島津貴久(しまづたかひさ)のいちばんの協力者は、樺山善久(かばやまよしひさ)であろう。
16世紀の南九州において、島津氏は一族どうしで覇権を争った。本家筋の奥州家と、分家の薩州家と相州家と。この中で抗争を制したのが相州家の島津貴久だった。樺山善久は一貫して相州家に協力し、覇権の確立とその後の勢力拡大に貢献する。
樺山氏は島津氏の支族である。その歴史は南北朝争乱期にまで遡る。そして、なかなかの存在感を放っているのだ。そんな樺山氏について、ちょっとまとめてみた。
- 初代/島津資久(樺山資久)
- 2代/島津音久(樺山音久)
- 3代/樺山教宗
- 4代/樺山孝久
- 5代/樺山満久
- 6代/樺山長久
- 7代/樺山広久
- 8代/樺山善久
- 10代/樺山忠助
- 11代/樺山規久
- 12代/樺山忠正
- 13代/樺山久高
- 17代/樺山久広
- 藩家老を出す
- 近思録崩れ
なお、日付は旧暦にて記す。
初代/島津資久(樺山資久)
樺山氏の祖は、島津資久(すけひさ、樺山資久)という。通称は「六郎左衛門尉」「下野六郎」「三郎右衛門尉」「下野三郎」「安芸守」など。島津氏4代の島津忠宗(ただむね)の五男である。
ちなみに7人兄弟であった。長男が島津貞久(さだひさ、5代当主)。次男が和泉(いずみ)氏、三男が佐多(さた)氏、四男が新納(にいろ)氏、五男が樺山氏、六男が北郷(ほんごう)氏と、それぞれの祖となる。
樺山氏の名乗りは日向国三俣院の樺山(宮崎県北諸県郡三股町樺山)に由来する。三俣院は都城盆地の内である。
なお、島津資久(樺山資久)のすぐ下の弟(六男)は島津資忠(すけただ、北郷資忠)といった。北郷氏も都城盆地に根を下ろし、樺山氏と北郷氏はその後の歴史でも深く関わっていくことになる。
島津資久(樺山資久)の生没年は不詳。文書に建武3年(1336年)のものが確認でき、14世紀初め頃の生まれだろうか。また、永和2年(1376年)の文書が残っていることから、没年はそれ以降と考えられる。なかなかの長命だったようだ。
文保2年(1318年)3月15日付けで、島津忠宗が日向国の山西・樺山・石寺・嶋津・しもかはち・河南之内・北郷之内三ヶ一(いずれも宮崎県の南部)のあわせて300町を譲り渡す、という内容の文書もある。ただ、こちらは偽文書っぽい。というのも、文保2年(1318年)の時点で島津氏は日向国に所領を持っていない。
建武3年(1336年)、島津資久は大隅国西俣(にしまた、鹿児島県鹿屋市の吾平のあたり)の地頭代に任じらた。『樺山家文書』に島津貞久の下文があるとのこと。これが領主としての最初の記録だろうか。
14世紀の島津氏は、倒幕から南北朝争乱という時代の波にがっつりと巻き込まれた。島津資久(樺山資久)は、兄の島津貞久に従って戦った。
暦応3年・興国元年(1340年)、島津氏は薩摩国鹿児島郡(現在の鹿児島市)を攻めた。催馬楽城(せばるじょう、鹿児島市玉里団地)攻めは、島津資久(樺山資久)と島津資忠(北郷資忠)に任された。翌年の閏4月16日に城を陥落させている。
永和2年(1376年、天授2年)6月9日付けの、今川貞世(いまがわさだよ、今川了俊、りょうしゅん)の書状もある。
島津資久(樺山資久)は、日向国庄内(都城盆地)の島津・樺山・早水・寺柱を領し、そして樺山に住んだという。それがいつ頃なのかについては、記録が見あたらず。
日向国臼杵院(うすきいん、宮崎県の延岡市や日向市のあたり)の地頭職でもあったという文書もある。実際のところ、臼杵院の実効支配は困難だったと思われる。臼杵院ではなく、別の場所を拠点とせざるをえなかった。そして、樺山に移ってきたのでは? ……という想像もさせられる。
三俣院の樺山城(かばやまじょう、宮崎県北諸県郡三股町樺山)は、島津資久(樺山資久)が居城としたとも伝わる。
2代/島津音久(樺山音久)
島津資久(樺山資久)には子がなく、島津資忠(北郷資忠)の次男を養子とした。名を島津音久(おとひさ、樺山音久)という。通称は「左京亮」「美濃守」など。
生没年は不明。なお、61歳で没しているとのことで、応永17年(1410年)頃には樺山氏の当主が変わっているようである。逆算すると、14世紀半ば頃の生まれだろうか。
島津音久(樺山音久)は実兄の島津誼久(よしひさ、北郷誼久)とともに日向国庄内を守る。敵対勢力への最前線で奮戦するのである。
九州では南朝方が優勢だった。しかし、九州探題に任命された今川貞世(今川了俊)が応安4年・建徳2年(1371年)に九州入りし、つぎつぎと南朝勢力を攻略。北朝方(幕府方)優勢に傾いていく。島津氏久(うじひさ、島津貞久の子)も今川氏の求めに応じて協力していた。
そんな中で、永和元年・天授元年(1375年)8月に事件が起こる。肥後国の水島(みずしま、熊本県菊池市七城町)に参陣した少弐冬資(しょうにふゆすけ)が今川貞世(今川了俊)によって殺害される。少弐冬資の参陣は島津氏久の説得によるものだった。しかも説得を要請したのは今川貞世(今川了俊)である。
島津氏久は激怒して陣を去る。南朝方に転じた。「水島の変」以降、島津氏は今川氏と抗争を繰り広げることになる。
永和2年(1376年、天授2年)に今川貞世(今川了俊)が島津音久(樺山音久)にあてた書状がある。味方につけるためのものであろう。
翌年の天授3年(1377年、永和3年)には、征西大将軍の懐良親王(かねよししんのう)から島津音久(樺山音久)へ軍忠を賞する書状がある。島津氏久とともに南朝方に転じたと考えられる。
永和4年・天授4年12月(1379年1月)、今川満範(みつのり、貞世の子)が日向国庄内へ攻め込む。島津誼久(北郷誼久)が守る都之城(みやこのじょう、都城市都島町)を囲んだ。島津音久(樺山音久)も城に入り、ともに戦う。
島津氏久は日向国志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志町)から都之城救援の兵を出す。永和5年・天授5年(1379年)3月1日、簑原(みのばる、都城市簑原町)で島津軍と今川軍は激突した。簑原合戦は島津方が大勝した。
その後も庄内は、島津氏と今川氏の抗争の激戦地となった。島津音久(樺山音久)は島津方として転戦したことだろう。
明徳3年・元中9年(1392年)閏10月5日に北朝と南朝が合一(明徳の和約)。だが、九州では争いは終わらなかった。島津と今川の戦いは続く。
明徳5年(1394年)には三俣院の梶山城(かじやまじょう、宮崎県北諸県郡三股町長田)で激戦となる。同年、島津元久(もとひさ、氏久の子)は今川方に奪われていた野々美谷城(ののみたにじょう、都城市野々美谷町)を奪還すると、ここに島津音久(樺山音久)を入れて守らせた。
島津と今川の抗争は、今川貞世(今川了俊)の九州探題罷免により幕を閉じる。島津元久は幕府に帰順した。
3代/樺山教宗
島津音久(樺山音久)のあとは嫡男の樺山教宗(のりむね)がついだ。応永17年(1410年)頃のことである。通称は「安芸守」。生没年は不明。
15世紀に入ると、奥州家の島津元久と総州家の島津伊久(これひさ)が対立。この抗争は島津元久が制し、薩摩国・大隅国・日向国の守護職を幕府からも認められる。
だが、応永18年(1411年)に島津元久が急死すると、家督相続をめぐって揉める。当初は伊集院頼久(いじゅういんよりひさ)の嫡男の初犬千代丸(のちに伊集院煕久、島津元久の甥にあたる)が後継に立てられていたが、島津久豊(ひさとよ、元久の弟、8代当主)が強引に家督を相続する。
島津久豊はもともとは日向国の穆佐城(むかさじょう、宮崎市高岡町小山田)を拠点としていた。そのために、日向国との縁が深い。樺山教宗も島津久豊に協力する。
伊集院頼久は初犬千代丸とともに、島津氏奥州家の本拠地である鹿児島の清水城(しみずじょう、鹿児島市稲荷町)に入った。初犬千代丸は「島津為久」と名を改めた。このとき鹿児島にあった樺山教宗・佐多親久(さたちかひさ)・北郷知久(ほんごうともひさ)・吉田清正(よしだきよまさ)・蒲生清寛(かもうきよひろ)らがはかって、穆佐城の島津久豊に急ぎ伝えた。
知らせを受けた島津久豊は鹿児島に急行。島津為久を喪主として葬儀が行われているところに島津久豊が乱入し、位牌を奪って葬儀を執り行った。そして、自身が後継者であることを示した。
島津久豊に対して、伊集院頼久が反乱を起こす。総州家や伊作氏などもこれに呼応して大乱となった。
島津氏の混乱に乗じて、日向国では伊東祐安(いとうすけやす)が穆佐院に侵攻した。樺山教宗は北郷知久らとともに救援に向かうも大敗している。
また、応永24年(1417年)に島津久豊が薩摩国河邊(かわなべ、鹿児島県南九州市川辺)を攻めた際に、参陣した者の中に樺山教宗の名が確認できる。
島津久豊は激戦ののちに伊集院頼久を降伏させ、応永29年(1422年)には総州家の拠点を落とす。薩摩と大隅を制圧した。
4代/樺山孝久
時期はわからないが、樺山教宗は57歳で没したという。長男の樺山孝久(のりひさ)があとを継ぐ。名は「樺山教久」とも。通称は「二郎三郎」「美濃守」など。
島津家では島津久豊が没したあと、長男の島津忠国(ただくに、9代当主)と次男の島津用久(もちひさ、島津好久、よしひさ)が対立。永禄4年(1532年)に島津忠国は鹿児島から大隅国末吉(すえよし、鹿児島県曽於市末吉)に追放される。かわって島津用久が守護代に擁立された。島津忠国は末吉から政権奪還を目指した。樺山孝久は島津忠国を支援する。
忠国派と用久派の抗争が続く中で、永享12年(1440年)に日向国で事件がある。幕府に追われていた大覚寺(だいかくじ)の義昭(ぎしょう)が櫛間(くしま、現在の宮崎県串間市)に潜伏していたことが発覚する。
義昭とは6代将軍の足利義教(よしのり)の弟にあたる。足利義教は猜疑心が強く、義昭に対しても謀叛の疑いをかける。義昭は永享9年(1437年)に京を出奔していた。義昭は還俗して足利尊有(たかもち)と名乗り、櫛間で挙兵しようとしていた。
幕府は島津忠国に義昭(足利尊有)の追討を命じる。嘉吉元年(1441年)3月13日に島津忠国は追討軍を派遣する。樺山孝久はこれに加わっている。義昭(足利尊有)は自害し、首は京へ届けられた。
大覚寺義昭事件に対応したことで、幕府の信頼を得た島津忠国は勢力を盛り返していく。嘉吉元年(1441年)9月には鹿児島に戻って島津用久を追い出した。その後も、島津用久は谷山城(場所は鹿児島市谷山)に移って抵抗を続ける。
だが、忠国派では、樺山孝久・和田正存・高木殖家らが離反する。さらに樺山孝久を盟主とする国一揆が形成された。これには庄内の和田正存や高木殖家のほか、櫛間の野辺盛吉や都於郡(とのこおり、宮崎県西都市)の伊東祐堯(いとうすけたか)も参加している。
第三勢力となった日向の国一揆は、用久派と連携をとりながら忠国派と争った。
だが、文安3年(1446年)頃に樺山孝久が島津忠国のもとに帰参する。国一揆は崩壊する。島津用久は孤立し、文安5年(1448年)に兄と和睦した。
5代/樺山満久
樺山満久(みつひさ、か)は樺山孝久の長男。「二郎三郎」「兵部少輔」などを称する。母は高木氏の娘。妻も高木氏の娘。
高木氏は日向国庄内志和池(しわち、宮崎県都城市志和池)の領主で、日向の国一揆で樺山氏とも連携をとっている。しかし、文安5年(1448年)に樺山孝久は島津忠国と手を組み、かつて同盟関係にあった高木氏を攻め滅ぼしている。
樺山満久についてははあまり記録がない。42歳で亡くなったとされ、父よりも先に没しているかも。
6代/樺山長久
樺山長久は樺山満久の次男。兄は早世している。「安芸守」を称する。入道名は「宗榮」。母は高木氏の娘。妻は北郷数久の娘。
樺山長久は野々美谷城(野々三谷城、ののみたにじょう、都城市野々美谷町)を拠点に活動していた。
文明6年(1474年)に島津立久(たつひさ)が没し、12歳(数え年)の島津忠昌(ただまさ)が島津氏奥州家の家督を継承した。島津立久の治世は安定していたが、代替わりすると南九州は乱世に突入する。幼主に代わって政治を仕切る家老たちと、力を持つつつあった島津氏の分家が対立。分家の豊州家や薩州家などが反乱を起こし、有力国衆も呼応した。
反乱の鎮圧のために、樺山長久は島津忠昌の配下として出陣している。文明8年(1476年)、三俣院で挙兵した島津豊久(伯州家)・島津忠徳(羽州家)を、北郷敏久らとともに降している。また、文明9年(1477年)には加治木満久が叛く。大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう、鹿児島神宮、鹿児島県霧島市隼人町)の近くで戦いとなった。ここでも樺山長久は守護方で活躍した。
永正5年(1508年)に島津忠昌が自殺。その後は長男の島津忠治、次男の島津忠隆と本宗家当主の早世が続く。そして、永正16年(1518年)に三男の島津忠兼(ただかね)が守護となる。
島津忠兼は樺山長久に所領替えを命じる。大隅国の堅利・小濱・小窪・河北・持松・濱村(鹿児島霧島市の隼人町・牧園町のあたり)が新たに与えられた。一族が相伝してきた日向国庄内の地より離れることになった。
大永元年(1521年)、樺山長久は堅利小田(霧島市隼人町小田)に移った。しばらくのちに樺山長久は没する。享年66。
7代/樺山広久
樺山広久(ひろひさ)は樺山長久の長男。母は北郷数久の娘。妻は本田兼親(かねちか)の娘。通称は「太郎左衛門尉」「美濃守」など。入道名は「数外」。のちに名を「樺山信久(のぶひさ)」と改める。生没年不詳。
大永5年(1525年)、樺山広久は本田親尚(ほんだちかひさ)の企てに巻き込まれる。
本田親尚は本田氏庶流であるが、島津忠兼の執政を務めていた。本田氏嫡流の本田兼親に謀反の疑いがあると讒言し、これを聞き入れた島津忠兼が本田兼親から曽於郡城(そのこおりじょう、鹿児島県霧島市国分重久)を召し上げて本田親尚に与えた。
また、本田親尚は執政の立場を利用して、樺山氏の所領にも手を付ける。小窪・河北・臼崎・持松の地を奪われる。
本田兼親は清水隼人城(きよみずはやとじょう、隼人城のことか、場所は霧島市国分上小川)にたてこもる。樺山広久は本田兼親の娘を妻とし、その嫡男の本田親安とは「水魚之交」の間柄であったという。大永5年9月、小濱に生別府城(おいのびゅうじょう、鹿児島県霧島市隼人町小浜)を築き、ここに入って本田親尚と対峙する。
なお、大永6年(1526年)に北郷忠相が曽於郡城に軍勢を出す。内応者があり、曽於郡城は落ちた。
大永6年(1526年)秋、島津本宗家で政変がある。守護の島津忠兼の力は弱く、正室の実家である薩州家(さっしゅうけ)を頼りにしていた。しかし、薩州家の島津忠興(ただおき)が前年に急死すると、かわって相州家(そうしゅうけ)の島津運久(ゆきひさ)・島津忠良(ただよし)が実権の掌握した。政治は島津忠良に委ねられることとなり、さらにその嫡男の虎寿丸が島津忠兼の後継者に立てられた。虎寿丸は元服して島津貴久(たかひさ)と名乗る。大永7年になると島津忠兼は隠居し、鹿児島から出る(隠居を迫られ、追放された)。
樺山広久は相州家を支持したようだ。この頃に、嫡男の樺山善久(よしひさ)の正室として島津忠良の次女(島津貴久の姉)を迎え入れている。
大永7年(1527年)6月、薩州家が反撃に出る。島津忠良が大隅国帖佐へ出征している隙をついて、薩州家方は鹿児島を制圧する。島津貴久は鹿児島から落ちのびる。そして、隠居していた島津忠兼が鹿児島に戻って守護に復帰。名を島津勝久(かつひさ)と改める。
政権は再び薩州家が掌握した。一方で追い落とされた島津忠良・島津貴久は相州家の本拠地である薩摩国田布施(たぶせ、鹿児島県南さつま市金峰)で巻き返しの機会をうかがう。
相州家が劣勢となっても、樺山広久は相州家支持を変えず。本田親尚とのいざこざもあり、島津勝久に不満を持っていたのだろう。
大永7年7月、島津勝久は生別府城に兵を派遣。樺山広久は堅く守る。7月17日に総攻撃がかけられるも城は落ちなかった。
8月3日、島津勝久は生別府城を再び攻めさせた。城は落ちず。とはいえ、樺山氏は孤立無援の状態である。鹿児島への出頭が命じられ、樺山広久はこれに応じる。樺山善久を鹿児島に送ることとしたが……。
『樺山玄佐自記』(樺山善久の自記)によると、鹿児島へ行ったのは家臣の村田越前守が扮した偽物であったという。樺山善久(偽)はしばらく滞在したのち、9月29日夜に鹿児島を脱出。生別府城に戻った。その後、再召喚がかかるも、樺山氏側は応じなかった。
その後も、樺山氏は一貫して相州家の協力者であり続ける。
8代/樺山善久
樺山善久(よしひさ)は樺山広久の嫡男。 永正10年(1513年)の生まれ。初名は樺山幸久。通称は「安芸守」。入道名は「玄佐」。母は本田兼親の娘。妻は前述のとおり島津忠良の次女で、名を「御隅(おすみ)」という。御隅は島津貴久の姉である。
晩年に『樺山玄佐自記』を書き残す。戦国時代の島津家を知る貴重な史料となっている。
島津貴久の盟友
天文8年(1539年)に島津貴久は鹿児島を制圧。さらに同年8月には薩州家方の市来城・串木野城を攻め落とす。この戦いに樺山善久は参陣している。
島津貴久は薩州家を追い落とし、島津家の実権を握る。これに対して13人の国衆が反発する。こちらは本来の当主である島津勝久をかつぐ。その顔ぶれは国老の本田薫親(ほんだただちか)や肝付兼演(きもつきかねひろ)、一門衆の島津忠広(しまづただひろ、豊州家)や北郷忠相(ほんごうただすけ)、大隅国西部に勢力を持つ蒲生氏や祁答院氏など。
樺山善久のいる大隅国小濱は、周囲を島津貴久の敵対勢力に囲まれているような状況だった。天文10年(1541年)12月より本田薫親らが生別府城を囲む。島津貴久は救援のために出兵するも、加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木)で肝付兼演に大敗。生別府城にまで兵を送れなった。
天文11年(1542年)、島津貴久は本田薫親と和睦。その際に、樺山氏領の割譲を条件として出した。生別府城には使者が送られて樺山善久を説得。樺山善久はこれを飲む。樺山氏は小濱を離れて、かわりに薩摩国谷山福本(鹿児島市上福元町・下福元町)が与えられた。
天文17年(1548年)、本田氏に内訌がある。これに介入して島津貴久が出兵する。この戦いに樺山善久は従軍する。混乱の中で、大隅正八幡宮(鹿児島神宮)から救援要請があった際には、樺山善久の助言で島津貴久が救援を決めたとも。
本田氏の拠点の清水城(きよみずじょう、鹿児島県霧島市国分清水)は落城し、本田氏の所領を島津貴久は奪う。この中には樺山氏旧領も含まれていて、これらは再び樺山善久に与えられた。居城も生別府城に戻る。
このときに、島津忠良が生別府を「長浜(ながはま)」と呼称を改める。縁起の良い地名に変えた。
13人衆のうち、本田氏は没落。加治木の肝付氏は帰順。北郷氏や豊州家も島津貴久に従う。反勢力は瓦解し、島津勝久も国外へ逃亡した。天文21年(1552年)には島津貴久が幕府からも正式に守護として認められた。
天文23年(1554年)、蒲生範清(かもうのりきよ)・祁答院良重(けどういんよししげ)らが島津貴久傘下の加治木城を囲んだ。加治木城は肝付兼盛(かねもり、肝付兼演の子)が守る。長浜城(生別府城)は加治木城のすぐ東側に位置する。樺山善久は加治木城救援の軍勢に加わっている。
この加治木での戦いから、大隅国始羅郡(しらのこおり、現在の鹿児島県姶良市全域)で戦いが展開される。「大隅合戦」と呼ばれる。樺山善久は山田や帖佐の戦いで活躍している。
なお、弘治3年(1557年)の蒲生菱刈陣の戦いでは、嫡男の樺山忠副(ただそえ)が戦死している。
時代はやや下って永禄5年(1562年)、北原(きたはら)氏の内紛に島津貴久が介入する。この動きの中で、樺山善久の活躍が伝わっている。
北原氏は日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市・小林市)や大隅国栗野院(くりのいん、鹿児島県姶良郡湧水町)・横川(よこがわ、鹿児島県霧島市横川)など広範囲を領していた。しかし、当主の北原兼守(きたはらかねもり)が急死し、後継者となる男子が不在であった。そこへ伊東義祐(いとうよしすけ)が介入。北原兼守の妻は伊東義祐の娘であった。伊東義祐は娘を北原一族の別の者に再嫁させて当主に擁立し、実質的に北原家を乗っ取ってしまう。
北原氏家臣の白坂下総介・白坂佐渡介らは出奔し、島津貴久に援助を求めた。樺山善久はこれを取り次いだ。樺山善久は白坂氏らと共謀して、北原兼親(かねちか)の擁立を計画。北原兼親は肥後国球磨(熊本県人吉市のあたり)の相良義陽(さがらよしひ)のもとに匿われていた。北原兼親の祖父は北原氏を出奔して相良氏に身を寄せていた。
島津貴久は樺山善久らの案に賛同し、北原兼親の擁立に動く。相良氏も味方に引き込んで、どもに伊東氏が制圧した北原領内を攻めた。真幸院の飯野などを奪還した。その後、北原氏は転封となり、その旧領は島津氏の直轄領となる。この地には島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ、貴久の次男)が入った。
また、元亀元年(1570年)に樺山善久には横川が与えられてこの地に移る。
当初、樺山氏は島津貴久の「同盟者」という立場だった。次第に家臣団に組み込まれ、「重臣」的な立場へと変わっていった。。
朝鮮に出陣できず、悔しがる
樺山善久は長寿であった。文禄4年(1595年)に没。享年83。
晩年もなかな元気だったようだ。天正20年(1592年)にこんな歌を詠んでいる。
君か為名のため取し梓弓
八十余りの身こそつらけれ
樺山善久は島津義弘のお供として朝鮮に出陣することが、高齢のために許されなかった。そのことをかなり悔しがっている。
娘は島津家久に嫁ぐ、島津豊久は外孫
樺山善久の末娘は島津貴久四男の島津家久(いえひさ)に嫁ぐ。この娘は二男三女を産む。
長男は島津豊久(とよひさ)。島津家久の後継者となり、日向国の佐土原(さどわら、宮崎市佐土原町)などを領する。朝鮮の戦いでも活躍した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、島津義弘の軍勢に合流。撤退戦において戦死した。
次男は島津忠仍(島津忠直、ただなお)。東郷氏の家督をつぐが、のちに島津に復姓。兄が戦死したためにその後継者に指名されるが、病気を理由に辞退。養子をとって跡目とし、それが永吉島津家になる。島津忠仍の家系については、再び東郷氏を名乗る。
のちに島津忠仍の長男は、樺山氏の家督をつぐことにもなる。こちらについては後述する。
島津家久については、こちらの記事にて。
10代/樺山忠助
樺山忠助(ただすけ)は樺山善久の次男。母は島津忠良の娘の御隅。 天文9年(1540年)生まれ。初名は「樺山忠知」。通称は「助七」「兵部大輔」「安芸守」など。法号は「紹剣(じょうけん)」。妻は村田越前守の娘。『樺山紹劔自記』を執筆しており、こちらは島津家を知る貴重な史料となっている。
樺山氏の系図では兄の樺山忠副を「9代」とするが、こちらは若くして戦死している。
若い頃は父に従って転戦。弘治3年(1557年)の蒲生の戦いの従軍。このときに兄は戦死する。また、永禄10年(1567年)の菱刈氏・相良氏との戦いで、大口の平泉城(ひらいずみじょう、鹿児島県伊佐市平出水)を守った。元亀4年(1573年)の大隅国禰寝(ねじめ、鹿児島県肝属郡南大隅町根占)の戦いでも功あり。天正4年(1576年)の日向国高原(たかはる、宮崎県西諸県郡高原町)攻めにも出陣している。
島津氏が伊東氏から日向を奪うと、穆佐(むかさ、宮崎市高岡町)の地頭にも任じられている。
九州戦線においては、天正8年(1580年)からの肥後攻略戦に出陣。天正14年(1586年)の筑後国岩屋城(いわやじょう、福岡県太宰府市浦城)攻めにも参加した。
天正14年から翌年にかけての豊後攻めでは、日向から侵攻する島津家久に従って転戦。鶴賀城(つるがじょう、大分市上戸次利光)の包囲戦や、戸次川の戦いなどで活躍した。
慶長14年(1609年)没。享年70。
11代/樺山規久
樺山規久は樺山忠助の長男。弘治3年(1557年)生まれ。母は村田越前守地の娘。通称は「太郎三郎」「兵部太輔」。妻は新納武久の娘。
天正6年(1578年)、父が日向国穆佐の地頭に任じられる、こちらへ代わりに入る。この頃、樺山忠助は病のために静養中であった。早々に家督を譲れられていた可能性もあるかも。
豊後の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)・大友義統の軍勢が日向国に侵攻し、島津氏と大友氏は戦闘状態となる。天正6年(1578年)に大友軍が新納院高城(にいろいんたかじょう、宮崎県児湯郡木城町高城)を包囲。島津義久は軍勢を従えて日向に入り、同年11月に決戦となった。「高城川の戦い」「高城川原の戦い」「耳川の高い」と呼ばれるものである。
樺山規久は父の代理でこの戦いに出陣している。前哨戦となった松山陣への攻撃にも参加した。
その後、樺山規久は島津家久に従って従軍することが多くなる。天正9年(1581年)の肥後国水俣(熊本県水俣市)攻め、天正12年(1584年)の「島原合戦(沖田畷の戦い)」など。
天正14年(1586年)からの豊後攻めにおいては、島津忠平(島津義弘)に従って肥後口から侵攻。このときに父の樺山忠助は日向口の島津家久軍に加わっている。
豊臣政権下では島津義弘に従って朝鮮へ出陣する。しかし、文禄2年(1593年)に異国の地で病死。享年37。
12代/樺山忠正
樺山忠正は樺山規久の次男。名は「忠征」とも。天正10年(1582年)生まれ。母は新納武久の娘。
文禄2年(1593年)に父が急死し、幼くして家督をつぐ。慶長の役においては、叔父の樺山久高(ひさたか)とともに朝鮮へ渡海。島津義弘の軍勢に加わる。慶長3年(1598年)の泗川の戦いや露梁海戦などで活躍した。
慶長4年(1599年)に京の伏見で病死。享年19
13代/樺山久高
樺山忠正が嗣子のないなまま早世したので、樺山久高(ひさたか)が家督をついだ。樺山忠助の次男で、樺山忠正の叔父にあたる。
永禄3年(1561年)生まれ。母は村田越前守の娘。通称は「七郎」「治部太輔」「権左衛門尉」「美濃守」など。入道名は「玄屑」。
当初は大野忠高(おおのただたか)を名乗る。大野家(島津氏薩州家の分家)に養子に出され、こちらの家督をついでいた。
天正4年(1576年)の日向高原攻めで初陣。天正12年(1584年)の島原合戦(沖田畷の戦い)、天正13年(1585年)の阿蘇合戦、天正14年(1586年)の筑後遠征などを転戦。豊後攻めでは肥後口の島津歳久(としひさ、貴久の三男)の軍勢に加わった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は相模国の北条氏政・北条氏直を攻める(小田原攻め)。このときに、島津家からは島津久保(ひさやす、島津義弘の子)が出陣。その御供として、大野忠高(樺山久高)は従軍した。
天正19年(1591年)、養父の大野忠宗が島津義久により誅殺される。大野忠高(樺山久高)も加世田へ蟄居させられる。のちに谷山に移る。
天正20年(1592年)、朝鮮への出陣が島津家に命じられる。蟄居中の大野忠高(樺山久高)は島津久保に召し出され、従軍することになる。また、200石が加増され、島津義久の家老に任じられる。このときに樺山姓に復し、「樺山久高」と名を改めた。
文禄2年(1593年)、島津久保が朝鮮で病死。樺山久高は遺骸を薩摩国まで届ける役目を務めた。葬儀のあとに朝鮮の陣へ戻る。
慶長3年(1598年)、島津軍は「泗川の戦い」で劇的な大勝利をおさめた。また、「露梁海戦」でも奮戦する。樺山久高は甥の樺山忠正とともに軍功を挙げている。
慶長4年(1599年)、樺山忠正の病死により、樺山家の後継者が不在となる。そこで樺山久高に家督相続が命じられた。
樺山久高は島津忠恒(ただつね、島津家久、いえひさ、島津義弘の子)が当主となってからも、家老として重用された。慶長12年(1607年)には薩摩国出水(鹿児島県出水市)の地頭に任じられる。慶長14年(1609年)には、琉球侵攻の総大将を務めた。
慶長19年(1614年)には、私領の大隅国市成・百引(いちなり・もびき、鹿児島県鹿屋市輝北町)より転封。薩摩国藺牟田(いむた、鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田)が新たに与えられる。樺山氏は幕末まで藺牟田領主として続くことになる。
寛永5年(1628年)に薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上町)の地頭に任じられる。寛永11年(1634年)に伊作で没する。享年75。
17代/樺山久広
樺山久高のあとは当主の早世が続いた。系図のうえで14代とされる樺山久守は、寛永元年(1624年)に父に先立って没する。享年25。15代の樺山久辰は樺山久高の孫にあたる。こちらは寛永16年(1639年)に没する。享年18。
16代には島津忠恒(島津家久)の十五男が養子として入り、樺山家の家督を継承。樺山久尚と名乗った。この樺山久尚も正保3年(1645年)に没する。享年18。
その後、樺山家の後継者に指名されたのは東郷昌重であった。樺山久広(ひさひろ)と名乗りを改める。じつは、樺山久広(東郷昌重)は樺山氏の血を引いている。祖父は島津家久(島津貴久四男のほう)で、祖母は樺山善久の娘である。
島津家久の次男は、はじめ「東郷重虎(とうごうしげとら)」と名乗る。渋谷一族の東郷氏の家督をついでいた。その後、島津への復姓が命じられ、「島津忠仍」と名乗りを改める。のちに「島津忠直」とも。兄の島津豊久の後継者にも命じられるが辞退。のちに嫡男の島津忠昌が東郷姓に復して、「東郷昌重」と名乗りを変えていた。そして樺山家へ。
藩家老を出す
江戸時代の鹿児島藩(薩摩藩)において、樺山氏は「一所持」という家格。藩の家老を出す家柄である。樺山久高が島津義久・島津忠恒(島津家久)の家老を務めたほか、樺山久初(ひさはつ)が島津継豊の家老を、樺山久智(ひさとも)が島津重豪の家老を、樺山久言(ひさこと、樺山久美、ひさよし)が島津斉宣の家老を、樺山久要が島津忠義の家老を務めている。
また、樺山久高の次男の樺山久盈の家系からも家老が出ている。
近思録崩れ
樺山久言は「近思録崩れ」という政変にも関わった。その頃の藩主は島津斉宣。前当主の島津重豪は積極的に藩政改革をすすめたが、その一方で藩の借金は膨れ上がっていた。島津重豪は隠居後も藩の実権を握る。藩主の島津斉宣は父の方針を否定し、財政の立て直しを図る。
文化4年(1806年)、島津斉宣は父の代からの家老たちを罷免して若い家老を起用する。このときに抜擢されたのが樺山久言だった。財政改革は樺山久言の主導のもとに進められた。樺山久言ら改革派は、『近思録』の研究会の参加者が多く、「近思録派」「近思録党」とも呼ばれた。
財政改革は藩内で激しい対立を生む。そして、最終的には島津重豪によって潰された。島津斉宣は隠居させられ、「近思録党」の者たちも処罰された。樺山久言は藺牟田に蟄居のあと、文化5年9月26日に切腹させられた。
<参考資料>
鹿児島県史料『旧記雑録 諸氏系譜 一』
編/鹿児島県維新史料編さん所 出版/鹿児島県 1989年
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年
鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1972年
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年
鹿児島県史料集35『樺山玄佐自記並雑 樺山紹剣自記』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1995年
『祁答院町史』
編/祁答院町誌編さん委員会 発行/祁答院町 1985年
『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』
著/新名一仁 発行/戒光祥出版 2017年
『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』
編著/新名一仁 発行/戎光祥出版 2023年
ほか