ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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島津豊久(島津忠豊)の戦績、関ヶ原に散った猛将

島津豊久(しまづとよひさ)は16世紀末に活躍した人物である。漫画の主人公にもなったりして、知名度もそこそこあるんじゃないだろうか。島津豊久の戦績を追ってみると、その戦場はおそろしく厳しいものばかりなのだ。

 

なお、日付は旧暦にて記す。

 

 

串木野城で誕生、父は島津家久

島津豊久は元亀元年(1570年)6月に誕生。父は島津家久(いえひさ)の長男で、母は樺山善久(かばやまよしひさ)の娘。幼名は「豊寿丸」。通称は「又七郎」「中務大輔」で、これらは父と同じである。

初名は「島津忠豊(ただとよ)」。じつのところ、「島津豊久」と名乗った時期は短い。また、いつ改名したのかもはっきりしない。「豊久」から「忠豊」に名乗りを戻した可能性もあるようで、慶長5年(1600)年の関ヶ原の戦いの頃にも「島津忠豊」と名乗っていたかもしれない。

島津家久は元亀元年(1570年)の春に串木野(くしきの)・隈之城(くまのじょう)の地頭に任じられ、串木野城(鹿児島県いちき串木野市麓)に入った。豊寿丸(島津豊久)の誕生地も串木野城とされる。

 

串木野城の入口

串木野城跡

 

父の島津家久は、島津貴久(たかひさ)の四男。兄に島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)がいる。

母方の樺山氏は島津氏の一族で、樺山善久は一貫して島津貴久の協力者であった。また、樺山善久は島津貴久の姉を正室としていて、両親は従兄妹どうしでもある。


戦国大名としての島津氏は元亀元年(1570年)に薩摩を制圧、天正2年(1574年)に大隅国を制圧、そして日向を制し、さらには九州全域へと勢力を拡大していく。その過程において、島津家久の戦果は凄まじいものであった。そんな父のもとで、豊寿丸(島津豊久)は成長していった。

 

島津家久についてはこちらの記事にて。

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島津家久は日向国の佐土原城(さどわらじょう、宮崎市佐土原町)に入る。佐土原城はもともと伊東義祐(いとうよしすけ)が本拠地としていたところ。天正5年12月(1578年1月)に島津氏が伊東氏領を奪うと、島津家久は佐土原を拠点に活動。日向国へ出兵してきた大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)の軍勢と戦った。天正6年(1578年)11月の高城川の戦い(耳川の戦い)のあと、島津家久は佐土原城の城主に正式に任じられた。豊寿丸(島津豊久)も佐土原に入城したと思われる。

 

大手道

佐土原城跡

 

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弟と姉と妹と

島津家久には5人の子があった。島津忠豊(島津忠豊)は3番目の子で、姉が二人と弟と妹がいる。母もすべて同じ。

弟は東郷重虎(とうごうしげとら)という。渋谷一族の東郷氏の家督をついでいた。のちに島津姓に復して、島津忠直(島津忠仍、ただなお)と名乗った。

上の姉(長女)は禰寝重張(ねじめしげひら)の正室となるが、離縁して実家に戻る。ちなみに禰寝氏は大隅国禰寝(ねじめ、鹿児島県肝属郡南大隅町根占のあたり)の国人で、元亀4年(1573年)に島津氏と和睦。のちに薩摩国吉利(よしとし、鹿児島県日置市日吉町吉利)に移封となっている。

もう一人の姉(次女)は佐多久慶(さたひさよし)の正室。佐多氏は島津氏の一族で、薩摩国知覧(ちらん、鹿児島県南九州市知覧)を領した。


妹(三女)は島津久信(ひさのぶ)に嫁ぐ。子に島津久敏(ひさとし)がある。島津久信の父は島津彰久(あきひさ)、祖父は島津以久(もちひさ)という。島津以久は島津義久ら四兄弟とは従兄弟で、一門の中でも大きな力を持っていた。島津久信の母は島津義久の次女であり、男子のなかった島津義久の後継者の候補にもなった。島津久信は大隅国垂水(たるみず、鹿児島県垂水市)を領し、江戸時代には「垂水島津家」と呼ばれる。垂水島津家は分家の中でももっとも高い家格とされた。しかし、島津久信は島津久敏の廃嫡を画策してお家騒動を起こす。そして、隠居させられ、のちに毒殺されたとも。家督をついだ島津久敏も早世する。

なお、島津家久の三女(島津豊久の妹)は、垂水島津家のトラブルの前に離縁している。のちに相良頼安(さがらよりやす)に再嫁している。相良頼安は肥後国球磨(くま、熊本県人吉市など)領主の相良氏の一族で、その重臣でもある。

 

 

 

 

 

初陣は島原合戦(沖田畷の戦い)

天正12年(1584年)3月、島津家久は肥前国の島原(しまばら、長崎県島原市・南島原市)に出陣した。龍造寺隆信と敵対する有馬鎮貴(ありましげたか、有馬晴信、はるのぶ)の援軍要請に応えてのことだった。島津義久は肥後国佐敷(さしき、熊本県葦北郡芦北町)に入り、島津家久を大将として渡海させた。

島津家久は島原に嫡男の豊寿丸(島津豊久)も連れていく。このとき数え年で15歳。まだ元服もしていない。

 

彼は戦で鍛えさせようとして、十五歳になる息子を同行させた。 (『完訳フロイス日本史10 大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗』より)

ルイス・フロイスの『日本史』ではこう記される。たぶん、島津家久は大合戦になるとは思っていなかったのだろう。あくまでも島原の浜の城を有馬氏とともに攻略するのが目的だったようだ。「息子に戦場をちょっと見せておこうかな」くらいの感じだったのではないだろうか。

 

ところが、島原ではとんでもない戦いが待ち受けていたのである。

龍造寺隆信は大軍勢を編成し、迅速に島原へと進軍した。その兵力は2万5000とも、6万とも伝わっている。一方の島津軍が4000ほど。有馬氏の軍勢とあわせても6300ほどであったという。

決戦は3月24日のこと。島原合戦(沖田畷の戦い)が島津豊久の初陣となった。

島津家久は全軍正面突撃を命じる。そして島津方の川上忠堅(かわかみただかた)が龍造寺隆信を討ち取る。大将を失った龍造寺方は総崩れとなる。島津方にとっては幸運な勝利となった。龍造寺方にとってはまさかの大敗となった。

豊寿丸(島津豊久)は新納忠元を後見として戦う。敵将一人の首級を挙げたという。

 

白尾国柱(しらおくにはしら)の『倭文麻環(しずのおだまき)』にはこんなことも記されている。史実性についてはなんとも言えないところだが。

豊久は世に類ひなき容顔美麗なるのみならず智勇卓犖たる少年なれば眞先に馬を躍らして殺進すれば相従ふ壮士共又七君打たす我後れじと互に奬勵まして鬼神も挫く勢いに乗じければ (『倭文麻環』より)

すごい美少年で、少年ながらも智勇にすぐれていたのだという。そして、先陣を切って攻め込む。将兵たちも又七君(島津豊久)を討たせるわけにはいかないと、これに続く。「鬼神も挫く勢い」で突撃していったのだという。

 

島津豊久の初陣

『倭文麻環』より

 

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元服

初陣のあとに豊寿丸は元服。「島津忠豊」と名乗る。天正12年(1584年)4月14日のことであった。このことは『上井覚兼日記』でも確認できる。

去十四日、中書公御息御元服被成候、種々御祝一言共之由 (『上井日記』より、鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』に収録)

 

婚姻の時期はわからないが、島津忠豊(島津豊久)は島津忠長(ただたけ)の娘を正室に迎えている。島津忠長は島津義久の老中を務める。父の島津家久とは従兄弟の関係にあたる。

 

 

 

父の降伏、父の急死

元服後の島津忠豊(島津豊久)の動きについて、しばらくの間はよくわからない。父と行動をともにしていたと思われる。天正15年(1587年)4月17日の日向国の根白坂(ねじろざか、宮崎県木城町)の戦いに参加した、と『本藩人物誌』にはある。

 

根白坂の戦いで、島津氏は豊臣秀長(とよとみひでなが)軍を相手に大敗する。このあと島津氏は豊臣秀吉に降伏することになるが、島津忠豊のまわりの状況は著しく変わるのである。

佐土原城にあった島津家久は、豊臣秀長に降伏して開城。独自に和睦交渉して、豊臣家の直臣に取り立てほしいと願い出る。豊臣秀吉は佐土原城を返し、さらには都於郡などを加増する。天正15年5月27日には豊臣秀吉から朱印状も与えられる。島津家久は本家から独立し、豊臣家直参の大名となった。また島津家久の長女(島津忠豊の姉)は人質として京へ送られた。

その直後のこと、6月5日に島津家久が急死する。島津家久は豊臣秀長に従って日向国野尻(宮崎県小林市野尻)におもむいていた。そこで急病となり、佐土原に戻って間もなく没した。当時から毒殺の噂もあったようだ。

 

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佐土原領主になる

佐土原では突然に当主を失った。そこへすぐに、豊臣秀長は配下の藤堂高虎(とうどうたかとら)を派遣したようだ。豊臣秀長が6月10日付けで島津忠豊(島津豊久)に宛てた書状には「就其藤堂遣候、諸事談合可然候、其方覚悟次第、向後引立可申候間、可成其意候」とある。「藤堂高虎とよく話し合ってほしい、あなたの覚悟次第では大名に引き立てるから」と伝えている。

この話し合いはうまくいったようである。島津忠豊は父の遺領の相続を認められる。天正16年(1588年)8月4日付けで豊臣秀吉は島津忠豊に朱印状を与えている。

 

山城を麓から

佐土原城跡

 

天正16年(1588年)、島津忠豊(島津豊久)は母を伴って上洛。母は人質として京に置かれた。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は相模国小田原(神奈川県小田原市)の北条氏政・北条氏直を攻める。島津忠豊も小田原攻めに参陣した。

 

 

 

 

朝鮮転戦

天正20年(1592年)、豊臣秀吉は朝鮮へ派兵する。島津忠豊(島津豊久)は出征命令を受け、30余騎と歩兵500余を引き連れて渡海した。

島津忠豊は伯父の島津義弘らとともに第四軍に属した。第四軍は江原道(カンウォンド)方面へ攻め込み、島津忠豊は春川城(チョンチュンじょう、韓国のチョンチュン市)の守りを任される。同年11冬、春川城は敵勢6万に囲まれる。城方の兵力は500余である。永平城(ヨンピョンじょう)にあった島津義弘に加勢を請い、援軍があると敵方はいったん引いた。だが、二度目の襲来では大軍が一気に春川城を囲んだ。島津忠豊隊のみで応戦することになる。

島津忠豊隊は鉄砲100挺で撃ちかけ、敵がひるんだところへ城兵500余が一斉に攻めかかった。大軍勢を蹴散らして大勝した。酋長(将か)2人、従兵530を討ち取ったという(『西藩烈士干城録』より)。数字については誇張があったと考えられるが、寡兵で大軍を撃ち破ったことは事実なのだろう。

 

文禄2年(1593年)5月、島津忠豊は晋州(チンジュ)攻めへの出陣を命じられ、476の手勢を率いて参戦する。6月29日に日本軍は晋州城を攻め落とす。このときに島津忠豊の馬験(うまじるし)が真っ先に城に入ったという。この様子は片桐貞隆と藤懸永勝が日記に記しているとのこと(『西藩烈士干城録』より)。

 

その後、日本と明・朝鮮はいったん講和交渉が行われることになる。この間、日本側は朝鮮に城を築き守りを置いている。島津忠豊の帰国は確認できず、朝鮮に在陣していたのだろうか。

 

講和交渉は決裂し、慶長2年(1597年)2月に豊臣秀吉は再侵攻の陣立てを出す。島津忠豊は「三番目」の部隊に属し、兵800の動員が課せられた。

島津忠豊は安骨浦(アンコッポ)に在陣。同年7月、明・朝鮮軍と戦いとなった(漆川梁海戦)。島津忠豊もこの戦いに参加。敵の大船に攻めかかり、これを奪ったのだという。

島津又七郎忠豊番船の内三番目の大船を目にかけ、彼船に漕雙(こぎなら)べ、各一度に切乗んとする処に、忠豊の近習樺山文之助と云う者、真先の飛乗りけるが、胸板のはづれを射られてたまり得ず、海水に落入て忽に死す。忠豊継ひて乗んとして甲斐正助、主に先立て飛乗る。忠豊も殿(おく)れず乗ければ、手勢悉く飛乗々々相戦ふ。然るに忠豊の足軽に大蔵兵衛と云ける者、其身剛なる故、忠豊常々目をかけられけるが、此時も矢倉の下に込入、えいや声を挙(あげ)、切て廻りける故、明人余多切臥、其外舟より追落されて、海水に溺れて死する者多かりけり。角て其大船を乗取、即日本に差渡し、殿下の台覧に備奉る。其船慶長の末年までは大坂に在ける由、古老の物語り侍りき。 (『征韓録』より)

 

『征韓録』には戦いぶりが詳細に記され、島津忠豊とその部下たちが勇猛なことを伝えている。ちなみに『征韓録』は寛文11年(1671年)に完成した書物で、薩摩藩が家老の島津久通(宮之城島津家)を総裁として編纂させたものである。なお、宮之城島津家は島津豊久の妻の実家でもある。

 

豊臣秀吉の台書(手紙)も『征韓録』に収録されている。

今度唐嶋表に於て乗船百六十余艘伐捕刻、其方自身手を砕き切棄、三番目船唐人残らず切棄由、手柄之段比類無く候。殊更其船を焼かず、日本へ指渡儀、御感斜ならず候。何も帰朝之刻、御褒美加へられるべく候。猶増田右衛門尉(増田長盛)・石田治部少輔(石田三成)・長束大蔵太輔(長束正家)・徳善院(前田玄以)申す可く也。
八月九日 御朱印(豊臣秀吉)
嶋津又七郎とのへ
(『征韓録』より)

戦功をものすごく褒められている。

 

8月になって日本軍は南原城(ナムウォンじょう)を攻める。島津忠豊も参戦した。島津忠豊はみずから斬り込んで、13の首級を挙げたという。

12月に明・朝鮮軍が大軍をもって、加藤清正らが守る蔚山城(ウルサンじょう)を攻撃。島津忠豊はこの救援部隊に加わる。島津義弘は本田親貞・敷根頼豊を派遣して、島津忠豊の部隊を支援させた。慶長3年(1598年)1月に島津忠豊隊は彦陽城(オニャンじょう)攻めに参加。この戦いで島津忠豊は単騎で斬り込み、負傷しながら首級2つを挙げた。


慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が逝去。日本側は朝鮮からの撤退を決める。同年10月には島津義弘・島津忠恒(ただつね、島津義弘の子、島津家の次期当主に指名されている)が守る泗川(サチョン)に大軍が押し寄せる。泗川には、島津忠豊は部下の雨田又三郎を援軍として派遣している。泗川の戦いは島津方が大勝する。

日本軍は撤退を進める。島津忠豊は11月23日に釜山(プサン)を出港した。順天城(スンチョンじょう)の救援(露梁海戦)のために撤退が遅れていた島津義弘・島津忠恒を釜山で待って、いっしょに帰国している。

 

慶長4年(1599年)2月、島津忠豊は朝鮮での軍功により「中務大輔」に任じられ、「侍従」に叙せられて公家成りした。ちなみに「中務大輔」は父の島津家久が称していたものでもある。

 

なお、「島津豊久」の名乗りがいつ頃のことなのかは正確にはわからない。ただ、二次史料(編纂物など)では、朝鮮から帰国したあたりから「豊久」で記されるようになる。

ここから先は「島津豊久」のほうで書き進める、読む側もイメージがつきやすいと思われるので。

 

 

 

 

庄内の乱

慶長4年(1599年)2月、島津家では島津忠恒が家督を継承した。この新当主が事件を起こす。同年3月9日、島津忠恒は伏見の屋敷に家老の伊集院忠棟(いじゅういんただむね)を招き、茶席にて斬殺した。

 

伊集院忠棟は日向国庄内など(しょうない、宮崎県都城市とその周辺)を領していた。嫡男の伊集院忠真(ただざね)は庄内にあり、領内の各城の守りを固めて臨戦態勢をとった。島津豊久は徳川家康から国許へ戻るよう命じられたという。同年3月29日に佐土原へ戻った。4月2日に島津豊久は富隈城(とみくまじょう、鹿児島県霧島市隼人町住吉)へ入る。富隈城は島津義久の居城である。島津義久・島津忠恒は5月に庄内へ進軍し、島津豊久もこれに加わった。

6月に島津豊久は山田城(宮崎県都城市山田町)攻めに参加したが、このときに旗印を敵に奪われてしまう。城方が得意になって島津豊久の旗をかかげていると、味方の兵は島津豊久が城内に一番乗りを果たしたと勘違いして城に一気に攻めかかる。島津豊久も城に乗り込む。そして落城させた。……と、そんな逸話も『本藩人物誌』にある。

 

慶長5年(1600年)3月に伊集院忠真が降伏し、庄内の乱は終結する。島津豊久は5月12日に佐土原を発ち、伏見へと向かった。参勤のためであったという(『本藩人物誌』より)。

 

 

関ヶ原の戦い

徳川家康と石田三成の対立から「関ヶ原の戦い」へとなだれ込む。島津家もこれに巻き込まれていくことになる。

 

島津義弘と合流

島津豊久は伏見にしばらく滞在したあと、慶長5年(1600年)6月5日に暇乞いをし、大坂で帰国の準備をしていた。ここで事情が変わる。7月に石田三成らが挙兵したのだ。

徳川家康が会津征伐のために畿内を留守にしているところで、反徳川方が決起した。このあとに続く戦いにおいて、徳川方を「東軍」といい、反徳川方を「西軍」という。西軍は石田三成が首謀者とされ、五大老の一人の毛利輝元が大将として大坂城に入った。

 

島津豊久は伏見に戻り、伯父の島津義弘に従った。島津義弘はこのときわずかな手勢しか持っていない。200ほどだったという。庄内の乱の直後で、兵を出す余裕がないという事情もある。島津義弘は国許へ派兵を催促するが、島津家中ではこれに応じず。一方で、島津豊久は佐土原へ兵の派遣を命じ、いくらかの兵力を確保する。島津義弘の手勢は、佐土原勢を加えて500ほどになったという。また、上方に滞在していた北郷氏(島津一族)の軍勢も合流。それでも1000人に満たない。その後、島津義弘の参陣の檄に応えて、志願して上京してくる者もあった。9月の決戦までに島津義弘の手勢は1500ほどになる。

 

島津家は前年の庄内の反乱を、徳川家康の援けを得て鎮定することができた。島津義弘は御礼を述べるために徳川家康とも面会している。島津豊久の上京も、御礼のためのものであったのかもしれない。徳川家とは親密な関係あった。一方で、島津義弘は石田三成とも昵懇である。石田三成は島津義弘を窓口として島津氏と関わっている。

島津義弘は徳川家康から伏見城の守りを命じられていたとも。ただし、正式な命令書のようなものはない。ちなみに、伏見城の件に備えてか、島津義弘は前々から国許への派兵を要請している(でも兵は来ない)。そして、上方の異変に際して、島津義弘は伏見城に向かうも。入城を拒まれてしまう。伏見には西軍が迫っていて、島津義弘は一転してこちらに加わることになる。

ちなみに、島津義弘は「仕方なく西軍に与した」としている。これは、戦後の徳川家康の和睦交渉のときに言っていることではあるが。

 

7月19日より西軍が伏見城を攻める。島津隊もこれに参加した。8月1日に伏見城が落ちると、石田三成らは美濃国へ進軍。島津隊もこれに同行する。

9月14日、徳川家康が美濃に着陣する。この夜に島津義弘は島津豊久を石田三成の陣所に派遣して夜討ちを進言したという話もある。案は入れられず、島津豊久が激怒したとも。なお、この件は島津氏側の史料にはなく、のちの編纂物の『落穂集』に記述されているもの。史実性についてはあやしいところである。

 

 

島津の退き口

9月15日、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で決戦となる。

島津隊は二番備で、西軍の後方の守りを固めていた。戦況は一気に動く、小早川秀秋の寝返りなどもあって西軍は総崩れとなる。勝敗は2時間ほどで決したようだ。島津隊が動く機会は訪れなかった。そして、西軍の各部隊が敗走する中で、島津隊は戦場に取り残された。

島津義弘は討ち死にを覚悟し、退こうとしなかった。島津豊久の説得により退却を決めたという。

豊久云、天運既ニ窮ル、戦フトモ終ヲ全フスル事叶マシ、我等此ニ戦死可仕候間、公ハ人数ヲ引テ御帰国候得ト也、公御承引ナシ、豊久重テ高声ニ被仰国家ノ存亡ハ公ノ御一身ニ掛ル事候、御忘却候哉 (『本藩人物誌』より、読みやすくするために句読点等を加えている)

島津豊久は「天運すでに窮まる、戦っても勝利はない、我らがここで討ち死にする間に、兵を率いてご帰国なさいませ」と言うも、島津義弘はこれを受け入れず。すると島津豊久は「島津家の存亡は公(島津義弘)の身にかかっているのです!」と声を挙げた。……と。

 

島津隊の退却が始まる。活路は前方と定めた。敵軍の中を突っ切って、徳川家康の本陣の脇をかすめて伊勢路へと抜けるルートをとった。前への退却であった。「島津の退き口」と呼ばれている。

撤退戦では島津豊久は先手を務め、敵に向かって突撃していった。そして、激戦の中で戦死する。

通説では烏頭坂(うとうざか、岐阜県大垣市上石津町牧田)で討たれたとされる。また、上石津の柏木で息絶え、近くの瑠璃光寺(大垣市上石津町上多良)に埋葬されたとも伝わる。瑠璃光寺には島津豊久の位牌や墓もある。

 

島津豊久の死について、通説とは異なる証言もある。

或説ニ、山田弥九郎・赤崎丹後兩人ハ十五日の合戦破れ、惟新様奉別、弐人敵中ヲ切抜、関ケ原宿口迄切抜参候処、中務殿被矯乗候馬と覚敷馬はなれ來り候、二人正しく中務殿被爲乗候馬と存立寄見候得者、鞍つぼニ殊之外血流候故、扨ハ中務殿戦死無疑 (『雑抄』より、鹿児島県史料『旧記雑録 後編三』に収録)

山田有栄(やまだありなが)と赤崎丹後守は島津豊久を探して引き返すと、関ヶ原の宿口まで来たときに中務殿(島津豊久)の馬がいた。鞍つぼには血だまりがあり、島津豊久の戦死は疑いなしと察した。……という。

 

また、『本藩人物誌』には、こう書かれている。

相従フ者、中村源助・上原貞右衛門・冨山庄太夫以下拾三騎ニテ大軍ノ中ニ駈入ラレ候テ戦死也。敵は福島刑部少輔正之也、豊久ノ首ハ小田原浪人笠原藤左衛門取ルト云。豊久ノ冑ハ場髪ナリ、今に小田原家中笠原ノ子孫ニ持伝ト云 (『本藩人物誌』より、読みやすくするために句読点等を加えている)

島津豊久は13騎の部下を引き連れて大軍の中へ突撃して戦死。福島正之(福島正則の養子)の部隊と戦い、その家来の小田原浪人の笠原藤左衛門に首を取られたのだという。島津豊久の鎧が笠原家にあったとも記されている。

 

島津豊久は関ヶ原に散る。享年31。その最期については、よくわかっていない。主従ともども討ち死にしたようで、伝える者がいなかった。

 

佐土原の慈門山天昌寺の過去帳の写しには、関ヶ原で戦死した島津豊久の家臣の名が記されている。次のとおり(『本藩人物誌』より)。

田原十右衛門・樺山与兵衛・富山庄太夫・佐土原勘十郎・別枝加右衛門・中村源助・宮原助五郎・栽松忠阿弥・安藤東五郎・有馬甚太郎・川越藤助・上原貞右衛門・田島五左衛門・長田勘三郎・石塚甚平・曽木彦兵衛・恒吉次兵衛・益満長助・福山甚蔵・矢野弥市・弓削新左衛門・米良新十郎・宇田伴之介。下人の玄蕃・小八・七郎三・三右衛門・甚三郎・善八・三郎次郎。ほか名前のわからない者が5人。

 

一方で、島津義弘は生還する。帰路で大坂城で人質を奪還し、この中には島津豊久の母と姉もいた。10月1日に島津義弘は佐土原に立ち寄って、二人を送り届けている。

 

関ヶ原の戦いの島津豊久については、こちらの本も参考にした。

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佐土原を没収される

日向国では東軍についた飫肥(おび、宮崎県日南市)領主の伊東氏が挙兵していた。佐土原城では島津忠仍が籠城する。島津忠仍は島津豊久の弟。東郷家をついで「東郷重虎」と名乗っていたが、このときは島津姓に復している。

 

また、島津豊久の姉(島津家久の長女)は、島津忠栄とともに佐土原城を占拠しようとした事件もあった。島津忠栄は薩州家(さっしゅうけ)の島津義虎(よしとら)の四男で、母は島津義久の娘(名は「御平」「於平」という)。人質の身であったが抜け出して、佐土原に身を寄せていた。この企みは島津豊久の遺臣らによって阻止された。島津豊久の姉らの意図はよくわからない。事件後に二人は佐土原を出奔し、島津義久のもとに身を寄せている。

 

その後、佐土原は徳川家康によって召し上げられる。徳川家配下の山口直友(やまぐちなおとも)の管理下に置かれた。島津豊久の遺臣は薩摩国永吉(鹿児島県日置市吹上町永吉)に移された。

慶長8年(1603年)に佐土原は島津家に返還されることになるが、島津以久に与えられた。こちらは島津家久の三女の嫁ぎ先でもあった。こちらは島津氏本家とは別に、佐土原藩として続いていく。

 

 

永吉島津家

島津豊久には子がなかったため、弟の島津忠仍に家督をつぐよう命がくだる。しかし島津忠仍はこれを辞退。喜入氏より養子をとり、島津忠仍の娘を娶せ、こちらを島津豊久の養子とした。島津忠栄(ただなが)と名乗る(薩州家の島津忠栄とは別人)。

家臣団は薩摩国永吉に移り住んでいて、こちらの家は「永吉島津家」と呼ばれる。永吉島津家は島津家久を初代、島津豊久を2代目としている。

 

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島津忠栄は寛永元年(1624年)に早世。永吉家の家督は藩主の島津家久(島津忠恒)の九男がつぐこととなり、島津久雄(ひさたか)と名乗る。本家の血が入ったこともあり、永吉家は厚遇される。藩の家老も多く出している。

家臣団が永吉に移った際には、菩提寺の天昌寺も佐土原から遷されている。永吉の天昌寺には島津豊久の墓塔がある。法名は「天岑昌運大居士」。

古い墓塔

島津豊久の墓塔(写真右手前)

 

永吉の天昌寺跡には、「関ヶ原合戦四百年記念 島津豊久顕彰碑」もある。2000年に建立されたもので、揮毫は岐阜県上石津町の町長(当時)による。上石津町(現在は大垣市に編入)は、島津豊久が亡くなったところだと伝わる。

 

天昌寺跡の入口

天昌寺の「島津豊久顕彰碑」

 

 

こちらは島津豊久が主役の漫画『ドリフターズ』(作/平野耕太)。関ヶ原の戦いのあと、島津豊久が異世界で活躍する、という内容である。

 

 

 


<参考資料>
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1982年

鹿児島県史料『旧記雑録 後編三』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1983年

『島津史料集』 ※『征韓録』収録
校注/北川鐵三 発行/人物往来社 1966年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集50『西藩烈士干城録(一)』
編・発行/鹿児島県立図書館 2010年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『関ヶ原 島津退き口 義弘と家康 知られざる秘史』
著/桐野作人 発行/株式会社ワニブックス 2022年

『現代語訳 上井覚兼日記2 天正十二年(一五八四)正月~天正十二年(一五八四)十二月』
著/新名一仁 発行/ヒムカ出版 2021年

『現代語訳 上井覚兼日記3 天正十三年(一五八五)正月~天正十三年(一五八五)十二月』
編/新名一仁 発行/ヒムカ出版/2023年

『完訳フロイス日本史10大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗―大村純忠・有馬晴信篇2』
著/ルイス フロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論新社/2000年

『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』
著/ルイス フロイス 訳/松田毅一・川崎桃太 発行/中央公論社 2000年

『島津家久・豊久父子と日向国』
著/新名一仁 発行/宮崎県立図書館 2017年

『戦国武将列伝11 九州編』
編/新名一仁 発行/戎光祥出版株式会社 2023年

『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』
編著/新名一仁 発行/戎光祥出版 2023年

ほか