氏族・人物
戦国時代の肝付家というと、肝付兼続(きもつきかねつぐ)・肝付良兼(よしかね)がよく知られている。大隅国肝属郡高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町)を拠点に戦国大名化し、大隅半島の大部分を支配下に入れる。島津貴久(しまづたかひさ)・島津義久…
鹿児島市の南のほうに「喜入(きいれ)」はある。この地の南方神社(みなかたじんじゃ)は、すごく雰囲気のある場所なのだ。 ものはついでに、喜入の歴史もまとめてみた。ちなみに、かつては「給黎」と書いて「きいれ」と読んだ。これが「喜入」となったのに…
渓流沿いに川田神社(かわだじんじゃ)はある。場所は鹿児島市川田町。かつての薩摩国満家院(みつえいん)のうち。 御祭神は川田義朗(かわだよしあき)である。16世紀の人物で、島津貴久(しまづたかひさ)・島津義久(よしひさ)に仕えた。川田義朗は島津…
戦国時代の島津氏の家臣には、新納氏の名が見える。それなりに知られている人物としては新納忠元(にいろただもと)とか、新納旅庵(にいろりょあん)とか……。新納氏は島津氏の支族で、その歴史は14世紀の南北朝争乱期よりはじまる。 新納氏についてあらため…
島津義弘(しまづよしひろ)の生涯を年表風にまとめてみた。……なかなかのボリュームに。とにかく戦いが多すぎるのである。 島津義弘は、島津家15代当主の島津貴久(たかひさ)の次男である。16代当主の島津義久は兄にあたる。父と兄のもとで、島津家の軍事面…
九州を席巻しつつあった島津氏だが、天正15年(1587年)5月に豊臣秀吉に屈服した。これ以降の島津義弘(しまづよしひろ)の戦いは、豊臣政権下でのものとなる。 天正15年8月から「島津義弘」と名を改める。それまでは「島津義珍(よしまさ)」と名乗っていた…
天正6年(1578年)から天正15年(1587年)にかけて、九州の情勢は大きく動く。その中での島津義弘(しまづよしひろ)の戦いぶりをたどる。 九州では島津・大友(おおとも)・龍造寺(りゅうぞうじ)の3つの勢力がしのぎを削る。島津氏はこの争いを制し、九州…
島津義弘(しまづよしひろ)は「武」のイメージが強い人物だ。その生涯は、戦いに次ぐ戦いであった。初陣は天文23年(1554年)の岩剣城の戦い。最後は慶長5年(1600年)の関ヶ原。戦いの記録は半世紀近くにもわたる。 その戦歴をまとめてみた。まずは青年期…
南九州の歴史を見ていくと、肝付(きもつき)一族の存在感がすごく大きいのだ。その歴史はかなり古い。 支流氏族もかなりある。萩原(はぎわら)・安楽(あんらく)・和泉(いずみ)・梅北(うめきた)・救仁郷(くにごう)・北原(きたはら)・川路(かわじ…
天正6年(1578年)、島津(しまづ)と大友(おおとも)がぶつかった! 場所は日向国の高城川原(たかじょうがわら)。現在の宮崎県児湯郡木城町高城の一帯である。両軍ともに数万の兵を動員する大合戦。「高城川の戦い」「高城川原の戦い」「高城合戦」、あ…
大友(おおとも)氏は豊後国・豊前国(現在の大分県)を拠点に九州北部に君臨した一族である。その歴史は、建久7年(1196年)に大友能直(おおともよしなお)がこの両国の守護に任じられたことに始まる。 大友氏の出自はよくわからない。でも、調べていくと…
中世の南九州の歴史は、島津氏と伊東氏の抗争の歴史でもある。当ブログではおもに島津氏について記事を展開しているが、伊東氏のことももうちょっと知りたいのである。そんなわけで、伊東氏の歴史をまとめてみた、とくに島津との関りについて焦点を当てて。 …
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける脱出劇というと、島津義弘(しまづよしひろ)がよく知られている。美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)から国許の南九州まで、長い道のりを生還した。 関ヶ原から南九州まで落ちのびた大名がもうひとりいる…
平松神社(ひらまつじんじゃ)は鹿児島市吉野町の竜ヶ水(りゅうがみず)に鎮座する。御祭神は碧空巌岳彦命(あおぞらいずたけひこのみこと)。島津歳久(しまづとしひさ)のことである。前身を心岳寺(しんがくじ)といい、島津歳久の菩提寺であった。 島津…
戦国島津氏は島津忠良(しまづただよし、島津日新斎、じっしんさい)にはじまる。もともとは分家のひとつの相州家の当主であったが、嫡男の島津貴久を本宗家の後継者に擁立する。そして、一族間の抗争を勝ち抜いて覇権を握った。 島津忠良(島津日新斎)は薩…
宮崎県南西部から鹿児島県北東部にかけて広大な盆地が広がっている。都城盆地は南北約30km・東西約25㎞もの規模があり、2市2町(宮崎県都城市・三股町・高原町、鹿児島県曽於市)にまたがる。 この都城盆地を統治したのが、島津一族の北郷(ほんごう)氏であ…
12世紀末、惟宗忠久(これむねのただひさ)は源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国(現在の鹿児島県・宮崎県)に所領を与えられた。そして、島津荘(しまずのしょう)という広大な荘園の惣地頭に補任されたことにちなみ、「島津忠久」と名乗るようになった。こ…
大口(おおくち)は薩摩国の北辺である。肥後国・大隅国・日向国と国境を接し、幾度も激戦の地となった。 大口城(おおくちじょう)は現在の鹿児島県伊佐市大口里にある。別名に「牛山城(うしやまじょう)」「牟田口城(むたぐちじょう)」とも。中世におい…
伊作城(いざくじょう)跡へもう一度いってきた。場所は鹿児島県日置市吹上町中原。島津氏支族の伊作氏が拠点とした城だ。 ここは戦国大名としての島津氏のはじまりの場所でもある。伊作城で生まれた島津忠良(しまづただよし)は、分家の生まれでありながら…
伊作城(いざくじょう)は、鹿児島県日置市吹上町中原にある。ここは島津支族の伊作(いざく)氏の本拠地なのだが、戦国大名としての島津氏の発祥の地と言える場所だったりもする。 本丸の亀丸城跡 16世紀、一族どうしの争いを制して覇権を握ったのは島津忠…
鹿児島城(かごしまじょう)は鹿児島市城山町にある。通称を「鶴丸城(つるまるじょう)」といい、鹿児島ではこちらのほうで呼ぶ人が多い。 鹿児島城跡の大手門 江戸時代の島津(しまづ)氏の居城であり、この地で藩政を行なった。現在、城の目の前には鹿児…
南郷城(なんごうじょう)は鹿児島県日置市吹上町永吉にある山城だ。別名に永吉城(ながよしじょう)とも。ここは、天文2年(1533年)に島津忠良(しまづただよし)によって攻め落とされた。その後、守護家の島津勝久(かつひさ、島津宗家14代当主)が城の奪…
どっしりと威厳のある雰囲気の神社だ。無骨なたたずまいで、境内には静かな時間が流れている。 精矛神社(くわしほこじんじゃ)は鹿児島県姶良市加治木町日木山にある。御祭神は「精矛巌健雄命(クワシホコイヅタケヲノミコト)」。島津義弘(しまづよしひろ…
大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)は、島津義弘(しまづよしひろ)が晩年を過ごした地である。隠居所としたのが加治木館(かじきやかた)だ。慶長12年(1607年)から元和5年(1619年)に亡くなるまで住んでいた。 加治木館は加治木城の麓に築い…
帖佐(ちょうさ)は大隅国の西の端に位置する。場所は現在の姶良市姶良地区(旧姶良郡姶良町)のあたりだ。交通の要衝であり、薩摩国との国境にも近く、たびたび戦の舞台となった。 姶良市鍋倉にある平山城(ひらやまじょう)は帖佐を代表する山城である。別…
鹿児島県姶良市鍋倉にある「島津義弘居館跡(帖佐御屋地跡)」に行ってきた。島津義弘(しまづよしひろは)は文禄4年12月(1596年1月か)から慶長11年(1606年)にかけてこの地を居館とした。「帖佐館(ちょうさやかた)」「帖佐御治所(ちょうさごちしょ)…
建昌城(けんしょうじょう、たてまさじょう)跡は鹿児島県姶良市西餅田にある。現在、山城の南側には九州自動車道が通る。城跡の山塊は、桜島サービスエリアからも見える。 建昌城を桜島サービスエリア(上り線)より見る もともとは瓜生野城(うりうのじょ…
南九州を支配した島津氏は分家・庶家が多い。これらは宗家を支える存在であったり、あるいは敵に回って混乱をもたらす存在であったりもした。14世紀から15世紀に成立した島津氏の一門家について、それぞれまとめてみた。 所領にちなんだ名乗りの支族 宗家の…
鹿児島県南九州市知覧にある知覧城(ちらんじょう)跡を訪問。シラス丘陵に築かれた山城で、浸食谷の多い地形をいかした堅固なつくりとなっている。城域は約41haと広大で、中世の山城の痕跡をよく残す。国の史跡にも指定されている。 築城年代は不明。築城者…
一宇治城(いちうじじょう)跡は鹿児島県日置市伊集院にある。別名に伊集院城(いじゅういんじょう)や鉄丸城(てつまるじょう?)など。シラス丘陵に築かれた山城で、周囲は約2.3㎞。三方が断崖で、天然の要害である。域内には神明城(しんめいじょう、本丸…