ムカシノコト、ホリコムヨ。

おもに鹿児島あたりの歴史を掘りこみます

氏族・人物

南郷城跡にのぼってみた、ここでの攻防戦から島津忠良の反撃がはじまる

南郷城(なんごうじょう)は鹿児島県日置市吹上町永吉にある山城だ。別名に永吉城(ながよしじょう)とも。ここは、天文2年(1533年)に島津忠良(しまづただよし)によって攻め落とされた。その後、守護家の島津勝久(かつひさ、島津宗家14代当主)が城の奪…

精矛神社にお詣りした、戦乱を駆け抜けた島津義弘を祀る

精矛神社(くわしほこじんじゃ)は鹿児島県姶良市加治木町日木山にある。御祭神は「精矛巖健雄命(くわしほこいづたけおのみこと)」。島津義弘(しまづよしひろ)である。 精矛神社へ 島津義弘は戦国時代の名将として知られる。兵力差の不利をひっくり返し…

加治木館跡にいってきた、島津義弘の最後の居城

島津義弘(しまづよしひろ)は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いから帰還したのち一線を退く。慶長12年(1607年)に大隅国加治木(鹿児島県姶良市加治木)に移り住み、ここで最晩年を過ごした。 隠居所としたのが加治木館(かじきやかた)だ。加治木城の麓…

平山城(帖佐本城)跡にのぼってみた、島津忠良・島津貴久も攻めた激戦の地

帖佐(ちょうさ)は大隅国の西の端に位置する。場所は現在の姶良市姶良地区(旧姶良郡姶良町)のあたりだ。交通の要衝であり、薩摩国との国境にも近く、たびたび戦の舞台となった。 姶良市鍋倉にある平山城(ひらやまじょう)は帖佐を代表する山城である。別…

帖佐館跡にいってきた、関ヶ原の戦いの頃の島津義弘の居館

鹿児島県姶良市鍋倉にある「島津義弘居館跡(帖佐御屋地跡)」に行ってきた。島津義弘(しまづよしひろは)は文禄4年12月(1596年1月か)から慶長11年(1606年)にかけてこの地を居館とした。「帖佐館(ちょうさやかた)」「帖佐御治所(ちょうさごちしょ)…

建昌城(瓜生野城)跡にいってきた、島津季久が築いた豊州家の拠点

建昌城(けんしょうじょう、たてまさじょう)跡は鹿児島県姶良市西餅田にある。現在、山城の南側には九州自動車道が通る。城跡の山塊は、桜島サービスエリアからも見える。 建昌城を桜島サービスエリア(上り線)より見る もともとは瓜生野城(うりうのじょ…

中世における島津氏の分家について、まとめてみた

南九州を支配した島津氏は分家・庶家が多い。これらは宗家を支える存在であったり、あるいは敵に回って混乱をもたらす存在であったりもした。 所領にちなんだ名乗りの支族 13世紀~14世紀に成立した島津氏庶家は、当初は島津姓を名乗っていたようである。そ…

知覧城跡にのぼってみた

鹿児島県南九州市知覧にある知覧城(ちらんじょう)跡を訪問。シラス丘陵に築かれた山城で、浸食谷の多い地形をいかした堅固なつくりとなっている。城域は約41haと広大で、中世の山城の痕跡をよく残す。国の史跡にも指定されている。 築城年代は不明。築城者…

一宇治城(伊集院城)跡にのぼってきた、島津貴久の薩摩平定の拠点

一宇治城(いちうじじょう)跡は鹿児島県日置市伊集院にある。別名に伊集院城(いじゅういんじょう)や鉄丸城(てつまるじょう?)など。シラス丘陵に築かれた山城で、周囲は約2.3㎞。三方が断崖で、天然の要害である。域内には神明城(しんめいじょう、本丸…

蒲生城跡にのぼってみた、島津氏の猛攻に抵抗した堅城

鹿児島県姶良市蒲生にある蒲生城(かもうじょう)跡にのぼってみた。標高約160mの竜ヶ山に築かれた山城で、竜ヶ城(りゅうがじょう)とも呼ばれる。竜ヶ山とは竜が爪を立て伏しているような姿からそういわれている。 蒲生城跡、西側から見上げる 『三国名勝…

肝付氏のこととか、高山の歴史とか

南九州の歴史というと、どうしても島津(しまづ)氏ばかりが取り上げられる。というのも、薩摩国・大隅国・日向国の諸勢力を平らげた勝者だからだ。敗れた側の歴史は次第に語られなくなるものである。 中世に大隅国で繁栄した一族に、肝付(きもつき)氏があ…

志布志城跡にのぼってみた

志布志市志布志町帖(しぶしししぶしちょうちょう)にある志布志城(しぶしじょう)跡にのぼってみた。2021年3月某日訪問。 南北朝時代から戦国時代にかけて(14世紀~16世紀)、南九州は戦乱続きだった。そんな中で志布志城では争奪戦が展開。城主は楡井(…

清色城跡にのぼってみた

鹿児島県薩摩川内市入来(いりき)にある清色城(きよしきじょう)跡にのぼってみた。訪問日は2021年2月某日。清色城は国の史跡にも指定されているため整備も行き届いている。また、山城の麓の集落(入来麓武家屋敷群、いりきふもとぶけやしきぐん)は、昔な…

島津歳久の最期の地へ、平松神社(心岳寺跡)をお詣りしてきた

鹿児島市と姶良市方面とをむすぶ国道10号の海沿いの道。平松神社(ひらまつじんじゃ)はその途中にある。ここを車で通過する際に、なんだか気になるのだ。 道路から見える平松神社のノボリ旗 天正20年7月18日(1592年8月25日)、島津歳久(しまづとしひさ)…

島津歳久の生涯、悲劇の名将は薩摩武士が敬慕する武神となった

島津歳久(しまづとしひさ)は戦国時代に南九州で活躍した人物である。生年は天文6年(1537年)、没年は天正20年(1592年)。通称は「又六郎(またろくろう)」で、法号の「晴蓑(せいさ)」、官位の「左衛門督(さえもんのじょう)」、官位の唐名である「金…

市来の鶴丸城跡にのぼってみた

鹿児島県日置市東市来にある鶴丸城(つるまるじょう)跡にのぼってきた。 鶴丸城の登山道口付近 市来氏と島津氏の激戦の地 「鶴丸城」というと、鹿児島県内では鹿児島市にある鹿児島城を思い浮かべる人が圧倒的に多い。こちらは江戸時代の藩主の居城であり、…

薩摩・大隅に古くから住まう者たち (3) 行賢・執印氏・蒲生氏・矢上氏・長谷場氏・英祢氏・菱刈氏

平安時代以前に薩摩・大隅で大きな勢力を誇っていた氏族をまとめる。その3回目! 大隅正八幡宮の行賢 行賢は11世紀末~12世紀前半頃に大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の執印(しゅういん、神宮の管理者)だった人物。大隅正八幡宮領は寄進を集めて巨大荘園になっ…

南九州に所領を得た鎌倉御家人たち ~鮫島氏・二階堂氏・渋谷氏・比志島氏・種子島氏 ほか~

薩摩国・大隅国・日向国にやってきた鎌倉武士は島津忠久(しまづただひさ)のほかにも、けっこういる。 鮫島(さめじま)氏 鮫島宗家(さめじまむねいえ)は薩摩国阿多郡(現在の鹿児島県南さつま市)の地頭に補任され、下向したとされる。建久8年(1197年)…

薩摩・大隅に古くから住まう者たち (2) 肝付氏・河邊一族(薩摩平氏)

平安時代以前に薩摩・大隅で大きな勢力を誇っていた氏族をまとめる。その2回目は大隅の覇者となった一族、薩摩南部を席捲した一族について、だ。 肝付(きもつき)氏 大隅国肝属郡高山(こうやま、現在の肝属郡肝付町)を拠点とし、名乗りはその郡名から。肝…

薩摩・大隅に古くから住まう者たち (1) 加治木氏・市来氏・税所氏・禰寝氏(建部氏)・大前氏

平安時代以前に薩摩・大隅で大きな勢力を誇っていた氏族をまとめてみた。 大蔵一族 かなり古くから土着していたと思われる。大蔵(おおくら)一族の勢力範囲は大隅国桑原郡(現在の鹿児島県姶良市、霧島市の西部)をはじめ、薩摩国日置郡(現在の日置市・い…

鎌倉から薩摩へ、島津氏が根付く

薩摩住まいは3代目から? 島津氏初代の忠久(ただひさ)、2代目の忠時(ただとき)は鎌倉にあり、領国経営は代官に任せていた。 薩摩に島津氏が本格的に入ってくるのは、3代目の久経(ひさつね)からだとされる(諸説あり)。きっかけは元寇であった。建治元…

『島津国史』に見る島津忠久の経歴

正史の島津忠久伝 鎌倉時代から近世まで薩摩国・大隅国・日向国(一部)を統治した島津家。その初代の島津忠久(しまづただひさ)の足跡を、『島津国史』に沿って見ていく。 『島津国史』は島津家の歴史をまとめたもので、19世紀初め頃に島津重豪(しまづし…

隼人のこととか、秦氏のこととか

隼人はどこに行ったのか 大和朝廷の支配下に入った隼人の有力氏族はどうなったのか? 史料が乏しく、よくわかっていない。 なお、大隅の反乱(720年)以降に名が見える隼人の有力者としては、曾君多理志佐(そのきみたりしさ、か)がいる。天平12年(740年)…

島津忠久って何者なの?

公式発表は「源頼朝の隠し子」 島津氏初代の惟宗忠久(これむねのただひさ、島津忠久)の出自については諸説ある。確かなことはよくわかっていない。 『島津国史』という島津家の歴史をまとめた書物がある。これは島津氏第25代当主(薩摩藩第8代藩主)の島津…

そもそも「島津」って何だ?

巨大荘園を任される 現在の鹿児島県にあたる薩摩国・大隅国は、島津氏が治めていた。その期間は、12世紀末から1871年の廃藩置県まで。鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府と武家政権の時代のすべてである。 島津氏は、惟宗忠久(これむねのただひさ)を初代とする…