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島津歳久の娘(島津忠隣の正室、のちに入来院重時の正室)の波乱の生涯

島津歳久(しまづとしひさ)には男子がなく、長女に婿をとって後継者とした。島津歳久の娘は波乱の生涯を送る。夫は若くして戦死、そして父が反逆者として討たれ、さらに二人目の夫も戦死する。

なお、島津歳久には次女もいる。こちらについてもあわせて紹介する。

 

日付は旧暦にて記す。

 

 

 

島津歳久について

島津歳久は島津貴久(たかひさ、島津氏15代当)の三男で、天文6年(1537年)の生まれ。兄に島津義久(よしひさ)と島津義弘(よしひろ)、弟に島津家久(いえひさ)がいる。この四兄弟の時代に島津氏は勢力を大きく広げた。一時は九州北部まで進出している。

島津歳久について、詳しくはこちらの記事にて。

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大隅国吉田で誕生

島津歳久の長女は、永禄10年(1567年)8月6日に大隅国吉田の松尾城(まつおじょう、鹿児島市鹿児島市東佐多町)で生まれる。本名は不明。のちに「湯之尾(ゆのお)」と呼ばれるが、これは住んだ場所にちなむものである。母は児島備中守の娘。この人物は吉田の士であるという。詳細はよくわからず、身分はあまり高くなかったのだろう。

 

松尾城大手口

吉田の松尾城跡

 

なお、島津歳久は永禄6年(1563年)から18年ほど吉田の地を任されている。天正8年(1580年)に薩摩国祁答院(鹿児島県薩摩郡さつま町など)へ所領替えとなり、居城は虎居城(とらいじょう、さつま町宮之城屋地)に。島津歳久の長女も祁答院に移ったと考えられる。

 

 

島津忠隣と結婚

天正12年(1584年)、島津歳久の長女は婿をむかえる。相手は島津忠隣(しまづただちか)。薩摩国出水(いずみ、鹿児島県出水市や阿久根市のあたり)を領する島津義虎(よしとら)の次男である。

島津忠隣は永禄12年(1569年)の生まれ。母は島津義久の長女(「御平」と呼ばれる)。天正15年(1587年)には長男が誕生。「袈裟菊丸」と名付けられる。

 

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島津忠隣の戦死

天正14年(1586年)から翌年にかけて、島津氏は豊後(現在の大分県)の大友氏領に侵攻する。大友氏は豊臣秀吉の傘下に入っていた。島津氏は豊臣政権の停戦命令や国分け案を突っぱねる。豊臣秀吉は九州に大軍勢を派遣した。

天正15年(1587年)になり、大軍勢の襲来により島津方は撤退戦を余儀なくされる。天正15年4月17日、島津方は日向国新納院の根白坂(ねじろさか、宮崎県児湯郡木城町椎木)に2万余の兵を繰り出して、決戦にのぞむ(根白坂の戦い)。結果は島津方の大敗。そして、4月22日には降伏を申し出ている。

この根白坂での戦いで、島津忠隣は戦死した。享年19だった。袈裟菊丸はこの年に生まれたばかりだった。

 

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島津歳久が討たれる、虎居城に籠城

天正20年(1592年)、豊臣秀吉は島津家に対して島津歳久の追討を命じた。

同年6月、島津氏家臣の梅北国兼(うめきたくにかね)が豊臣政権に大した反乱をおこした(梅北一揆、梅北国兼の乱)。梅北国兼は朝鮮への出陣のために肥前名護屋を目指していたが、突如として肥後国の佐敷城(さしきじょう、熊本県葦北郡芦北町)を攻めて、城を占拠した。佐敷城は加藤清正(かとうきよまさ)領で、城代の加藤重次(しげつぐ)は朝鮮出征中で不在であった。その後、梅北国兼は同調者を募るもうまくいかず、反乱はほどなく鎮められた。

この梅北一揆に島津歳久も関わっているとして、豊臣秀吉は討伐を命じてきたのである。そして同年7月18日、大隅国竜ヶ水(鹿児島市吉野町)にたてこもる島津歳久の主従は討たれた。

島津歳久の処分を不服として、島津歳久の妻(児島備中守の娘)と娘は嫡孫の袈裟菊丸とともに虎居城に籠城する。一ヶ月ほど抵抗を続けたが、島津義久が袈裟菊丸が成人した際に旧領を回復するという条件を出して説得。これに応じで開城した。島津歳久の家族は、入来院重時(いりきいんしげとき)の預かりとなる。

 

山城

虎居城跡

 

なお、梅北一揆に関わった者たちは、一族がことごとく誅殺されている事例が多い。虎居城に籠城しなかったら、もしかしたら島津歳久の家族の命もなかったかもしれない。

ちなみに入来院重時の配下にも梅北一揆に加わった者があったが、入来院重時本人には重い罪が及んでいない。

 

 

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入来院重時と再婚

島津歳久の長女は、入来院重時と再婚する。下城後の世話役となったことが、縁になったのだろうか。入来院重時は薩摩国入来院(鹿児島県薩摩川内市入来など)の領主である。

 

清色城跡

入来麓と清色城跡

 

入来院氏は渋谷氏の一族。じつのところ、入来院重時は島津氏から入った養子である。入来院重豊(しげとよ)の後嗣がなかったことから、島津以久(もちひさ)の次男が家督をついだ。なお、島津以久は島津歳久とは従兄弟の関係にある。

ちなみに、島津歳久の母は入来院重聡の娘である。こちらが入来院氏の血を引いていたりもする。

島津歳久の長女は、入来院重時との間に一女を産む。

また、袈裟菊丸は実家に残したままでの再婚となった。引き続き、島津歳久の嫡孫として扱われた。元服して島津常久と名乗る。文禄4年(1595年)に薩摩国日置(鹿児島県日置市日吉町日置)などを領地として与えられた。島津歳久から続く家系は「日置島津家」と呼ばれる。

 

入来院氏についてはこちらの記事にて。

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湯之尾へ

文禄4年(1595年)、島津家中では領主たちの大幅な所領替えがあった。これは豊臣秀吉の命令によるもので、先祖代々治めてきた土地を離れる領主も多かった。入来院氏もそうであった。入来院重時は大隅国菱刈郡の湯之尾(ゆのお、鹿児島県伊佐市菱刈川北)に移封となる。

 

川越しに山城

写真奥の山が湯之尾城跡

 

島津歳久の長女が「湯之尾」と呼ばれるようになったのは、ここに住んだことにちなむ。

なお、鹿児島県伊佐市には島津歳久を祀る平松神社(ひらまつじんじゃ)が6つもある。これらは島津歳久の供養のための石塔・石祠に由来する。これだけ多いのは、湯之尾(島津歳久の長女)がこの地に移り住んだことも関係していると考えられる。

 

 

 

入来院重時が戦死

慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いに、入来院重時は従軍する。島津義弘のもとで戦うことに。徳川家康(東軍)と反徳川方(西軍)の決戦で、島津義弘は西軍につく。決戦は数時間で決する。西軍は総崩れとなり、島津隊は敵中に孤立。そして、前方へ向けて撤退する。島津義弘は戦場を離脱した。壮絶な撤退戦は「島津の退き口」とも呼ばれる。

入来院重時も戦場を離脱するが、本隊とははぐれてしまう。9月22日、近江国(滋賀県)の山中で追手に見つかり、主従7人が討ち取られた。享年28だった。

 

 

 

 

入来院重高を養子に

入来院氏は当主が不在となった。子は女子のみである。そこで湯之尾(島津歳久の長女)は、頴娃久秀(えいひさひで)を婿養子に迎えて家督を継がせたいと、伯父の島津義弘に願い出たという。

頴娃久秀はもとの名を島津忠富という。島津義虎の五男であり、島津忠隣の弟にあたる。島津忠富から島津久秀と改名し、さらに頴娃氏の家督をついでいた。

慶長10年(1605年)、頴娃久秀は入来院氏の名跡を継ぐ。「入来院重国(しげくに)」と名乗り、入来院重時と湯之尾の娘を正室とした。

慶長18年(1613年)に旧領の入来院に戻る。このときに「入来院重高(しげたか)」と名を改めている。

 

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墓所は寿昌寺跡に

湯之尾(島津歳久の長女)は寛永18年(1641年)5月23日に亡くなる。享年75。法名は「蓮秀妙心庵主」。墓所は入来の龍游山寿昌寺。島津重時の墓と並んで建てられている。

墓塔

湯之尾の墓(左手前)と入来院重時の墓(奥)

 

 

島津歳久の次女

島津歳久の次女についてもちょっと紹介しておく。

天正7年(1579年)2月1日に、祁答院鶴田(鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田)で誕生。母は新納忠堅の娘で、「梅君」とも呼ばれた。この女性は日向の伊東義祐(いとうよしすけ)の一族に嫁いでいたが、天正4年(1576年)に伊東氏は没落。その後、島津歳久に引き取られて妾とされたのだという。

梅君は鶴田の梅君ヶ城に住み、島津歳久の次女もこちらにあったと思われる。島津歳久が討ち死にした際に、鶴田から日向に逃亡した。いかなる経緯があったのかは不明だが、のちに島津氏のほうに戻ってきている。

 

山城と鳥居

梅君ヶ城跡

 

長じて北郷三久(ほんごうみつひさ)に嫁ぐ。北郷三久は北郷氏(都城島津家)の庶流で、薩摩国の平佐(ひらさ、鹿児島県薩摩川内市平佐町など)を領する。平佐北郷氏の初代である。

離別のあと、伊集院久族と再婚。こちらは伊集院(いじゅういん)氏の嫡流である。

 

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<参考資料>
『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年

『旧記雑録 後編二』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1982年

『旧記雑録 後編三』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1983年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年

『西藩烈士干城録(一)』
編/出版 鹿児島県立図書館 2010年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

『入来町誌 上巻』
編/入来町誌編纂委員会 発行/入来町 1964年

ほか