氏族・人物
鹿児島市冷水町に鹿児島市営の「興国寺墓地」がある。ここにはかつて太平山興国寺があった。興国寺は明治の初めに廃寺となった。その境内はかなりの広さがあり、現在も古い墓石や石造物が残っている。 興国寺墓地(興国寺跡) この興国寺跡に、薩州家(さっ…
鹿児島市の伊敷に「桂庵墓」という史跡がある。国史跡にも指定されている。ここは東帰庵の跡で、桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)の墓がある。桂庵玄樹は臨済宗の僧で、朱子学(宋学)の大家であった。晩年は伊敷の東帰庵に住み、この地で没した。 桂庵玄樹とは…
島津家の「小返しの五本鑓」について、紹介してみる。 慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で合戦があった。徳川家康が率いる東軍が、反徳川方の西軍を破る。 島津義弘(しまづよしひろ)は西軍に参加し、敗軍の将となる。戦況…
16世紀の薩摩国に橋口兼弘という人物がいる。名前の読みは「はしぐちかねひろ」か。島津貴久(しまづたかひさ)の配下として活躍した。この人物が、なんとなく気になったのである。調べてみた。 この橋口氏は伴姓で、肝付氏の庶流とされる。名乗りは薩摩国伊…
「祁答院」という地名が鹿児島県にある。「けどういん」と読む。これについて、調べてみた。 祁答院の場所 「祁答院」の由来は? 南九州には「○○院」がたくさんあった 「院」とは何ぞや? 祁答院氏 祁答院郡司の大前氏 渋谷一族の祁答院氏 祁答院重武と祁答…
薩州家(さっしゅうけ)は島津氏の分家の一つ。薩摩国に広大な所領を有し、本宗家にあたる奥州家(おうしゅうけ)から頼りにされた。あるいは、本家をおびやかす存在でもあった。 16世紀前半の島津氏では一族どうしで覇権を争った。守護家の地位を離すまいと…
島津氏15代当主の島津貴久(しまづたかひさ)は、もともとは分家の相州家(そうしゅうけ)の生まれだ。16世紀半ばに一族の抗争を制し、分家から島津家の本流となった。 島津貴久と覇権を争ったのが、薩州家(さっしゅうけ)の島津実久(しまづさねひさ)だっ…
江戸時代末期(19世紀後半)の薩摩藩の家老に小松清廉(こまつきよかど)がいる。「小松帯刀(たてわき)」という通称のほうでよく知られていることだろう。この小松清廉(小松帯刀)は小松氏の29代当主である。 「29代」ということは、……単純計算で「4代で1…
上井覚兼(うわいかくけん)という人物がいる。16世紀後半に島津義久(しまづよしひさ)の老中を務め、島津氏の勢力拡大の中で活躍した。『上井覚兼日記』という一級史料を残したことでもよく知られている。 上井氏の名乗りは、大隅国囎唹郡(そおのこおり、…
戦国時代の肝付家というと、肝付兼続(きもつきかねつぐ)・肝付良兼(よしかね)がよく知られている。大隅国肝属郡高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町)を拠点に戦国大名化し、大隅半島の大部分を支配下に入れる。島津貴久(しまづたかひさ)・島津義久…
鹿児島市の南のほうに「喜入(きいれ)」はある。この地の南方神社(みなかたじんじゃ)は、すごく雰囲気のある場所なのだ。 ものはついでに、喜入の歴史もまとめてみた。ちなみに、かつては「給黎」と書いて「きいれ」と読んだ。これが「喜入」となったのに…
渓流沿いに川田神社(かわだじんじゃ)はある。場所は鹿児島市川田町。かつての薩摩国満家院(みつえいん)のうち。 御祭神は川田義朗(かわだよしあき)である。16世紀の人物で、島津貴久(しまづたかひさ)・島津義久(よしひさ)に仕えた。川田義朗は島津…
戦国時代の島津氏の家臣には、新納氏の名が見える。それなりに知られている人物としては新納忠元(にいろただもと)とか、新納旅庵(にいろりょあん)とか……。新納氏は島津氏の支族で、その歴史は14世紀の南北朝争乱期よりはじまる。 新納氏についてあらため…
島津義弘(しまづよしひろ)の生涯を年表風にまとめてみた。……なかなかのボリュームに。とにかく戦いが多すぎるのである。 島津義弘は、島津家15代当主の島津貴久(たかひさ)の次男である。16代当主の島津義久は兄にあたる。父と兄のもとで、島津家の軍事面…
九州を席巻しつつあった島津氏だが、天正15年(1587年)5月に豊臣秀吉に屈服した。これ以降の島津義弘(しまづよしひろ)の戦いは、豊臣政権下でのものとなる。 天正15年8月から「島津義弘」と名を改める。それまでは「島津義珍(よしまさ)」と名乗っていた…
天正6年(1578年)から天正15年(1587年)にかけて、九州の情勢は大きく動く。その中での島津義弘(しまづよしひろ)の戦いぶりをたどる。 九州では島津・大友(おおとも)・龍造寺(りゅうぞうじ)の3つの勢力がしのぎを削る。島津氏はこの争いを制し、九州…
島津義弘(しまづよしひろ)は「武」のイメージが強い人物だ。その生涯は、戦いに次ぐ戦いであった。初陣は天文23年(1554年)の岩剣城の戦い。最後は慶長5年(1600年)の関ヶ原。戦いの記録は半世紀近くにもわたる。 その戦歴をまとめてみた。まずは青年期…
南九州の歴史を見ていくと、肝付(きもつき)一族の存在感がすごく大きいのだ。その歴史はかなり古い。 支流氏族もかなりある。萩原(はぎわら)・安楽(あんらく)・和泉(いずみ)・梅北(うめきた)・救仁郷(くにごう)・北原(きたはら)・川路(かわじ…
天正6年(1578年)、島津(しまづ)と大友(おおとも)がぶつかった! 場所は日向国の高城川原(たかじょうがわら)。現在の宮崎県児湯郡木城町高城の一帯である。両軍ともに数万の兵を動員する大合戦。「高城川の戦い」「高城川原の戦い」「高城合戦」、あ…
大友(おおとも)氏は豊後国・豊前国(現在の大分県)を拠点に九州北部に君臨した一族である。その歴史は、大友能直(おおともよしなお)がこの両国の守護に任じられたことに始まる。 大友氏の出自を調べていくと、気になることも出てくるのである。 大友能…
中世の南九州の歴史は、島津氏と伊東氏の抗争の歴史でもある。当ブログではおもに島津氏について記事を展開しているが、伊東氏のことももうちょっと知りたいのである。そんなわけで、伊東氏の歴史をまとめてみた、とくに島津との関りについて焦点を当てて。 …
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける脱出劇というと、島津義弘(しまづよしひろ)がよく知られている。美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)から国許の南九州まで、長い道のりを生還した。 関ヶ原から南九州まで落ちのびた大名がもうひとりいる…
平松神社(ひらまつじんじゃ)は鹿児島市吉野町の竜ヶ水(りゅうがみず)に鎮座する。御祭神は碧空巌岳彦命(あおぞらいずたけひこのみこと)。島津歳久(しまづとしひさ)のことである。前身を心岳寺(しんがくじ)といい、島津歳久の菩提寺であった。 島津…
戦国島津氏は島津忠良(しまづただよし、島津日新斎、じっしんさい)にはじまる。もともとは分家のひとつの相州家の当主であったが、嫡男の島津貴久を本宗家の後継者に擁立する。そして、一族間の抗争を勝ち抜いて覇権を握った。 島津忠良(島津日新斎)は薩…
宮崎県南西部から鹿児島県北東部にかけて広大な盆地が広がっている。都城盆地は南北約30km・東西約25㎞もの規模があり、2市2町(宮崎県都城市・三股町・高原町、鹿児島県曽於市)にまたがる。 この都城盆地を統治したのが、島津一族の北郷(ほんごう)氏であ…
12世紀末、惟宗忠久(これむねのただひさ)は源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国(現在の鹿児島県・宮崎県)に所領を与えられた。そして、島津荘(しまずのしょう)という広大な荘園の惣地頭に補任されたことにちなみ、「島津忠久」と名乗るようになった。こ…
大口(おおくち)は薩摩国の北辺である。肥後国・大隅国・日向国と国境を接し、幾度も激戦の地となった。 大口城(おおくちじょう)は現在の鹿児島県伊佐市大口里にある。別名に「牛山城(うしやまじょう)」「牟田口城(むたぐちじょう)」とも。中世におい…
伊作城(いざくじょう)跡へもう一度いってきた。場所は鹿児島県日置市吹上町中原。島津氏支族の伊作氏が拠点とした城だ。 ここは戦国大名としての島津氏のはじまりの場所でもある。伊作城で生まれた島津忠良(しまづただよし)は、分家の生まれでありながら…
伊作城(いざくじょう)は、鹿児島県日置市吹上町中原にある。ここは島津支族の伊作(いざく)氏の本拠地なのだが、戦国大名としての島津氏の発祥の地と言える場所だったりもする。 本丸の亀丸城跡 16世紀、一族どうしの争いを制して覇権を握ったのは島津忠…
鹿児島城(かごしまじょう)は鹿児島市城山町にある。通称を「鶴丸城(つるまるじょう)」といい、鹿児島ではこちらのほうで呼ぶ人が多い。 鹿児島城跡の大手門 江戸時代の島津(しまづ)氏の居城であり、この地で藩政を行なった。現在、城の目の前には鹿児…