氏族・人物
平松神社(ひらまつじんじゃ)は鹿児島市吉野町の竜ヶ水(りゅうがみず)に鎮座する。御祭神は碧空巌岳彦命(あおぞらいずたけひこのみこと)。島津歳久(しまづとしひさ)のことである。前身を心岳寺(しんがくじ)といい、島津歳久の菩提寺であった。 島津…
戦国島津氏は島津忠良(しまづただよし、島津日新斎、じっしんさい)にはじまる。もともとは分家のひとつの相州家の当主であったが、嫡男の島津貴久を本宗家の後継者に擁立する。そして、一族間の抗争を勝ち抜いて覇権を握った。 島津忠良(島津日新斎)は薩…
宮崎県南西部から鹿児島県北東部にかけて広大な盆地が広がっている。都城盆地は南北約30km・東西約25㎞もの規模があり、2市2町(宮崎県都城市・三股町・高原町、鹿児島県曽於市)にまたがる。 この都城盆地を統治したのが、島津一族の北郷(ほんごう)氏であ…
12世紀末、惟宗忠久(これむねのただひさ)は源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国(現在の鹿児島県・宮崎県)に所領を与えられた。そして、島津荘(しまずのしょう)という広大な荘園の惣地頭に補任されたことにちなみ、「島津忠久」と名乗るようになった。こ…
大口(おおくち)は薩摩国の北辺である。肥後国・大隅国・日向国と国境を接し、幾度も激戦の地となった。 大口城(おおくちじょう)は現在の鹿児島県伊佐市大口里にある。別名に「牛山城(うしやまじょう)」「牟田口城(むたぐちじょう)」とも。中世におい…
伊作城(いざくじょう)跡へもう一度いってきた。場所は鹿児島県日置市吹上町中原。島津氏支族の伊作氏が拠点とした城だ。 ここは戦国大名としての島津氏のはじまりの場所でもある。伊作城で生まれた島津忠良(しまづただよし)は、分家の生まれでありながら…
伊作城(いざくじょう)は、鹿児島県日置市吹上町中原にある。ここは島津支族の伊作(いざく)氏の本拠地なのだが、戦国大名としての島津氏の発祥の地と言える場所だったりもする。 本丸の亀丸城跡 16世紀、一族どうしの争いを制して覇権を握ったのは島津忠…
鹿児島城(かごしまじょう)は鹿児島市城山町にある。通称を「鶴丸城(つるまるじょう)」といい、鹿児島ではこちらのほうで呼ぶ人が多い。 鹿児島城跡の大手門 江戸時代の島津(しまづ)氏の居城であり、この地で藩政を行なった。現在、城の目の前には鹿児…
南郷城(なんごうじょう)は鹿児島県日置市吹上町永吉にある山城だ。別名に永吉城(ながよしじょう)とも。ここは、天文2年(1533年)に島津忠良(しまづただよし)によって攻め落とされた。その後、守護家の島津勝久(かつひさ、島津宗家14代当主)が城の奪…
どっしりと威厳のある雰囲気の神社だ。無骨なたたずまいで、境内には静かな時間が流れている。 精矛神社(くわしほこじんじゃ)は鹿児島県姶良市加治木町日木山にある。御祭神は「精矛巖健雄命(くわしほこいづたけをのみこと)」。島津義弘(しまづよしひろ…
大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)は、島津義弘(しまづよしひろ)が晩年を過ごした地である。隠居所としたのが加治木館(かじきやかた)だ。慶長12年(1607年)から元和5年(1619年)に亡くなるまで住んでいた。 加治木館は加治木城の麓に築い…
帖佐(ちょうさ)は大隅国の西の端に位置する。場所は現在の姶良市姶良地区(旧姶良郡姶良町)のあたりだ。交通の要衝であり、薩摩国との国境にも近く、たびたび戦の舞台となった。 姶良市鍋倉にある平山城(ひらやまじょう)は帖佐を代表する山城である。別…
鹿児島県姶良市鍋倉にある「島津義弘居館跡(帖佐御屋地跡)」に行ってきた。島津義弘(しまづよしひろは)は文禄4年12月(1596年1月か)から慶長11年(1606年)にかけてこの地を居館とした。「帖佐館(ちょうさやかた)」「帖佐御治所(ちょうさごちしょ)…
建昌城(けんしょうじょう、たてまさじょう)跡は鹿児島県姶良市西餅田にある。現在、山城の南側には九州自動車道が通る。城跡の山塊は、桜島サービスエリアからも見える。 建昌城を桜島サービスエリア(上り線)より見る もともとは瓜生野城(うりうのじょ…
南九州を支配した島津氏は分家・庶家が多い。これらは宗家を支える存在であったり、あるいは敵に回って混乱をもたらす存在であったりもした。 所領にちなんだ名乗りの支族 宗家の分裂、そして増える分家 奥州家 総州家 川上氏 薩州家 豊州家 羽州家 伯州家 …
鹿児島県南九州市知覧にある知覧城(ちらんじょう)跡を訪問。シラス丘陵に築かれた山城で、浸食谷の多い地形をいかした堅固なつくりとなっている。城域は約41haと広大で、中世の山城の痕跡をよく残す。国の史跡にも指定されている。 築城年代は不明。築城者…
一宇治城(いちうじじょう)跡は鹿児島県日置市伊集院にある。別名に伊集院城(いじゅういんじょう)や鉄丸城(てつまるじょう?)など。シラス丘陵に築かれた山城で、周囲は約2.3㎞。三方が断崖で、天然の要害である。域内には神明城(しんめいじょう、本丸…
鹿児島県姶良市蒲生にある蒲生城(かもうじょう)跡にのぼってみた。標高約160mの竜ヶ山に築かれた山城で、竜ヶ城(りゅうがじょう)とも呼ばれる。竜ヶ山とは竜が爪を立て伏しているような姿からそういわれている。 蒲生城跡、西側から見上げる 『三国名勝…
南九州の歴史というと、どうしても島津(しまづ)氏ばかりが取り上げられる。というのも、薩摩国・大隅国・日向国の諸勢力を平らげた勝者だからだ。敗れた側の歴史は次第に語られなくなるものである。 中世に大隅国で繁栄した一族に、肝付(きもつき)氏があ…
志布志市志布志町帖(しぶしししぶしちょうちょう)にある志布志城(しぶしじょう)跡にのぼってみた。2021年3月某日訪問。 南北朝時代から戦国時代にかけて(14世紀~16世紀)、南九州は戦乱続きだった。そんな中で志布志城では争奪戦が展開。城主は楡井(…
鹿児島県薩摩川内市入来(いりき)にある清色城(きよしきじょう)跡にのぼってみた。訪問日は2021年2月某日。清色城は国の史跡にも指定されているため整備も行き届いている。また、山城の麓の集落(入来麓武家屋敷群、いりきふもとぶけやしきぐん)は、昔な…
鹿児島市と姶良市方面とをむすぶ国道10号の海沿いの道。平松神社(ひらまつじんじゃ)はその途中にある。ここを車で通過する際に、なんだか気になるのだ。 道路から見える平松神社のノボリ旗 天正20年7月18日(1592年8月25日)、島津歳久(しまづとしひさ)…
島津歳久(しまづとしひさ)は戦国時代に南九州で活躍した人物である。その生涯を追ってみよう。 なお、記事作成ではおもに、江戸時代に編纂された『本藩人物誌』や『西藩烈士干城録』、『島津国史』などを参考にした。 四兄弟の中で、なんだか地味な存在 戦…
鹿児島県日置市東市来にある鶴丸城(つるまるじょう)跡にのぼってきた。 市来氏と島津氏の激戦の地 城跡と寺院跡と、神社とザビエルと 市来氏歴代の墓にも寄ってみた 鶴丸城の登山道口付近 市来氏と島津氏の激戦の地 「鶴丸城」というと、鹿児島県内では鹿…
平安時代以前に薩摩・大隅で大きな勢力を誇っていた氏族をまとめる。その3回目! 大隅正八幡宮の行賢 執印(しゅういん)氏 蒲生(かもう)氏 矢上(やがみ)氏・長谷場(はせば)氏 英祢(あくね)氏 菱刈(ひしかり)氏 大隅正八幡宮の行賢 行賢は11世紀末…
薩摩国・大隅国・日向国にやってきた鎌倉武士は島津忠久(しまづただひさ)のほかにも、けっこういる。 鮫島(さめじま)氏 二階堂(にかいどう)氏 千葉(ちば)氏 渋谷(しぶや)一族 比志島(ひしじま)氏 中原親能(なかはらのちかよし) 北条(ほうじょ…
平安時代以前に薩摩・大隅で大きな勢力を誇っていた氏族をまとめる。その2回目は大隅の覇者となった一族、薩摩南部を席捲した一族について、だ。 肝付(きもつき)氏 河邊(かわなべ)一族/薩摩平氏(さつまへいし) 阿多忠景の乱 肝付(きもつき)氏 大隅…
平安時代以前に薩摩・大隅で大きな勢力を誇っていた氏族をまとめてみた。 大蔵一族 税所(さいしょ)氏 建部(たけべ)氏/禰寝(ねじめ)氏 大前氏 大蔵一族 かなり古くから土着していたと思われる。大蔵(おおくら)一族の勢力範囲は大隅国桑原郡(現在の…
薩摩住まいは3代目から? 4代目から? 島津氏初代の忠久(ただひさ)、2代目の忠時(ただとき)は鎌倉にあり、領国経営は代官に任せていた。 薩摩に島津氏が本格的に入ってくるのは、3代目の島津久経(ひさつね)からだとされる(諸説あり)。きっかけは元寇…
鎌倉時代から近世まで薩摩国・大隅国・日向国(一部)を統治した島津家。その初代の島津忠久(しまづただひさ)の足跡を、『島津国史』に沿って見ていく。 正史の島津忠久伝 島津忠久の生年について 島津忠久の下向について 正史の島津忠久伝 『島津国史』は…