「若き薩摩の群像」はJR鹿児島中央駅前の広場にある。
19人の像が並べられている。彼らは何なのかというと、慶応元年(1865年)に薩摩藩がイギリスに派遣した一団だ。「薩摩藩遣英使節団」と呼ばれている。外交使節3名と通訳1名、留学生15名(第一次薩摩藩英国留学生)からなる。留学生は「サツマスチューデント」と呼ばれたりもする。メンバーは次のとおり。
外交使節/新納久脩(にいろひさのぶ)・五代友厚(ごだいともあつ)・寺島宗則(てらしまむねのり)
通訳/堀孝之(ほりたかゆき)
留学生/町田久成(まちだひさすみ)・町田申四郎(しんしろう)・町田清次郎(せいじろう)・畠山義成(はたけやまよしなり)・名越時成(なごやときなり)・村橋久成(むらはしひさなり)・朝倉盛明(あさくらもりあき)・松村淳蔵(まつむらじゅんぞう)・森有礼(もりありのり)・高見弥市(たかみやいち)・東郷愛之進(とうごうあいのしん)・吉田清成(よしだきよなり)・中村博愛(なかむらはくあい)・長沢鼎(ながさわかなえ)
この19人の足跡について、ちょっと紹介してみたい。
- 2020年に全員集合
- きっかけは薩英戦争
- 薩摩藩遣英使節団の出発
- 新納久脩(新納中三)
- 五代友厚(五代才助)
- 寺島宗則(松木弘安)
- 堀孝之
- 町田久成
- 町田申四郎(町田実積)
- 町田清次郎(財部実行)
- 村橋久成(村橋直衛)
- 名越時成(名越平馬)
- 朝倉盛明(田中静洲)
- 中村博愛(中村宗見)
- 東郷愛之進
- 高見弥市
- 鮫島尚信
- 吉田清成
- 畠山義成
- 森有礼(森金之丞)
- 松村淳蔵(市来勘十郎)
- 長沢鼎(磯長彦輔)
なお、明治5年以前の和暦の日付については旧暦にて記す。
2020年に全員集合
「若き薩摩の群像」は1982年に鹿児島市が設置したもの。作者は彫刻家の中村晋也(なかむらしんや)氏。「島津義弘公騎馬像」「大久保利通銅像」「天璋院」「川路利良大警視」「菊池武光公騎馬像」など多くの作品を手掛けている。中村晋也氏は1926年生まれで、「若き薩摩の群像」は56歳のときのものである。
じつは、「若き薩摩の群像」は17人だった。というのも、堀孝之と高見弥市は他藩出身ということで像が造られなかったのだ。
2020年に堀孝之と高見弥市の像も設置。19人全員が揃った。二人の像も中村晋也氏(当時94歳)が手掛けている。
きっかけは薩英戦争
文久3年(1863年)、イギリス艦隊が鹿児島湾に現れた。前年に武蔵国生麦村(神奈川県横浜市鶴見区生麦)で、薩摩藩の大名行列に乱入したイギリス人が斬られるという事件があった。「生麦事件」と呼ばれるものだ。この事件の損害賠償などを求めて、イギリスは鹿児島に襲来。艦隊で乗り込んで、脅しをかけてきたのである。薩摩藩はこれを突っぱねる。イギリス側が薩摩藩の軍船を拿捕したことをきっかけに戦いが始まった。
激しい砲撃戦が展開。鹿児島の街は炎上し、砲台場も破壊され、大きな被害を出す。一方のイギリス艦隊も被害は甚大だった。鹿児島湾から撤退する。「薩英戦争」と呼ばれるこの戦いは、引き分けといった感じである。
その後、薩摩藩とイギリスは講和に向けて交渉する。賠償金は幕府から借りて支払うことに(その後、返済していない)。そして、薩摩藩は「武器を売ってほしい」とイギリスに持ちかけた。薩英戦争のあと、一転して薩摩藩とイギリスは親密な関係となる。
ちょっと話を戻す。薩英戦争のきっかけとなった軍船の拿捕で、この船には五代才助(五代友厚)と松木安右衛門(松木弘安、まつきこうあん、のちに寺島宗則を名乗る)が乗っていた。二人は藩士たちを下船させたうえで、捕虜として残った。そして、イギリス艦隊の撤退ともに横浜へと連行された。横浜で介抱されるが、二人には「イギリスと通じた」という疑いがかけられていたこともあり、しばらく身を隠す。
文久4年(1864年)6月頃のこと、五代才助(五代友厚)は潜伏先の長崎から藩に上申書を提出する。イギリスから軍船・武器を購入すること、西洋の知識・技術を取り入れての殖産興業、留学生の派遣などの必要性を説いた。上申書では「薩摩の産物を上海で売り、その利益で製糖機械を買い、砂糖を上海で売って資金をつくり、留学生派遣の費用にあてる」といった具体的な計画案も提示している。
薩摩藩は、この五代才助の上申書を採用。使節・留学生派遣を計画する。また、五代・松木は赦免され、藩に復帰した。
薩摩藩遣英使節団の出発
留学生は藩の洋学校である開成所の優秀な生徒から16人が選ばれた。元治2年(1865年)2月13日、渡航の命令が下る。出国は幕府により禁じられていたため、表向きは「甑島・大島の調査」とされ、それぞれに藩主から変名も与えられた。
2月15日に団長の新納久脩に率いられて、一行は鹿児島城下を出発。西田橋から水上坂を越えていくという薩摩街道を進んだという。途中で伊集院の法智山妙円寺(ほうちさんみょうえんじ)を参詣。妙円寺は島津義弘(しまづよしひろ)の菩提寺であり、ここで武運長久を祈願した。2月16日に串木野の羽島に到着。ここでしばらく船を待つことになる。ここで五代才助や松木弘安も合流する。
船待ちのあいだに「慶応」に改元。慶応元年4月16日にグラバー紹介が手配した船に一行は乗り込む。4月17日、羽島沖を出航した。
なお、留学生の一人の町田猛彦が病のために渡航を取り止めている。羽島で没したとも伝わる。町田猛彦は町田久成の弟である。
一行は香港やシンガポール、スエズ運河を経由して西へ。6月21日にイギリスのサウサンプトンに入港した。
新納久脩(新納中三)
新納久脩の像は最上段にある。空に向かって両手を広げている。渡欧時の変名は「石垣鋭之助」。
使節団の総責任者は、新納久脩が務めた。通称は「刑部」。のちに「新納中三」とも名乗った。天保3年(1832年)の生まれで、出国時は33歳だった。
慶応元年(1865年)の時点では藩の大目付。薩摩国伊佐郡大口の私領主で、戦国時代に活躍した新納忠元(にいろただもと)から続く家系である。
新納氏は島津忠宗(島津氏4代当主)の四男の島津時久(新納時久、ときひさ)より始まる。14世紀に島津時久は足利尊氏より日向国新納院(にいろいん、宮崎県児湯郡のあたり)を与えられたことから、「新納」を名乗りとするようになった。
新納久脩は天保3年(1832年)の生まれ。藩主の島津斉彬・島津茂久(島津忠義)のもとで軍役方総頭取を務め、薩摩藩の兵制改革を進めた。文久2年(1862年)に軍奉行となり、翌年の薩英戦争を戦っている。
留学生を送り届けたあと、新納久脩は五代才助とともに欧州を視察。紡績機械や武器の買い付けなども行っている。パリの万国博覧会(1867年開催)への出展も決める。
新納久脩は慶応元2年(1866年)に帰国。藩の家老に昇進し、おもに外交を担当した。幕末期の難しい時期に、藩政の中枢を担った。
廃藩置県で藩が消滅すると新政府に出仕するが、要職に就くことはなかった。のちに奄美大島島司を務め、島民の生活向上のために尽力した。
明治22年(1889年)没。享年58。
五代友厚(五代才助)
五代友厚の像は、椅子に腰かけて何かを指さすような仕草。渡欧時の変名は「関研蔵」。
五代友厚は天保6年(1836年)の生まれ。通称は「才助」。記録奉行などを務めた五代秀堯(ひでたか)の次男である。
五代氏は執印(しゅういん)氏の一族。執印氏は惟宗姓で、12世紀末以前から薩摩国にある。「友」を通字とする。
五代秀堯は藩命で『三国名勝図会』という地理書を編纂。当初は副裁、のちに総裁を務めて完成させた。五代秀堯は海外にも関心を持ち、五代家には世界地図もあった。
安政4年(1857年)に五代才助は長崎海軍伝習所に派遣され、航海術を学ぶ。また、文久2年(1862年)には幕府の使節船に乗り(水夫として乗せてもらう)、上海に渡る。蒸気船を買い付けた。
イギリス人商人のトーマス・グラバーとも交友がある。イギリス艦隊が鹿児島に向かっていることを知り、戦いを止める手立てを相談したりもしている。
五代才助は鹿児島に戻り、松木安右衛門(松木弘安、寺島宗則)とともに藩の軍船を鹿児島湾奥の平松沖に隠す。しかし、イギリス艦隊に攻撃されて、軍船3隻が拿捕された。うち1隻が五代才助が前年に買い付けたものだった。
これをきっかけに開戦。五代・松木は捕虜となったことを前述の通りである。
薩摩とイギリスの講和が成立したあと、使節団派遣の上申書を提出して藩に採用される。そして、自身もその一団に加わる。
渡欧した五代才助は、新納久脩に従って活動。紡績機械の購入など、商談をこなしていった。慶応2年(1866年)に新納久脩とともに帰国。その後は藩の商務関係を任される。武器購入や交易などを取り仕切った。
明治になって新政府に出仕。参与職外国事務掛や外国官権判事を歴任し、大阪府権判事兼任で大坂にも赴任する。大坂に造幣寮(のちの造幣局)も誘致した。
明治2年(1869年)に官を辞して実業家に転身する。大阪商工会議所初代会頭を務め、大阪の経済復興に貢献した。
明治18年(1885年)没。享年49。
寺島宗則(松木弘安)
シルクハットを持って腰掛けるのが寺島宗則(松木弘安)。渡欧時の変名は「出水泉蔵」。
松木弘安(寺島宗則)は天保3年(1832年)に、薩摩国出水郡脇本(鹿児島県阿久根市脇本)で生まれた。幼名は「徳太郎」「藤太郎」。長野家の次男で、蘭方医であった伯父の松木宗保の養子となる。父は松木家から長野家に養子に入っていて、徳太郎は父の実家のほうを継ぐことになった。
松木氏は17世紀初めに薩摩に流されてきた公家の末裔だという。慶長14年(1609年)に宮廷で若い公家と女官が密通するという事件が発覚。「猪熊事件」と呼ばれている。この事件に連座した者の中に中御門宗信(なかみかどむねのぶ)があった。「松木少将」と呼ばれ、「松木宗信」とも称した。松木宗信(中御門宗信)は薩摩の硫黄島に流罪となる。哀れに思った薩摩藩主の島津家久は、硫黄島より暮らしやすい甑島へ松木宗信(中御門宗信)を移した。その子孫が薩摩藩の武士として取り立てられ、脇本に住むようになったのだという。
松木宗保は蘭方医として薩摩で知られた人物だった。島津重豪(しげひで)の命により、出島でフランツ・フォン・シーボルトから学ぶ機会も得ているという。
松木家の養子となった藤太郎は、養父とともに長崎に移住。ここで蘭学を学ぶ。その後、松木宗保は帰藩を命じられて鹿児島へ。藤太郎は藩校の造士館で学んだ。
弘化2年(1845年)9月に松木宗保が没し、藤太郎は家督を継承。「松木弘安」と名乗る。そして、医学修行のための江戸遊学が藩より命じられた。江戸では川本幸民や杉田成卿などから蘭学の教えも受けた。
安政3年(1856年)、松木弘安は幕府に出向して蕃書調所の教授手伝となる。蘭学書の翻訳などを手掛けた。そして安政4年(1857年)には島津斉彬の侍医に任じられて薩摩に帰国。集成館事業(薩摩藩の西洋技術を導入した殖産興業)にも従事している。ガス灯・写真機・電信機の開発を成功させるなど、蘭学者としての手腕を発揮した。
安政5年(1858年)に島津斉彬が没すると、再び江戸へ。蕃書調所の教授に復帰する。また、開港したばかりに横浜でも税関事務の仕事をし、ここで英語に触れる。オランダ語よりも英語のほうが重要であると感じ、松木弘安は独学で英語習得をはかった。そして、文久2年(1862年)の幕府の遣欧使節団に抜擢される。通訳兼医師として随行し、ロンドンやパリを訪れる。
使節団から帰国後に、薩摩に呼び戻される。「松木安右衛門」と名を改め、御船奉行に任じられた。薩英戦争に遭遇することになる。
海外事情をよく知る松木安右衛門(松木弘安)と五代才助(五代友厚)は開戦を止めようと藩内で説くが、止めることはできなかった。
鹿児島湾奥に藩の軍船を隠していた。これをイギリス艦隊が拿捕したことをきっかけに開戦となる(薩英戦争)。松木と五代は拿捕された船に乗っていた。乗員を下船させ、二人は捕虜となった。そして、イギリス艦隊が撤退すると、横浜へと連れていかれた。
薩英戦争のあと、松木と五代には「イギリスと通じていたのでは?」という疑いがかかる。松木安右衛門はしばらく江戸に潜伏する。その後、赦免されて長崎に行くよう命じられた。長崎で五代才助と合流。五代の上申書により遣英使節団の派遣が決まっていて、その準備を手伝う。
そして、遣英使節団の一員に。渡欧後、松木弘安はイギリスとの外交交渉を担当。薩摩藩はイギリスと良好な関係を築くことになる。
慶応2年(1866年)に帰国。名を「寺島陶蔵」と改める。のちに「寺島宗則」とした。ちなみに「寺島」は、生家の海辺に浮かぶ島の名からとったものである。藩校の開成所の教授を任され、引き続き外交にも関わる。
明治になって新政府に出仕。神奈川県知事に任じられる。東京と横浜の間の電気通信開設を建議し、電信施設の建設を手掛ける。また、外務大輔として不平等条約の改定にも奔走する。明治6年(1873年)には外務卿(外務大臣にあたる)となった。その後も文部卿(文部大臣にあたる)・元老院議長・枢密院副議長などを歴任した。明治17年(1884年)に伯爵に叙される。
明治26年(1893年)没。享年62。
堀孝之
写真手前のイスに腰かけているのが堀孝之。生涯にわたって関わる五代友厚(左上の腕を伸ばしている像)とも近い場所に置かれている。渡欧時の変名は「高木政次」。
堀孝之は天保15年(1844年)の生まれ。堀家は長崎のオランダ通詞を務める家柄である。堀孝之は英語に堪能であった。薩英戦争の直前にトーマス・グラバーは五代才助(五代友厚)と会っているが、五代は優秀な英語の通訳を雇っていたという。これが堀孝之であったと考えられる。
薩摩藩で遣英使節団の派遣が決まると、堀孝之は通訳として参加することになる。渡欧すると新納久脩・五代才助に同行し、通訳の任にあたった。
帰国後も五代友厚のもとで通訳として働く。明治になって五代友厚が実業家に転身したあとも、その事業を手伝った。
明治44年(1911年)没。
町田久成
町田久成は最上段に立つ、新納久脩と背中合わせに。渡欧時の変名は「上野良太郎」。なお、名前の読みは「ひさなり」とされていることが多いが、実際には「ひさすみ」であったようだ。通称は「民部」。
町田久成は英国留学生の一団の学頭と務めた。渡欧時は28歳。藩の大目付であり、開成所(藩の洋学校)の責任者でもあった。留学生の引率者としての役割も担った。
薩摩国伊集院石谷(鹿児島市石谷町)を領する町田家の当主である。町田氏は島津氏の支族で、13世紀から石谷を領する古い一族である。薩摩藩では家老をはじめ重職を担った。
町田久成は天保9年(1838年)の生まれ。ちなみに母は小松(こまつ)氏の出身で、名を国子という。小松清廉(こまつきよかど、小松帯刀、たてわき)の妻の小松近の姉にあたる。
安政3年(1856年)に江戸に出て、幕府の昌平黌で国学を学ぶ。薩摩に戻ったあとは順調に昇進し、元治元年(1864年)には大目付に任じられた。また、開成所掛も任された。
留学中はロンドンで英語を学び、パリ万博の開会式にも出席している。2年ほどで帰国し、藩政に復帰する。
明治政府が発足すると、新政府の参与に任じられる。外国事務掛を任され、のちに外務大丞(外務省の三等官)となる。その後、大学大丞(文部省の三等官)へと異動になる。
明治4年(1871年)、町田久成は博物館建設と文化財保存についての建議書を出す。この構想は実現する。東京上野の寛永寺本坊跡に博物館を建設し、明治15年(1882年)3月に博物館は公開となる。のちの東京国立博物館である。町田久成を初代館長とし、敷地内には顕彰碑もある。
その後は、農商務大書記官や元老院議官などを歴任するが、明治22年(1889年)に突如として出家する。島津久光の三回忌法要にあわせて、園城寺(三井寺、滋賀県大津市)で剃髪した。翌年には園城寺の光浄院の住職となった。
晩年は東京上野の寛永寺の明王院で過ごし、明治30年(1897年)に入滅。享年60。
町田申四郎(町田実積)
コートを持って立っているのが町田申四郎。渡欧時の変名は「塩田権之丞」。
町田久成の弟で、開成所の蘭学専修であった。当時17歳。慶応2年(1865年)夏に帰国していて、留学期間は1年余りと長くはなかった。
明治3年(1870年)10月に、島津久光に命じられて小松清廉(小松帯刀)の家督をつぐことになる。「小松清緝」と名乗った。ちなみに町田申四郎の母は小松近(小松清廉の妻)の姉にあたる。小松清廉はこの年の7月に亡くなっていた。正室の近との間には子がなかった。ただし、妾(京の芸妓)との間には安千代という子があった。安千代は近が養育していた。
いったんは小松家の家督を継承するが、安千代(小松清直と名乗る)に家督を譲って小松家を離れた。
その後の事績についてはよくわかっていない。
町田清次郎(財部実行)
町田清次郎は襟のところを掴んでいる。ちょっと幼い雰囲気も。渡欧時の変名は「清水兼次郎」。
町田久成の弟で、開成所の蘭学専修であった。当時14歳。慶応2年(1865年)夏に兄とともに帰国している。
その後の事績についてはよくわかっていない。のちに財部家の養子となり、「財部実行」と名乗る。
村橋久成(村橋直衛)
村橋久成もコートを持つ。渡欧時の変名は「橋直輔」。
天保13年(1842年)生まれで、出国時は22歳だった。家格は「寄合並」。村橋家は加治木島津家(島津氏の御一門のひとつ)の分家。父が早世したため、村橋久成は6歳で家督を継いでいた。
留学生の中に辞退者があり、その代わりとして村橋久成は留学を命じられた。当時は御小姓組番頭であった。慶応2年(1866年)5月に帰国。留学期間は短かった。その後、戊辰戦争に従軍。東北戦争や函館戦争で活躍した。
明治維新後は藩の役目を担うも、明治4年(1871年)に新政府に出仕。開拓使の任にあたり、北海道へ。農業や畜産をはじめとした産業開発に従事する。その中で、北海道に麦酒醸造所をつくるべきであると建議。この村橋久成の意見がとおり、明治9年(1876年)に、札幌に開拓使麦酒醸造所を設立した。翌年に冷製「札幌ビール」の製造販売を開始する。開拓使麦酒醸造所はサッポロビール株式会社の前身にあたる。
明治14年(1881年)5月、突然、村橋久成は官を辞する。そして、地位も家族も捨てて托鉢僧として流浪の旅に出てしまう。その後の足取りは不明。11年後に神戸で行き倒れていたところを発見された。明治25年(1892年)9月に没。享年50。
名越時成(名越平馬)
寄りかかり、左手には書物を持つ。これが名越時成だ。渡欧時の変名は「三笠政之助」。
家格は「寄合格」で、出国時は17歳で、当番格だった。通称は平馬。
父は名越左源太(名越時敏)。「お由羅騒動(高崎崩れ)」で奄美大島に流罪となり、『南島雑話』『遠島日記』を記したことで知られる。遠島を赦されたあとは、藩政に復帰している。ちなみみに名越氏は、鎌倉時代に大隅国の守護だった名越北条氏の末裔を称する。
名越時成は留学辞退者に代わって留学を命じられる。慶応2年(1866年)に帰国し、戊辰戦争に従軍した。そのほかの経歴は不詳。
大正元年(1912年)没。享年65。
朝倉盛明(田中静洲)
右手に本を抱えているのが朝倉盛明だ。本名は田中静吾という。医師で、「田中静洲」と称した。渡航時の変名は「朝倉省吾」。帰国後も「朝倉」を名乗った。
長崎で蘭学を学び、開成所の句読師(教員)となっていた。出国時は21歳。イギリスで学んだあと、フランスで鉱山学を学ぶ。慶応3年(1867年)に帰国し、開成所のフランス語教師を務めた。明治元年(1868年)に新政府に出仕。フランスから招聘した鉱山技師のジャン・フランソワ・コワニエの通訳を務めた。コワニエとともに兵庫県の生野銀山に入り、鉱山の近代化に尽力した。通訳官からのちに鉱山長となっている。
大正14年(1925年)に81歳で没。
中村博愛(中村宗見)
両手を大きく広げているのが中村博愛だ。変名は「吉野清左衛門」。
出国時は22歳。当初は中村宗見と名乗り、長崎でオランダの軍医のアントニウス・ボードウィンから医学を学んでいる。
イギリスで学んだあと、田中静州(朝倉盛明)とともにフランスに留学先を変える。慶応4年(1868年)に帰国し、薩摩藩では開成所のフランス語教授を務めた。なお、中村博愛の名乗りは帰国後のことである。
明治2年(1869年)に西郷従道・山縣有朋の欧州視察に通訳として随行するよう命じられる。これ以降、政府で働くことになる。帰国すると兵部省や工部省で仕事を任された。
明治6年(1873年)より外務省へ。外交官としてロシア・フランス・イタリア・ポルトガル・デンマークなどに派遣される。領事や公使も務めた。帰国後は元老院議官・貴族院議員などを歴任する。
明治35年(1902年)没。享年60。
東郷愛之進
腕組みしているのが東郷愛之進。渡欧時の変名は「岩屋虎之介」。
開成所で蘭学を学んでいた。出国時は23歳。
この人物については、情報がほとんどない。家柄などはよくわからず。帰国後に戊辰戦争に従軍し、慶応4年(1868年)7月8日に戦死。若くして亡くなっている。
南林寺由緒墓に墓があり、墓碑には「東郷愛之進實古」とある。諱は「實古」だと思われる。
高見弥市
ステッキを持っているのが高見弥市だ。名前は高見弥一とも。渡欧時の変名は「松元誠一」。
天保2年(1831年)の生まれで、出国時は21歳。開成所で蘭学を学んでいた。
もとの名を大石団蔵(おおいしだんぞう)という。土佐(高知県)の生まれ。土佐勤皇党に参加し、文久2年(1862年)に吉田東洋の暗殺を実行した。事件後に大石団蔵は脱藩し、薩摩藩に匿われた。そのまま薩摩藩士に取り立てられ、高見弥市と名乗った。
イギリスでは測量術や数学を学ぶ。慶応3年(1867年)に帰国。新政府に出仕して大阪運上所に勤務。明治5年(1872年)に鹿児島へ戻り、鹿児島県立中学造士館の算術教員となった。
明治29年(1896年)没。
鮫島尚信
鮫島尚信はステッキを手にして立っている。変名は「野田仲平」。
弘化2年(1845年)生まれ。出国時は20歳で、開成所の訓導師(教師)だった。
薩摩藩の藩医の家の生まれで、石川確太郎に蘭学を学ぶ。藩命で長崎に遊学し、蘭学のほかに英語も学ぶ。元治元年(1864年)に薩摩藩が開成所を開設すると、英学の訓導師となった。
イギリスで学んだあと、アメリカに渡る。トマス・レイク・ハリスの教団に入り、農園で自給自足をしながらの共同生活を送る。ハリスに日本のために働くことをすすめられ、森金之丞(森有礼)とともに慶応4年(1868年)に帰国。
明治政府に出仕し、外国官権判事・東京府判事・東京府権大参事などを任される。その後は外交官として働く。フランスの特命全権公使などを務めた。明治7年(1874年)に外務大輔(外務省の次官)となり、外務卿の寺島宗則のもとで活躍した。
鮫島尚信は公務に追われて、多忙な日々をおくる。明治13年(1880年)、任地のパリで病死。35歳だった。
吉田清成
吉田清成もステッキを使っている。変名は「永井五百介」。
開成所の句読師(教員)で蘭学専修。出国時は20歳。
イギリスで学んだあと、鮫島尚信とともにアメリカへ。1867年からトマス・レイク・ハリスの新興宗教に入信して共同生活をおくる。1868年6月にハリスの教団から離れ、ニュージャージー州のラトガース大学に入学。その後、コネチカット州のウエスレヤン大学に入り、政治経済学や銀行保険業務などについて学んだ。
明治3年(1870年)に帰国し、翌年から大蔵省に出仕。租税権頭や大蔵少輔として働く。また、岩倉使節団に随行して外債募集の交渉にもあたった。明治7年(1874年)から米国特命全権公使。外務卿の寺島宗則とともに不平等条約の改正に奔走する。明治15年(1882年)には外務大輔(外務省の次官)に任じられる。明治20年(1887年)には子爵に叙せられた。
明治24年(1891)に病気のために急死。享年47。
畠山義成
畠山義成は遠くを見るような感じだ。渡欧時の変名は「杉浦弘蔵」。
出国時は22歳で当番格だった。家格は「一所持格」。家老も出せる家柄である。畠山義成も将来的には家老としての活躍が期待されていた。
この畠山氏は長寿院盛淳(ちょうじゅいんせいじゅん、阿多盛淳)から続く家系だと思われる。長寿院盛淳は島津義久・島津義弘の家老を務めた人物で、もとは足利一族の畠山氏である。薩摩に流れてきて阿多氏を名乗っていたが、のちに名乗りを「畠山」に復した。畠山家には島津氏から養子が入っていて、血統的には島津氏に代わっている。
畠山義成はロンドンで学んだあと、1867年にアメリカへ渡る。宗教家のトマス・レイク・ハリスを紹介され、新興宗教団体で共同生活をすることになった。この教団には第一次薩摩藩英国留学生のうち6人が入信している。
1868年6月に畠山義成は教団を出る。ニュージャージー州のラトガース大学に入学し、科学を選考した。
1871年に日本から帰国命令が出る。岩倉使節団に合流して各国をまわり、明治6年(1873年)に使節団とともに帰国した。
帰国後は文部省に出仕。東京開成学校(東京大学の前身のひとつ)校長、東京書籍館(帝国図書館、のちに国立国会図書館に吸収)館長、博物館(東京国立博物館)館長などを歴任する。
明治9年(1876)10月20日、享年34。海外視察から帰国する船中で病死した。
なお。畠山義成は『畠山義成洋行日誌(杉浦弘蔵西洋遊学日誌)』を書き残している。この史料からは、留学生たちの様子を知ることができる。
森有礼(森金之丞)
右手にペン、左手に書物。こちらが森有礼。渡欧の際の変名は「沢井鉄馬」。
弘化4年(1847年)の生まれ。幕末の頃は金之丞と名乗る。開成所に英学を学んでいた。出国時は18歳。
森氏は源義家の後裔を称する。源頼隆(源義家の孫)が相模国毛利荘(神奈川県厚木市)を領し、「森(毛利)の冠者」と呼ばれたことこに由来するという。系図の信憑性については、なんとも言えないところではあるが。
薩摩藩での家格は「小番」。森金之丞の祖父は藩主の側役を務めている。森家には5人の男子があり、金之丞は末弟。兄には横山安武がいる。
イギリスで学んだあと渡米し、トマス・レイク・ハリスの教団に入る。ハリスに帰国を進められ、鮫島尚信とともに慶応4年(1868年)に日本へ戻る。新政府に出仕し、鮫島とともに外国官権判事に任じられた。明治3年(1870年)からは外交官として再びアメリカに3年ほど滞在した。その後も清国公使・英国公使などを歴任し、外務大輔(外務省の次官)も務めた。
明治8年(1875年)に「商法講習所」という私塾を創設。こちらは一橋大学の前身にあたる。
明治18年(1885年)より文部大臣に就任。「学位令」「師範学校令」「小学校令」「中学校令」などの公布に関わり、日本の学校制度を整備した。
明治20年には子爵に叙せられた。また、岩倉寛子(岩倉具視の五女)と再婚。
明治22年(1889年)2月11日、森有礼は暗殺される。41歳だった。大日本帝国憲法発布式典に出席するために官邸を出たところを刺された。明治20年の伊勢神宮不敬事件(森有礼が参拝で不敬な態度をとった、という報道があった)に不快感を持った国粋主義者による凶行だった。
松村淳蔵(市来勘十郎)
右手にコンパスを持つ。本名は市来勘十郎。渡欧の際の変名が「松村淳蔵」で、帰国後も変名のほうを名乗り続けた。
開成所で英学を専修。出国時は23歳だった。ロンドンで学んだあとに渡米。トマス・レイク・ハリスの教団施設で共同生活をおくる。1868年にハリスのもとを離れて、ニュージャージー州のラトガース大学に入学。翌年にアナポリス海軍兵学校に移った。
明治6年(1873年)に帰国。政府に出仕して海軍中佐となる。東京築地にあった海軍兵学寮に勤務し、海軍士官の教育にあたった。明治9年(1876年)には海軍大佐に昇進し、海軍兵学校(海軍兵学寮から改称)の校長に就任する。
明治10年(1877年)の西南戦争では、「筑波」艦長として出撃。明治15年(1882年)に海軍少将、明治17年(1884年)に中艦隊司令官に就任。明治24年(1891年)に海軍中将に昇進し、予備役に編入された。また、明治20年(1887年)には海軍創設の功績から男爵に叙せられている。
大正8年(1919年)に78歳で没する。
長沢鼎(磯長彦輔)
ブドウを一つ摘まんで、見つめている。本名は磯長彦輔(いそながひこすけ)。「長澤鼎」というのは留学時の変名で、生涯にわたって変名を名乗り続けることになる。
開成所の英学を学ぶ。嘉永5年(1852年)の生まれで、出国時はまだ13歳。留学生の中では最年少だ。
磯長家は薩摩藩の天文方を務める家柄だという。彦輔の父の磯長孫四郎は長崎海軍伝習所で学び、洋学・漢学ともに優れた人物であったという。
余談だが、彦輔の弟は赤星家へ養子に出て、のちに赤星弥之助と名乗る。赤星弥之助は明治時代に実業家となり、海軍創設の物資調達により財産を築いている。また、赤星鉄馬は長澤鼎の甥にあたる。
長澤鼎は年齢が大学入学に満たず、スコットランドにあるトーマス・グラバーの実家に寄宿して中学校に通った。
1867年に鮫島尚信・吉田清成・松村淳蔵・畠山義成・森有礼とともにアメリカに渡り、トマス・レイク・ハリスの教団に入る。ほかの5人は帰国するが、長澤鼎だけは教団を離れなかった。
ハリスはカリフォルニア州に土地を購入して、こちらに共同生活の場を移す。ブドウ園を運営し、醸造所も設けた。ここを「ファウンテングローブワイナリー」と名付け、長澤鼎も運営に関わった。
ハリスが引退(教団も事実上の解散)すると、「ファウンテングローブワイナリー」は長澤鼎が引き継ぐことになった。事業を大きく発展させ、ワイナリーは大成功をおさめる。長澤鼎は「Grape King(ブドウ王)」と呼ばれるようになった。
長澤鼎は帰国せず。1934年にアメリカで亡くなる。82歳だった。
桐野作人さんの『さつま人国誌 幕末・明治編』には、薩摩藩遣英使節団に関わった人物のエピソードがけっこう載っている。今回の記事でも参考にしました。
<参考資料>
『薩摩人とヨーロッパ』増補版
著/芳即正 発行/著作社 1985年
『若き薩摩の群像 サツマ・スチューデントの生涯』
著/門田明 発行/高城書房 2010年
鹿児島県史料『忠義公史料 二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1980年
『さつま人国誌 幕末・明治編』
著/桐野作人 発行:南日本新聞社 2009年
『さつま人国誌 幕末・明治編2』
著/桐野作人 発行:南日本新聞社 2013年
『さつま人国誌 幕末・明治編3』
著/桐野作人 発行:南日本新聞社 2015年
人物叢書『寺島宗則』
著/犬塚孝明 発行/吉川弘文館 1990年
人物叢書『森有礼』
著/犬塚孝明 発行/吉川弘文館 1986年
ほか