ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

市来養母の太秦神社、薩摩で秦の始皇帝を祀る

鹿児島県日置市東市来町養母に太秦神社(うずまさじんじゃ)がある。御祭神は秦の始皇帝。この地はかつての薩摩国市来院(いちきいん)のうち。古くから市来院を領した市来氏の氏神であったという。

 

 

静かな山里に

鹿児島県道305号から細い道を一本入ったところに、注連柱があらわれる。ここが参道口だ。神社の前には車を停めるスペースはない。県道のちょっと広くなったところに停めてお参りする。

 

注連柱をくぐる。ここを境に空気が変わるような気もする。

 

参道口

 

石段はけっこう急である。ここを登り切ると社殿がある。

 

太秦神社

昇る

 

太秦神社

登って振り返る

 

社殿は比較的新しい。中のほうに祭壇が見える。

 

太秦神社

社殿がある

 

社殿の中

祭壇に「太秦神社」の額も

 

境内はよく手入れされている。地域で大切にされていることがうかがえる。

 

 

太秦から勧請

山城国の太秦(京都市右京区太秦)から市来氏が勧請したとされる。始皇帝を祀っているところから考えると、たぶん大酒神社(おおさけじんじゃ)から分霊を遷したのだろう。勧請年ははっきりしないが、宝亀年間(770年~781年)に市来氏の祖がこの地に入ったときにも持ち込んだとも伝わる。

 

市来氏は大蔵政房(おおくらまさふさ)が市来院の院司として下向したのが始まりとされる。この大蔵氏の出自は不明。また、宝亀年間(770年~781年)というのはさすがに時代が古く、一族の歴史の長さをだいぶ古く見せているような印象も受ける。ただ、市来氏は薩摩国に古くから土着していたと考えられる。

大蔵氏には東漢(やまとのあや)氏の系統と秦(はた)氏の系統があるとされる。ともに渡来系氏族で、東漢氏は後漢霊帝の後裔を、秦氏は秦の始皇帝の後裔をそれぞれ称している。

 

大酒神社は秦氏の氏神で、秦始皇帝を祭る。ほかに弓月君(ゆづきのきみ)と秦酒公(はたのさけのきみ)もあわせて祭る。弓月君は応神天皇の時代に渡来したとされる人物で、秦氏の祖とされる。また、秦酒公は雄略天皇に重用された人物とされる。秦酒公は「大蔵」の職を任されたとも。

秦の始皇帝を氏神とするということは、市来氏は秦氏系の大蔵氏と考えるのが自然だろう。

 

 

薩摩大隅の大蔵氏は東漢氏系とされるけど

大蔵氏は古くから南九州で繁栄していたと考えられる。市来院のほか、満家院(みつえいん、鹿児島市郡山町)や大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)にも大蔵氏が根付く。それぞれに、市来院の大蔵氏は市来氏を名乗り、満家院の大蔵氏は比志島(ひしじま)氏を名乗り、加治木の大蔵氏は加治木氏を名乗るようになる。また、薩摩郡延時(のぶとき、鹿児島県薩摩川内市の川内地区)を領した延時氏も大蔵氏であるという。

 

薩摩・大隅の大蔵氏は、東漢氏(やまとのあやうじ)の後裔だと見られている。江戸時代以前の編纂物でも、この説をとっているものがほとんどだ。これが基準とされて「大蔵氏は東漢氏の後裔」とするのが定説となっている。

九州北部では、原田氏・秋月氏・田尻氏・高橋氏などが大蔵氏の後裔を称する。これらは大蔵春実(おおくらはるざね)を祖とする。大蔵春実は藤原純友の反乱の平定で活躍し、その戦功により大宰大弐に任官。大蔵氏の一族は大宰府官人として九州に根付く。

 

南九州の大蔵氏も、大蔵春実の系統である可能性はある。大宰府から赴任して郡司化した、と考えることもできる。しかしながら、南九州の大蔵氏は系図で大蔵春実の後裔をうたっていない。大蔵春実は九州ではそれなりにブランド力のある武人だ。言わないということは、大蔵春実とは別系統の大蔵氏なのでは? ……という気もする。

 

 

大蔵姓から惟宗姓へ

13世紀に市来氏は大蔵姓から惟宗(これむね)姓に改姓する。市来院司の大蔵氏は男子が途絶え、国分友成(こくぶんともなり)の子に市来院を譲る。この子の母は大蔵氏から嫁いでいる。その人物は市来政家(いちきまさいえ)と名乗った。そして、国分氏の惟宗姓を称した。

国分氏は惟宗姓執印(しゅういん)氏の分家である。執印氏は新田八幡宮の執印職を世襲する。執印氏初代の惟宗康友(執印康友)の次男の友久が、薩摩国分寺の留守職に任じられて「国分」を家号とした。その国分友久の子が国分友成で、その子が市来政家とつながる。

 

なお、島津氏ももともとは惟宗姓を称している。惟宗忠久が島津院の地頭に任じられたことから「島津」を名乗るようになった。島津氏と執印氏との関係はよくわからない。

 

 

島津氏との系図相論

弘安2年(1279年)より、市来政家は島津氏との系図相論をしたとされる。そのことが『酒匂安国寺申状』という史料に出てくる。その頃の島津氏当主は3代目の島津久経(ひさつね)である。薩摩国へは弟の島津久時(阿蘇谷久時)を守護代として派遣していた。

この島津久時の横暴に対して、市来政家が「島津も我々ももとは同じ一族なのに」というような訴えを起こす。市来氏からは島津氏と同族であるという系図を幕府に提出。一方で島津氏も別系統だと主張する。この相論がどう決着したのかは伝わっていない。

 

 

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丹後局の伝説

市来には丹後局の伝説があちこちに残っている。丹後局は惟宗忠久(島津忠久)の母とされる。晩年に薩摩国の市来に移り住み、こちらで暮らしというのである。その夫とされる惟宗広言もいっしょにやってきた、とか。惟宗広言は惟宗忠久(島津忠久)の養父とも実父とも伝わる。市来氏が住んだとされる鍋ヶ城跡には「惟宗広言の墓」と伝わるものがあったり、市来氏の菩提寺だった弥陀山来迎寺跡には「丹後局の墓」と伝わるものもあったりする。

これらの伝承は、市来氏により作り上げられたものという印象もある。「市来氏は惟宗氏だ」って、島津氏に対抗したのではないのか?

 

太秦神社を氏神としたのもそんな流れからのもので、惟宗姓を強調するためだったとも考えられそうにも思う。

 

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徐福伝説

市来や串木野には徐福伝説もある。徐福(じょふく)は秦の方士で、名は徐市(じょふつ)とも。始皇帝により、不老長寿の霊薬を探すために東方に派遣されたのだという。そのことは『史記』や『後漢書』に記される。

日本の各地に徐福伝説があるが、いずれも事実とは考えられない。一方で、この伝説は秦氏との関連性もうかがえる。秦氏の動きに伝説が重ねられたものっぽいのだ。薩摩に秦氏がやって来たということもあったのかも。

「市来」という地名も徐福伝説を連想させられる。「徐市が来た」と。

 

 

南九州の大蔵氏は秦氏系か?

南九州に根付いた大蔵氏は、東漢氏系ではなくて秦氏系だったのではないのか? 市来氏の周辺を見ていくとそんな気もしてくるのである。島津氏との系図相論でムキになったり、惟宗姓へのこだわりが見えたり、といったところからもそんな印象を受ける。

 

市来氏が秦氏系と仮定すると、いろいろなところがしっくりくるように思う。次のような想像も……。

薩摩には秦氏が根付いた。大蔵氏は土地を名乗りとして市来氏や比志島氏や延時氏に。また、のちに執印氏を名乗る惟宗氏も、もともとは大蔵氏の近縁だった。そして「島津」を名乗ることとなる惟宗氏も、薩摩に地盤を持っていたのかもしれない。

……と。あくまでも想像であるが。


市来養母の太秦神社の存在は、いろいろな可能性を示唆しているように思う。

 

 

 

 

 

<参考資料>
『東市来町郷土誌』
編/四元幸夫 発行/東市来町教育委員会 1988年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 発行/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集6『諸家大慨・別本諸家大慨・職掌紀原・御家譜』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1966年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 家わけ九』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 2002年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 家わけ六』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1996年

『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』
編訳/石原道博 発行/岩波書店 1951年

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