ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

米山薬師と総禅寺跡、岩丘の聖地と島津氏豊州家の菩提寺と

鹿児島県姶良市鍋倉のあたりは「米山(よねやま)」とも呼ばれている。この地名は「米山薬師(よねやまやくし)」に由来する。

 

『三国名勝図会』(19世紀に薩摩藩が編纂した地誌)にイイ感じの絵図もある。

絵図で見る米山薬師

『三国名勝図会』巻之三十八より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

別府川沿いに岩の丘が突き出ている。米山薬師はその上にある。川沿いの道路からは、国旗が掲げられているのが見える。そこがお堂のある場所だ。あそこへ登ってみる! 

川沿いに見える山々

米山薬師を見上げる、手前は別府川

 

写真の右手前が米山薬師。山のふもとには帖佐小学校があり、そこが『三国名勝図会』に描かれた「鎮守神社」のあたりになる。そして、学校の裏手が「総禅寺」。また、尾根伝いに左奥へいったあたりが「八幡(帖佐八幡神社、ちょうさはちまんじんじゃ)」と「平山城(ひらたまじょう)」である。

 

 

 

 

 

 

 

島津季久の菩提寺

総禅寺も米山薬師も、島津氏分家の豊州家(ほうしゅうけ)と縁が深い。

豊州家は、「豊後守」を称した島津季久(しまづすえひさ)を祖とする。この人物は、宗家8代当主の島津久豊(ひさとよ)の三男にあたる。

かつてこのあたりは、大隅国の帖佐(ちょうさ)と呼ばれていた。帖佐はもともと紀姓の平山(ひらやま)氏が領していた。享徳年間(1452年~1455年)に島津忠国(ただくに、9代当主、島津季久の兄)は帖佐に派兵。島津季久に命じて平山氏を攻めさせた。そして平山氏は降伏し、帖佐は島津季久に与えられた。

豊州家はその後、加治木(かじき、姶良市加治木)や蒲生(かもう、姶良市蒲生)にも勢力を広げる。現在の姶良市一帯を支配するようになった。

 

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総禅寺は文明年間(1469年~1487年)に島津季久により建立された。島津本宗家の菩提寺である福昌寺(ふくしょうじ、鹿児島市池之上町)の末で、宗派は曹洞宗。釈迦如来を本尊とし、福昌寺五世住持の心厳良信を開山とする。

実質的な開山は起宗守興という僧。起宗は島津季久の四男である。心厳良信を勧請して開山を譲り、起宗守興は二世住持を称した。

 

なお、豊州家は15世紀末に日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)・櫛間(くしま、宮崎県串間市)に移封となり、帖佐の地を去る。

 

 

 

謎の老人からもらった薬師像

米山薬師は起宗守興によって建立されたとされる。その始まりについては、つぎのような伝説がある(『三国名勝図会』より)。

 

起宗守興は諸国遍歴に出ているとき、越後国(現在の新潟県)の米山薬師に立ち寄った。ここで百日参籠を行っているとき、老人といっしょになった。この老人は仏師であるといい、薬師像を造って起宗守興に与えた。六寸六分(20㎝くらい)の座像であったという。「この像を国に持ち帰って寺を建立しなさい」とも告げられる。起宗守興はこの像にただならぬ雰囲気を感じた。老人に名をたずねたが、答えなかったという。その後、京の仏師に像を見せると「これは人がつくったものではないぞ」と驚く。また、この仏師も「老人が持ってきて、見せてもらったことがある」とも話した。その時期が米山薬師で百日参籠をしていた頃であった。起宗守興はますます不思議に思ったという。

謎の老人からもらった薬師像を持って、起宗守興は帖佐に戻ってきた。ちょうど越後の米山によく似た岩丘があったので、その頂上に薬師像を安置することにした。その岩丘を、「米山薬師」と号するようになった、と。

 

もともとの本尊は現存せず。ちなみに、寛延2年(1749年)に薬師堂が焼失し、寛延4年に再興されたとのこと。このときの火災で失われてしまったのかもしれない。

 

米山薬師は明治初期に廃され、米山神社として再興された。御祭神も大穴牟遅神(オオナムチノカミ)に変えられる。しかし、神社に変わったあとも「米山薬師」と呼ばれて親しまれる。のちに薬師如来像を新たにこしらえて堂宇に祀った。現在は、神仏同座となっている。

 

 

 

米山薬師にのぼる

登山口はふたつある。その一つが帖佐小学校の裏手のほうにある。道が狭くてちょっと不安になるが、行った先には駐車場がある。駐車場からすぐ登山口がある。総禅寺跡もすぐ近くだ。

米山薬師の駐車場

駐車場、写真左奥が総禅寺跡(墓地)

 

駐車場には奉拝殿がある。ここら遥拝できる。背後の鳥居から参道へ。

鳥居と祠が見える

奉拝殿と参道


鳥居をくぐって山に入る。このあたりから、なかなかの雰囲気である。

鳥居のある登山口

鳥居の向こうに石段が続く


岩山を削って作られた石段が続く。なかなかに険しい。手すりがあるので、こちらをしっかり掴んでのぼるべし。

古びた石段

足元に気をつけて

 

参拝者が踏みしめた道

掘削による石段

 

岩山の登山道

道は険しいぞ

 

石段をのぼりきると道が左右に分かれる。向かって右側に行くと米山薬師(米山神社)だ。ちなみに左側のほうにいくと、平山城跡(桜公園)まで行けるそうだ。尾根伝いに山稜の端のほうへ歩いていく。左右は崖。怖い。

山中に続く道

尾根を歩く

山中を歩く

こんなところを歩いていく

 

頂上に到着した。ここまで10分ほど。ちょっと広い空間がある。こじんまりとした拝殿があり、さらに奥には本殿がある。お詣りする。本殿のある広場近くから下っていける道がもう一本ある。こちらは、もう一つの登山口に出るのだろう。

広場に社殿がある

米山薬師の拝殿前


ここからの眺めは素晴らしい。眼下には別府川が流れる。姶良の平野が広がり、その向こうには鹿児島湾と桜島も見える。

桜島と姶良市街地

眺めがいいぞ!

 

帖佐はたびたび戦いのあった場所でもある。天文24年(1555年)には島津貴久が帖佐の祁答院良重(けどういんよししげ)を攻めた。米山薬師のふもとの別府川沿いのあたりが決戦地となった。祁答院氏は当時の平山城(帖佐本城)の城主。平山城から米山薬師は尾根で行き来できる。この場所を物見で使ったのではないだろうか。なお、この戦いは島津方が勝利した。

 

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来た道を戻る。ちょっと降りたところに井戸がある。「ほそん水(疱瘡水)」と呼ばれるものである。この水を飲んだり体につけたりするとのこと。疱瘡(天然痘)の予防や治癒に霊験があるとされる。米山薬師は「ほそんかんさぁ(疱瘡の神様)」とも呼ばれている。

 

 

総禅寺跡へ

岩丘から駐車場に戻る。つづいて総禅寺跡に向かう。総禅寺は明治時代初めに廃寺となった。現在は共同墓地となっていて、その一角に総禅寺の遺構がある。

廃寺の遺構

総禅寺跡の石塔群


玉垣に囲まれているこちらの墓塔は島津季久のものだ。

古い墓塔「島津豊後守季久の墓」

島津季久の墓


御屋地(おやじ)様の墓。御屋地様というのは島津義弘の長女である。豊州家5代の島津朝久(ともひさ)に嫁いだ。のちに島津義弘の居館であった御屋地(おやじ、帖佐館、ちょうさやかた)を譲られ、ここを居館としたことから「御屋地様」と呼ばれるようになった。

古い墓塔

御屋地さまの墓

 

島津義弘は豊州家と縁がある。永禄3年(1560年)に島津義弘は豊州家5代の島津忠親(ただちか)の養子となった。伊東義祐(いとうよしすけ)の侵攻から飫肥を守るためであった。しかし、豊州家は持ちこたえられずに伊東氏と和睦し、飫肥本城などを明け渡す。永禄5年には島津義弘との養子縁組も解消された。その後、豊州家は伊東氏に攻められてすべての領地を失った。

豊州家6代の島津朝久(忠親の子にあたる)は、のちに島津義久(よしひさ)より領地を与えられる。豊州家は領主に復帰した。島津朝久は朝鮮の戦いに従軍し、文禄2年(1593年)に陣没している。

 

島津義弘は豊州家に養子入りした際に、北郷忠孝の娘(島津忠親の姪にあたる)を妻とした。養子縁組解消の際に離縁したが、この最初の妻との間に一女をもうけた。それが、御屋地様であった。そして、のちに島津朝久に嫁いだのである。総禅寺跡には島津朝久の墓もある。

 

 

島津歳久の胴体が葬られていた

総禅寺跡には「島津金吾歳久公胴体埋葬之跡」というものもある。ここには島津歳久(しまづとしひさ、義久・義弘の弟)の胴体が埋葬されていた。現在は別の場所に改葬されている。

墓塔と記念の石柱

写真左奥のあたりに遺構がある


天正20年(1592年)、島津歳久は豊臣秀吉の命で討たれた。梅北国兼の反乱への関与を疑われてのことだった。島津歳久の首は肥前国名護屋(なごや、佐賀県唐津市)の陣にあった豊臣秀吉のもとに送られた。首実検のあと京で晒されたという。

そして残された胴体が葬られたのがここだった。石塔と祠廟を建てて位牌を安置したとされる。また、島津義久と島津義弘が話し合い、総禅寺内に小堂も建てた。釈迦の小像を島津歳久の形代として、ここに安置したとされる。

 

首のほうは、島津忠長(しまづただたけ、歳久の従兄弟にあたる)がひそかに取り戻させ、京の浄福寺(じょうふくじ)に葬られた。明治5年(1872年)、日置島津家の島津久明(しまづひさあき、歳久の後裔にあたる)によって島津歳久の首が鹿児島に戻される。総禅寺跡の胴体とあわせて、竜ヶ水の平松神社(ひらまつじんじゃ、鹿児島市吉野町)に改葬された。さらに、日置の大乗寺跡(日置島津家の菩提寺、鹿児島県日置市日吉町日置)に改葬され、現在にいたる。

 

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<参考資料>

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

ほか