ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

鹿児島神社(宇治瀬大明神)をお詣り、桜島と深く関わる鹿児島の地主神

鹿児島神社(かごしまじんじゃ)は鹿児島市草牟田に鎮座する。御神号は宇治瀬大明神(うじせだいみょうじん)。「宇治瀬様(うってさぁ)」とも呼ばれている。

由緒をたどると、かなり古い神社のようだ。ここは南九州の古代の信仰もちょっと感じられる。「鹿児島(かごしま)」という地名ともつながりがあるとか。

 

 

 

 

 

桜島沖の小島に鎮座していた

御祭神は天津日高彦火火出見命(アマツヒダカヒコホホデミノミコト)・ 豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)・ 豊玉彦命(トヨタマヒコノミコト)・ 豊受大神(トヨウケノオオカミ)。

創建は神代とされる。彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)が、トヨタマヒコノミコトの功績を讃えて鹿児島の神としたとも伝わる。

トヨタマヒコノミコトは、別名を大綿津見神(オオワタツミノカミ)ともいう。ヒコホホデミノミコトを迎え入れ、娘のトヨタマヒメノミコトを嫁がせた。そして、生まれた子がヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトであり、天皇家へとつながっていったとされる。

 

『日本三代実録』の貞観2年(860年)3月20日付けに「鹿児島神に従五位上を授ける」とある。この「鹿児島神」が鹿児島神社と考えられている。「鹿児島」とは桜島の古称とも。

 

宇治瀬大明神(鹿児島神社)は、かつて桜島沖の小島に鎮座していたそうだ。その島は「神瀬(かんぜ)」と呼ばれ、現在は灯台がある。

宮司さんによると、「宇治瀬」というのは「兎道瀬(うじせ)」からきているとのこと。御由緒書にはつぎのように書かれている。

最初の鎮座地である神瀬の小島の海瀬の様を称え、神話の因幡の白兎に始まり、古来潮路の波の穂に跳ねる兎をえがきました。その「兎道瀬」の名を以て、神様を斯うお呼びしたのでしょう。 (『鹿児島神社御由緒』より)

 

その後、鎮座地は桜島の横山(鹿児島市桜島横山町)に遷る。室町時代の頃に桜島から現在地へと遷座したとされる。海神を祀る聖地であるとともに、桜島をご神体としていたことも感じさせる。

 

 

鹿児島三社の二之宮

島津家が年始に参拝した「鹿児島三社」のひとつでもある。「一之宮」を一之宮神社(いちのみやじんじゃ、鹿児島市郡元)、「二之宮」を鹿児島神社、「三之宮」を川上天満宮(かわかみてんまんぐう、鹿児島市川上町)と定めていた。

 

下の絵図は19世紀に薩摩藩が編纂した地誌『三国名勝図会』より。現在の境内の様子は、絵図からそれほど大きくは変わっていない。ただ、周囲は田畑から住宅地になっている。

神社の絵図

『三国名勝図会』巻之三より(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

鹿児島市を流れる甲突川(こうつきがわ)の名称の由来も宇治瀬大明神(鹿児島神社)にあるとも伝わる。甲突川は「神月川」とも書いた。『三国名勝図会』によると、宇治瀬大明神(鹿児島神社)の祭式のある2月と10月を「神月」といい、そこから「神月川」の呼称につながったとしている。

 

『三国名勝図会』についてはこちら。

rekishikomugae.net

 

鹿児島三社のひとつ「一之宮神社」。

rekishikomugae.net

 

 

 

桜島を拝むような配置に

国道3号から少し脇の道に入ると行ける。こんもりとした社叢と鳥居が目に入る。広めの駐車場もあり参拝しやすい。

住宅街にある叢林

参道口

 

鳥居や石灯籠も立派だ。

鳥居と石灯籠と石段と

足を踏み入れると一気に雰囲気が変わる

石の鳥居と石段、奥に拝殿

神額には「宇治瀬大明神」

 

参道脇には水神や山神などいろいろな神様も。境内に持ち込まれて祀られたものだろう。

神社の石段

石段をのぼって参道を奥へ

龍神の柱

龍神? 由来はわからず


拝殿は山を背にした配置。この山の背後のずっと先には桜島がある。桜島に向かって参拝するような位置関係となっている。

木々に囲まれた拝殿

参拝する、拝殿前にケヤキの大木も

 

手水舎の近くには古い神額も。これは桜島横山の旧社地に立っていた鳥居のものとのこと。

神額が置かれている

旧鳥居の神額

「宇治瀬大明神」神額

文字が確認できる


「拝殿の脇も見てごらん」と宮司さんに言われて、行ってみる。そこには石鳥居の柱部分が立っている。下のほうには笠木・島木も見える。こちらも旧社地から持ってきたものとのこと。

古い石の鳥居の部位

鳥居の一部が、駐車場から見える


駐車場には大きなクスノキも。推定樹齢は約600年。幹回りは7.3mあるとのこと。

クスの巨木

御神木、枝葉が空を覆う

 

島津久風の石灯籠

参道には島津久風(しまづひさかぜ)が奉納した石灯籠が1対ある。紀年銘によると天保8年(1837年)10月のもの。

石灯篭には「天正八年」と刻まれる

島津久風は奉納

 

島津久風は日置島津家の当主で、島津斉興(しまづなりあき)のときに藩家老を務めた。ちなみに、嫡男の島津久徴(ひさなが)や五男の桂久武(かつらひさたけ)も家老となり、幕末に活躍している。

天保8年(1837年)には、薩摩国山川(やまがわ、鹿児島県指宿市山川)に異国船が現れた。「モリソン号事件」である。島津久風はこの対応を任された。幕府の異国打払令にのっとって威嚇砲撃でモリソン号を退去させている。

鹿児島神社の石灯籠は、そんな慌しい頃合いに建てられたのである。

 

 

龍が躍る石灯籠

手水舎の近くの石灯籠も存在感がある。彫りこまれた龍が、すごい躍動感なのである。獅子もいる。

彫刻がつくり込まれている

龍が彫られた石灯籠

こちらは2022年秋に境内に持ち込まれたものとのこと。もともとは鍛冶屋の屋敷跡にあったものだそうだ。石灯籠には作者の銘が刻まれている。「川﨑」と確認できるが、名前の部分は削れて不明瞭である。宮司さんによると「どうやら、製作者は川崎九兵衛っぽい」とのこと。

「川崎」と読める

石灯籠の下のほうに銘がある

 

川崎九兵衛というのは、19世紀中頃に活躍した薩摩藩の石工。甲突川五石橋などを手掛けたことで知られる岩永三五郎とも関係があり、川崎九兵衛は武之橋(甲突川五石橋のひとつ)の工事にも参加しているという。

 

 


<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

国史大系第4巻『日本三代実録』
編・発行/経済雑誌社 1897年

ほか