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加治木の長年寺跡、山号の「松齢山」は島津義弘の法名から

大隅国加治木(かじき)に松齢山長年寺(しょうれいざんちょうねんじ)という寺院があった。現在の鹿児島県姶良市加治木町木田のあたりだ。ここは加治木島津家の菩提寺。寺院跡には墓所が残っている。国史跡にも指定されている。

ちなみに山号の「松齢山」は、島津義弘(しまづよしひろ)の法名「松齢自貞庵主」から。

 

 

 

 

 

島津義弘の位牌を置く

もともとは「鳳凰山大樹寺」(「大寿寺」とも)と号し、加治木城(かじきじょう、姶良市加治木町反土)の東麓にあったという。

島津義弘は慶長12年(1607年)より加治木館(姶良市加治木町仮屋町)に住み、ここで晩年を過ごした。加治木に入った際に大樹寺に禄高などを寄進している。

その後、島津家久(いえひさ、島津忠恒、ただつね)は、父の島津義弘(法名は「松齢自貞庵主」)と母の実窓夫人(じっそうふじん、法名は「実窓芳真大姉」)の位牌を大樹寺に置いた。また、島津家久(島津忠恒)の早世した3人の娘の位牌も置いた。これらの位牌は、実窓寺(場所は加治木の実窓寺公園のあたり)より移された。

大樹寺は参詣するには不便だったことと、加治木館から鬼門の位置にあるのもよくないということで、移転することに。寛永14年(1637年)に現在地に移す。さらに寛文9年(1669年)に「松齢山長年寺」と寺号を改めた。

 

大樹寺の由緒はよくわからず。天福寺(てんぷくじ、鹿児島県姶良市鍋倉)の末寺であったという。「長年寺」と改号するにあたり、島津家の菩提寺である福昌寺(ふくしょうじ、鹿児島市池之上町)の末寺とした。

 

加治木館跡についてはこちらの記事にて。

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島津義弘についてはこちら。

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加治木島津家の菩提寺

島津義弘の遺領は、寛永8年(1631年)に島津忠朗(ただあき)が継承。これが加治木島津家の始まりである。島津忠朗は島津家久(島津忠恒)の三男で、島津義弘の孫にあたる。

 

加治木家は島津氏の「御一門」のひとつ。「御一門」は本家に後継者がいない場合に、当主を出せる家柄でもある。実際に加治木家4代当主の島津久門(ひさかど)は、本家を継ぐ。7代藩主につき島津重年と名乗った。

島津重年は5代藩主の島津継豊(つぐとよ)の次男で、加治木家に養子として入っていた。兄が早世したことから本家に戻る。

 

一方、加治木家には知覧島津家から養子が入る。その後も家老を出すなど、加治木家は島津家中でも重きをなした。

 

宝暦5年(1755年)に完工となった木曽三川工事は、島津重年の治世下のことであった。同年に島津重年は26歳の若さで没している。

そのあとは島津重年の長男が藩主に。島津重豪(しげひで)と名乗った。こちらも父とともに加治木家から本家に入っている。

 

島津重豪は「蘭癖大名」の代表格としても知られる。西洋の科学技術に目を向け、藩政にも取り入れた。また、多方面にわたって積極的な政策を打つ。産業振興をはかり、領内の治水事業・開田事業をガンガン進めた。文化事業においても、鹿児島に天文学や暦学を研究する「明時館」、医師を養成する「医学院」などを設立。ほかに歴史書・地誌などの編纂も行わせる。藩校の造士館・演武館も設置し、藩士の教育にも力を入れた。

また、島津重豪は娘を徳川家の御台所に送り込んだ。初名を於篤(おあつ、篤姫)といい、落飾したのちは広大院と称する。篤姫というと幕末の頃の天璋院(てんしょういん)がよく知られているが、姫の名前をはじめ前例にならった部分もかなりある。

幕末期には薩摩藩は雄藩となる。そうなったのには、島津重豪の治世も大きく影響している。

 

 

長年寺の墓地へ

長年寺跡は宅地になっていて墓地のみが残っている。

住宅地の細い道をいくと「国史跡 鹿児島島津家墓所 加治木島津家墓所(長年寺墓地)」の看板がある。ここから入っていく。坂の上はけっこう広く、車を置けるくらいのスペースはある。

 

案内看板

看板のところから入る

 

墓地の入口。ここを登る。墓地周辺には遺構が残っている。

 

寺院跡の入口

道路脇から参道へ

石段と石垣

石段を登る

 

石段や石垣も江戸時代のものだろうか。城の虎口のようになっている入口から壇上へ。入口近くには大きな三重層塔もある。

 

石造物が並ぶ

大きな三重層塔

 

加治木島津家に関わる墓が並ぶ。大きくて立派なものが多い。手前にあるのが加治木家2代の島津久薫(ひさただ)とその妻の墓。

 

立派な墓石群

玉垣の中に島津久薫夫妻の墓

 

こちらは島津久連とその妻の墓。娘の墓もある。島津久連は加治木家3代の島津久季(ひさすえ)の長男。4代目には藩主の子である島津久門(島津重年)が入り、島津久連は家督を継いでいない。

 

墓石群

写真右が島津久連の墓

 

『三国名勝図会』には絵図も掲載されている。こちらを見ると規模の大きな寺院だったことがわかる。現在の墓地が残っているあたりは、境内のほんの一部という感じだ。


また、山の中腹にあって、龍門滝(ちゅうもんだき)・蔵王岳(ざおうだけ)・黒川岬(くろかわみさき)をのぞむ。景勝の地であったという。

長年寺の絵図

『三国名勝図会』巻之三十七より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

『三国名勝図会』についてはこちらの記事にて。

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島津都美の墓と亀趺碑

墓地の真ん中のあたりに亀趺碑(きふひ)がある。そして、その横には島津都美(とみ)の墓も並ぶ。

 

墓石群

島津都美の墓と供養碑

 

島津都美は島津重豪の母である。没年は延享2年(1745年)。島津重豪を産んで、その日に亡くなった。法名は「正覚院殿貞範妙雅大姉」。

亀趺碑は安永6年(1777年)の島津都美の三十三回忌で、島津重豪が建立した供養碑である。台座が亀をかたどったもので、地元では「亀墓」「カメカンサァ」とも呼ばれる。この碑らしきものが『三国名勝図会』の絵図の中にも描かれている。

 

亀が石碑を背負う

亀趺碑

 

石の亀

土台の亀



 

椿窓院殿供養塔

長年寺墓地には「椿窓院殿供養塔」なるものもある。椿窓院(ちんそういん)とは島津忠良の三女である。「御西」という名も伝わっている。

 

御西の供養塔である

椿窓院殿供養塔

 

御西は種子島時堯(たねがしまときたか)に嫁ぐが離縁。その後、加治木城主の肝付兼盛(きもつきかねもり)の継室となった。さらに、離縁して父のもとに戻り、天正11年(1583年)に薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上町)で亡くなった。

御西は肝付家で嫡男の肝付兼寛(きもつきかねひろ)を産んでいる。肝付兼寛は母の菩提を弔うために加治木の萩原寺に供養塔を建てた。法名「椿窓妙英大姉」にちなんで、寺号も「椿窓寺」と改めた。

供養塔は椿窓寺より長年寺墓地へと移され、現在に至る。

 

 


<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『加治木郷土誌』
編/加治木郷土誌編纂委員会 発行/加治木町 1966年

ほか