境内は森の中。クスノキの巨木があり、枝葉が空を覆う。蛭兒神社(ひるこじんじゃ、蛭児神社)は鹿児島県霧島市隼人町内に鎮座する。御祭神は蛭児尊(ヒルコノミコト)。創建時期は不明。神代の頃とも伝わる。
また、このあたりの森は「なげきのもり」と呼ばれている。漢字での表記は「奈毛木神叢」「奈牙木杜」「奈気木杜」など。
ヒルコノミコトの漂着伝説
ヒルコノミコトは、イザナギノミコトとイザナミノミコトの子とされる。『日本書紀』によると、ヒルコノミコトは3歳になっても足腰が立たず、これを嘆いた父と母は天磐櫲樟船(天磐楠船、アマノイワクスブネ)にのせて海に流した。……と、そんな神話がある。
そして、ヒルコノミコトが大隅国のこの地に漂着したのだという。天磐櫲樟船は枝葉を生じて巨木となり、さらに森になった、と。それが「なげきのもり」の由来だとされる。「なげき」は父母の「嘆き」からきているとも。
なお、「ヒルコノミコトが漂着した」という伝説は日本中のあちこちにある。エビス信仰とも関わりがあるとも言われている。蛭兒神社のある場所はけっこう内陸である。海から5kmほど離れている。このあたりの平野はいわゆる扇状地である。昔はもっと海が近かった。
大隅国二之宮
大隅国一之宮は鹿児島神宮である。そして、大隅国二之宮は蛭兒神社だ。かつては「二之宮大明神」と呼ばれていた。ふたつの神社はそれほど距離が離れていない。
鹿児島神宮の参道口から水路沿いの道を北西に2㎞ほど行くと、木々に囲まれた朱色の鳥居があらわれる。そこが蛭兒神社である。道路脇に駐車場もあり、お詣りしやすい。JR日当山駅からも徒歩5分くらいの場所である。
水路沿いにあるのは二の鳥居だと思われる。参道口は東に150mほどの国道504号沿いにある。ここにも鳥居(一の鳥居か)と「蛭児神社」の看板がある。参道は東西にのびている。国道側からドラッグストアの駐車場脇を抜け、住宅街に入り、踏切のない線路を渡り、そして森に入り、水路横の鳥居にいたる、という感じだ。
『三国名勝図会』(19世紀に鹿児島藩が編纂した地誌)に絵図が掲載されている。
絵図によると、二之宮大明神の前に「市早宮」というものもあったようだ。社殿は昭和5年(1930年)に改築され、さらに平成23年(2011年)に新築造営されている。
拝殿横には古い石灯籠もあった。
『三国名勝図会』によると、社殿は寛延3年(1750年)に遷祀されているとのこと。新田開発により用水路(宮内原用水路)が整備され、水患(水害)を避けるために境内の配置が変えられたという。鳥居横には御神木。巨大なクスノキである。初夏の頃には用水路に蛍も飛ぶそうだ。
享保13年(1728年)に国分地頭の樺山久初(かばやまひさはつ)が立ち枯れた古木の空洞に若木を植え継いだという。植え継いだ木はすぐに枯れてしまったが、古木から自然と幹が伸びてきて巨木に育ったとされる。
神代の楠
『三国名勝図会』には「神代盤樟舩之神木」という「うつぼ木」が絵図入りで紹介されている。アマノイワクスブネから生じたクスノキであると伝わるものである。高さは二丈ほど(約6m)、幹まわりは七丈八尺ほど(約23m)、株まわりは九丈八尺(約30m)。牛が8頭ほど入る大きな空洞があったという。
現在、参道脇の森の中に「神代の楠」というものがある。絵図とも似ている。ただ、大きさがまったく異なる。こちらは高さ1mほど。でも、小さいながらも雰囲気はある。
「神代盤樟舩之神木」と「神代の楠」は別物のように思える。あるいは「神代盤樟舩之神木」の一部分なのかも……という可能性もなくはないかな?
和歌に詠まれた「なげきのもり」
「なげきのもり」は和歌の題材とされることも多かったようだ。『三国名勝図会』に掲載されている歌をいくつか下に記す。 ※一部、旧字体を新字体に打ち換えています。
ねぎことをさのみ聞けん杜こそ
果はなげきの森となるらめ
讃岐(安部清行の女)
『古今和歌集』より
いかにせんなげきの杜はしげれども
このまの月のかくれなきよを
橘俊宗の女
『金葉和歌集』より
おいたにてかれぬと聞しこの本の
いかでなげきの杜となるらん
清原元輔
『詞歌和歌集』より
かれにけり人のこころの秋風に
はてはなげきの杜のことの葉
藤原秀成
『新続古今和歌集』より
人しれぬなげきの杜につもりぬる
此ことのはをしらさずもかな
慈鎮(慈円)
『拾玉集』より
古のなげきの杜の名もつらし
わがねぎごとを神のみかづき
後鳥羽天皇
『夫木和歌抄』より
背後の山は隼人の城
蛭兒神社は尾根先の麓にある。その尾根のあたりは、ふるくは「笑隈(えみくま、さきくま)」と呼ばれていた。隼人族の拠点(城か)があったとも伝わる。神社から用水路に沿って南に150mくらい歩いていくと笑隈城(咲隈城)跡もある。
ここは隼人族とも関わりのある場所だったのかも? もともとあったこの土地の信仰に、日本神話の要素が重ねられたのか? そんな感じも受ける。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
ほか