ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

日新寺跡(竹田神社)・常潤院跡にいってみた、島津忠良ゆかりの地

戦国島津氏は島津忠良(しまづただよし、島津日新斎、じっしんさい)にはじまる。もともとは分家のひとつの相州家の当主であったが、嫡男の島津貴久を本宗家の後継者に擁立する。そして、一族間の抗争を勝ち抜いて覇権を握った。

島津忠良(島津日新斎)は薩摩国加世田(かせだ、鹿児島県南さつま市加世田)を隠居所と定め、ここで晩年を過ごした。天文21年(1552年)頃に保泉寺(ほせんじ)境内に常潤院(じょうじゅんいん)を設けて学問所にしたのだという。島津忠良は永禄12年(1568年)に没し、墓所は常潤院にある。また、永禄7年に荒廃していた保泉寺を再興して菩提寺とし、島津忠良の死後に日新寺(じっしんじ)と改称されている。

日新寺は明治2年(1869年)に廃仏毀釈運動により廃寺となり、跡地には明治6年(1873年)に島津忠良を御祭神とする竹田神社が創建されている。

 


日新寺の面影を残す竹田神社

竹田神社は加世田市街地のやや南のほうに鎮座する。国道270号沿いにあって、迷わずに行けると思う。

現在の社殿は大正5年(1916年)に改築されたものだが、境内にはもとの日新寺の雰囲気がよく残っているようだ。『三国名勝図会』の「日新寺」絵図と比較しても、境内の形状はほぼそのままである。建物の配置なども、けっこう近いかな。

寺院の絵図

『三国名勝図会』より「日新寺」(国立国会図書館デジタルコレクション)

石橋と鳥居の向こうに社殿が見える

参道の入口、絵図の右下あたりか

石造りの鳥居を抜けて境内へ

竹田神社入口、絵図では山門のあたりか

 

ちなみに保泉寺(日新寺)は、文明12年(1480年)に島津国久(しまづくにひさ)が開山したもの。島津国久は分家の薩州家(さっしゅうけ)の2代当主である。

本殿の裏手のほうには島津尚久(なおひさ)の墓がある。島津尚久は忠良の三男で、父や兄に従って各地を転戦した。また、すぐ近くには天文8年(1538年)の別府城(べっぷじょう、加世田城)攻めで戦死した冨松左京(とみまつさきょう)の墓もある。

古い石造りの墓所

島津尚久の墓、その背後のほうに冨松左京の墓

 


いにしへの道

竹田神社の脇から遊歩道がのびていて、こちらから常潤院跡に向かう。遊歩道は「いにしへの道」と名付けられていて、道中には島津忠良が作った『いろは歌』の47首の歌碑がある。

森の中の遊歩道

いにしへの道

『いろは歌』は教育的な内容となっていて、人としてどうあるべきか、どう行動するべきかを訓導するものである。歌にすることで、わかりやすく覚えやすくしている。例えば、こんな感じである。


いにしへの道を聞きても唱えても
わが行ひにぜずばかひなし

 

無勢とて敵を侮ることなかれ
多勢をみても恐るべからず

 

心こそ軍(いくさ)する身の命なれ
そろふれば生き揃はねば死す

 

道にただ身をば捨てんと思ひとれ
必ず天の助けあるべし

 

「いにしへの」の歌碑

こんな歌碑が47基ある


『いろは歌』の教えは、孫の島津義久(よしひさ)・義弘(よしひろ)・歳久(としひさ)・家久(いえひさ)をはじめ、島津家中の者たちに大きな影響を与えた。また、江戸時代に入っても鹿児島藩(薩摩藩)の教育に取り入れられた。さらには現在にも受け継がれ、鹿児島県内では学校教育でこの『いろは歌』に触れる。

 

 

常潤院跡を歩く

「いにしへの道」を抜けると、仁王像が見える。こちらが常潤院の山門跡である。現地説明看板によると、仁王像は昭和57年(1982年)にこの場所から30mほど離れた場所で発掘されたとのこと。「享和3年(1803年)寄進」の刻字がある。

森の中の古寺跡に仁王像

常潤院の門跡と仁王像

石造りの仁王像

仁王像をよりめで

 

島津忠良は常潤院に「愚谷軒(ぐこくけん)」という庵をつくり、僧たちとともに仏典や儒学の研究を行ったという。また、みずからの法号を「愚谷軒日新斎(ぐこくけんじっしんさい)」としている。そして、常潤院には島津忠良の御影堂(影像を安置する)も置かれ、死後には墓所も設けられたのである。廃仏毀釈で寺院はだいぶ破壊されているが、史跡公園として整備されている。

古寺跡の石造物群

山門跡をくぐって中へ

奥へと入っていく。3基の祭壇見える。いちばん奥が島津忠良の墓所である。その手前が妻の寛庭芳宥大姉(かんていほうゆうたいし、寛庭夫人)の墓である。さらに手前の墓は、殉死した井尻神力坊(いじりじんりきぼう、井尻宗憲、そうけん)のもの。

立派な祭壇

島津日新公の墓所

墓所が2基ならぶ

左が夫人の墓、右が神力坊の墓

 

このあたりが御影堂跡にあたるそうだ。海軍大将の樺山資紀(かばやますけのり)の揮毫による島津忠良の顕彰碑もある。

古寺跡の石橋など

寺院の痕跡、奥が御影堂跡

 

島津忠良の生涯、南九州の覇権を掴む

明応元年(1492年)、島津忠良は薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上)に生まれた。幼名を菊三郎という。もともとは伊作(いざく)氏の出身である。父は伊作善久(いざくよしひさ)、母は新納是久(にいろこれひさ)の娘。母の名は常盤(ときわ)とも伝わる。

伊作氏は島津氏の支族で、その始まりは13世紀までさかのぼる。島津久経(ひさつね、宗家3代当主)の三男の島津久長(ひさなが)が、伊作荘(いざくのしょう)の地頭に任じられたことにはじまる。島津久長は蒙古襲来の際にも従軍している。

 

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菊三郎は伊作氏の10代目にあたるが、血統的には本宗家とはもうちょっと近い。祖父の伊作久逸(いざくひさやす)は島津忠国(ただくに、宗家9代当主)の三男で、伊作氏に養子入りしている。菊三郎も4代さかのぼれば、本宗家につながるのである。

この頃、伊作氏は島津氏分家の薩州家(さっしゅうけ)と争っていた。薩州家は薩摩国北部の出水(いずみ、鹿児島県出水市)を本拠地とするが、薩摩国南部でも加世田を拠点に広大な所領を持っていた。

菊三郎が2歳のときに父の善久が馬丁に殺害されるという事件が起こる(暗殺か)。さらに、明応9年(1500年)に伊作久逸が加世田で戦死。菊三郎はまだ幼く、母の常盤が伊作城(いざくじょう)を守ることとなった。

伊作氏は相州家(そうしゅうけ)の島津運久(しまづゆきひさ)の支援を受ける。相州家もまた島津氏の分家で、伊作に隣接する田布施(たぶせ、鹿児島県南さつま市金峰)を領有していた。相州家初代の島津友久(ともひさ、忠国の長男)は伊作久逸の兄にあたる。

その後、常盤は島津運久と再婚する。そして、菊三郎は相州家の後継者となった。永正9年(1509年)に家督を譲られ、「島津相模守忠良」と名乗るようになった。

【関連記事】戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(8)守護支配の崩壊、乱世に島津忠良が誕生

 

16世紀初め頃の南九州は島津本宗家の力が弱く、領内の有力者がそれぞれ勝手に勢力争いをするような状況だった。乱世である。そんな中で、分家の薩州家と相州家が台頭する。

大永6年(1526年)、島津本宗家に動きがある。島津忠良嫡男の虎寿丸が、14代当主の島津忠兼(ただかね)の後継者に擁立される。虎寿丸は元服して、島津貴久(たかひさ)と名乗り、島津宗家の守護所である鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市清水町)に入った。翌年には島津忠兼は隠居し、鹿児島を離れた(追放された)。島津忠良は新当主の後見として、実権を握ったのである

『島津国史』や『島津世家』などの島津氏編纂の歴史書では、強く請われてのこと(禅譲)と伝えている。だが、実際のところは島津忠良が国老らと共謀して政権簒奪に動いたものだろう。

 

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一方、出し抜かれた形となった薩州家もすぐに動く。大永7年、島津忠良が出征している隙をついて、薩州家が鹿児島を襲う。島津貴久は清水城を脱出し、なんとか田布施に逃げ延びた。また、薩州家は隠居していた島津忠兼に使者を送って守護復帰を促す。島津忠兼は鹿児島に戻った。島津忠良・島津貴久は政権の座から失脚する。

その後は、守護の島津勝久(かつひさ、忠兼から改名)が政権を取り戻す。また、薩州家の島津実久(さねひさ)もこれを支える体制となった。薩州家が主導権を握ったのである。

【関連記事】戦国時代の南九州、激動の16世紀(2)薩州家の急襲、島津勝久の心変わり

 

島津忠良・島津貴久は反撃に転じ、奪われていた城を回復してく。大永7年(1527年)に伊作城(いざくじょう、日置市吹上町中原)、天文2年(1533年)に南郷城(なんごうじょう、日置市吹上町永吉)を奪還する。

天文4年(1535年)、鹿児島では島津勝久と島津実久(薩州家)が対立する。島津実久は国老衆と手を組んで軍事行動を起こし、島津勝久方を破る。島津勝久は鹿児島を出奔した。これにより、島津実久が実権を握った。守護職についたとも考えられている。

守護の座を追われた島津勝久は、今度は島津忠良(相州家)と連携をとろうとする。島津忠良・島津貴久はこれに応じ、島津実久(薩州家)を攻めた。天文5年(1536年)には伊集院の一宇治城(いちうじじょう、日置市伊集院)を攻め取る。翌年には伊集院一帯を制圧する。さらには鹿児島へも侵攻し、島津実久の軍を破る。天文6年(1537年)には鹿児島を奪還し、清水城に入った。

【関連記事】戦国時代の南九州、激動の16世紀(3)島津忠良の逆襲

 

島津勝久は島津忠良(相州家)の鹿児島入りを喜んだ。このあと自身が鹿児島に戻るつもりであったのだろう。しかし、そうはならなかった。

主導権を奪った相州家と、追い落とされた薩州家の抗争はなおも続く。天文7年12月(1539年1月)に島津忠良は加世田を攻める。天文8年1月に別府城(べっぷじょう)を落とし、加世田の地を奪う。

城跡にある城址碑

別府城跡、竹田神社のすぐ近く

 

同年3月、島津貴久は鹿児島に兵を進めて薩州家方の谷山(たにやま、鹿児島市の谷山地区)を攻撃。紫原(むらさきばる、鹿児島市紫原)での合戦に勝利し、谷山を攻略する。同じ頃に島津忠良は河邊(かわなべ、鹿児島県南九州市川辺)を攻め、こちらも制圧する。さらには、鹿籠(かご、枕崎市)・市来(いちき、市来城がある場所は日置市東市来)・串木野(くしきの、いちき串木野市)を制圧。

島津忠良・島津貴久は薩摩国中南部を支配下に入れた。そして、島津貴久が実質的に当主の座についたのである。

【関連記事】戦国時代の南九州、激動の16世紀(4)相州家の復権、島津忠良・島津貴久は南薩摩を平定

 

その後も島津忠良は最前線で采配を振るうが、天文19年(1551年)頃には第一線から身を引いて、加世田の別府城で隠居生活に入ったようだ。ただ、依然として影響力は大きかったと思われる。天文23年(1554年)に岩剣城(いわつるぎじょう、鹿児島県姶良市)攻めで陣中を訪れたり、永禄11年(1568年)に大口城(おおくちじょう、伊佐市大口)攻めで苦戦していると和睦の指示を出したりと、ちょこちょこ口を出している。

永禄11年(1568年)12月13日、島津忠良は保泉寺(日新寺)で没した。

 

 

「聖君」だったのか?

島津忠良は「聖君」といわれたりする。実際にはどうだったのだろうか? 分家の身から実力で島津本宗家の実権を手にした。策略を仕掛けたり、陰謀めいたこともやっていたはずである。また、権力抗争の過程を見ると、簒奪者は薩州家の島津実久ではなく、どちらかといえば相州家の島津忠良のほうである感じもするのだ。

勝者となった島津貴久の正統性を示すために、島津忠良の「聖君」のイメージは強調されていることだろう。都合の悪い事実はなかったことにされ、捻じ曲げられてしまったこともあると思う。

その一方で、島津忠良は加世田でものすごく敬慕されている、という事実もある。

かつては「日新寺詣り」という行事もあった。島津忠良の命日に、若者たちが甲冑を着込んで参拝するというものである。「妙円寺詣り」「心岳寺詣り」とともに、鹿児島三大詣りのひとつに数えられていた。

 

 

 

 


<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集37『島津世禄記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1996年

鹿児島県史料集37『島津世家』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1997年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集27『明赫記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1986年

鹿児島県史料集35『樺山玄佐自記並雑 樺山紹剣自記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1995年

『島津日新公いろは歌』
著/高城書房編集部 発行/高城書房 2000年

『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

ほか