鹿児島県肝属郡肝付町前田に、竹田神社(たけだじんじゃ)が鎮座する。この地はかつのての大隅国の高山(こうやま)のうちで、肝付(きもつき)氏の本拠地の高山城からも近い。
御祭神は島津忠良朝臣(しまづただよしあそん)。もともとは玉池山日新院という寺院で、島津忠良の位牌と肖像を安置していた。
なお、日付については旧暦にて記す。
御南が父を拝んだところ
玉池山日新院は元亀元年(1570年)8月に御南(おみなみ)が開山したという。
御南は島津忠良の長女で、肝付兼続(きもつきかねつぐ)の正室となっていた。島津忠良は永禄11年(1568年)没。それから3年後に御南は高山に御影堂を建立して、父の霊牌と肖像(木像)を安置した。それが日新院の始まり。島津忠良の肖像は、筑前国博多の仏師を薩摩国加世田(かせだ、鹿児島県南さつま市加世田)に招聘して生前の姿を彫らせたもの。これを御南が譲り受けて、毎日拝んでいたのだという。
ちなみに、島津氏と肝付氏はこの頃は対立関係にある。元亀2年から全面戦争に突入し、天正2年(1574年)に肝付氏の降伏で決着している。
天正9年(1581年)9月3日に御南は亡くなる。法号は「月庭桂秋大姉」。遺骨の一部は日新院に納められた。また、日新院には島津忠良・御南の位牌とともに、御東(島津忠良の正室、御南の母)と島津貴久(しまづたかひさ、御南の弟)を一緒に並べてあったとも。
明治の「廃仏毀釈」により、この地の多くの寺院が破壊された。ただ、日新院は破壊を免れた。明治2年12月10日(1870年1月)に日新公(島津忠良)の御影堂を軍神として祀ることとし、明治3年(1870年)2月29日に「竹田神社」の神号を称する。同年4月16日に社殿を新造し、島津忠良の位牌と木像をここに祀った。
竹田神社の御神体は、「島津忠良の位牌」「御南の位牌」「御東の位牌」「島津貴久の位牌」である。
それから、島津忠良の木像もあるのかな? 現地の案内板には記載なし。また、調べてみたが確かな情報には行きあたらなかった。
境内はよく手入れされている。軍神として大事にされていることがうかがえる。
神社の脇には共同墓地がある。こちらも寺院の痕跡か。古い墓塔も散見される。
青面金剛像(庚申塔)もあった。
桂忠詮の墓
境内には立派な墓塔がある。桂忠詮(かつらただのり、ただあき)の墓である。高山の地頭を務め、元和元年(1615年)にこの地で亡くなっている。墓塔には法号の「龍泉道活居士」の文字も確認できる。墓塔はもともと別の場所にあったが、2012年にこちらへ遷された。
余談だが、天正15年(1587年)に豊臣軍と島津氏のほぼ最後の戦いにあたったのが桂忠詮だった。当時は薩摩国平佐(ひらさ、鹿児島県薩摩川内市平佐)の地頭で、平佐城にたてこもった。小西行長・九鬼嘉隆・脇坂安治らが率いる7000余の軍勢が平佐城を囲むが、数百の兵で応戦して城を落とさせなかった。
降伏を決めた島津義久からの使いがあってようやく開城し、そのあと、泰平寺(たいへいじ、薩摩川内市大小路町)で豊臣秀吉に謁見している。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 出版/山本盛秀 1905年
『高山郷土誌』
編/高山郷土誌編纂委員会 発行/高山町 1966年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 家わけ 二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 出版/鹿児島県 1991年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
ほか