薩摩国谿山郡福本に如意山清泉寺(にょいざんせいせんじ)はあった。現在の鹿児島市下福元町のうち。古い寺院であったとされ、岸壁には摩崖仏がある。明治の初めに廃寺となり、寺院の遺構が残っている。
そして、寺院跡には大きな五輪塔も。この地で討たれた島津久章(しまづひさあきら)の墓塔である。
日羅の開基とされるが
日羅(にちら)の開基と伝わる。日羅は6世紀の人物で、百済からやってきた。肥後国の豪族である火葦北阿利斯登(ひのあしきたのありしと)の子とされ、百済に渡って高僧となっていた。この伝承が本当ならばものすごく古い寺院ということになるが……さすがに古すぎて、史実とは思われない。
薩摩国には日羅を開基とする寺院がけっこうある。坊津(鹿児島県南さつま市坊津町)の如意珠山一乗院(にょいしゅざんいちじょういん)、阿多(南さつま市金峰町)の水晶山花蔵院上宮寺(すいしょうざんかぞういんじょうぐうじ、和多利神社、わたりじんじゃ)、谿山(谷山)の補陀山慈眼寺(ほださんじげんじ)など。薩摩国だけでなく、日羅伝説のある寺院は九州のあちこちにある。
補陀山慈眼寺跡についてはこちらの記事にて。
水晶山花蔵院上宮寺(和多利神社)についてはこちらの記事にて。
『三国名勝図会』によると、河邊郡の忠徳山洞岳院寶福寺(ちゅうとくさんどうがくいんほうふくじ)の覺卍和尚が応永年間(1394年~1428年)に再興したとある。清泉寺は寶福寺(宝福寺)の末であるという。実際の開山はこちらであるようにも思われる。
忠徳山洞岳院寶福寺は河邊郡清水(きよみず、鹿児島県南九州市川辺町清水)の熊ヶ岳の中腹にあったとされる。
清泉寺跡をあるく
谷山に七ツ島シーサイドパークという商業エリアがある。その裏手の山に清泉寺跡はある。五差路があったり、細い道を入っていたりと、場所はなかなかわかりにくい。そして細い道の行き止まりに「大和さぁ、上意討ちの地」という案内板がある。
案内板の近くには湧水があり、水を汲めるようになっている。「清泉寺」という寺号もこのことに由来するものだろう。水汲み場の前にちょっと広めのスペースがあり、車をここに停められる。
水汲み場から川が見える。そっちのほうへ行くと清泉寺跡への入口があった。こちらの扉を開けて中へ。
参道にも水が流れ、岸壁に摩崖仏がある。大きな石仏は本尊の阿弥陀如来像とのこと。日羅の作もと伝わる。
小さめの阿弥陀仏も。こちらには建長3年(1251年)の紀年銘あり。
ほかにも石塔や石仏、坊主墓などが確認できる。
石段の遺構。『谷山市史』によると、ここに本堂があったとのこと。また、石段前には玉垣と思われるものもある。こちらについては後述する。
石段から参道が奥へと伸びる。
参道を登りきると墓石群がある。
中央には大きな五輪塔。これが島津久章の墓塔である。
島津久章が討たれた地
正保2年12月11日(1646年1月27日)、清泉寺にて島津久章が上意討ちにされた。島津久章は分家の新城家(しんじょうけ)の当主。通称は「大和守(やまとのかみ)」。
寛永17年(1640年)5月に江戸からの帰国の途中に、島津久章は京で失踪する。その前に、江戸で事件を起こしたとされ、徳川御三家に無礼があったとも。同年7月に紀伊国の高野山蓮金院(和歌山県伊都郡高野町)に潜伏しているところを見つかり、捕縛された。
薩摩に連行された島津久章は河邊清水の寶福寺(宝福寺)へ蟄居させられた。そして、正保2年12月10日に清泉寺に移されて、遠島が言い渡される。12月11日、使者の新納久親・市来家尚らが清泉寺で処分を伝えるが、島津久章はこれを拒絶。乱闘となり、島津久章主従は斬殺された。遺骸は清泉寺に葬られた。
島津久章の墓塔は高さ2.5mほど。大きなものだ。
法名の「松月庭栢庵主」の文字も確認できる。
五輪塔の背後には島津久章とともに亡くなった家臣の墓もある。 山下才次(法名は「遠室道久上座」)・山下才七(法名は「自休道然上座」)・財部権之丞(法名は「雲山勝極居士」)のものだ。いずれも「正保二年乙酉十二月十一日」の日付が刻まれている。
また、本堂石段前の玉垣には島津久章の首塚があったという。『谷山市史』に情報あり。
首塚 正保二年島津大和守久章がこの場所において丘の上からの弓射に負より傷し遂に自害し果てた所と伝承される。切石をもって囲を造り樹木を植えてある、一メートル二十センチ方形の囲である。四囲の石柱に次の文字が刻されている。「明和八年辛卯四月吉画日」の紀年銘があり寄進者の氏名として「平山次右衛門長昌、薗田休右衛門信成、池田六郎右衛門秋屋、桑波田茂平田兼当、岡留唯右衛門共房、中村平左衛門清胤」である。 (『谷山市史』より)
この事件については、あまり詳しく伝わっていない印象がある。島津家にとっては、触れたくない案件だったと思われる。
島津氏18代当主および薩摩藩初代藩主は島津家久(しまづいえひさ、島津忠恒、ただつね)という。島津家久(島津忠恒)は島津義弘(よいひろ)の三男。伯父の島津義久(よしひさ)から家督を継承するが、そこには問題もはらんでいた。
島津義久には男子がなく、三女の亀寿を島津久保(ひさやす、島津義弘の次男)を後継者とした。しかし、島津久保は朝鮮出征時に病死してしまう。そこで、その弟の島津忠恒をあらためて後継者とする。このときに亀寿を再婚させている。ただ、夫婦仲は悪く、子もできなかった。
島津義久としては、亀寿が自身の孫を産むことを期待していた。だが、その可能性は見えない。じつは、島津義久の孫はすでに何人かいる。長女の御平は薩州家の島津義虎(よしとら)に嫁いで6人の男子をもうけている。また、次女の新城は島津彰久(てるひさ)との間に男子を産んでいる。
新城の子は島津忠仍(ただなお)という。のちに島津久信(ひさのぶ)とも名乗る。島津忠仍は家督継承の候補者となりうる血統の持ち主であった。
島津義久の父は島津貴久(たかひさ)である。その弟に島津忠将(ただまさ)がいる。そして、島津忠将の子が島津以久(もちひさ)で、こちらは島津義久の従兄弟にあたる。さらに島津以久の子が島津彰久で、こちらへ新城が嫁ぐ、二人の間の子が島津忠仍(島津久信)となる。
島津義久は、自分の外孫で父方の血筋も申し分のない島津忠仍(島津久信)を後継者にしたいと考えるようになった。島津忠仍(島津久信の)後継者擁立のために島津義久の家老が動いたりもしている。
けっきょく島津家久(島津忠恒)の当主の座はそのまま。一方で、島津久信は祖父の島津以久から大隅国垂水(たるみず、鹿児島県垂水市)を継承。「垂水家」と呼ばれ、島津氏の分家の中でもいちばんの家柄として扱われた。
後継者を嫡男の島津久敏(ひさとし)とした。しかし、島津久敏が病弱であるとして、島津久信は廃嫡しようとする。そして弟の島津久章を立てようとした。
元和2年(1616年)、島津久信は嫡男の島津久敏(ひさとし)を廃嫡して、弟の島津久章を立てようとした。そして、これを諫めた家臣を手打ちにしてしまう。この事件のあと、島津久信は隠居させられる。家督は島津久敏に譲られた。
寛永元年(1624年)、島津久敏は23歳の若さで亡くなる。病死とされる。弟の島津久章は垂水家の家督を継ぐことを許されず、かわりに島津家久の子が養子として入った。垂水家は乗っ取られる形となった。
島津久章は新たに「新城家」を起こすことになる。島津家久の七女を妻に迎え、祖母から新城(垂水市の新城地区)・鹿屋(鹿児島県鹿屋市)などの所領を相続した。
そして、寛永14年(1637年)4月9日に島津家久が結婚祝いで島津久章のもとを訪れる。島津久信も面会する。それからしばらくあとの5月11日に島津久信が急死。毒殺とも噂される。
寛永15年(1638年)に島津家久が没し、2代藩主には島津光久(みつひさ)がつく。島津光久は妹の婿でもある島津久章を重用した。そして、島津久章は藩主の名代として江戸に入るのだが……そのあと事件を起こしたのである。
「在家菩薩」と「妙宥大姉」
清泉寺の参道からちょっと離れた川沿いの岸壁にも摩崖仏がある。
目立つものでは金剛力士像が一対(阿形と吽形)。関連の碑文には貞享元年(1684年)の銘があるという(実物は見ることができず)。
また、「在家菩薩」と「妙有大姉」の銘の入った像もある。島津忠良(ただよし)と妻の御東の像であるとされている。島津忠良は法名を「梅岳常潤在家菩薩」をといい、御東は「寛庭芳宥大姉」という。
清泉寺跡は薮になっているところも多い。たぶん、散策できたのは寺院跡のごく一部だろう。足を踏み入れられない場所にも寺院の痕跡が残っていると思われる。
<参考資料>
『三国名勝図会』
編/橋口兼古・五代秀尭・橋口兼柄・五代友古 発行/山本盛秀 1905年
鹿児島県史料『旧記雑録 後編六・附録一』
編/鹿児島県歴史資料セソター黎明館 発行/鹿児島県 1986年
『谷山市誌』
編/谷山市史編纂委員会 発行/谷山市役所 1967年
『垂水市史 上巻』
編/垂水市史編集委員会 発行/垂水市 1974年
ほか