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おもに南九州の歴史を掘りこみます。薩摩と大隅と、たまに日向も。

戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(6)分家の台頭、三州大乱へ

島津立久(しまづたつひさ)は、父である9代当主の島津忠国(ただくに)を追放して実権を握り、実質的な当主であった。島津立久は分家・一門衆・国衆の協力も得ながら、混乱を治めていく。攻め滅ぼしたり、あるいは懐柔したりと、敵対勢力への対応もうまくこなした。文明2年(1470年)、島津立久は守護職と家督を譲られ、名実ともに当主となった。

 

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島津氏は支配体制をつくり上げていく過程で、分家をいくつも立てる。これらは島津宗家を支える頼もしい存在となった。でも、その関係は強い当主があってこそ成り立つのである。強い当主がいなくなってしまうと……。


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なお、日付については旧暦で記す。

 

 

 

 

 

伊作久逸を櫛間院に移す

15世紀前半は島津氏に内紛が続き、領内は乱れに乱れた。その混乱に乗じて、日向国では伊東氏が勢力を広げた。島津立久は伊東氏と和睦。協調路線をとっていたが、警戒は緩めない。伊東氏への備えとして伊作久逸(いざくひさやす)を日向国櫛間院(くしまいん、現在の宮崎県串間市)に移した。

伊作久逸は、もともとは薩摩国伊作(いざく、鹿児島県日置市吹上)の領主であった。伊作氏は鎌倉時代に島津本家から分かれた庶流の家だが、久逸は宗家から養子として入った。島津忠国の三男であり、島津立久の弟である。

島津立久は弟を要所の配置した。そして、それはうまく機能したと思われる。だが、のちに混乱の火種となるのだ。

 

 

島津立久と薩州家

島津氏の分家の筆頭格が薩州家(さっしゅうけ)だ。薩摩国出水・山門・阿久根(いずみ・やまと・あくね、現在の鹿児島県出水市・阿久根市)を所領とする。

島津宗家と薩州家との関係は、なかなかに微妙な感じがする。薩州家初代の島津用久(もちひさ)は宗家9代当主の島津忠国の弟で、島津忠国が失脚して守護を代行したこと(守護についた、という説もあり)もあった。そして、島津忠国が復権を目指し、兄弟は対立し、そして和解する。

【関連記事】戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(4)島津忠国と島津用久の対立

 

島津用久は宗家に従ったものの、その力はまだ強かったと思われる。島津忠国はこの弟をなんとか懐柔しようとした様子がうかがえる。領地を奮発して与えたほか、婚姻関係も結ぶ。後継者の島津立久(忠国の嫡男)に島津用久の娘を娶らせている。これには、宗家と薩州家を一本化しようという意図もありそうである。

長禄3年(1459年)、島津忠国は二度目の失脚に見舞われる。島津立久がクーデターをおこして実権を握ったのだ。このときに立久は嫁の実家にあたる薩州家を味方につけたと考えられ、のちに薩州家2代の島津国久(くにひさ)を厚遇している。

また、島津忠国が隠居所としていた薩摩国加世田別府(かせだべっぷ、鹿児島県南さつま市加世田)は、のちに島津国久のものとなる。ほかに、河邊(かわなべ、鹿児島県南九州市川辺)や鹿籠(鹿児島県枕崎市)も領有し、薩州家は南薩摩にも勢力を広げたのだ。

石造りの「別府城址」碑

加世田別府城の城址碑

 

 

島津国久が宗家の後継者に指名される

島津立久は島津国久を頼りにし、国久も宗家をしっかり支えた。また、島津立久はなかなか男子が生まれなかったことから、島津国久を後継者に指名する。国久は立久より、三州契約状(守護を譲り渡すことを証明するものか?)と小十文字太刀(島津氏伝来の家宝、当主が持つことになっている)を授けられた。

ところが、寛正4年(1463年)、宗家に男子が誕生する。ただ、島津立久はこの子を後継者とする気はなく、薩摩国市来院の龍雲寺(場所は日置市東市来)に入れて「源鑒」と名乗らせた。

源鑒の母は、国老の梶原弘純の娘である。島津立久には薩州家出身の妻(島津用久の娘)がいるので、こちらが母親ではないので後継者にしなかったのだろう。

『島津国史』には、こんなことも書かれている。

島津立久に男子が生まれて、夫人(島津用久の娘)が激しく嫉妬した。島津立久はこの子を梶原忠純(梶原弘純と同族)に育てさせていたが、夫人は殺すよう命じる。梶原忠純は殺すことができず龍雲寺に入れた。

と。

 

 

11代当主は島津忠昌に

島津立久は病に倒れる。島津国久は、源鑒を還俗させて後継者とするよう願い出た。自分ではなく、立久の子が家督をつぐべきだと主張したのである。島津立久はこれを固辞するが、ついには折れて島津国久の言を受け入れる。

文明6年(1474年)1月、源鑒は元服して島津武久と名乗った。のちに島津忠昌(ただまさ)と改名する。当記事では「島津忠昌」で統一する。

4月1日、島津立久が死去。享年43。墓所は市来院の龍雲寺。家督は島津忠昌がつぎ、11代当主となった。まだ12歳(数え年)であった。

6月1日、島津国久は三州契約状と小十文字太刀(いずれも島津立久から授けられていたもの)を島津忠昌のもとに返還した。

 

 

群雄割拠

領内には有力者が割拠する。島津忠昌が当主となった頃の顔ぶれはつぎのとおり。

 

島津国久(しまづくにひさ)
分家の薩州家(さっしゅうけ)の当主。島津忠昌の母方の伯父。後継者候補だったが、島津忠昌に譲る。島津忠昌の従兄弟にあたる。薩摩国に広大な所領を持ち、宗家に次ぐ勢力を有する。

島津季久(しまづすえひさ)
分家の豊州家(ほうしゅうけ)の当主。島津忠国の弟で、島津忠昌の大叔父にあたる。大隅国帖佐・加治木・蒲生(ちょうさ・かじき・かもう、鹿児島県姶良市)に勢力を持つ。

島津友久(しまづともひさ)
分家の相州家(そうしゅうけ)の当主。島津立久の兄で、島津忠昌の伯父にあたる。薩摩国田布施・阿多(たぶせ・あた、鹿児島県南さつま市金峰)に所領を持つ。

島津豊久(しまづとよひさ)
分家の伯州家(はくしゅうけ)の当主。島津忠国の弟で、島津忠昌の大叔父にあたる。薩摩国平和泉(ひらいずみ、鹿児島県伊佐市大口平出水)などを領する。

島津忠徳(のちに島津忠福と改名)
分家の羽州家(うしゅうけ)の当主。島津立久の従兄弟にあたる。日向国庄内梅北(うめきた、宮崎県都城市梅北)を領する。

伊作久逸(いざくひさやす)
島津忠国の三男で、伊作氏をついだ。島津忠昌の叔父にあたる。島津立久に命じられて日向国櫛間院を守っている。

新納忠続(にいろただつぐ)
島津氏庶流。島津立久の母は新納氏出身である。日向国志布志(しぶし、鹿児島県志布志市志布志)を本拠地とするが、島津立久に命じられて日向国飫肥(おび、宮崎県日南市)に移る。志布志は新納是久(これひさ、忠続の弟)が守る。

北郷敏久(ほんごうとしひさ)
島津氏庶流。日向国庄内都城(宮崎県都城市都島)を領する。

樺山長久(かばやま、名の読みは確認できず)
島津氏庶流。日向国庄内野々美谷(ののみたに、宮崎県都城市野々美谷)を領する。

佐多忠山(さた、名の読みは確認できず)
島津氏庶流。薩摩国知覧院(ちらんいん、鹿児島県南九州市知覧)を領する。

山田忠尚(やまだただひさ)
島津氏庶流。大隅国市成(いちなり、鹿児島県鹿屋市輝北町市成)の領主。

本田兼親(ほんだかねちか、か?)
宗家の国老。大隅国清水(きよみず、鹿児島県霧島市国分清水)を領する。

平田兼宗(ひらたかねむね、か?)
宗家の国老。忠昌を補佐して国政を執る。大隅国串良院(くしらいん、鹿児島県鹿屋市串良)を領する。

村田経安(むらたつねやす、か?)
宗家の国老。忠昌を補佐して国政を執る。薩摩国郡山(こおりやま、鹿児島市郡山)を領する。

蒲生宣清(かもうのぶきよ、か?)
薩摩国給黎(きいれ、鹿児島市喜入)の領主。もともとは大隅国蒲生を治めていた一族だが、文明の頃は給黎に移っていた。

肝付兼忠(きもつきかねただ)
肝付氏は11世紀頃から大隅国肝属郡に勢力を持つ一族。高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町高山)を拠点とする。この頃は島津宗家との関係は良好。

頴娃兼心(えい、名の読みは確認できず)
肝付氏庶流。薩摩国頴娃(えい、鹿児島県南九州市頴娃)の領主。

禰寝重清(ねじめしげきよ)
禰寝氏は鎌倉時代以前から南九州に土着。禰寝院(ねじめいん、鹿児島県肝属郡南大隅町根占)を拠点に大隅国南部に勢力を持つ。

北原貴兼(きたはらたかかね、か?)
肝付氏庶流。日向国真幸院(まさきん、宮崎県えびの市・小林市)や大隅国栗野院・筒羽野(くりのいん・つつはの、鹿児島県姶良郡湧水町)などに所領を持つ。

入来院重豊(いりきいんしげとよ)
鎌倉時代に薩摩国北部に下向した渋谷(しぶや)氏の一族。入来院(いりきん、鹿児島県薩摩川内市入来)を拠点に大きな勢力を持つ。

祁答院重度(けどういんしげのり、か?)
名は祁答院重慶とも。渋谷一族。薩摩国祁答院(けどういん、鹿児島県薩摩郡さつま町・薩摩川内市祁答院町)などに勢力を持つ。

税所氏(さいしょ)
大隅国囎唹(そお、霧島市国分のあたり)に古くから土着する一族。

菱刈氏重(ひしかりうじしげ)
12世紀末頃から大隅国菱刈(ひしかり・鹿児島県伊佐市菱刈)などに土着する。

相良為続(さがらためつぐ)
肥後国球磨(くま、熊本県人吉市のあたり)を拠点に肥後南部に勢力を持つ。島津氏とは対立したり手を組んだり。たびたび島津領内にも兵を出す。

伊東祐堯(いとうすけたか)
日向国都於郡(とのこおり、宮崎県西都市)を拠点に日向国中部に勢力を持つ。島津氏とは日向国中南部における勢力争いを展開。

 

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当主となった島津忠昌は領内を歴訪。帖佐(島津季久)・加世田(島津国久)・櫛間(伊作久逸)・飫肥(新納忠続)・知覧(佐多忠山)・給黎(蒲生宣清)などをまわり、犬追物を講じたりもしている。

島津忠昌は後継となった経緯もいろいろとややこしく、しかもまだ若い。島津忠昌の立場は頼りないものであった。分家をはじめ有力者たちの支持をしっかり得ようとしたのだろう。

 

 

島津国久・島津季久の乱

文明7年(1475年)、北原貴兼と相良為続が対立する。相良氏は兵をおこし、北原氏の真幸院を攻めようとした。島津国久(薩州家)・島津季久(豊州家)は相良氏に援軍を出すことを宗家に進言する。しかし、国老の平田兼宗・村田経安は反対する。また、島津氏に反抗する祁答院重度(祁答院重慶)を討つべしと進言。これも国老に反対される。

加久藤盆地を見下ろす

日向国真幸院、えびの市を飯野城跡からのぞむ

 

平田兼宗・村田経安は若い忠昌に代わって政務を代行していた。一方で、島津国久と島津季久は分家として家格も高く、実力もある。国老とのあいだで対立が生まれた。

島津国久(薩州家)と島津季久(豊州家)は「奸臣をのぞくべし」と反旗をひるがえした。文明8年(1476年)2月25日、反乱に同調した本田兼親・税所氏が大隅正八幡宮(鹿児島神宮、霧島市隼人)の社地に侵攻。庄内方面では島津豊久(伯州家)や島津忠徳(羽州家)が、肥後国国境近くでは菱刈氏重も反乱に呼応した。

島津国久(薩州家)は反乱を後悔する。2月26日に市来院の龍雲寺におもむき、島津立久の墓前で髪を下ろした。宗家に詫びを入れるも許されず、居城の加世田別府城を出奔して天草へ逃亡しようとした。だが、逃亡の途中に出水で家臣たちに引き留められる。島津国久は考えを改め、再び加世田に戻った。また、島津忠康(ただやす、豊州家の島津季久の次男)が加世田救援のために揖宿城に入った。

2月28日、島津忠昌(宗家)は加世田に兵を送る。3月5日には宗家方の島津友久(相州家)が加世田別府城を囲んだ。また、禰寝重清・肝付兼忠・蒲生宣清・頴娃兼心らは揖宿を攻める。

同じ頃、宗家方は日向国三俣院(宮崎県都城市・北諸県郡三股町のあたり)の反乱軍を攻撃。北郷敏久・樺山長久・平田兼宗らが三俣下城を攻めて、島津豊久(伯州家)・島津忠徳(羽州家)を降した。

この混乱に乗じて肥後の相良為続も動く。3月8日、薩摩国北辺の牛山(うしやま、鹿児島県伊佐市大口)に侵攻。出水(薩州家)の兵も羽月(はつき、こちらも伊佐市大口)に攻め入った。

大隅国で戦っていた島津季久(豊州家)は3月18日に島津忠昌のいる鹿児島に進軍。19日には大隅国吉田院(よしだいん、鹿児島市吉田)を攻めた。群臣は鹿児島は危ないと察し、島津忠昌を伊集院に避難させた。鹿児島は伊作久逸・新納忠続に守らせた。

「松尾城大手口」の標柱、奥に山城跡

吉田の松尾城跡

 

3月23日より禰寝重清らが再び揖宿城を攻撃。数日後には島津友久(相州家)が加世田の島津国久(薩州家)を降伏させる。5月23日には揖宿城も落城した。

残るは島津季久のみとなり、反乱も鎮圧に向かうかと思いきやそうはならない。今度は島津友久(相州家)が田布施で反旗をひるがえす。おまけに、降伏させた島津国久も誘い込んだ。宗家方は6月26日に田布施へ兵を出し、反乱軍と戦った。

苔むした神社の境内

田布施の亀ヶ城跡

 

9月になって、島津国久(薩州家)・島津季久(豊州家)・相良為続が牛山長峯を攻めた。9月9日に馬越(まごし、伊佐市菱刈前目)で宗家方の北原貴兼・肝付兼恒(肝付兼元の弟)らを撃ち破る。

この頃、桜島で大きな噴火もあった(文明噴火)。9月5日に地震が発生し、9月12日に爆発。かなりの被害が出ている。

文明9年(1477年)1月、加治木満久(豊州家の島津季久の三男、加治木氏を相続している)が大隅正八幡宮の山上にあった宗家方の陣地を攻撃。社家の桑波田氏や国分正興寺の住持らもこれに加わった。宗家方は樺山氏・北郷氏・村田氏らにこれを討たせ、敵を撤退させた。

その後は、宗家方が田布施を再び攻めたり、島津季久(豊州家)が吉田や比志島(ひしじま、鹿児島市皆与志)を攻めたり。一進一退の攻防が続いたが、4月16日に島津国久(薩州家)が降伏。国久にすすめられて島津季久(豊州家)も帰順した。4月19日にはふたりが鹿児島を訪れて島津忠昌に会う。

島津友久(相州家)・島津国久(薩州家)・伊作久逸・島津忠廉(豊州家、季久の嫡男)・佐多忠山・島津忠徳(羽州家)・新納忠続・加治木満久(豊州家、季久の三男)・樺山長久・北郷敏久らが連名で盟書を出し、島津忠昌に忠誠を誓った。なお、島津季久はこの年に亡くなっており、豊州家は代替わりしていたようである。

文明12年(1480年)にも、島津忠昌・島津友久・島津国久・伊作久逸・島津忠廉・佐多忠山・新納忠続の6人で改めて盟約を結んだ。

島津忠昌は分家・庶家の支持を確立することに成功する。「島津一族が協力してやっていくぞ!」という感じなのだが、同時にそれは「宗家の独裁ではない」ということ。分家・庶家の影響力が強くなったのである。

しばらくは争いがおさまり、領内は静かになったが……。

 

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<参考資料>
『島津国史』
編/山本正誼 出版/鹿児島県地方史学会 1972年

『西藩野史』
著/得能通昭 出版/鹿児島私立教育會 1896年

『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 出版/山本盛秀 1905年

鹿児島県史料集13『本藩人物誌』
編/鹿児島県史料刊行委員会 出版/鹿児島県立図書館 1973年

『鹿児島縣史 第1巻』
編/鹿児島県 1939年

『鹿児島市史第1巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 1969年

『出水郷土誌』
編/出水市郷土誌編纂委員会 発行/出水市 2004年

『姶良町郷土誌』
編/姶良町郷土誌編纂委員会 発行/姶良町長 池田盛孝 1968年

『鹿児島県の中世城館跡』
編・発行/鹿児島県教育委員会 1987年

『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』
著/川口素生 発行/新紀元社 2018年(電子書籍版)

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