沈み、伊東祐煕が亡くなったのだ。また、後継者問題が続くどさくさにまぎれて、日向では伊東祐氏(すけうじ、祐廣の子)が都於郡城を押領した。

虎夜叉丸の母は再び幕府に訴え、虎夜叉丸の後継が決まる。貞和4年・正平3年12月に京より日向に入った。しかし、都於郡城を奪った伊東祐氏は城の返還に応じない。そこで、伊東家の重臣は一計を案じる。伊東祐氏の娘を虎夜叉丸の妻に迎えることを条件に相談をもちかけた。伊東祐氏はこれに応じ、虎夜叉丸は都於郡城に入城した。

虎夜叉丸は元服して伊東祐重(すけしげ)と名乗る。のちに足利尊氏から一字を与えられて、「伊東氏祐(うじすけ)」と名乗るようになった。伊東氏祐は都於郡城の大幅改修も行っている。


南九州では畠山直顕と島津貞久の対立が表面化してくる。さらには、幕府に内訌(観応の擾乱、1350年~1352年)があり、足利直冬(ただふゆ、尊氏の庶長子)が九州に入って第三の勢力を形成した。九州は混沌とした状況に。この中で畠山直顕は足利直冬について、日向を攻略し、大隅国(鹿児島県の東側)にも勢力を広げた。伊東氏祐は畠山直顕に従う。

延文元年・正平11年(1356年)、畠山直顕は幕府に帰順する。伊東氏祐も幕府方へ。一方で、島津氏久(うじひさ、島津貞久の子)は南朝方に転じ、畠山との抗争を続けた。この頃、九州では南朝方が優勢であった。畠山直顕は島津氏久や菊池武光との戦いで敗戦を重ねる。没落する畠山勢に、伊東氏祐も従わなくなったようだ。延文3年・正平13年(1358年)に畠山直顕は日向から逃亡した。

その後、島津氏は幕府に帰順するが、九州探題の今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)と不和になり、再び南朝方に転じる。伊東氏は幕府方(北朝方)につき、今川氏のもとで島津氏と戦った。

元中9年・明徳3年(1392年)、南北朝の合一がなる。伊東氏はこの混乱期を生き残る。

 

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伊東氏と島津氏の抗争

応永2年(1395年)に今川了俊が九州を去ると、島津元久(もとひさ、氏久の子)は穆佐院に侵攻し、この地を奪った。伊東祐安(すけやす、氏祐の子)は失地回復と日向南部への勢力拡大を目指して島津に対抗する。穆佐院・飫肥(おび、宮崎県日南市)・櫛間(くしま、宮崎県串間市)、庄内(しょうない、宮崎県都城市・三股町)の覇権を巡って、伊東と島津の長い長い戦いが始まるのである。

 

島津元久は島津久豊(ひさとよ、元久の弟)を穆佐城主とし、伊東氏と対抗した。ここでの攻防は一進一退の状況が続く。島津久豊は伊東祐安の娘を正室に迎え入れて、和睦もはかった。ちなみに、この和睦は島津久豊が勝手に進めたもので、兄と不和になったりもした。

島津氏は大隅国守護・日向国守護の「奥州家(おうしゅうけ)」と薩摩国守護の「総州家」に分裂。この両家の争いは奥州家の島津元久が制し、薩摩国守護の座も手にしていた。だが、応永18年(1411年)に島津元久が急死。元久に後継者とする男子がなく、甥の伊集院初犬千代丸(伊集院煕久、いじゅういんひろひさ、伊集院氏は島津氏庶流)を後継者とした。伊集院頼久(よりひさ)・初犬千代丸の父子が鹿児島の清水城(しみずじょう、島津氏の拠点、鹿児島市清水町)に入った。島津家の重臣たちの中には、この相続を認めたくない者も多かった。すぐに穆佐の島津久豊に状況を伝えた。島津久豊は鹿児島に急行し、強引に家督を相続した。

 

薩摩国では伊集院頼久が反乱を起こし、総州家や国人衆も呼応する。島津久豊はこちらの鎮圧に駆けずり回ることになる。島津領内の混乱に乗じて、伊東祐安は侵攻する。

応永19年(1412年)9月、伊東軍は曾井城(そいじょう、宮崎市恒久)を囲んだ。島津方は北郷知久・樺山教宗らが救援に向かうが、急襲されて島津軍は大崩れとなった。島津久豊が穆佐城に入って応戦するも、伊東軍がこれを撃ち破る。伊東祐安は穆佐城を奪い返した。

応永29年(1422年)、島津久豊は薩摩を平定。日向国方面の失地回復に動く。穆佐城を取り返すなど軍事行動を展開するも、応永32年(1425年)に穆佐城で病没。日向攻略はとん挫し、島津氏と伊東氏は和睦する。

 

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久豊のあとをついだ島津忠国(ただくに)は穆佐城で生まれ、母は伊東祐安の娘である。日向への思いは強い。だが、島津久豊の死とともに薩摩・大隅では反乱が再燃していた。重臣の反対を押し切って日向侵攻に踏み切るが、伊東祐立(すけはる、祐安の子)が迎え撃って大敗させる。

家臣の支持を失った島津忠国は当主の座を追放される。島津用久(もちひさ、島津好久、よしひさ、忠国の弟)を守護代として領内の収拾をはかるが、島津忠国も覇権を取り戻すために動く。

 

日向の情勢は、伊東氏にとって有利に動いていった。伊東祐堯(すけたか、祐立の子)は日向国内の反抗勢力をつぎつぎと下す。領内での影響力を強めた。文安2年(1445年)には島津領内に侵攻し、穆佐城を奪い返した。

島津の兄弟は和解し、権力は再び島津忠国に戻る。しかし、またもクーデターがあって忠国は追放され、嫡男の島津立久(たつひさ)が当主を代行した(忠国の死後に家督を継承)。寛正5年(1464年)に島津立久は伊東祐堯と和睦し、薩摩・大隅の安定を優先させた。

一方で、島津立久は日向方面の守りを固めるために配置換えも行った。飫肥城には新納忠続(にいろただつぐ)を、櫛間城には伊作久逸(いざくひさやす)を入れた。新納氏も伊作氏も島津一族だ。ちなみに、伊作久逸は島津立久の弟である。本家から養子入りして伊作家を継承している。


島津家では島津立久が没し、子の島津忠昌が若くして当主になった。またも領内が乱れる。薩州家(さっしゅうけ)・豊州家(ほうしゅうけ)・相州家(そうしゅうけ)といった分家が力を持ち、ほかにも新納(にいろ)・伊作(いざく)・北郷(ほんごう)・樺山(かばやま)などの庶流もある。一族の者たちが当主に従わず、反乱が相次ぐ。国人衆もこれに呼応した。

伊東祐堯は島津氏の内紛に介入する。文明16年(1484年)、櫛間の伊作久逸が反乱を起こし、飫肥の新納忠続を攻めた。伊作久逸と手を結んだ伊東祐堯も飫肥に侵攻する。真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市・小林市)の北原立兼も攻め手に加わった。伊作・伊東・北原連合軍ははげしく攻め立て、飫肥城を囲んだ。

なお、伊東祐堯は陣中で没する。享年77。当主は嫡男の伊東祐国が引き継ぎ、戦いを続けた。

文明17年(1485年)6月、島津忠昌は飫肥に出陣。伊作・伊東・北原連合軍は撃破され、伊東祐国は戦死する。

伊作久逸は降伏し、本領の薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上町)に戻された。ちなみに、この伊作久逸の孫が、島津忠良(ただよし、島津日新斎、じっしんさい)である。

また、飫肥には豊州家の島津忠廉(ただかど)が入った。

 

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伊東尹祐(ただすけ、祐国の子)が当主となるが、まだ幼少であった。だが、長じると島津との戦いに執念を燃やす。父の仇をとろうと攻め立てた。

一方、島津領内は相変わらず反乱が続いていた。伊東氏と戦う余裕はない。明応4年(1495年)、島津忠昌は庄内の三俣院1000町を割譲して和睦した。伊東氏は庄内にも勢力を広げた。

大永3年(1523年)、伊東尹祐は庄内の制圧に動く。庄内のうち都之城・野々美谷城・安永城は北郷忠相(ほんごうただすけ)が治めていた。ここを一気に潰してしまおうと、伊東尹祐は大軍で攻め込んだ。伊東勢だけで兵力は1万ともされる(『日向記』による)。対する北郷軍はわずかに800である。だが、北郷忠相は寡兵ながらよく戦う。同年11月8日、野々美谷城が陥落するが、同日に伊東尹祐は没する。戦死だったとも伝わる。さらに12月10日には伊東祐梁(尹祐の弟)も亡くなる。伊東軍は撤退するほかなかった。

山城跡は神社に、参道の石段と鳥居

野々美谷城跡

 

北郷忠相について、こちらの記事に詳しい。

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当主の急死ののち、伊東祐充(すけみつ、尹祐の子)が家督をつぐ。北郷忠相は和睦を持ちかけて野々美谷城を割譲。さらには娘を嫁がせて伊東氏との融和を図った。

伊東祐充は若いながらも精力的に軍を動かした。北郷忠相も同盟軍として協力し、日向南部に勢力を広げていく。

一方で、伊東祐充の外祖父である福永祐炳(ふくながすけあき)の専横が目立っていた。

 

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島津貴久の登場

島津氏は本宗家が力を失い、領内を治めきれずにいた。そんな中で、薩州家の島津忠興(ただおき)と、相州家の島津忠良が台頭してくる。薩州家は島津用久にはじまる分家で、本家をもしのぐ力を持っていた。島津忠良はもともとは伊作氏の出身で、相州家に養子入りしている。大永5年(1525年)に島津忠興が没すると、島津忠良が動く。

 

大永6年(1526年)、島津忠良は国老らと謀って当主の島津忠兼(しまづただかね)から実権を奪う。自身の嫡男を本宗家の養子に入れ、元服させて当主に擁立する。島津貴久(たかひさ)である。翌年には島津忠兼を隠居させた(追放した)。

これに対して薩州家も黙っていない。島津忠良が出陣中の隙を衝いて、鹿児島を奪う。島津忠良の所領にも攻撃を仕掛けてた。島津貴久はわずかな家臣とともに脱出する。また、島津忠兼を説得して、当主に復帰させた。

覇権は薩州家の島津実久(さねひさ、忠興の子)が主導し、当主に復帰した島津勝久(かつひさ、忠兼から改名)も復権をはかる。ひきずり降ろされた島津忠良・島津貴久も反撃に転じ、しばらくは内乱が続く。天文8年(1539年)、島津家の抗争は相州家が制する。島津貴久が正式に当主の座についた。

 

伊東と島津の抗争は、日向南部で依然として続いている。飫肥の島津忠朝(ただとも、豊州家)と庄内の北郷忠相は本家とは距離を置いて独自に動く。伊東氏はたびたび侵攻するが、豊州家・北郷氏に南下を阻まれる。

 

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伊東義祐が最盛期を築く

伊東家でも激しい内訌が起こる。そして、こちらも強い当主が現れるのだ。伊東義祐(よしすけ)である。

 

天文2年(1533年)8月、伊東祐充が病死。まだ23歳だった。伊東家中では専横の限りを尽くしていた福永祐炳を取り除こうとする動きが出てくる。伊東祐武(すけたけ、祐充の叔父)が反乱を起こし、福永一族を自害に追い込んだ。伊東祐武は都於郡城に入って家督を継承しようとするが、これも支持されず。結局、伊東祐吉(すけよし、祐充の弟)が新当主に擁立される。

なお、天文元年(1532年)から天文3年にかけて、伊東氏は三俣院を北郷忠相に攻められている。この戦いで大敗した。当主の急死もあって対応がままならず、伊東氏は三俣院から撤退する。

 

伊東祐吉には兄がいた。名を伊東祐清といった。こちらは家督をつがずに出家していた。重臣の長倉祐省(ながくらすけよし)が祐清のと関係が悪かったとされ、そのために祐吉の擁立を推したのだという。

天文5年(1536年)、伊東祐吉が病死する。享年20。これを受けて伊東祐清が還俗して当主になった。翌年、将軍の足利義晴の偏諱を受けて、祐清は「伊東義祐」と名乗るようになった。なお、都於郡城はこのとき焼失していたため、佐土原城(さどわらじょう、宮崎市佐土原町)を本拠地とした。

田んぼの向こうに山城跡

佐土原城跡

 

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長倉祐省が反乱を起こすなど、伊東家中ではゴタゴタは続いた。伊東義祐は反抗する者を倒し、次第に家中をまとめていった。伊東氏は再び力をつけて、飫肥への侵攻をうかがった。

飫肥・櫛間は豊州家の島津忠広(ただひろ)が守る。その伯父にあたる北郷忠相とも連携して伊東氏の侵攻を防いでいた。豊州家・北郷氏は島津貴久と対立していたが、天文14年(1545年)に同盟を結ぶ。島津家の当主と認めて従うことになった。伊東氏の圧力に対して、島津氏の支援を得て対抗した。

伊東義祐は大隅半島で勢力を広げていた肝付兼続(きもつきかねつぐ)と同盟を結ぶ。伊東義祐は娘を肝付良兼(よしかね、兼続の嫡男)に嫁がせて結束を固めた。

 

永禄3年(1560年)、伊東義祐は嫡男の伊東義益(よします)に家督を譲る。だが、実権は握り続けた。この頃に朝廷から従三位にも叙せられ、「伊東三位入道」とも称した。伊東義益は都於郡城に入り、伊東義祐は佐土原城を居城とした。

 

永禄4年(1561年)、肝付兼続は島津貴久に叛く。大隅国の廻城(めぐりじょう、鹿児島県霧島市福山町)をめぐって激戦を繰り広げる。

島津氏が肝付氏に手を焼いている間に、伊東義祐は飫肥に猛攻をかける。豊州家の島津忠親(ただちか、実父は北郷忠相)は守り切れず、飫肥を明け渡した(しばらくして、豊州家が取り返す)。


伊東義祐は真幸院を領する北原氏の後継問題にも介入。永禄5年(1562年)に、北原家を乗っ取った。これを阻止しようと島津貴久も動く。この抗争ののち、真幸院のうち飯野・加久藤(いいの・かくとう、宮崎県えびの市)などは島津氏がおさえ、三山(みつやま、宮崎県小林市)・高原(たかはる、宮崎県西諸県郡高原町)は伊東氏がとった。

島津貴久は次男の島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)を飯野城に入れて、伊東氏の備えとした。

 

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永禄11年(1568年)、伊東義祐は飫肥・櫛間を落とし、豊州家を滅ぼす。この頃に伊東氏は一族の最盛期を迎えていた。一方で、島津貴久も薩摩国を平定。大隅半島や日向方面の攻略を目指すことになる。

永禄12年(1569年)、伊東義益が病死する。伊東義祐は嫡孫を養育しながら、伊東家の指揮をとった。

 

元亀2年(1571年)、島津貴久が没した。島津氏を攻める好機と見たのであろう。肝付氏・伊東氏は島津氏に対して攻勢をかける。同年、肝付氏ら大隅勢は水軍を繰り出して薩摩を攻めた。

元亀3年(1572年)、伊東義祐は飯野・加久藤を攻める。島津氏は肝付氏と交戦中で、この地が手薄になっていた。兵力はわずかに300ほどであった。伊東氏は伊東祐安(すけやす、伊東祐武の子)を総大将として3000の兵でこれを攻めた。

島津忠平(島津義弘)は寡兵ながらも敵を翻弄。伊東軍は加久藤城攻めに失敗し、木崎原(きざきばる、えびの市池島町)で休んでいるところに攻めかかる。伏兵も効果的に使いつつ、敵軍を殲滅する。伊東軍の大敗北だった。総大将をはじめ有力武将の多くが戦死した。

古戦場跡の石碑

木崎原古戦場跡、激戦地の三角田(みすみだ)

 

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木崎原の戦いの勝利で、島津氏は勢いづく。島津義久(よしひさ、貴久の嫡男)は肝付氏を降して大隅も制圧する。

天正5年(1577年)、島津義久は伊東攻めにかかる。高原に侵攻してこれを落とし、さらに野尻(のじり、小林市野尻町)を攻略する。伊東家では重臣らがつぎつぎと寝返り、城を明け渡していった。

島津軍は都於郡城・佐土原城に迫った。天正5年12月、伊東義祐は逃亡する。一族を引き連れて豊後国(現在の大分県)の大友宗麟(おおともそうりん、大友義鎮)を頼って落ち延びた。

 

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天正6年(1578年)、伊東氏の求めに応じて、大友宗麟は日向奪還のために島津義久と決戦にのぞんだ。この戦いは、「高城合戦」「高城川の戦い」「耳川の戦い」と呼ばれるものである。大友軍は大敗した。

その後、伊東義祐は豊後を出て、流浪の身となる。天正13年(1583年)、和泉国堺(さかい、大阪府堺市)の浜辺で倒れているところを発見される。7日間の療養ののちに没する。享年73。

 

 

伊東マンショ

豊後に落ちのびた伊東一族の中には、伊東祐益(すけます)の姿もあった。伊東祐益は重臣の伊東祐青(すけはる)の子である。母は伊東義祐の娘で、義祐からみると孫にあたる。豊後国でキリスト教に触れて改修。洗礼名をマンショという。修道士を目指して肥前国有馬(長崎県島原市)のセミナリヨ(修道士養成学校)で学んだ。

そして、天正遣欧使節団に大友家の名代として参加。ヨーロッパに渡っている。

 

 

伊東祐兵が飫肥に返り咲く

伊東氏は伊東祐兵(すけたけ、義祐の子)によって再興される。伊東祐兵は豊臣秀吉に仕えて転戦。天正14年(1586年)の豊臣秀吉による島津攻めでは、先導役も務めた。戦後、恩賞として日向国に所領を得た。その後、飫肥城を本拠地とした。徳川家が幕府を開いたあとも所領は安堵され、飫肥藩伊東家は幕末まで続く。

 

 

 


<参考資料>

『日向纂記』
著/平部嶠南 1885年

『日向国史 上巻』
著/喜田貞吉 出版/史誌出版社 1929年

『日向国史 下巻』
著/喜田貞吉 出版/史誌出版社 1930年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』
著/新名一仁 発行/株式会社KADOKAWA 2021年

ほか