ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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薩摩藩初代藩主/島津家久(島津忠恒)の32人の子

薩摩藩(鹿児島藩)の初代藩主は島津家久(しまづいえひさ)という。もとの名は島津忠恒(ただつね)で、慶長11年(1606年)に改名。徳川家康より「家」の字を偏諱として拝領してのこと。

この島津家久(島津忠恒)は子沢山であった。十六男十六女をもうけた。子供たちは有力家へ養子に出され、あるいは嫁ぐ。島津家久(島津忠恒)の血が島津一門や有力家臣の家に入り込むことになった。よく言えば藩内の結束を強固にすることにつながる、悪く言えば「乗っ取り」のような感じにも。

 

島津家久(島津忠恒)の子供たちについて、ちょっとまとめてみた。「ちょっと」と言いながらもとんでもない文字数に……。人数が多すぎる。

なお、日付については旧暦にて記す。

 

 

島津家久(島津忠恒)の略歴

島津家久(島津忠恒)は島津義弘(よしひろ)の三男。通称は「又八郎」。天正4年(1576年)11月7日、日向国真幸院(まさきいん)の加久藤城(かくとうじょう、宮崎県えびの市小田)に生まれる。幼名は「米菊丸」。

母は広瀬氏の娘で、「広瀬夫人」「実窓夫人」「実窓院」「宰相」などと呼ばれる。じつは園田清左衛門の娘で、広瀬助宗の養女となっていたという。この「園田清左衛門」なる人物は園田実明(そのださねあき)だと考えられている。

島津義弘の長男は鶴久丸という。天正4年(1576年)11月21日に8歳(数え年)で早世している。米菊丸(島津忠恒)が生まれてすぐのことであった。

 

島津義弘の次男は島津久保(ひさやす)という。通称は「又一郎」。島津家当主の島津義久(よしひさ、島津義弘の兄)には男子がなかったことから、島津久保が後継者とされた。島津義久は三女の亀寿を娶せて、婿養子のような感じであった。

ところが、島津久保は文禄2年(1593年)9月8日に亡くなる。朝鮮へ出陣中に病死した。享年21。そして、弟の島津忠恒が島津家の後継者に立てられることになった。このときに亀寿を島津忠恒に再嫁させている。

島津忠恒は兄にかわって朝鮮に出陣。慶長3年(1598年)10月の泗川の戦いでも活躍した。帰国後に軍功を称されて、左近衛少将の任官を受ける。「薩摩少将殿」と呼ばれるようになった。

慶長4年(1599年)2月20日、島津忠恒は島津義久から家督を譲られた。なお、島津忠恒(島津家久)は島津家18代当主に数えられる。島津義久が16代当主。で、島津義弘は家督を継承していないが、島津氏の系譜では17代当主としている。

 

慶長4年3月9日、家督を継承してすぐのことである。島津忠恒は家老の伊集院忠棟(いじゅういんだだむね)を手討ちにするという事件を起こす。伊集院氏は日向国庄内(宮崎県都城市のあたり)など8万石を領する大名でもある。伊集院忠真(ただざね、伊集院忠棟の嫡男)は庄内で守りを固めて、島津氏に抵抗する。島津忠恒と島津義久は反乱鎮定のために庄内を攻めるも、苦戦が続いた。慶長5年(1600年)3月15日に徳川家康の仲裁により和睦。伊集院氏をなんとか降伏させた。

慶長5年(1600年)9月15日、美濃国の関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で合戦があった。これに島津義弘も巻き込まれる。島津家では庄内の乱の直後で兵を上方に送ることができず、島津義弘は1500ほどの寡兵での参戦となった。関ヶ原の戦いは徳川家康が勝利する。島津義弘は敗軍のほうに属していた。壮絶な撤退戦(島津の退き口)のすえに、国許まで生還した。

戦後処理は島津忠恒・島津義久により行われる。抗戦の構えを見せつつ、和睦交渉を重ねた。そして慶長7年(1602年)の本領安堵を勝ち取った。慶長11年(1606年)に徳川家康より偏諱を拝領して「島津家久」と改名する。

戦国時代が終焉し、徳川家の幕府による全国統治の時代へ。その中で、島津家久は薩摩藩(鹿児島藩)の基礎を固めた。

また、慶長6年(1601年)頃から鹿児島城を整備。島津家久をはじめとする薩摩藩主はここを居城とする。

 

石垣と堀とハス

鹿児島城跡

 

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寛永15年2月23日(1638年4月7日)、島津家久は逝去。享年62。法名は「慈眼院殿花心琴月大居士」。

 

 

 

 

 

 

側室たち

最初の子が生まれたのは慶長17年(1612年)のこと。36歳のときだった。なかなか世継ぎが生まれないことに、島津家中では心配されていたのではないだろうか。

島津家久は正室との間に子ができなかった。不仲であったとも伝わる。正室の亀寿とのあいだに後継となる男子をもうけること。つまり島津義久の血を引く後継者へとつなぐことが、島津家久には期待されていた。

 

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慶長16年(1611年)1月21日、島津義久が亡くなる。その直後から島津家久は側室をどんどん抱えて、つぎつぎと子をなすことになる。

亀寿は鹿児島城を出て別居。大隅国の国分城(国府城、こくぶじょう、鹿児島県霧島市国分中央)に移り住んだ。住んだ場所から亀寿は「国府」「国府御上」とも呼ばれる。

 

島津家久の側室たちは、つぎのとおり。

 

島津備前守忠清の娘

島津忠清は薩州家(島津氏の分家)の島津義虎の三男。母は島津義久の長女「御平」。つまり、この女性は島津義久の曾孫にあたる。

薩州家当主の島津忠辰(ただとき、島津義虎の嫡男)は豊臣秀吉により改易され、家族は肥後国宇土の小西行長(こにしゆきなが)の預かりとなった。島津忠清は宇土で暮らし、そこで妻も迎えた。小西家は関ヶ原の戦いのあとになくなり、かわって宇土を領した加藤清正(かとうきよまさ)の預かりに。島津家では島津忠清の返還を加藤清正に求め、慶長14年(1609年)に島津忠清は薩摩国に戻る。その中にいた長女が島津家久の側室になった。

 

島津忠清についてはこちらの記事にて。

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島津忠清の娘は慶長5年(1600年)の生まれ。慶長16年(1611年)に島津家久の側室となったとされる。11歳のときだ。

側室にした意図は、よくわからない。島津義久の血を引いているというのも理由だったのかもしれない。ただ単に「気に入った」というところなのかも? ……という気もする。三男三女を産み、この中には2代藩主の島津光久(みつひさ)もいる。

本名は不明。「西ノ丸」「東ノ丸」「心応夫人」と呼ばれる。世継ぎを産んだことから、後室として扱われたとも。

寛永2年(1625年)没。享年25。法名は「心応慶安大姉」。

 

 

鎌田播磨守政重の娘

慶長17年(1612年)に島津家久の長男を産んでいる。五男五女をもうけていて、島津家久のお気に入りにの側室だったと思われる。三男の島津忠朗(しまづただあき)が大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)を領し、加治木島津家の祖となる。息子とともに加治木へ移り、加治木館の東ノ丸に住んだことから「東ノ丸」「加治木御袋様」と呼ばれた。寛文9年(1669年)没。法名は「桂室妙春大姉」

 

鎌田政重は鎌田氏庶流の人物。鎌田氏は藤原姓首藤氏の後裔を称し、島津氏初代の島津忠久に仕えて関東から下向してきた一族。島津義久に仕えた人物に鎌田昌良があり、系図によると鎌田政重はその弟にあたるという。ただし、もとは末田氏で、鎌田家に養子として入っている。

末田氏についてはよくわからない。島津義弘の配下に名が見えるが、あまり身分は高くなさそうな感じである。

 

 

相良日向守長泰の娘

「中ノ丸」と呼ばれる。一男一女をもうける。元和9年(1622年)没。法名は「月香妙雲大姉」

父の相良長泰(さがらながやす)は、肥後国求麻(くま、熊本県人吉市のあたり)の相良氏の庶流の稲留(いなどめ)氏の一族。稲留氏は十五世紀より島津氏に仕えていた。相良長泰は島津義久に仕えて活躍し、名字も本家の「相良」を名乗るようになった。名は「長辰」とも。入道名は「閑栖斎」。

 

 

宮原吉兵衛尉景辰の娘

男子一人を産む。寛永3年(1626年)没。法名は「高岳妙崇大姉」

父の宮原景辰については詳細不明。宮原(みやはら)氏は薩摩国加世田別府(鹿児島県南さつま市加世田)に土着していたとされる。島津氏相州家(のちの藩主家)に古くから仕えていたようだ。

 

 

牧源兵衛胤親の娘

男子二人を産む。人物の詳細は不明。父の牧胤親についてもよくわからず。牧(まき)氏は平姓を称し、千葉氏の一族であるとも。

 

 

崎山八右衛門盛秀の娘

二男五女を産む。人物の詳細はわからず。崎山盛秀についても、情報が出てこない。たぶん、あまり身分は高くないと思われる。

 

 

家村壱岐守重治の娘

女子二人を産む。寛永13年没(1636年)。法名は「華窓貞春大姉」。

家村(いえむら)氏は渋谷(しぶや)氏の一族で、名乗りは遠江国(静岡県)の家村を領したことによるという。

『本藩人物誌』の「座頭了公」の項にこんな情報がある。家村重治は島津忠恒に仕え、朝鮮在陣にも従軍。次女が鹿児島城で納殿役(おさめどのやく、納戸役)を務め、のちに側室になったのだという。侍女に手をつけた、というところか。

 

 

川村伊豆守秀政の娘

男子二人を産む。人物の詳細は不明。

川村秀政についてはよくわからず。川村氏は島津氏相州家の家臣だったっぽい。ちなみに川村秀政の次男は鎌田政重の婿養子になっていたりもする。ここのつながりも、なんだか気になる。

 

 

子供たち

長男/兵庫頭

慶長17年12月9日(1613年1月)生まれ。母は鎌田政重の娘。「兵庫頭(ひょうごのかみ)」は祖父の島津義弘が使っていた通称でもある。島津家の世継ぎとして期待されていたことが想像される。だが、慶長19年(1614年)1月28日に亡くなる。享年3。

 

 

長女

慶長18年(1613年)生まれ。母は島津忠清の娘。慶長20年(1615年)3月15日没。享年3。

 

 

次女/北郷翁久室

慶長19年(1614年)2月生まれ。母は鎌田政重の娘。寛永9年(1632年)3月5日没。享年19。法名は「輪桂貞玉大姉」。


北郷翁久(ほんごうおきひさ)に嫁ぐ。しかしながら、北郷翁久は寛永5年(1628年)に早世した。

北郷氏は島津氏の一族で、四代当主の島津忠宗(ただむね)六男の島津資忠に始まる。日向国庄内(宮崎県都城市のあたり)に土着した。戦国時代には北郷時久(ときひさ)が島津貴久・島津義久と同盟関係にあり、その勢力拡大に貢献した。

江戸時代には「島津」姓に復する。「都城島津家」とも呼ばれる。

 

北郷氏については、こちらの記事にて。

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三女/島津久慶(日置家)室

慶長19年(1614年)8月5日生まれ。母は相良長泰の娘。正保5年(1648年)没。享年35。法名は「桃顔名仙大姉」。

 

日置家(ひおきけ)の島津久慶(ひさよし)に嫁ぐ。島津久慶は島津家久・島津光久の家老を務めた。

日置家は島津歳久(島津忠恒の叔父にあたる)に始まる。島津歳久には男子がなく、島津忠隣(ただちか、島津義虎の次男)を婿養子に迎える。島津忠隣は若くして戦死した。その子の島津常久(つねひさ)が薩摩国日置(鹿児島県日置市日吉町日置)などを領したことから「日置島津家」と呼ばれるようになった。そして、常久の子が島津久慶。日置島津家の4代目である。

 

日置家についてはこちらの記事にて。

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四女/種子島忠時室

慶長20年(1615年)4月20日生まれ。母は鎌田政重の娘。寛永20年(1643年)4月13日没。享年29。法名は「妙國日饒大姉光瑞院」

種子島忠時(たねがしまただとき)に嫁ぐ。種子島氏は中世より種子島を領してきた一族。戦国時代には島津貴久・島津義久の協力者であった。ちなみに、島津義久の継室は種子島時堯(ときたか)の娘。亀寿の母でもある。種子島久時(ひさとき、時堯の子)は島津義久・島津家久の家老を務めた。種子島久時は男子のないまま死去するが、死後に側室が子を産む。それが種子島忠時である。鹿児島で養育され、のちに島津家久の四女が娶せた。種子島忠時では島津家久・島津光久のもとで重職を任された。

島津家久の四女は種子島家の世継ぎを産む。種子島久時(祖父と同名)が忠時のあとをついだ。種子島久時は家老に任じられるなど、薩摩藩を支えた。

 

種子島氏については、こちらの記事にて。

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次男/島津光久

島津光久(みつひさ)は、島津家第19代当主および薩摩藩2代藩主である。

元和2年(1616年)6月2日生まれ。母は島津忠清の娘。幼名は「虎寿丸」。通称は「又三郎」。この幼名・通称は島津貴久・島津義久と同じもので、生まれたときから世継ぎとして期待されていたことがうかがえる。また、母を通して島津義久の血を引き継いでいる。島津家久の国府御上(亀寿)を養母として、島津家久の世子とされた。

初名は島津忠元と名乗る。寛永8年(1631年)に徳川家光(3代将軍)より偏諱を拝領して、「光久」に改名。寛永15年(1638年)に島津家久が没し、家督を継いだ。

島津光久は長命だった。50年近く藩主の座にあり、貞享4年(1687年)に孫に家督を譲って隠居した。その後、元禄7年11月29日(1695年1月14日)に亡くなる。享年79。

また、子沢山ぶりでは父親を超える。十九男十九女をもうけている。島津光久も多くの子供たちを有力家に入り込んだ。

 

 

三男/島津忠朗(加治木家)

島津忠朗(ただあき)は元和2年(1616年)11月7日生まれ。兄の島津光久とは誕生年は同じ。母は鎌田政重の娘。延宝4年(1676年)2月19日没。享年61。法名は「傑岑自英大居士」。

初名は「島津忠平」という。これは祖父の島津義弘も名乗りとしていたもの。通称の「兵庫頭」も島津義弘と同じ。また「又八郎」とも称し、こちらは父の島津家久と同じ。

島津義弘の遺領である大隅国加治木(鹿児島県姶良市加治木)を与えられる。島津忠朗から始まる家は「加治木島津家」と呼ばれる。加治木家は一門家に列せられ、藩主を出せる家柄とされた。実際に島津重年(しげとし)・島津重豪(しげひで)が加治木家より藩主になっている。

 

 

加治木島津家については、こちらの記事にて。

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四男/北郷久直

元和3年(1617年)11月26日生まれ。母は島津忠清の娘。

幼名は「岩松丸」。通称は「又十郎」。当初は「島津久貞」と名乗り、垂水島津家に養子入り。その後、北郷氏の養子に入り、北郷久直(ほんごうただなお)と名乗る。

北郷氏では北郷翁久に島津家久の四女(北郷久直の姉)が嫁いでいたが、子のないまま北郷翁久が早世。その弟の北郷忠亮(ただすけ)が家督を継いでいた。寛永11年(1634年)に北郷忠亮も早世し、こちらも子がない。そこで、北郷家の娘(北郷翁久の妹、北郷忠亮の姉)の婿に島津家久の四男が迎えられ、北郷家の家督を相続することになった。

北郷久直もまた早世する。寛永18年(1641年)11月6日没。享年25。法名は「廊安了聖庵主」。

 

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五女

元和4年(1618年)9月13日生まれ。母は鎌田政重の娘。寛永14年(1637)3月24日没。享年20。法名は「源室林桃大姉」。肝付兼屋(きもつきかねいえ)との結婚が決まっていたが、嫁ぐ前に亡くなった。

 

 

六女

元和5年(1619年)10月20日生まれ。母は鎌田政重の娘。寛永11年(1634年)8月18日没。享年16。北郷忠亮と結婚の予定があった。北郷忠亮も寛永11年に亡くなっている。

 

 

七女/島津久章(新城家)室

元和6年(1620年)6月18日生まれ。母は島津忠清の娘。正保2年(1645年)5月10日没。享年26。法名は「桃岳英仙」。

「千亀」という幼名が伝わっている。千亀は島津久章(しまづひさあきら)に嫁いだ。島津久章は垂水家(たるみずけ)から分かれて新城家(しんじょうけ)を起こした。

垂水島津家は分家の中でも筆頭格とされた。島津忠将(ただまさ、島津貴久の弟)から始まる家で、島津以久(忠将の子)は島津家中でも重きをなした。島津以久は大隅国垂水(鹿児島県垂水市)を領し、のちに日向国佐土原(さどわら、宮崎県宮崎市佐土原)を徳川家より拝領。佐土原藩へとつながっていく。これとは別に垂水家も存続している。

じつは、島津以久の孫は島津義久の後継者候補でもあった。島津彰久(てるひさ、以久の子)は島津義久の次女(住んだ場所にちなんで「新城」と呼ばれる)を妻としていた。そして生まれた子が島津忠仍(ただなお)だ。のちに島津久信(ひさのぶ)と改名する。

島津家久(島津忠恒)は正室(亀寿)との間に子ができず、島津義久は外孫の島津久信を後継者にしたいとも考えた。実際に後継者が替わることはなかったが、島津家久は島津久信を敵視していたと思われる。

島津久信は垂水の領有を任されていた。慶長15年(1610年)に島津以久が亡くなり、孫の島津久信は幕府から佐土原藩を継承するよう命じられる。島津久信はこれを辞退して、引き続き垂水に残った。その後、慶長16年に島津義久が没したあと、島津久信は取り潰しに追い込まれていく。

元和2年(1616年)、島津久信は隠居させられる。嫡男の廃嫡を画策したことを咎めらてれてのこと。嫡男の島津久敏(ひさとし)は病弱だったために、次男の菊袈裟丸(のちの島津久章)を代わりに後継者にしようとしたのだ。垂水家は島津久敏が継ぐ。

菊袈裟丸(島津久章)のほうは、千亀(島津家久の七女)との婚約が決まる。母の所領を二人が相続することになり、「新城家」が立てられた。

寛永元年(1624年)、島津久敏が早世。垂水家には島津家久の七男が養子として送り込まれた。垂水家は乗っ取られたのである。こちらについては「七男/島津忠紀(ただのり)」のところで説明する。

一方、島津久章(新城家)は寛永13年(1636年)に千亀と結婚。翌年に結婚祝いで島津家久が島津久章邸を訪れた。その直後、面会した島津久信が急死する。毒殺とも。

島津久章は長じて、島津光久に重用される。ところが寛永17年(1640年)に、島津久章は江戸からの帰国途中に失踪してしまう。紀伊国の高野山(和歌山県伊都郡高野町)で見つかり、捕らえられて薩摩に送還された。

島津久章は河邊清水(鹿児島県南九州市川辺町清水)の寶福寺(宝福寺)へ蟄居させられた。そして正保2年12月10日(1646年1月)に谷山の如意山清泉寺(にょいざんせいせんじ、鹿児島市下福元町)に遷され、翌日に殺害された。

なお、島津家久の七女も島津久章と同年に亡くなっている。

 

島津久章については、こちらの記事でも。

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五男/島津忠広(準三男家)

元和6年12月18日(1621年1月)生まれ。母は鎌田政重の娘。

幼名は「市熊」。通称は「市正」。初名は「忠弘」。島津家久の命令で山伏となり「慶忠坊」と称する。のちに「宝寿院」とも称した。

兄の島津光久の命令で還俗し、御屋地(おやじ、島津義弘の長女)の所領を相続する。御屋地は島津氏豊州家に嫁いでいて、島津忠広は豊州家の次男家として扱われた。延宝5年(1677年)には豊州家から独立し、島津本家の「準三男家」として扱われる。

島津光久の家老を務め、藩政を支える。再度の剃髪のあとは「万山」と号した。

元禄16年(1703年)8月3日没。享年84。法名は「万山孤峯大居士」

 

 

六男/町田忠尚

町田忠尚は元和7年(1621年)2月2日生まれ。母は宮原景辰の娘。

幼名は「梅千代丸」。通称は「出羽守」。初名は「忠共」。

寛永元年(1624年)に町田久幸が嗣子なく没したたために、町田氏の家督を継承する。このとき4歳(数え年)。町田氏は島津氏の一族で、島津忠光を祖とする。13世紀より薩摩国石谷(いしたに、鹿児島市石谷町)を領する。町田氏の一族からは家老も多く出ている。

延宝4年(1676年)9月3日没。享年56。法名は「提卯忠攜大禅伯」。

 

 

七男/島津忠紀(垂水家)

元和8年(1622年)2月19日生まれ。母は島津忠清の娘。

幼名は「萬千代」。通称は「越後守」。

大隅国垂水(鹿児島県垂水市)を領する垂水島津家の家督を継ぐ。垂水島津家では島津久敏が早世し、その後嗣としてまずは島津久貞(島津家久の四男)が入った。しかし、島津久貞は北郷氏継ぐことになり、兄にかわって島津忠紀(ただのり)が垂水家に入った。

正保4年(1647年)8月22日没。享年26。法名は「玉峯英関居士」。

垂水家は島津忠将(島津貴久の弟)を祖とし、「脇之惣領」とも位置付けられている。島津家におけるナンバー2の家柄であった。島津家久と垂水家との間にはいろいろあった(詳細は「七女/島津久章室」を参照)。島津久敏には弟がいるのに、本家から養子が入って家督を奪った形になった。

 

 

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八男/禰寝重永

元和8年(1622年)7月20日生まれ。母は鎌田政重の娘。貞享5年(1688年)8月23日没。享年67。法名は「洞覚英仙大居士」

幼名は「康千代丸」。通称は「七郎」「右近」。禰寝氏の家督を継承し、禰寝重永を名乗る。

 

禰寝氏は大隅国禰寝院(ねじめいん、鹿児島県)に土着。平安時代末期にはその存在が確認できる。平姓を称するが、もともとは建部姓。平重盛の後裔を自称し、18世紀に「禰寝」から「小松」に名乗りを改めている。中世にも大きな力を持ち、島津氏とは協力したり対立したり。戦国時代は島津貴久・島津義久と対立するも、元亀4年(1573年)に禰寝重長(しげたけ)が降伏。以降は島津氏の臣下となる。文禄4年(1595年)に豊臣秀吉の命令で所領替え。薩摩国吉利(よしとし、鹿児島県日置市日吉町吉利)に移封となった。

禰寝氏では世継ぎの早世が相次ぎ、島津家から養子を迎える。当初は島津家久九男が入るが、他家を継ぐために抜ける。かわって島津家久八男が家督を継いだ。

島津氏本家の血が入り、禰寝氏(小松氏)は島津一門のような扱いを受ける。藩の家老も出す。

 

禰寝氏についえは、こちらの記事にて。

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九男/島津久雄(永吉家)

元和8年(1622年)8月11日生まれ。母は相良長泰の娘。寛文7年7月12日没。享年46。法名は「才雄院松屋日大居士」。

幼名は「福寿」。通称は「安芸守」。初名は「久良」。当初は禰寝氏に養子として入るが、寛永11年(1634年)に永吉島津家の家督を継ぐことに。島津久雄(ひさたか)と名乗る。

永吉家は中務大輔の島津家久(島津貴久の四男)を祖とする。島津家久(島津忠恒)とは同名でややこしいが、叔父にあたる。島津家久は戦才に優れ、島津氏の勢力拡大を牽引した。のちに日向国佐土原(さどわら、宮崎市佐土原)を領する大名となった。2代目は島津忠豊(ただとよ)といい、別名の「島津豊久」のほうでよく知られている。島津忠豊(島津豊久)は関ヶ原の戦いで戦死し、佐土原は没収される。その家臣団は薩摩国永吉(鹿児島県日置市吹上町永吉)に移され、こちらの家は「永吉島津家」と呼ばれるようになった。

島津豊久には島津忠仍(島津忠直、ただなお)という弟がいたが、なぜか家督を継がず。島津忠仍は喜入氏から娘婿をとって後嗣とした。島津忠栄(しまづただひで)という。その島津忠栄も早世し、本家から養子が入ることになった。それが島津久雄ということになる。

 

永吉島津家は島津家久・島津豊久から続く。

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八女/島津久頼(市成家)室

寛永元年(1624年)9月14日生まれ。母は鎌田政重の娘。寛永21年(1644)7月19日没。享年21。法名は「月桂貞秋大姉」。

大隅国市成(いちなり、鹿児島県鹿屋市輝北町市成)を領した敷根頼喜(島津久頼、ひさより)の正室となる。

敷根氏は美濃国の源姓土岐氏の一族を称する。大隅国敷根(鹿児島県霧島市国分敷根)を領し、のちに市成に移る。16世紀には敷根頼賀が島津氏に協力。その孫の敷根頼元も島津氏のもとで活躍した。敷根頼元が朝鮮で陣没する。男子がなかったので、島津忠長(ただたけ、島津義久・島津義弘らの従兄弟にあたる)の三男を娘婿に迎えて後継者とする。敷根立頼(たつより)と名乗る。その敷根立頼の次男が敷根頼喜で、そこに島津家久八女が嫁いだ。

寛永20年(1643年)に敷根頼喜は「島津久頼」と名乗りを変える。島津光久から「島津」姓と「久」の字を拝領されてのことだった。これ以降、敷根氏は「島津」を名乗り、「市成島津家」とも呼ばれる。

 

 

十男/鎌田正勝

鎌田正勝(かまだまさかつ)は寛永2年(1625年)6月13日生まれ。母は牧胤親の娘。寛文6年(1666年)6月4日没。享年42。法名は「龍吟院殿義雲紹高大居士」。

幼名は「松千代丸」。初名は「政由」。ほかに「政昭」「政直」「正信」などの名もあり。通称は「又七郎」「筑後」「蔵人」など。初めは伊集院久族(伊集院氏嫡流)の養子となっていたが、鎌田政統の養子となって家督を継ぐ。

島津義久・島津家久の家老に鎌田政近がいる。こちらの家柄である。鎌田正勝も島津光久の家老を務めた。

 

 

九女/肝付兼屋室

寛永2年(1625)11月16日生まれ。母は島津忠清の娘。寛文11年(1671年)6月3日没。享年47。法名は「芳屋雲英庵主」。

薩摩国喜入(きいれ、鹿児島市喜入)領主の肝付兼屋に嫁ぐ。こちらの肝付家は嫡流ではなく、15世紀に本家を出奔した肝付兼光を祖とする。本家を離れて島津家に仕え、「肝付氏三男家」「喜入肝付家」と呼ばれている。

戦国時代に肝付兼演(かねひろ、兼光の孫)が島津勝久(島津氏15代当主)の家老を務めた。この頃に大隅国加治木(鹿児島県姶良市加治木)を拝領して移り住む。それで「加治木肝付家」とも呼ばれた。肝付兼演は島津貴久と激しく戦うがのちに和睦。その嫡男の肝付兼盛(かねもり)は家老を務め、多くの武功も挙げた。文禄4年(1595年)に豊臣秀吉に命じられて、喜入へ所領替え。江戸時代も家老を出し、藩政を支えた。

 

喜入肝付家については、こちらの記事にて。

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十女

寛永2年(1625年)11月16日生まれ。母は崎山盛秀の娘。夭折。

 

 

十一女/島津久茂(内記家)室

寛永3年(1626年)7月15日生まれ。母は家村重治の娘。承応2年12月1日(1654年1月)没。享年28。法名は「月清貞寒」。

島津久茂(ひさしげ)の正室となる。島津久茂は島津尚久(島津貴久の弟)にはじまる宮之城島津家の一族。宮之城家3代の島津久元(ひさもと)の次男である。島津久茂は島津家久の加冠で元服し、その娘を妻に迎える。新たに分家が立てられ、「内記家」と呼ばれる。大隅国蒲生北村(鹿児島県姶良市蒲生町北)に所領を得て、「基太村(北村)」を家号とした(のちに島津に復姓)。島津久茂は藩の重職を担い、家老も務めた。

宮之城島津家については、「十六女/島津久竹(宮之城家)室」のところで説明する。

 

 

十一男/伊集院久国

寛永3年11月26日(1627年1月)生まれ。母は鎌田政重の娘。寛文元年(1661年)6月25日没。享年36。法名は「芳岩永春大居士」。

伊集院久国(いじゅういんひさくに)と名乗る。初名は「忠良」。通称は「右衛門」。伊集院忠栄の猶子となり家督を継ぐ。伊集院久治(ひさはる)から続く家である。伊集院久治は島津義久・島津家久の家老も務めた。伊集院久治の後継者には早世が続いた。

 

 

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十二男/島津忠朝(日置家)

寛永4年(1627年)5月25日生まれ。母は川村秀政の娘。延宝3年(1675年)8月17日没。享年49。法名は「清海院洞竜真仙大居士」。

島津忠朝(ただとも)は日置家を継ぐ。幼名は「長千代」。通称は「又十郎」「三郎右衛門」など。初名は「忠知」といい、「久心」「忠心」「忠康」など名を変える。

寛永11年(1634年)に桂忠能の養子となるが、慶安2年(1649年)に桂家から実家に戻る。その後、万治3年12月22日(1661年1月)に島津光久の命令で、島津常久の後嗣として日置家の当主となる。

日置島津家については「三女/島津久慶(日置家)室」のところで説明している。

島津久慶は常久の子で、家督も相続している。島津家久三女を正室に迎えて重用され、島津家久・島津光久の家老も務めた。しかし島津久慶の死後に、讒言があり日置家の系図からその名が消される。そして、藩主の弟が日置家の当主として送り込まれた。

 

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十三男/伊集院久朝

寛永4年12月18日(1628年1月)生まれ。母は牧胤親の娘。元禄17年(1704年)2月16日没。享年78。法名は「寿峰院無参玄量大禅定門」。

伊集院氏嫡流を相続し、伊集院久朝(いじゅういんひさとも)と名乗る。幼名は「亀千代丸」。初名は「久立」。通称は「源助」「十右衛門」。

伊集院氏は島津一族の中でも古い家柄だ。13世紀に薩摩国伊集院(鹿児島県日置市伊集院)の地頭代として下向したのが始まりとされる。中世には大きな力を持ち、島津氏と対立したりもした。伊集院氏は15世紀半ばに没落するが、戦国時代には伊集院忠朗・伊集院忠棟・伊集院久治・伊集院久信など庶流の者たちが島津貴久のもとで活躍している。

伊集院氏嫡流の家督は伊集院久信(ひさのぶ)の長男が相続。伊集院久族という。ただ、この伊集院久族には後嗣がなく、島津家久九男の松千代丸(母は牧胤親の娘)を養子としていた。しかし、松千代丸は鎌田家を継ぐこと(鎌田正勝)になり、かわって弟の亀千代丸が伊集院氏の家督を継承することになった。

 

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十四男/伊勢貞昭

寛永6年(1629年)5月14日生まれ。母は崎山盛秀の娘。寛文3年(1663年)8月4日没。享年35。法名は「幽潤堅心大居士」。

伊勢貞昭(いせさだあき)は伊勢氏の家督を継承。幼名は「鶴丸」。通称は「隼人正」「兵部」など。伊勢貞昌(さだまさ)は嫡子が早世したことから、島津家久に願い出てその十四男を養子に迎え入れた。

伊勢氏は、もともとは「有川(ありかわ)」を名乗りとしていた。有川氏は池大納言平頼盛の後裔を称する。16世紀に平家の名門である伊勢氏の許しを得て、「有川」から「伊勢」に名乗りを変えた。

有川氏(伊勢氏)は島津義弘の配下として活躍。そして伊勢貞昌は島津久保(島津義弘の次男、家久の兄)の側近となる。島津久保や朝鮮で病死したあとは、島津忠恒(島津家久)の付き従う。その後は島津家久・島津光久の家老を務めている。

伊勢家を継いだ伊勢貞昭も家老として、兄の島津光久を支えた。

 

 

十五男/樺山久尚

寛永6年(1629年)7月4日生まれ。母は川村秀政の娘。正保3年(1646年)1月9日没。享年18。法名は「花渓浄春居士」。

樺山家の家督を継いで、樺山久尚(樺山ひさなお)と名乗る。通称は「又九郎」。薩摩国祁答院藺牟田(けどういんいむた、鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田)

樺山氏は島津忠宗(島津氏4代)五男の島津資久を祖とする。「樺山」の名乗りは日向国三俣院の樺山(宮崎県北諸県郡三股町樺山)を領したことに由来する。樺山氏は南北朝争乱期より名が見える。16世紀には樺山善久(よしひさ)が島津貴久に協力し、島津氏の勢力拡大に大きく貢献する。ちなみに樺山善久は島津貴久の姉を正室としている。また、島津家久(島津貴久の四男のほう)は樺山善久の娘を正室としている。

善久次男の樺山忠助(ただすけ)・その次男の樺山久高(ひさたか)も活躍した。樺山久高は島津義久・島津家久の家老も務めた。また、慶長14年(1609年)の琉球攻めでは樺山久高が大将として出陣している。

樺山久高は長命であったが、子と孫が相次いで早世する。そして、島津家久(島津忠恒)の子を養子として家督を継がせた(樺山久尚)。

しかし、樺山久尚も早世してしまう。その後は、東郷昌重が樺山家の継承を命じられた。樺山久広(ひさひろ)と名乗る。樺山久広(東郷昌重)は樺山氏の血を引いている。祖父は島津家久(島津貴久の四男、忠恒の叔父)で、祖母は樺山善久の娘だ。

 

樺山氏につういては、こちらの記事にて。

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十二女

寛永8年(1631年)1月6日生まれ。母は崎山盛秀の娘。夭折。

 

 

十三女/入来院重頼室

寛永9年(1632年)5月13日生まれ。母は家村重治の娘。承応2年12月20日(1654年1月)没。享年22。法名は「梅玉妙心大姉」。

入来院重頼(いりきいんしげより)の正室となる。

入来院氏は平姓の渋谷氏の一族で、薩摩国入来院(鹿児島県薩摩川内市入来町)を14世紀より領する。中世の入来院氏は強盛で、島津氏と敵対することも多かった。16世紀に入り、入来院重聡(しげさと)が島津貴久に協力。その娘を島津貴久の継室となり、島津義久・島津義弘・島津歳久を産んだ。つまり、島津義弘の子である島津忠恒(島津家久)にも入来院氏の血が入っている。

16世紀半ばになると入来院氏は再び島津氏と敵対する。抗争は長年にわたるが、入来院重豊(しげとよ)が永禄13年(1570年)に島津氏に降伏した。

入来院重豊は世継ぎのないまま没し、後嗣には島津以久の三男が入る。入来院重時(いりきいんしげとき)と名乗った。

入来院重時は関ヶ原の戦いで戦死。戦場を離脱するが追討部隊に見つかって討たれた。その後、入来院氏の家督は入来院重高(しげたか)が継承。この人物は薩州家の島津義虎の五男である。入来院重頼は重高の孫にあたり、薩州家の血筋ということになる。

そして、正室には藩主の娘を迎え入れることにも。すっかり島津氏の血が濃くなった入来院氏は、一門のような扱いを受ける。

 

入来院氏についてはこちら。

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十四女

寛永10年(1633年)3月12日生まれ。母は崎山盛秀の娘。夭折。

 

 

十五女

寛永11年(1634年)2月24日生まれ。母は崎山盛秀の娘。夭折。

 

 

十六男

寛永12年(1635年)9月生まれ。母は崎山盛秀の娘。夭折。

 

 

十六女/島津久竹(宮之城家)室

寛永13年(1636年)10月18日生まれ。母は崎山盛秀の娘。宝永5年(1708年)10月27日没。享年73。法名は「浄真智広」。島津家久の晩年の子は早世が多かったが、十六女は長命だった。

名は「萬亀」「玉鶴姫」とも。宮之城家(みやのじょうけ)の島津久竹(ひさたけ)の正室となる。

宮之城島津家は、薩摩国宮之城(鹿児島県薩摩郡さつま町の宮之城地区)を領する。島津尚久(なおひさ、島津貴久の弟)にはじまる家柄である。尚久の子の島津忠長(ただたけ)は島津義久の家老。忠長の子の島津久元(ひさもと)は島津家久の家老。その子の島津久通は島津光久の家老。

そして久通の子の島津久竹も家老を務め、妻の兄である島津光久を支えた。

島津家久十六女は一男五女を産む。世継ぎの島津久洪も家老に任じられる。また、島津久洪は島津光久八女を正室としている。

 

 

 

島津氏の分家には島津家久(島津忠恒)の多くの子がからんでいる。こちらの記事もどうぞ。

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<参考資料>
『略御系図』
天保13年(1842年)に島津忠教(島津久光)自筆
玉里文庫/鹿児島大学デジタルコレクションより

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜 一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1989年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜二』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1990年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 1992年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年

鹿児島県史料集6『諸家大慨・別本諸家大慨・職掌紀原・御家譜』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1966年

『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『薩摩藩家老の系譜』
著/林匡 発行:鹿児島県 2015年

鹿児島県史料『旧記雑録拾遺 伊地知季安史料集三』
編/鹿児島県歴史資料センター黎明館 発行/鹿児島県 2001年

ほか