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佐土原城跡にのぼってみた、島津家久・島津豊久が守った日向の要衝

佐土原城(さどわらじょう)跡は宮崎市佐土原町にある。別名に「田島城(たじまじょう)」「鶴松城(かくしょうじょう)」とも。日向国のほぼ中央に位置し、中世にこの地を支配した伊東(いとう)氏の拠点のひとつであった。

戦国時代末期に島津氏の支配下となったあとは、島津家久(しまづいえひさ)・島津豊久(とよひさ)が城主となったことでも知られる。

 

日付は旧暦で記す。

 

 

 

 

 

伊東氏の拠点のひとつに

伊東氏と日向国との関係は、建久元年(1190年)に工藤祐経(くどうすけつね)が日向国内に所領(地頭職)を与えられたことにはじまるという。工藤祐経は伊豆国伊東(いとう、静岡県伊東市のあたり)を本貫とし、源頼朝に仕えた。建久4年(1193年)に工藤祐経は討たれる(曾我兄弟の仇討ち)が、その後も嫡男の伊東祐時(いとうすけとき)に所領は安堵された。伊東氏は鎌倉に在住して幕府に仕えていた。伊東祐時は子だくさんで、子を日向国に代官として下向させた。佐土原のあたりは田島郷と呼ばれ、この地に下った伊東祐明の一族が田島氏を名乗るようになった。時期は不明だが、田島城(佐土原城)は田島祐明が築いたとされる。

6代当主の伊東祐持(すけもち)のとき、伊東氏嫡流が日向国に入る。伊東祐持は足利尊氏に仕え、建武4年・延元2年(1337年)4月に伊豆から日向へ拠点を移した。都於郡城(とのこおりじょう、宮崎県西都市)を築いて拠点とした。

伊東一族の中には、後醍醐天皇につく者(宮方、南朝方)もあった。田島氏の立場がどっちであったのかはわからないが、戦乱に関わったのは間違いないだろう。

15世紀中頃、伊東祐堯(すけたか、伊東氏11代)は領内の支配力を高めようと動いた。田島久祐(きゅうすけ、田島氏8代)は伊東氏本家から養子が入り、乗っ取られる。伊東祐賀(すけよし、伊東祐堯の弟)が田島城に入り、田島一族は放逐されたという。田島氏ではなく佐土原氏を名乗り、城も「佐土原城」と呼ぶようになった。

16代当主の伊東義祐(よしすけ)は、天文5年(1536年)に佐土原に入城。ここを居城として勢力を広げていく。都於郡城には嫡男の伊東義益(よします)を入れ、こちらももうひとつの拠点となった。

 

島津義久(よしひさ)の侵攻を受け、天正5年12月(1578年1月)に伊東義祐は城を棄てて逃亡。豊後国(現在の大分県)の大友宗麟(そうりん、大友義鎮、よししげ)のもとに身を寄せた。佐土原城は島津氏のものとなった。

 

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本丸跡を目指す

国道219号沿いに「佐土原城跡」「宮崎市佐土原歴史資料館 鶴松館」の看板がある。そこを入ると大きな駐車場がある。道に迷わずに行けると思う。

山城の麓には立派な資料館「鶴松館」がある。江戸時代の二の丸居館を再現したもの。開館日は日曜日・土曜日・祝日とのこと。平日に訪問したので、中に入ることはできなかった。

江戸時代の館風の建物

鶴松館の表側

 

鶴松館では佐土原城のガイドマップを用意しているそうだ。閉館時は国道を挟んだ向かい側の「城の駅 佐土原いろは館」に置いてあるということなので、まずはそちらに取りにいく。城の駅には島津家久・島津豊久のパネルもあった。

 

佐土原城は馬蹄形の丘陵に築かれている。本丸跡の標高は72m。山に囲まれた内側の低地に居館があった。鶴松館がある場所も居館跡敷地の一部にあたる。建物の向かって左側の細い通路から登山口に向かう。

建物脇の道を抜ける

案内に沿ってこちらの道へ

 

通路を抜けて鶴松館の裏手へ。広い空間があった。ここは二ノ丸跡で、かつては館が建っていた。

江戸時代の居館風建物、広い空間もある

左が鶴松館、奥に山城跡


南側を見ると「大手道」の看板が見える。そっちが入口だ。

山城跡の登り口

大手道はこちらから

「大手道」の看板、「佐土原城」の幟

さあ、登ろう!


堀切に作られた道を上に。案内もしっかりしているので、散策しやすい。ただし、ところどころが崩れているそうで、進入禁止になっている部分もあった。とりあえず、行けそうなところだけまわる。無理はしない。

登山道を歩く

こんな道がしばらく続く

山城跡の登山道

振り返って見下ろす

散策路には赤い幟もある

山道は続く

 


しばらく登ると曲輪跡を確認。ここを登って奥の道に進むと本丸がある。虎口も確認できた。

人工的に造られた段差がある

曲輪の痕跡

曲がった通路が確認できる

本丸の虎口跡

 

山上に広い空間。本丸跡だ。

広い空間に白い標柱

本丸跡


さらに奥に行くと天守閣の跡地。天守台の跡がちょっと残っている。

盛り上がった場所と白い標柱

天守閣跡

石の遺構が確認できる

石がある

 

建物の構造や築造時期などは、よくわかっていない。山上の本丸には城館があったが、その機能は寛永2年(1625年)に麓の二の丸に移された。そのときに、天守も破却されたっぽい。

 

 

島津家久が佐土原城主に

伊東氏を攻略した島津義久は、佐土原城の守りを島津家久に命じた。島津家久は島津貴久(たかひさ、15代当主)の四男。兄に島津義久(16代当主)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)がいる。

島津家久は若い頃から戦場で目覚ましい活躍を見せていた。永禄4年(1561年)の廻城(めぐりじょう、鹿児島県霧島市福山町)の戦いで初陣を飾ると、いきなり敵将を討ち取る。永禄12年(1569年)には、囮部隊で大口城(おおくちじょう、鹿児島県伊佐市大口)の兵をおびき出して敵を殲滅。長引いていた攻城戦を勝利に導いた。元亀3年~天正2年(1572年~1574年)にかけての大隅の肝付(きもつき)氏との最終決戦でも、天正4年~5年(1576年~1577年)の日向後略戦でも主力として戦果を挙げた。

 

天正6年(1578年)、大友宗麟は日向国に向けて大軍を送り込む。これに伊東氏の旧臣たちも呼応した。大友軍は縣(あがた、宮崎県延岡市)を制圧し、さらに島津方の新納院高城(にいろいんたかじょう、宮崎県児湯郡木城町)に迫る。

島津家久は、佐土原城から高城に援軍として入る。城主の山田有信(やまだありのぶ)らとともに籠城した。高城が持ちこたえている間に、島津義久・島地忠平(ただひら、島津義弘)らが大軍を率いて北上。島津氏は総力を挙げて、大友氏との決戦にのぞむのである。

天正6年11月、島津軍と大友軍が激突する。高城の島津家久も出撃した。この決戦は「高城川の戦い」「高城川原の戦い」「高城合戦」あるいは「耳川の戦い」と呼ばれる。結果は、島津氏の大勝だった。

この戦いののち、島津家久は佐土原への移封を命じられる。以降は佐土原城を拠点に、島津氏の日向方面の統治を任された。

 

その後の島津氏の九州戦線でも、島津家久は活躍する。とくに、天正12年(1584年)の肥前国の沖田畷(おきたなわて、長崎県島原市北門町)での戦いがよく知られている。

大友氏が勢いを失ったことで、九州北部では龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が勢力を急拡大させた。そして、肥後国(現在の熊本県)の覇権を島津と争う。そんな中で、龍造寺隆信が大軍(兵力は2万~6万、数字は諸説あり)を率いて肥前国有馬(ありま、長崎県南島原市北有馬町)に侵攻。有馬領主の有馬晴信(ありまはるのぶ)は島津氏を頼る。島津義久は、島津家久を大将として援軍を派遣した。島津・有馬連合軍の兵力は6000ほど。圧倒的な兵力差にもかかわらず、なんと龍造寺隆信を討ち取る。まさかの勝利だった。。


沖田畷の戦いののち、龍造寺氏は降伏。島津氏の傘下となる。島津氏は、弱体化した大友氏を攻める。一方で、豊臣秀吉が中国地方・四国地方も平定し、天下人となりつつあった。島津氏はこれと対峙するために、九州の制圧を急いだ。一方で大友氏は豊臣秀吉に援けを求めた。

豊臣秀吉は、九州征討を決める。その先遣隊として仙石秀久(せんごくひでひさ)・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・十河存保(そごうまさやす)らの四国勢が豊後に出陣してきた。

天正14年12月(1587年1月)、島津家久は豊臣軍四国勢と戸次川(へつぎがわ、大分市中戸次)で戦った。島津軍は大勝し、敵の大将の仙石秀久は逃亡。十河存保・長宗我部信親(のぶちか、元親の嫡男)は討ち取られる。豊後国は島津が一時的に制圧する。

豊臣軍の本格的な攻撃が始まる。豊臣秀長が率いる10万を超える軍勢が侵攻し、島津義久・島津義弘・島津家久は豊後・日向で決戦に挑む。しかし、圧倒的な兵力差に島津氏はどうすることもできない。天正15年(1587年)4月に根白坂(ねじろざか、宮崎県木城町)で島津軍は大敗。さらには、豊臣秀吉も10万を越える大軍勢で肥後から薩摩をうかがう。5月、島津義久は降伏する。

島津家久は、根白坂で敗れたあと佐土原城に戻った。そして、豊臣秀長と単独講和を結ぶ。しかし、天正15年6月5日に急死。享年41。江戸時代の資料には、毒殺とも病死とも記されている。

 

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『センゴク権兵衛』は仙石秀久が主人公の漫画作品。島津家久は強大な敵として登場し、魅力的な人物として描かれている。

 

 

こちらは島津家久が主役の小説『破店の剣』についての記事。

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島津豊久、関ヶ原に散る

豊臣家に臣従したあとの島津氏は、薩摩国・大隅国・日向国の南部を安堵された。佐土原は、家久の嫡男の島津忠豊(ただとよ)に所領が安堵された。

忠豊はのちに豊久と名を改める。この記事では「島津豊久」で名を統一する。島津豊久は15歳(数え年)のときに沖田畷の戦いで初陣を飾る。豊臣軍との戦いにも従軍した。父が急死したために、18歳(数え年)であとを継いだ。

島津豊久は島津本家から独立した大名として扱われた。天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍したほか、朝鮮出兵では島津義弘に従って活躍した。

 

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに、島津豊久は参加する。大坂に滞在していた島津豊久は、島津義弘と合流。島津勢は反徳川方(西軍)として参戦することになった。

9月15日、美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で徳川方(東軍)と反徳川方(西軍)がぶつかる。天下分け目の合戦はあっけなく半日ほどで決着した。島津隊は戦場からの脱出をはかる。その際に、前方への退却を敢行した。島津豊久はこの退却戦で討ち死にする。享年31。

島津義弘は脱出に成功し、国許に帰還することができた。その後、粘り強い交渉のすえに島津家は本領安堵を勝ち取った。

 

関ヶ原で死んだ島津豊久が異界で活躍する、なんて漫画もある。

 

 

佐土原藩

関ヶ原の戦いのあと、佐土原をはじめとする島津豊久の所領は没収される。しかし、島津家では佐土原を取り戻せるよう交渉を続けた。慶長8年(1603年)に佐土原は再び島津家のもとに戻り、この地は島津以久(もちひさ)に与えられた。佐土原藩は島津家の支藩として、江戸時代の終わりまで続く。

島津以久は、島津尚久(なおひさ、島津貴久の弟)の子。島津家久の従兄弟にあたる。

佐土原城は、初代藩主の島津以久と2代藩主の島津忠興の時代に大幅に改修された。寛永2年(1625年)に、政庁は山上から麓の二之丸居館に移された。

 

 

永吉島津家

佐土原を没収された、島津豊久の家臣団は薩摩国永吉(ながよし、鹿児島県日置市吹上町永吉)に移された。島津豊久に子はなく、喜入忠続(きいれただつぐ、島津一族)の子を養子とする。島津忠栄(ただひで)と名乗らせて跡目を継がせた。

ちなみに、島津豊久には弟がいる。島津忠仍(ただなお)という。病気がちであったことから家督相続を断り、娘を島津忠栄に嫁がせている。

その後、島津忠栄も若くして亡くなり、本家から養子が入って家督を相続している。

島津家久に始まるこの家は「永吉島津家」と呼ばれ、江戸時代は藩の家老を出せる家柄だった。

 

永吉(南郷)についてはこちらの記事で。島津家久・島津豊久の墓もある。

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<参考資料>
『佐土原町文化財調査報告書 佐土原城跡I』
編・発行/宮崎県宮崎郡佐土原町教育委員会 1999年

『日向纂記』
著/平部嶠南 1885年

『日向国史 上巻』
著/喜田貞吉 出版/史誌出版社 1929年

『日向国史 下巻』
著/喜田貞吉 出版/史誌出版社 1930年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『西藩烈士干城録(一)』
編/出版 鹿児島県立図書館 2010年

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