ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

都之城跡にいってみた、北郷氏が守った「島津」の拠点

宮崎県南西部から鹿児島県北東部にかけて広大な盆地が広がっている。都城盆地は南北約30km・東西約25㎞もの規模があり、2市2町(宮崎県都城市・三股町・高原町、鹿児島県曽於市)にまたがる。

この都城盆地を統治したのが、島津一族の北郷(ほんごう)氏である。江戸時代に北郷氏は島津姓を名乗るようなり、「都城島津氏」と呼ばれるようになった。

北郷氏(都城島津氏)が拠点としたのが、日向国庄内南郷都島(しょうないなんごうみやこじま、現在の都城市都島町)の都之城(みやこのじょう)である。永和元年・天授元年(1375年)、北郷義久(よしひさ、名は誼久とも、北郷氏2代)が築いたとされる。別名に「鶴丸城」とも。こちらへ行ってみた。訪問日は2021年10月某日。

なお、この城がそのまま市名にもなっている。「都之城」は「都島」に築城したからそう呼ばれるようになったわけだが、では「都島」というのは何のか? それはカムヤマトイワレビコ(神武天皇)の宮居があった場所という伝説からきているのだ。古くは「宮古嶋」と書いたようだ。

 

立派な門をくぐって入城

都之城はかなり広大な城だったようだ。おもな曲輪は本丸・西城・中之城・南之城・中尾城・中之尾城・外城・小城・池之上城・新城・取添など。一帯は開発が進んでいて、曲輪が崩されて住宅地となっているところも多い。その中で、本丸と西之城のあたりは城山公園として整備されている。また、城山公園の外にある池之上城と中之尾城も痕跡がよく残っているそうだ。

場所はJR西都城駅から南の方へ1㎞ちょっとのところ。車でいくと3分ほど。道も分りやすい。城山公園の入口を入ると、広めの駐車場がある。立派な門が見える。そして、見上げる山が本丸跡だ。山の上には城郭っぽい建物の屋根もちらりと見える。

大きな城門と山城跡

門と本丸跡

 

麓は児童公園として整備されている。本丸下の広場には、都城出身の財部彪(たからべたけし)の銅像も立つ。日露戦争で大本営海軍部参謀を務めるなど活躍し、のちに海軍大将となった人物である。

山城跡の銅像

財部彪の銅像

門のほうは「城山大手門」という。『【新版】都城市の中世城館』に掲載された「竹之下都城御城図」を見ると、この位置に門があったわけではないようだ。復元とかではなく、あくまでも雰囲気づくりの一環として建てられたものである。現地の案内板によると、1994年に完成したとのこと。棟高は9.55m、扉は高さ2.9m・幅1.8m。柱と梁に樹齢300年の都城産杉を使うなど、主要材料のほとんどが地場産。石垣には加治木石(かじきいし、鹿児島県姶良市あたりでとれる溶結凝灰岩)が使われている。

近年築かれた城門

城山大手門

大手門をくぐりしばらく進むと、城山公園の内部へと入っていける道がある。その入口には「都之城(鶴丸城)跡」の標柱。神武天皇を祀る狭野神社(さのじんじゃ)の大きな看板もある。

遊歩道へ入口、看板には「狭野神社」の文字

ここを入っていく

 

遊歩道は空堀跡に沿って設けられている。左に本丸跡、右に西之城を見ながら奥へと進んでいく。

木々の中に伸びる遊歩道、頭上に橋もある

本丸と西城の間の空堀、橋で曲輪間を連絡可能

都城の城山公園

遊歩道(空堀)を抜けると反対側の入口に出る

 

まずは本丸のほうへ。階段をのぼっていくと、虎口があった。こちらはかつての痕跡が残っているそうだ。

城跡の痕跡を残す

虎口跡

 

さらに登ると広い曲輪に出る。一面に芝生が貼られていてきれいに整備されている。そして城郭風の建物も見える。こちらが都城歴史資料館である。北郷氏に関する史料や城跡の出土品などが展示されているほか、北郷氏の歴史についても知ることができる。スタッフの方に都城市内の城跡の情報を教えてもらい、散策に役立も資料もいただく。また、前述の『【新版】都城市の中世城館』も購入した。

芝生の広場と城郭風の建物

本丸跡、なかなか広い

城郭風の建物

都城歴史資料館

 

資料館を出たあとに、本丸をもっちょっと見て回る。

このあたりに門があったようだ。盛り上がっているところがふたつあるが、この下に柱穴があるとのこと。門跡の近くにはまたまた銅像がある。こちらは瀬戸山三男の像。文部大臣・法務大臣・建設大臣などを歴任した人物である。

城跡の公園、盛り上がったところが2つ

門のあった場所

 

こちらは建物跡。曲輪の端のほうにあり。物見櫓だったと考えられている。

建物があったとされ場所の基礎部分

建物跡

 

本丸の一角には石塔や石像も置かれている。資料館のスタッフに聞いたところによると、都城市内の寺院跡にあったものをここに集めているとのこと。

手前に仁王像、おくに石塔群

仁王像と石塔

 

本丸跡より都城盆地を見る。ここから見える大淀川は昔と位置が変わっているそうだ。かつては本丸の真下を流れていて、水堀として機能していた。

眺望が開けている

本丸跡から都城市街地を見る、手前に大淀川

 

 

狭野神社と「都嶋御舊址」碑(神武天皇の聖跡碑)

本丸跡から橋をわたって西城へ。こちらには狭野神社が鎮座する。

神聖な雰囲気の神社の境内

狭野神社

もともとはカムヤマトイワレビコ(神武天皇)の御所があったとされる場所に塚を盛り、そこに祠を建てて祀っていたという。創建時期は不明。古くは須久束大明神(すくつかだいみょうじん)と呼んでいた。

大永6年(1526年)に須久束大明神に火災があり、北郷忠相(ほんごうただすけ、北郷氏8代)がのちに再興。参拝者の利便性を考えて、城外に遷宮した(場所は大淀川にかかる岳下橋の近く)。明治2年(1869年)に狭野神社と改称し、さらに明治7年(1874年)に現在地に遷宮している。

カムヤマトイワレビコは高原(たかはる)の狭野(さの)の地に生まれたと伝わる。生誕地は現在の宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田とされ、その場所にも狭野神社が鎮座している。ちなみに、幼名を狭野尊(さののみこと)という。カムヤマトイワレビコは狭野から宮古嶋(都島)に移り、そして東征へと旅立ったのだという。

薩摩藩が編纂した地理誌『三国名勝図会』には、「神代皇都」として紹介。つぎのように説明している。

都城の地は、神代の時、皇都を建てられし處にして、古事記に、所謂高千穂宮の舊址なり。高千穂宮とは、此地高千穂峯の東南麓にあり、故に其名を得しなり。(『三国名勝図会』より)

『古事記』にある高千穂宮が、ここであるとしている。

 

境内のある西城跡をいったんおりて、南側の通路を進むと玉垣に囲われた塚がある。そこには「都嶋御舊址」碑が建てられている。ここが、須久束大明神のあった場所のようだ。「竹之下都城御城図」では、この塚を「都嶋」としている。

玉垣に囲われた聖跡

塚の上に「都嶋御舊址」碑

聖跡を示す古い石碑

記念碑はこんな感じ

 

「都嶋御舊址」碑は、昭和9年(1934年、皇記2594年)に建立。カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を出発してから2600年となることを記念し、有志によって顕彰碑が建てられた。揮毫は財部彪による。

 

都城は「島津」の発祥地

島津氏の名乗りは、島津荘(しまづのしょう)に由来する。この「島津」というのは、現在の都城市郡元のあたりだとされている。

「島津」の地名は、延長5年(927年)に完成した『延喜式』が初出とされる。駅伝制について書かれているところで登場し、日向国諸県郡のうちには島津駅(しまづえき)が置かれていたという。

『三国名勝図会』には、古くは「島門」「島戸」だった、とも記されている。霧島山の麓の人の出入りの多いところ、というところから「島」の「門(戸)」としたという説を述べている。

大宰府の大監(だいじょう)であった平季基(たいらのすえもと)が日向に下向し、万寿年間(1024年~1028年)に島津院の荒れ地を開墾した。これをはじまりとし、島津荘(しまづのしょう)が形成されていく。島津荘は巨大化し、日向国・大隅国・薩摩国にまたがる。最盛期には8000町(約8000ha)にもなった。

都城のあたりを「庄内(しょうない)」とも言うようになる。島津荘は広大であるために、とくに発祥地である島津院のあたりを「島津本荘(庄)」、あるいは「島津御荘(庄)内」「本荘(庄)内」と呼んだことによる。

 

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時代が下って鎌倉に武家政権が成立すると、幕府が荘園管理者として地頭を任じた。島津荘を任されたのは、惟宗忠久(これむねのただひさ)であった。文治2年(1186年)に源頼朝より島津荘の惣地頭職に補任された。そののちに薩摩国・大隅国・日向国の守護職にも任じられた。そして、「島津」の苗字を名乗るようになった。この島津忠久を初代とし、島津氏の長い歴史がはじまるのである。

建仁3年(1203年)、島津忠久は所領を失う。比企能員(ひきよしかず)の変に縁座してのことだった。その後、薩摩国守護職や島津荘薩摩方地頭職は取り戻す。しかし、日向国と大隅国については回復がかなわず、こちらは北条氏の支配が続いた。

 

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北郷氏のはじまり

鎌倉時代末期から南北朝争乱期の薩摩国守護は、島津貞久(しまづさだひさ、5代当主)であった。

元弘3年・正慶2年(1333年)5月、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を陥落させる。同じ頃に京では足利高氏(足利尊氏)が六波羅探題を落とし、また、九州においては島津貞久・少弐貞経(しょうにさだつね)・大友貞宗(おおともさだむね)が鎮西探題を落とす。鎌倉幕府は滅亡した。

島津貞久は倒幕での恩賞として、朝廷(後醍醐天皇)より日向国・大隅国の守護に任じられる。島津忠久が失って以来、旧領を回復したことになる。ただ、すんなりと支配できたわけではない。このあと、足利尊氏による新たな武家政権の樹立、北朝方(武家政権に擁立された持明院統)と南朝方(後醍醐天皇が吉野に開いたもうひとつの朝廷、大覚寺統)の対立、さらには幕府内の内訌(観応の擾乱)など、混沌とした時代へと突入していくのだ。

島津貞久は足利尊氏に従う。京の周辺の戦いにも従軍する。一方で、南九州では南朝方に呼応するものも多く、島津氏はこちらの対応にも苦労する。足利一族の畠山直顕(はたけやまただあき)が日向国守護に任じられ、南九州方面の幕府方大将として活動する。大隅や日向では肝付兼重(きもつきかねしげ)が南朝方として抵抗する。薩摩国においても多くの国人が南朝方について島津氏に戦いをしかけてくる。

4代当主の島津忠宗(ただむね)に7人の息子がいた。この兄弟をひっくるめて「七人島津」とも呼んだ。守護で嫡男の島津貞久だけでなく、ひとりひとりが足利尊氏より恩賞を受けていて、それぞれが独立した領主として扱われた。そのうちのひとりに島津資忠(すけただ、忠宗の六男)がいた。

島津資忠は兄の島津貞久に従って転戦。島津氏の主力として活躍する。観応2年・正平6年(1351年)に、筑前国金隈(かねのくま、現在の福岡県福岡市博多区金隈か)の戦いに援軍として派遣され、九州探題の一色範光(いっしきのりみつ)とともに戦った。その軍功を賞され、文和元年・正平7年(1352年)4月に足利義詮(よしあきら、2代将軍)より庄内北郷(ほんごう、現在の都城市山田町・庄内町のあたり)300町を賜る。そして、薩摩迫(さつまさこ、都城市山田町古江)に館をかまえて移り住み、「北郷資忠」と称するようになった。北郷資忠は、この地の豪族の宮丸(みやまる)氏の娘を娶ってその所領も継承した。都之城のあるあたりを宮丸といい、そこが宮丸氏の支配地であった。

また、同じ頃に島津資久(すけひさ、資忠の兄、島津忠宗の五男)も庄内に所領を賜る。こちらは島津・早水・樺山・寺柱(しまづ・はやみず・かばやま・てらばしら、現在の都城市東部から北諸県郡三股町にかけての範囲)が与えられた。こちらは樺山(三股町樺山)にちなんで樺山資久と名乗った。

島津氏による庄内支配は樺山資久・北郷資忠の兄弟に任されたのである。さらには、樺山資久には男児がなかったことから、北郷資忠の子が養子に入って樺山氏をついだ(2代当主の樺山音久)。

 

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簑原合戦、島津と今川が激突!

島津貞久は薩摩国守護を三男の島津師久(もろひさ)に、大隅国守護を四男の島津氏久(うじひさ)に分割して継承した。

南九州は南朝方が優勢で、島津師久・島津氏久は苦戦が続いた。さらには日向国守護の畠山直顕が大隅まで勢力を広げつつあり、ここに島津氏との対立が表面化していた。島津氏は南朝に転じ、畠山直顕との戦いに専念。北郷資忠もこれに従う。島津氏久は南朝勢力と連携をとりながら畠山氏を攻め、大隅・日向から追い出した。

その一方で、足利尊氏が島津氏の離反に対して所領を召し上げる。北郷氏は庄内北郷を没収され、一時は大隅国財部院(たからべいん、現在の曽於市財部)に移された。のちに島津氏が幕府方に復帰し、北郷の地も戻された。

南朝方の優勢が続く中で、幕府は今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)を九州探題に任命。建徳2年・応安4年(1371年)に今川貞世(今川了俊)は九州に入り、南朝方を切り崩していった。島津氏久・島津師久も今川氏に従った。

ところが、永和元年・天授元年(1375年)に事件が起こる(水島の変)。今川貞世(今川了俊)は、南朝方との決戦に向けて肥後国の水島(みずしま、菊池市七城町)に陣を敷く。そして、九州の有力守護である島津氏久・大友親世(おおともちかよ、豊後国守護)・少弐冬資(しょうにふゆすけ、筑前国守護)に参陣を求めた。島津と大友は来たが、少弐が来ない。そこで、今川貞世(今川了俊)は島津氏久に少弐冬資の説得を依頼する。その後、少弐冬資に水島に入るが、酒宴の席で殺害されてしまうのである。これを知った島津氏久は激怒し、国許へ帰る。南朝方へ離反し、今川氏と激しく対立することになる。

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北郷義久(北郷誼久、北郷氏2代)は島津氏久に従う。この頃、庄内南郷都島に新たな城を築いていた。「水島の変」のあったしばらくのちの永和元年・天授元年12月に完成して入城。「都之城」と名付けた。そして、ここが島津氏と今川氏の決戦の地となるのである。

幕府方は今川満範(いまがわみつのり、貞世の子)を大将として、南九州の攻略に動き出す。永和4年・天授4年(1378年)に大軍を率いて庄内に侵攻し、都之城を囲んだ。城主の北郷義久のほか、樺山音久(義久の弟で、樺山氏の家督をついでいる)も援軍として城にたてこもる。

年が明けて永和5年・天授5年1月、日向国の志布志城(しぶしじょう、氏久の本拠地、鹿児島県志布志市志布志町)にあった島津氏久は都之城の救援に動く。都之城の南側に陣取り、そして2月28日に兵を簑原(みのばる、都城市簑原町)へと向かわせる。

3月1日、北郷義久は都之城から撃って出る。北郷基忠・北郷忠宜(ともに義久の弟)らを率いて戦った。激戦の中で北郷義久は負傷。基忠と忠宜は戦死した。一方、島津氏久は簑原に突入し、今川軍を破る。3月3日に両軍はまたも戦う。島津方は大きな被害を出しながらも、今川方を撤退させた。

康暦2年・天授6年(1380年)から翌年にかけて、今川満範はまたも都之城を攻める。北郷義久はよく守り、今川方は兵を退いた。

今川方が優勢で、一時は島津氏久も幕府に帰順する。しかし、ほどなく離反し、島津と今川の争いは泥沼化した。明徳3年・元中9年(1392年)に南北朝合一となるが、南九州の戦いは終わらない。庄内の梶山城(かじやまじょう、宮崎県北諸県郡三股町長田)や野々美谷城(ののみたにじょう、都城市野々美谷町)でも激しい戦闘があった。

応永2年(1395年)、今川貞世(今川了俊)が突如として九州探題を罷免される。その後、島津氏は幕府に帰順した。

 

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大覚寺義昭事件と北郷氏

15世紀に入り、島津氏は内訌や家督相続問題、それにからむ反乱など、不安定な状況が続いた。都之城の北郷氏は島津元久(もとひさ、氏久の嫡男、島津氏7代当主)・島津久豊(ひさとよ、元久の弟、8代当主)・島津忠国(ただくに、久豊の子、9代当主)に従っていた。

この頃から、日向国では伊東(いとう)氏が勢力を伸ばしつつあった。島津氏と伊東氏は日向南部の勢力争いを展開する。たびたび戦い、あるいは和睦したりと、一進一退の攻防が16世紀まで続くのである。

北郷氏はこの混乱期の中で、大きく浮沈しながらも生き残っていく。

永享12年(1440年)、大覚寺(だいかくじ、場所は京都市右京区)門跡の義昭(ぎしょう)が北郷氏領内に逃れてきた。義昭は3代将軍の足利義満の子で、謀反を疑われて京を出奔した人物である。還俗して足利尊有(たかもち)と名乗っていた。北郷持久(もちひさ、北郷氏5代)は足利尊有(義昭)を庇護するが、領内から連れ出して櫛間(くしま、宮崎県串間市)の野辺(のべ)氏に預けた。

幕府は島津忠国に足利尊有(義昭)の追討を命じる。島津忠国はなかなか動かなかったが、嘉吉元年(1441年)3月13日に追討の兵を出し、足利尊有(義昭)を自害させた。

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享徳2年(1453年)、島津忠国は庄内都城を直轄地とし、北郷持久は日向国三俣院の高城(たかじょう、宮崎県都城市高城)に移された。幕府から義昭事件に関与した責任を問われ、所領を没収されたとも見られている。

その後、北郷持久は北郷山田の薩摩迫に移り、さらに応仁2年(1468年)に安永城(やすながじょう、都城市庄内町)を築いて移り住んだ。文明8年(1476年)に島津忠昌(ただまさ、島津氏11代)の命で北郷敏久(としひさ、持久の子、北郷氏6代)は都之城に復帰した。


伊東氏が都城盆地へ進出、窮する北郷氏

15世紀終わりごろの南九州では、島津宗家が領内を治めきれず各地の領主どうしが勢力争いをするようになっていた。群雄割拠の様相であった。島津一族内では、分家の薩州家(さっしゅうけ)・豊州家(ほうしゅうけ)・相州家(そうしゅうけ)などの力が強まり、本宗家の奥州家(おうしゅうけ)に対して反乱を起こしたりもした。島津支族の伊作(いざく)氏・新納(にいろ)氏・樺山氏・北郷氏も、それぞれが独自に動くような状況である。

また、島津領内の混乱を衝くように、日向国の伊東尹祐(いとうただすけ)が南に勢力を広げつつあった。都城盆地にも侵攻し、北郷数久(かずひさ、敏久の子、北郷氏7代)はその脅威にさらされる。さらに、明応4年(1495年)に島津氏は伊東氏と和睦し、三俣院1000町を割譲する。伊東尹祐は都城盆地の広範囲を支配下に置いた。

 

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北郷氏は伊東氏に所領を削られて衰退。その勢力は、都之城と安永城の2城を残すだけとなっていた。おまけにまわりは敵だらけ。伊東氏のほかに、日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市のあたり)の北原氏、日向国志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志町)の新納氏、大隅国曽於郡(そのこおり、鹿児島県霧島市国分姫木・国分清水のあたり)の本田氏とも敵対。四方を敵に囲まれていた。

 

北郷忠相が盛り返す、そして庄内を制圧

絶望的な状況の中で、北郷氏に名将が登場する。8代当主の北郷忠相(ただすけ)である。その実力は歴代の島津一族の中でも最強クラスだと思う(個人的な感想)。戦上手であり、外交的な駆け引きも巧みなのだ。

北郷忠相は文明19年(1487年)の生まれで、父は北郷数久、母は豊州家の島津季久(しまづすえひさ)の娘。この頃の豊州家は日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)を領し、こちらも伊東氏や新納氏と戦っていた。

また、樺山氏は野々美谷城を任されていたが、大永元年(1521年)に大隅国小浜(おばま、鹿児島県霧島市隼人町小浜)に移されて庄内を去った。野々美谷城は北郷忠相に与えられている。

大永2年(1522年)に伊東尹祐が大軍を率いて北郷氏を潰しにかかる。『日向記』によると伊東氏の兵力は1万。さらに、北原氏の軍勢もこれに加わる。一方の北郷氏の兵力はわずかに800ほどであった。北郷忠相は寡兵ながらもよく守る。

伊東・北原連合軍は野々美谷城を攻める。城を守る北郷尚久(北郷氏の一族)が流れ矢にあたって討たれ、大永3年(1523年)11月に野々美谷城は落ちる。

しかし、落城同日に伊東尹祐も陣中で急死する。ちなみに、『本藩人物誌』には「城兵伊東尹祐ヲ射殺」と記されている。さらに、12月には伊東祐梁(尹祐の弟)も急死する。当主とその弟を失った伊東軍は撤退した。

その後、北郷忠相は伊東氏と和睦する。父の急死で家督をついだ伊東祐充(いとうすけみつ)に北郷忠相は娘を嫁がせ、野々美谷を割譲する。また、北原氏とも和睦し、こちらには北原氏から奪っていた山田城を返した。

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外交策でひとまず伊東氏・北原氏から攻められないようにしている間に、新納氏や本田氏と戦う。

大永5年(1525年)に本田氏で内紛があり、この混乱に乗じて北郷忠相は攻め込んだ。そして、曽於郡城(別名に橘木城、姫木城とも、霧島市国分姫木)を奪う。

享禄元年(1538年)には庄内梅北で伊東祐充と新納忠勝が戦う。北郷忠相は双方から救援要請を受け、伊東方につく。伊東軍の勝利に貢献する。

北郷忠相は着実に力をつけていくが、なおも伊東氏が都之城盆地に大きな勢力を有していた。8つの城を保ち、その兵力は1万を超える。北郷忠相は島津忠朝(ただとも、豊州家)と手を組んで、伊東氏に対抗する構えを見せる。また、北原久兼とも同盟を結ぶ。

そして、天文元年(1532年)11月、北郷・豊州家・北原連合軍は三俣院高城(別名に月山日和城ともいう)を攻める。戦いが続く中で、天文2年8月に伊東祐充が病死する。まだ23歳と若く、伊東氏家中では家督争いが起こる。天文3年(1534年)1月には三俣院高城が落ち、三俣院の諸城の城兵たちは逃げ去る。都城盆地から伊東氏を追い出すことに成功した。

庄内の城のうち、北郷氏は都之城と安永城に加えて梶山城・山之口城・勝岡城の3城を領有することになった。また、三俣院高城は島津忠朝に、野々美谷城は北原久兼に譲った。

天文4年(1535年)から、北郷忠相・島津忠朝・肝付兼続(みもつきかねつぐ、大隅半島の中南部に勢力を持つ)が志布志の新納忠勝を攻める。北原氏は伊東氏とともに新納氏の支援にまわった。天文7年(1538年)に志布志城は落ち、新納氏は領主としての地位を失った。志布志は豊州家が領することとなった。また、北郷忠相は財部(たからべ、鹿児島県曽於市財部)・梅北(うめきた、都城市梅北)の地を得る。さらに、島津忠朝から梅北と三俣院高城の交換を求めてきたので、北郷忠相はこれに応じた。高城を得たのである。

天文11年(1542年)12月には、北郷忠相は北原氏を攻める。野々美谷城を落としてこれを奪い、翌年には山田城もぶんどった。

北郷忠相は庄内(都城盆地)を制圧した。

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島津貴久を守護と認める

一方、島津宗家では内訌が続いていた。宗家14代当主の島津勝久(かつひさ)は群臣の支持を失い、分家の薩州家と相州家が覇権を握ろうと争っていた。この争いは相州家の島津忠良(ただよし)・島津貴久(たかひさ)が制する。島津貴久が15代当主の座についた。

当初、北郷忠相は薩州家に協力。島津貴久が実権をにぎったあとも、島津勝久を領内にかくまって島津貴久に反抗する。

天文10年(1541年)、13人の有力領主が結託して島津貴久に反乱を起こす。この13人の中に北郷忠相・島津忠広(ただひろ、豊州家、忠朝の子)もいる。島津貴久は苦労しながらも反抗勢力をおさえ込んでいった。

天文14(1545)年、北郷忠相・島津忠広は島津貴久を守護と認める。

この頃、伊東氏では伊東義祐(よしすけ、祐充の弟)が家督争いを制し、家中をまとめて再び勢力を増しつつあった。伊東氏が再び南日向に侵攻してくるのである。北郷氏・豊州家が島津貴久に従ったのには、そんな事情もあった。

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北郷氏と豊州家が一体化

豊州家の島津忠広は病気がちで、子もなかった。豊州家の一族から養子をとっていたが夭逝し、後継者が不在となった。そこで、北郷忠親(ただちか)が豊州家に入って、家督をつぐことになった。

北郷忠親(島津忠親)は北郷忠相の嫡男で、すでに北郷氏の家督をついでいた(9代当主)。みずからは豊州家を継承し、嫡男の北郷時久(ときひさ)をつぎの当主に立てた。北郷時久はまだ若かったが、祖父の北郷忠相が補佐して庄内を守る。

北郷氏と豊州家は連携して伊東氏と対峙。しかし、伊東義祐は執拗に飫肥に侵攻する。なんとか持ちこたえていたが、名将の北郷忠相も高齢となり、永禄2年(1559年)に没する。永禄5年(1562年)、島津忠親(豊州家)は飫肥を伊東氏に、志布志を肝付氏に割譲せざるをえなかった。その後、豊州家は飫肥を取り返すが、永禄11年(1568年)に伊東義祐がまたも侵攻して飫肥を奪われる。さらには本拠地の櫛間も落とされ、豊州家はすべての所領を失う。島津忠親は庄内の北郷氏のもとに身を寄せた。

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島津義久とともに伊東氏を滅ぼす

伊東義祐が勢いを増す中で、北郷時久はなんとか庄内の地を保つ。一方で、島津貴久・島津義久(よしひさ、貴久の嫡男、16代当主)は勢力を拡大しつつあった。北原氏が没落したあとの真幸院には島津忠平(たたひら、島津義弘、よしひろ、貴久の次男)が入って、伊東氏への備えとした。

元亀3年(1572年)に伊東氏は真幸院に侵攻し、島津忠平(島津義弘)が寡兵でこれを撃ち破る(木崎原の戦い)。この合戦で大敗したことから、伊東氏は勢いを失った。島津義久は日向攻略を進め、北郷時久もこれに協力する。ついには天正5年(1577年)に伊東義祐は城を棄てて豊後国(現在の大分県)の大友宗麟(おおともそうりん、大友義鎮、よししげ)のもとに逃げた。

天正6年には、島津氏と大友氏が日向で決戦におよび、島津氏が大勝する(高城川の戦い、耳川の戦い)。北郷時久もこの戦いに従軍した。


北郷氏が庄内を離れる

島津氏は九州全土を席捲する勢いだったが、豊臣秀吉の征討にあって、天正15年(1587)に島津義久は降伏する。北郷時久はなかなか屈しなかったが、再三の説得によりついに帰順した。北郷氏は人質を差し出し(大坂に送り)、本領は安堵された。

しかし、文禄4年(1595年)に豊臣秀吉の命で、北郷氏は薩摩国祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院町)に転封となった。庄内を離れる。

庄内は伊集院忠棟(いじゅういんただむね)に与えられた。伊集院忠棟は島津氏の家老だが、豊臣秀吉からは独立した大名として扱われた。


庄内の乱

慶長4年(1599年)、島津忠恒(ただつね、のちに島津家久、義弘の子)が伊集院忠棟を殺害する。そして、伊集院忠真(ただざね、忠棟の子)が挙兵して都之城にたてこもった。庄内の乱は1年ほど続いた。

北郷氏は島津氏に従って反乱の鎮圧に従軍。旧領の都城を取り返そうと士気も高く、大いに活躍したという。慶長5年(1600年)に島津氏は北郷忠能(ただよし、時久の孫)を庄内へ移封する。旧領に復帰した。

慶長20年(1615年)に幕府より一国一城令が出され、都之城をはじめ庄内の城はすべて廃城となった。

 

その後の北郷氏

北郷氏の所領は3万石~4万石。島津家の家臣という扱いながら、大名並みの石高を有していた。12代当主の北郷忠能は、鹿児島藩主の島津家久と不仲であった。また、藩主からの介入もたびたびあった。

寛永8年(1631年)に北郷忠能が亡くなると、北郷忠亮(ただすけ)が家督をつぐ。しかし、寛永10年(1633年)に北郷忠亮も若くして亡くなる。後継者がいなくなった北郷氏は、本宗家から養子を迎えた。島津家久の四男が北郷氏の家督をつぐことになった。北郷久直(ひさなお)と名乗り、北郷忠能の娘を妻とした。

しかし、その後も当主の早世が続き、そのたびに島津宗家から養子が入る。島津忠長(ただなが、2代藩主の島津光久の次男)が北郷氏の家督を継承すると、島津宗家からの命で島津姓に復姓する。「都城家」「都城島津氏」と呼ばれるようになった。

その後も、明治時代の初めまで都城の領主でありつづけた。

都之城跡から東へ2㎞ちょっとの場所に、「都城島津邸」がある。こちらは、明治12年(1879年)に建てられた都城島津氏の邸宅である。観光地として整備され、一般開放もされている。史料館もあり、都城島津家の史料を見ることもできる。こちらも寄ってみるべし!

 

都城市は焼酎の街でもある。有名な銘柄というとコレ。

 


<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『【新版】都城市の中世城館』
編集・発行/都城市教育委員会 文化財課 2019年

『都城の世界・「島津」の世界』
著/山下真一 発行/鉱脈社 2011年

『都城島津家墓地』
著/佐々木綱洋 発行/鉱脈社 2011年

『都城市史』
編/都城市政四十周年記念 都城市史編さん委員会 発行/都城市 1970年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか