新田神社(にったじんじゃ)は鹿児島県薩摩川内市宮内町に鎮座する。
御祭神は本祀に天津日高彦火瓊瓊杵尊(アマツヒダカヒコホノニニギノミコト)、配祀に天照皇大御神(アマテラススメオオミカミ)と正哉吾勝々速日天忍穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒノアメノオシホミミノミコト)。
神社は可愛山陵(えのみささぎ)と一体となっている。可愛山陵はニニギノミコトの陵とされ、宮内庁によりこの地に治定されている。
川内川(せんだいがわ)沿いにぽこっと山がそびえる。「神亀山(しんきさん)」と呼ばれている。大きさは南北に500mほど、東西に400mほど。そして北西部に亀の頭のように突き出た地形がある。神亀山の約5分の1が新田神社の境内で、残りの約5分の4が宮内庁の管轄となっている。山頂に本殿と可愛山陵がある。境外末社も多く、かなり規模の大きな神社だ。
ニニギノミコトが住んだところ
南九州は天孫降臨伝説の舞台とされる。
アマテラスオオミカミの子のアメノオシホミミノミコトに葦原中国(あしはらのなかつくに)への天降りが命じられるが、アメノオシホミミノミコトはその役割を辞退する。かわって子(アマテラスオオミカミの孫にあたる)のニニギノミコトが天降ることになった。
ニニギノミコトは「竺紫の日向の高千穂のくじふる嶺(つくしのひむかのたかちほのくじふるたけ)」(『古事記』より)に降臨。そこから「笠沙の御前(かささのみさき)」に移り、カムアタツヒメ(コノハナサクヤヒメ)と出会って妻とする。
笠沙から新田神社のあたりに移り住み、高城千臺宮を皇居としたという。また、ニニギノミコトが崩御すると可愛山陵に葬られた、と『日本書紀』にある。
このあたりの地名は「川内(せんだい)」という。古くは「千台」とも書く。これはニニギノミコトの宮居である「高城千臺宮」に由来するとも。また、千台は薩摩国高城郡水引のうちにあり。「高城(たき)」もニニギノミコトの宮居に由来する。川内川の対岸には「宮里(みやさと)」という地名もある。
また、「水引(みずひき)」と「新田(にった)」という地名は開田を連想させる。こちらもニニギノミコトに由来するものだという。千台(川内)は大きな川があって水が豊富で、平野が広がっている。稲作に適した土地でもある。薩摩国府が置かれた場所でもあることから、豊かな土地であったと考えられる。
新田神社の由緒
かつては「新田宮」「八幡新田宮」「新田八幡宮」と呼ばれていた。
創建年代は不詳。もっとも古い記録は『新田神社文書』にある永万元年(1165年)の寺家政所下文。この中に「御建立以来三百余歳」と書かれている。こちらの情報のとおりであるなら、9世紀半ば頃には存在していたことになる。
建久8年(1197年)の薩摩国図田帳によると、八幡新田宮領が50町、五代院(新田宮の別当寺)領が91町あったと記される。また、領家は弥勒寺であったとも。領家とは荘園を寄進しているところ。弥勒寺は豊前国の宇佐宮(大分県宇佐市)の神宮寺である。八幡新田宮が宇佐宮と関わりがあったこともうかがえる。
かつては神亀山の中腹に境内があり、山上の可愛山陵を見上げる配置だった。承安3年(1173年)に境内が炎上し、仮宮を山上に遷す。そして、安元2年(1176年)に宣旨を受けて遷座が認められ、新たに山上に社殿が新築された。
中世には渋谷一族の高城(たき)氏・入来院(いりきいん)氏・東郷(とうごう)氏などが高城郡を領した。16世紀半ば頃には渋谷一族により改修が行われたという。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉が島津氏を攻めるために川内に入る。大軍勢が押し寄せて川内の寺社の多くが戦火に巻き込まれた。そんな中で、豊臣秀吉は「新田宮の事は天朝の御宗廟とて」ということから乱暴狼藉放火を禁ずる立札を出している。
慶長7年(1602年)には島津義久(よしひさ、島津氏16代)・島津忠恒(ただつね、島津氏18代)が大改修を行う。島津氏は朝鮮出征の戦勝を祈願し、凱旋成就の報恩として寄進造営した。島津義久・島津忠恒が造営させたものが、現在の境内の配置につながっている。
『三国名勝図会』によると、御祭神は今と少し異なる。「天津彦々火瓊々杵尊」「天照太神」「栲幡千々姫(タクハタチヂヒメ)」の三座としている。アメノオシホミミノミコトの代わりにタクハタチヂヒメが入る。
タクハタチヂヒメはニニギノミコトの母。父ではなく母をいっしょに祭っているというわけだ。
また「八幡」を称するが、これについては『三国名勝図会』で次のように説明されている。
八咫鏡と栲幡千々姫の幡字を取て八幡と稱し奉るといへり(『三国名勝図会』より)
ちょっと根拠としては無理があるような気もする。こじつけっぽい印象だ。ニニギノミコトとタクハタチヂヒメの母子は、八幡神とされる応神天皇と神功皇后の母子のイメージとも重なる。ニニギノミコトの祭祀に八幡信仰が習合したのでは? ……とも思わせる。
八幡新田宮は薩摩国の一宮を称する。薩摩国では開聞宮(ひらききぐう、鹿児島県指宿市開聞の枚聞神社)も一宮を称する。「どっちが一宮なのか」という論争がかなり古い時代からあったことが記録からもわかる。
13世紀に元の侵攻を受け、幕府は異国降伏の祈願を薩摩国守護の島津忠宗(しまづただむね、島津氏4代)に命じた。領国内の一宮に祈願するように、と。そして、八幡新田宮に剣と神馬を奉納している。暦応4年(1341年)の島津貞久(さだひさ、島津氏5代)の書状でも新田宮を薩摩国一宮としている。
その一方で、『新田神社文書』にある正応6年(1294年)の島津忠宗の施行状では、つぎのようなことが書かれている。以下は、書状を意訳したもの。
一宮へ剣と神馬を奉納するよう幕府の命令があり、新田宮に奉納した。これは新田宮と開聞宮の一宮相論の訴訟とは関係なし。祈願先が新田宮だからといって、一宮と治定したわけではない。
……と。
現在も、両社ともに「薩摩国一宮」を称している。
新田神社は一宮と呼ぶに相応しい風格がある、と個人的には思う。
執印氏(惟宗氏)
「八幡宮印」を管理する役職を「執印(しゅういん)」という。八幡新田宮の執印職を代々務めた一族は執印氏を名乗った。執印氏は惟宗(これむね)姓である。12世紀から13世紀初め頃に惟宗康友(これむねのやすとも)がいる。この人物が執印氏の祖とされる。通字は「友」。
建久8年(1197年)の薩摩国図田帳では、惟宗康友は薩摩国鹿児島郡(現在の鹿児島市のあたり)の郡司・弁済使として名が見える。「藤内舎人康友」「藤内康友」「鹿児島康友」と名乗ったとも。そして、文治年間(1185年~1190年)に八幡新田宮執印職と五代院(新田宮の別当寺)院主に任じられたという。
いかなる理由で執印職を任されたのかはよくわからない。新田宮との関係ももともとあったのか? なかったのか?
惟宗氏は、もとは秦氏である。秦氏は渡来系の氏族で、古代に新田開発などの産業振興に功があったとされる。惟宗氏は国司・郡司・荘園管理者としてあちこちに名が見え、南九州の古い記録でも確認できる。
惟宗康友と同時代の人物には、惟宗忠久(これむねのただひさ)もいる。こちらは島津氏の初代。両氏の関係性についてはよくわからない。なお、執印氏が伝える系図によると、惟宗忠久(島津忠久)を同族としている。
一族には五代氏・国分氏・羽島氏・平野氏などがある。五代氏については、前述の五代院と関わりがある。国分氏は国分寺領の荘園管理者。薩摩国の国分寺は川内にあり、国分寺領の領家は安楽寺。安楽寺というのは筑前国の大宰府天満宮(福岡県太宰府市)の別当寺である。執印氏一族は川内の寺社領をかなり押さえていて、繁栄していたことがうかがえる。
南北朝争乱期には執印友雄の名が見える。島津貞久に協力して北朝方で戦っている。
権執印氏(紀氏/宮里氏)
新田宮の社家には権執印(ごんしゅういん)氏もある。こちらは権執印職を世襲する。紀姓で、宮里(みやざと)氏とも同族だと考えられている。
宮里氏の出自はよくわからないが、紀古佐美(きのこさみ)につなげる系図も伝わっている。また、薩摩国在国司の伴(とも)氏とも関わりがあったとも。薩摩国に古くから土着する。新田宮のすぐ南の宮里郷の郷司で、名乗りもここかから来ている。
新田神社を参詣
新田神社はかなり規模が大きく、見どころもすごく多い。
二の鳥居のあたり
鹿児島県道44号沿いに大きな朱の鳥居がある。こちらが新田神社の二の鳥居だ。この付近には駐車場がある。まずはここに車を停めて周囲を見てみる。
二の鳥居は両部鳥居。鳥居をくぐると石橋があり、その先に神亀山への登り口がある。

石橋は「新降来橋(しんこうらいばし)」という。昭和61年(1986年)に架橋。

「新降来橋」の先にもう一つ小さな石橋がある。こちらが「降来橋」で、明治25年(1892年)に架けられたもの。

『三国名勝図会』によると、正応3年(1290年)に降来橋で舞楽が奉納された、という。また、慶長7年(1602年)に島津氏が改修した際には、石橋も整備。欄干には青銅製の擬宝珠が八つ取り付けられていた。明治に架け替えられたが、擬宝珠が現存している。現在は新田神社の宝物殿に保管されているとのこと。
二の鳥居から東に100mほど行ったところには御神田もある。

降来橋を渡った先に石段がある。

登り口には東門守神社(ひがしかどもりじんじゃ)・西門守神社がある。御祭神は豊磐間戸神(トヨイワマドノカミ)と櫛磐間戸神(クシイワマドノカミ)。『古事記』では、天孫降臨の随神として登場する。天石戸別神(あまのいわとわけ)の別名とも。

東門守神社・西門守神社の近くには大きなクスノキもあった。

この登り口を正面に見て右側のほうへ行くと、末社の保食神社(うけもちじんじゃ)がある。御祭神は保食神(ウケモチノカミ)。食物の神様である。
もちろん徒歩でいちばん上まで登ってもいい。ただ、いちばん上までは300段以上ある。上のほうまで車で行けるので、こちらを利用すべし。
神亀山の中腹にて
車で神亀山を登ると、中腹に広めの駐車場がある。さらに上にも駐車場あり。ひとまず中腹に車を停めて参詣することに。
中腹の駐車場は、もともと社殿があった場所。前述のとおり承安3年(1173年)の火災で焼失し、社殿は山上のほうへ遷されている。
ここには境内末社が三つ並んでいる。高良神社(こうらじんじゃ)・中央神社(ちゅうおうじんじゃ)・早風神社(はやかぜじんじゃ)である。

高良神社の御祭神は天鈿女命(アメノウズメノミコト)。アマテラスオオミカミが天岩戸に隠れた際に、岩戸の前で踊って出てくるきっかけをつくった。また、天孫降臨でもニニギノミコトにつき従う。
中央神社の御祭神は大山祇神(オオヤマツミノカミ)。コノハナサクヤヒメの父にあたる。ニニギノミコトにとっては妻の父である。また、神亀山の地主神とも。なお、『三国名勝図会』では猿田彦太神(サルタヒコオオカミ)を祭るともしている。
早風神社の御祭神は級長津彦神(シナツヒコノカミ)・級長津姫神(シナツヒメノカミ)。風の神様である。余談だが、新田神社から南へ川内川をはさんだところにこの二柱を祭祀する志奈尾神社(しなおじんじゃ、薩摩川内市宮里町)というのがある。『日本三代実録』の貞観2年(860年)の条に出てくる薩摩国の「志奈毛神」は志奈尾神社のことっぽい。こちらも新田神社と関係があるのだろうか。
高良神社の前には大きな石が置かれている。こちらは旧社殿の礎石とのこと。

駐車場からは長い石段が続いている。登る。とても気持ちの良い参道だ。

頂上近くには御神木。大きなクスノキがある。樹齢は2000年とも伝わっているが、実際の推定樹齢は650年~800年くらいだという。幹回りは約10m。

地上から2mくらいのところにオオナムチノカミの木像が彫ってあるとのこと。こちらの像は、長寿院盛淳(ちょうじゅいんせいじゅん)の作という言い伝えもある。長寿院盛淳は島津義弘の家老で、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで主君の影武者となって陣に残り、討ち死にした。情報は現地看板より。
御神木を過ぎて、いよいよ頂上へ。
頂上の社殿へ
石段を登りきると狛犬が出迎える、子抱きの狛犬で、頭をなでると子授け・安産の御利益があるそうだ。

社殿はすごく立派である。慶長7年(1602年)に島津義久の命で改築されたものを改修しながら現在にいたる。

社殿の構造は勅使殿から舞殿・拝殿をわたり奥の本殿へと通じている。また、東西に回廊があり、それぞれ末社に通じている。東回廊の先には四所宮(ししょぐう)、西回廊の先には武内宮(たけうちぐう)がある。
四所宮には彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)・豊玉姫尊(トヨタマヒメノミコト)・鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)・玉依姫尊(タマヨリヒメノミコト)を祭る。ニニギノミコトの息子夫婦と孫夫婦である。
武内宮の御祭神は彦太忍信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)。孝元天皇の皇子で、武内宿禰(タケノウチノスクネ)の祖父または父とされる。
東回廊・西回廊にはあがることができる。

『三国名勝図会』には江戸時代の絵図がある。建物の構造はほとんど当時のまま。

そして、本殿の背後には可愛山陵。こちらについては、また別の記事にて。
叢林の中にも神様がいる
社殿の西側には叢林がある。こちらのほうにも末社がある。二十四社(にじゅうししゃ)・興玉神社(おきたまじんじゃ)・稲荷社(いなりしゃ)が鎮座する。
二十四社は天孫降臨に随行した天児屋命(アメノコヤネノミコト)。太玉命(フトタマノミコ)・天鈿女命(アメノウズメノミコト)・石凝姥命(イシコリトメノミコト)・玉祖命(タマノオヤノミコト)など二十四柱の神を祭る。叢林の奥のほうにあり、鎮座地は武内宮のすぐ西側。

興玉神社は猿田彦神(サルタヒコノカミ)を祭る。天降ったニニギノミコトの道案内をした神である。

稲荷社は稲荷大神(イナリオオカミ)を祭る。豊穣の神だ。

一の鳥居は川沿いに
二の鳥居から南に向かってまっすぐ参道が伸びている。南へ700mほどいくと川内川にぶつかる。そこが参道口で、一の鳥居もある。

『三国名勝図会』の絵図を見ると、かつては参道沿いに社家や別当寺の坊が並んでいる。現在は参道の東側には大きな工場がある。西側は住宅街になっている。

川沿いに参道口があるというのは、交通路として川内川が重要だったことがうかがえる。
『中務大輔家久公御上京日記』の天正3年(1575年)2月20日の日記に、新田宮に立ち寄ったことが書かれている。この日記は島津家久(いえひさ、島津義久・島津義弘の弟)のもので、この日に京へ向けて居城の串木野城(くしきのじょう、鹿児島県いちき串木野市麓)を出立。ほうぼうで酒宴の歓待を受けながら移動している。
新田の鳥居之前ニおし渡処に、東郷・中郷衆のすゝ数をしらす、食籠様/\にて酒宴有、それより参宮、於社頭ニ三献、下向ニ於正宮寺ニこつけ参候、酒数遍、又鳥居の前より舟にて (『中務大輔家久公御上京日記』より)
川内川を舟で移動し、新田神社の鳥居の前に舟を着ける。酒をたらふく飲まされてフラフラになりながら参道を歩いていたった。参詣では旅の安全を祈願したのだろうか。帰りに正宮寺(別当寺の一つか)に立ち寄り、また酒を飲まされる。そして鳥居の前から船に乗った。……と。
境外末社
新田神社には境外末社も多い。以下のとおり。
端陵神社(はしのみささぎじんじゃ)
御祭神は木花開耶姫尊(コノハナサクヤヒメノミコト)。神亀山の北西部に出っ張った部分に鎮座。ここには端陵(はしのみささぎ)という古墳があり、コノハナサクヤヒメノミコトの御陵とされる。
中陵神社(なかのみささぎじんじゃ)
場所は端陵神社の近く。御祭神は火闌降命(ホノスソリノミコト)。ニニギノミコトの長男とされ、別名に「海幸彦」とも。中陵(なかのみささぎ)はホスソリノミコトの墓と伝わる。
川合陵神社(かわあいのみささぎじんじゃ)
御祭神は天火明命(アメノホアカリノミコト)。ニニギノミコトの兄とされる。可愛山陵から西に2㎞ほどのところにある。川合陵(かわあいのみささぎ)と呼ばれるものがあり、アメノホアカリノミコトの墓と伝わる。
九樓神社(くろうじんじゃ)・守公神社(しゅこうじんじゃ)
それぞれ甕速日神(ミカハヤヒノカミ)・樋速日神(ヒハヤヒノカミ)を祭る。一の鳥居の近くに鎮座。
大己貴神社(おおなむちじんじゃ)
古くは汰宮(すべりのみや)とも称した。御祭神は大己貴神(オオナムチノカミ)。異称が多く、オオクニヌシノミコトの名でも知られる。出雲の神で、神話では国譲りのあとに天孫降臨となる。川内川沿いに鎮座し、場所は九樓神社・守公神社のやや西側。
武内神社(たけうちじんじゃ)
御祭神は彦太忍信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)。川内川近くの住宅街の中にある。
八尾神社(やつのおじんじゃ)
八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を祭る。新田神社の約3㎞ほど東にある。薩摩川内市の小倉町というところに。
船間島神社(ふなまじまじんじゃ)
御祭神は十郎大夫。古くは「十郎大夫祠」「海神宮」とも称される。新田神社からは遠く、川内川河口の船間島(かつては島、現在は陸続き)に鎮座する。十郎大夫はニニギノミコトの道案内をしたとされる。船間島には古墳もある。



端陵神社・中陵神社・川合陵神社は個人的にものすごく気になる存在。これらについては、また別の記事で取り上げている。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年
鹿児島県史料集3『薩摩国新田神社文書』
発行/鹿児島県立図書館 1962年
『川内市史 上巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1976年
『川内市史 下巻』
編/川内郷土史編さん委員会 発行/川内市 1980年
『明治維新と神代三陵 廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』
著/窪壮一朗 出版/法蔵館 2022年
ほか