ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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市来皆田の大庭神社、梅北一揆の田尻荒兵衛(田尻但馬守)を祀る

鹿児島県日置市東市来町湯田に皆田(かいだ)というところがある。かつのての薩摩国市来のうち。この皆田の大庭(おおにわ)に神社がある。大庭神社という。旧称は田尻神社(たじりじんじゃ)と称し、大正の初め頃まではそう呼ばれていたという。

 

御祭神は田尻荒兵衛(田尻但馬守)とその家族。この人物は島津忠良(しまづただよし)・島津貴久(たかひさ)・島津義久(よしひさ)に仕え、剛勇の士と伝わる。最期は天正20年(1592年)の梅北一揆(梅北国兼の乱)に加担し、反乱が失敗して討たれた。

 

なお、日付は旧暦にて記す。

 

 

静かにたたずむ小社

大きな神社ではない。駐車場はないものの、入口近くにちょっと車を置けるスペースがあるので、ここに停めてお参りする。境内はきれいに手入れされている。

 

大庭神社

参道口

 

大庭神社

社殿は新しい感じ

 

大庭神社

拝殿前

 

国立国会図書館デジタルコレクションで『集落誌 皆田の歴史』(著/大庭正道)を見つけた。こちらに、大庭神社の由緒については詳しく書かれている。なお、田尻荒兵衛の子孫は「大庭」を名乗りとし、田尻神社(大庭神社)はその氏神として大切にされてきたとのこと。著者の大庭正道氏もこの一族なのだろう。

創建については、元禄6年(1693年)とする棟札があるとのこと。田尻荒兵衛の霊牌を祀ったのが始まりだという。御祭神は田尻荒兵衛と、その子の田尻荒二郎・田尻荒五郎・お浪。また、山神をあわせて祀る。お浪(田尻荒兵衛の娘)については、霧島の大浪池(鹿児島県霧島市牧園町高千穂)の龍神になった、という伝承もあるとか。

なお、『本藩人物誌』では息子の名を「荒太郎」「荒五郎」としている。御祭神の「荒二郎」は、「荒太郎」が正しいのかもしれない。

かつては荒兵衛の愛用の刀も、神社に納められていたとも。刀は太平洋戦争のあとに進駐軍に持ち出されて行方不明とのこと。

 

神社の裏手のほうは墓地。ここには古い墓石もあり。寺院があったのだろう。山伏の可全法師の墓があり、没年は元禄13年(1700年)とのこと。この山伏は田尻神社の創建に関わったとも言われている。

 

古い墓塔

山伏の墓

 

 

島津家に仕えた豪傑

田尻荒兵衛は薩摩国伊作の田尻(日置市吹上町田尻)の生まれ。もともとは農民で、瀬戸口城の城下に住んでいたという。

伊作は13世紀より島津一族の伊作氏が治めるところ。15世紀半ばに島津氏本家から養子が入る。島津忠国の三男が家督をつぎ、伊作久逸(いざくひさやす)と名乗った。そして、その孫が島津忠良(しまづただよし)である。島津忠良は島津氏分家の相州家の家督をつぎ、嫡男の島津貴久(たかひさ)とともに一族の抗争を制する。島津貴久が惣領の座を奪い、戦国時代の島津氏の本流となる。江戸時代の薩摩藩主も島津貴久からの流れである。

 

大永6年(1526年)、島津忠良は島津本宗家の実権を握る。守護は奥州家(本家筋にあたる)の島津忠兼(ただかね、のちに勝久に改名)であったが、この後継に島津貴久を擁立して本家を乗っ取るような形となる。翌年に島津忠兼は隠居させられ、その隠居所として島津忠良は伊作城を献じた。しかし、薩州家(こちらも有力分家)が島津忠良・島津貴久を攻撃して政権から追い出す。そして、島津忠兼(島津勝久)を守護職に復帰させた。

島津勝久に譲っていた伊作城を、島津忠良は攻めて奪い返す。大永7年(1528年)7月23日のことだった。田尻荒兵衛は瀬戸口城下から打ち立てて島津忠良のもとに馳せ参じ、攻城戦で大いに活躍したという。その戦功を賞されて「瀬戸口打立兵衛」の名を賜ったとも。

 

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その後、相州家の島津忠良・島津貴久は島津勝久(奥州家)・島津実久(薩州家)と抗争と続ける。天文4年(1535年)に島津実久は島津勝久を鹿児島から追放し、このときに惣領の座についたとも。島津勝久は一転して相州家と手を組み、島津忠良・島津勝久に島津実久を攻めさせた。

天文7年12月(1539年1月)、島津忠良は加世田城(鹿児島県南さつま市加世田武田)を攻める。ここは薩州家の拠点の一つでもあった。

12月29日、島津忠良は夜襲をかける。このときに、家老の新納康久が田尻荒兵衛を召し出した。その剛勇を買ってこんな命令を出す。「加世田城に侵入して火をかけよ」と。さらに「成功したら自分の娘をやる、そして士分に取り立てる」と約束した。はたして、田尻荒兵衛はこの指令を実行して、成功させた。加世田城は落ちた。田尻荒兵衛は新納康久の婿となり、士分に取り立てられた。

 

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その後も、田尻荒兵衛は活躍。天文18年(1549年)の大隅国の日当山城・姫木城(ともに鹿児島県霧島市)攻め、永禄9年(1566年)の日向国の三山城(宮崎県小林市)攻め、天正6年12月(1579年1月)の肥後国隈元(熊本市)の戦いなど、活躍の記録が見える。『本藩人物誌』では「武勇抜群ノ者ナリ」と評される。

軍功が賞されて、加世田津貫(南さつま市加世田津貫)の地頭に任じられ、市来皆田にも300石の領地を与えられた。

 

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梅北国兼の乱

天正20年(1592年)6月、梅北国兼(うめきたくにかね)が挙兵。突如として肥後国の佐敷城(熊本県葦北郡芦北町)を攻撃し、ここを占拠した。この事件は「梅北国兼の乱」「梅北一揆」と呼ばれる。

梅北国兼は朝鮮へ出陣するはずだった。その途上で進路を変えて、加藤清正(かとうきよまさ)領の佐敷城へ。城代の加藤重次は朝鮮出征中で留守。そこを衝いて、佐敷城を奪った。ちなみに、梅北国兼は大隅国湯尾(鹿児島県伊佐市菱刈町川北)の地頭である。

そして、田尻荒兵衛(田尻但馬守)もこれに加担。荒兵衛は反乱軍のナンバー2というような立場だった。ほかに大隅国大姶良(鹿屋市大姶良)地頭の伊集院三河守、入来院氏の兵を預かる東郷重影、荒尾嘉兵衛(荒兵衛の叔父)なども加わった。田尻荒太郎・田尻荒五郎も父ともに参加した。

反乱軍の兵は2000ほど。6月15日に佐敷城を占拠するまではうまくいったが、そこから同調者を募るもうまくいかず。6月17日に梅北国兼は討ち取られて、反乱は3日で鎮圧された。

田尻荒兵衛は八代(熊本県八代市)を攻めようと出兵していたが、父子ともども討ち取られた。


田尻荒兵衛の生年は不明だが、伊作城奪還戦や加世田の戦いからら逆算すると80歳に近い可能性もある。また、梅北国兼は加世田の人。古くから活躍していて、この人物も70歳超の高齢だろう。伊集院三河守の素性はわからないが、こちらも古参の将であったのかも。

当時は島津氏は豊臣家の傘下にある。天正15年(1587年)に島津家は豊臣政権に屈してから、それほど時間が経っていない。また、豊臣政権による島津家への干渉に対して不満を抱える者が多かった。反乱の原因は「朝鮮出兵の不満」と説明されることが多いが、真相は謎である。

なお、天正20年7月には「梅北国兼の乱」への関与を疑われた島津歳久(島津貴久の三男)も誅殺されている。

 

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神として祀られた叛逆者たち

田尻荒兵衛・荒太郎(荒二郎?)・荒五郎は神として祀られた。それが大庭神社(田尻神社)だ。

ちなみに梅北国兼や伊集院三河守も祀られた。梅北国兼を御祭神とする梅北神社は大隅国山田北山(鹿児島県姶良市北山)に創建。山田は梅北国兼の領地であった。また、伊集院三河守を祀る参河神社は大隅国大姶良に建てられた。

 

梅北神社の詳細はこちら。

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個人を御祭神とする神社は、「祟りを恐れられて」という例が多い。田尻神社(大庭神社)にしても梅北神社にしても参河神社にしても、そうだったのではないのだろうか。

「祟りがあった」あるいは、「祟りをなすかもしれない」という存在であったのかもしれない。

また、老齢の武者たちが反乱を起こしたというのも気になるところ。新しい時代に対応できずに死に場所を探したようにも思えるし、お家のために捨て石になろうと志願したような印象も受けるのである。

 

後世では「叛逆者」として語られるが、ひっそりと英雄としても崇敬されている。

 

 

 

<参考資料>
『集落誌 皆田の歴史』
著/大庭正道 1992年

『吹上郷土史 中巻』
発行/吹上町教育委員会 1969年

『東西市来村郷土史』
著/永山時英 1919年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集51『西藩烈士干城録(三)』
編・発行/鹿児島県立図書館 2012年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

ほか