薩摩から京へ。天正3年(1575年)に島津家久(しまづいえひさ)が上京する。旅の様子について書き残している。『中務大輔家久公御上京日記』の記述をもとに旅程を追う。その2回目。
『中務大輔家久公御上京日記』についてはこちらの記事にて。
島津家久は島津貴久の四男。兄に島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)がいる。島津家久は戦上手として歴史に名を残す。
島津家久の詳細はこちら。
2月20日に島津家久は薩摩を出発した。そして2月23日に肥後に入った。
肥後の道中は、とにかく関所が多かった。
- 天正3年2月24日、記述わずか
- 天正3年2月25日、関所と城と
- 天正3年2月26日、大野忠宗と出会って別れて
- 天正3年2月27日、山鹿温泉につかる
- 天正3年2月28日、関所で足止め
- 天正3年2月29日、関所破り!?
なお、日付は旧暦となる。
天正3年2月24日、記述わずか
廿四日、田の浦の町一見し、それより酉の刻ニ出舩、
前日夜に肥後国の田ノ浦(たのうら、熊本県葦北郡芦北町田浦)に船で入った一行は、街を見物して酉の刻(午後6時前後)にまた出航した、と。
この日は、記述がかなり少ない。薩摩国内ではとにかく酒宴続きで、酒が抜けきらずに疲れ気味だったのか? そんな想像もさせられる。
天正3年2月25日、関所と城と
廿五日の明方に、松はせといへる浦に着舟、それより陸ちに移行は、左の方に宇土殿の城みえ侍り、猶行て右方に隈のしやうとのゝ城有、儅、舞の江といへる渡にて、神も扇もしほ/\と渡賃とられ候、それより大渡といへる所、亦川尻といへる所にて関とてとられ、それより肥後の衆、廣瀬右京亮の子源三郎といへる者の所へ一宿、
明け方に、肥後国の「松はせ」に船をつける。これは松橋(まつばせ、熊本県宇城市松橋町)であろう。そこからは陸路をとる。そのあと「舞の江」「大渡」「川尻」の関所を通過。渡賃をかなり取られたようだ。「舞の江」は廻江(まいのえ、熊本市南区富合町廻江)か。緑川(みどりかわ)の渡しに関が設けられていたのだろう。緑川を越えるとまたすぐに加勢川(かせがわ)が阻む。大渡(おおわたり、熊本市南区川尻)にも関所があった。川を渡った先の川尻(かわじり、南区川尻)にも関所。また金銭を要求される。ちょっとの距離のあいだに通行料を三度も取られた。「関所が多すぎだろ!」と、イラついていることがうかがえる。
肥後路では「城を見た」という記述も出てくるようになる。この日は「宇土殿の城」と「隈のしやうとのゝ城」を見た、と。宇土城(うとじょう、宇土古城のほう、熊本県宇土市古城町)と隈庄城(くまのしょうじょう、熊本市南区城南町隈庄)である。宇土城は名和顕孝(なわあきたか)の居城。隈庄城は甲斐氏(阿蘇氏の重臣)のもの。
たぶん、城の周辺の地形をじっくりと観察し、「攻めるならどこからがいいのか」といったことを思案していたのではないだろうか。
天正3年2月26日、大野忠宗と出会って別れて
廿六日、辰の剋に打立、しやう殿の城一見、儅、未の剋に鹿子木といへる町に出、徊らふ処に、大野治部大夫殿追着候て同心すといへとも、程もなく又別行に、右方にかうし殿、あかほしとのゝ城とて遠くみえ侍り、それよりほたての門、清水左近といへる者の所へ一宿、
辰の刻(午前8時前後)に出発し、未の刻(午後2時前後)に鹿子木(かのこぎ、熊本市北区鹿子木町)に至る。鹿子木の街をぶらぶらしているところに、大野治部大夫殿(大野忠宗、おおのただむね)と出くわし、しばらく同道することになるも、ほどなく別れた、と。大野忠宗は島津氏の家臣である。何かしらの任務で、どこかに向かっていたのだろう。行き先は不明だが、すぐに別れたところを見ると、筑紫方面ではなさそう。九州のどこかかな?
この日も城を見る。「しやう殿の城」は城親賢(じょうちかまさ)の居城の隈本城(くまもとじょう、熊本城の前身、熊本市中央区古城町)。「かうし殿の城」は合志親為(こうしちかため)の居城の竹迫城(たかばじょう、合志城ともいう、熊本県合志市上庄)。「あかほしとのゝ城」は赤星統家(あかほしむねいえ)の居城の隈府城(わいふじょう、菊池城ともいう、熊本県菊池市隈府)。竹迫城と隈府城は遠くに見えた、と。
この日は「ほたて」というところで一泊。場所は現在の熊本市北区のどこかだろう。
天正3年2月27日、山鹿温泉につかる
廿七日、辰刻に打立、やかて今藤といへる村を過、千破の学頭とて木場三介、しやうの藤左衛門なと一類の山たち人あり、さて行て山賀といへる町に着けれは、町中に出湯有、各に入候て亦出行ほとに、平野の門池田右京といへるものゝ所へ一宿、
辰の刻(午前8時前後)に出立し、今藤(いまふじ、熊本市北区植木町今藤)を通過し、「木場三介」「しやうの藤左衛門」らと会う。「学頭」は寺社に関する者であろう 「千破」は地名か、あるいは寺社名か。
一行は山賀(山鹿、やまが、熊本県山鹿市山鹿)にいたり、温泉につかる。山鹿温泉である。
「平野」というところで一泊。
2月24日~2月27日のルートは、現在の国道3号とほぼ重なるみたい。
天正3年2月28日、関所で足止め
廿八日、天気あしくて未剋晴たりけれハ、それより打立行程に、南の関を通行に、関とてとゝめられしかと、我/\五十人ほとは過通りしに、跡に五六十人程とゝめられ、各為方なくありしかとも、南覚坊校量として各まかりとをり、其夜は北の関小市別嘗の所に一宿、
天気が悪く昼からの出立。未の刻(午後2時前後)に晴れたので、それから出る。
南の関(熊本県玉名郡南関町)で50人ほどが関所を通されるが、後のほうの50人~60人くらいは通過が許されなかった。南覚坊(一行に加わっている僧侶か? 山伏か?)が交渉して、なんとか通ることができた。
ここの記述でわかるのは、100人ほどの一団で旅をしているということ。けっこうな大人数である。
この日は「北の関」に宿泊。現在の南関町の北部にあたり、筑後国の国境の手前である。
天正3年2月29日、関所破り!?
廿九日、関をよくへきために夜を籠て宿を出行に、関五六程をよきてへんとを行に、右方にかまち殿の城有、亦行て関あり、関守餘きひしくいかり、無理をはたらく間、召烈たる族とも関守を打なやまし、此方ハおの/\何事なく通り、それより筑後の官町を打過、高郎山圓輪坊へ一宿、
筑後国に入る。暗いうちに出発。関所を避けるためであった。「この先は関所が多いぞ」という情報を持っていたのだろう。そして、5つ6つばかりの関所を避けることができた。
「かまち殿の城」を見る。蒲池鎮漣の居城の柳川城(やながわじょう、福岡県柳川市本城町)だろう。
柳川の先に、また関所がある。ここで止められる。そして、取り調べがやたらと厳しかったようだ。一行の苛立ちはつのる。そして「召烈たる族とも関守を打なやまし(怒り狂った連中が関守をボコボコに)」。「何事なく通り」過ぎた、と。
官町を経て高郎山圓輪坊に入り、ここに泊まる。「高郎山」は「高良山(こうらさん)」だろう。
一行は高良山(現在の高良大社、福岡県久留米市御井町)に到着した。
つづく……
<参考資料>
『中務大輔家久公上京日記』
翻刻/村井祐樹 発行/東京大学史料編纂所 2006年
※『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』に収録
鹿児島県史料『旧記雑録 後編一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 発行/鹿児島県 1981年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜 一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1989年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1990年
鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年
ほか