ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

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宇宿の天之御中主神社(妙見廟/妙見神社)、島津忠久が勧請した武神

鹿児島市宇宿に天之御中主神社(あめのみなかぬしじんじゃ)が鎮座する。別称に妙見神社(みょうけんじんじゃ)とも。古くは妙見廟とも呼ばれていた。

このあたりはかつての薩摩国谿山郡宇宿のうち。『三国名勝図会』巻之十九で「妙見廟」について書かれている。この中に「當廟は、霊應特に明らかなりとて」とあり、昔から人気があったという。私が訪れた日も参詣する人が多かった。

 

 

御祭神

もともとは妙見を祭る。妙見というのは北極星や北斗七星を神格化したものである。「妙見菩薩」「尊星王」「妙見尊星王」「北辰菩薩」「北辰」といった呼ばれ方をされる。

妙見社は軍神として崇拝され、関東武士に人気があった。とくに下総国(現在の千葉県)の千葉氏は氏神としている。ちなみに千葉氏の家紋は「九曜紋」で、これは妙見宮の神紋と同じものである。

明治時代の神仏分離にともなって、仏教的要素が除かれる。そして妙見社には、日本神話の天之御中主(アメノミナカヌシ)の神格が重ねられることが多かった。ほとんどが「天之御中主神社」へと改称した。宇宿の天之御中主神社もその一つだ。

現在の御祭神がつぎのとおり。

主祭神は天之御中主大神(アメノミナカヌシノオオカミ、妙見様)。相殿神に市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト、弁天様)、菅原道真公(天神様)、大己貴命(オオナムチノミコト、大黒様)、少彦名命(スクナヒコナノミコト、恵比須様)。

 

妙見様・弁天様・天神様・大黒様・恵比須様と、あらゆる方面の御利益が揃っている。

 

 

800年以上の歴史がある

創建は正治年間(1199年~1201年)と伝わる。島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)が鎌倉から持ち込んだとも、あるいは紀伊国の那智山(熊野那智大社、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)より勧請したとも。いずれにしても島津氏の薩摩入りと関連があるようだ。

 

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応永年間(1394年~1428年)に島津元久(もとひさ、島津氏7代)の命で、玉龍山福昌寺(ぎょくりゅうさんふくしょうじ、鹿児島市池之上町)より祭田が寄付されたという記録もある。ちなみに福昌寺は島津氏の菩提寺で、応永元年(1394年)に島津元久により建立された。その頃は島津元久が覇権を掌握しつつある頃であり、激戦が続いていた。そんな中で、妙見の神威を頼りにしたのだろうか。

 

 

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古いものも、けっこう残っている

鎮座地は住宅街の中にある。参道口は南側に。広めの駐車場もあって参詣しやすい。

 

天之御中主神社の鳥居

鳥居は南側に

 

鳥居の前には古い仁王像も残っている。寛文13年(1673年)に造立。背面には「奉庚申」の文字もあり、庚申講で寄進されたものだ。

 

鳥居の前に

仁王像、吽形

 

仁王像の顔

阿形

 

鳥居をくぐるとすぐに石碑がある。これらは寄進に関わるものだ。大きなものは寛政3年(1791年)の銘があり、かなりの人数の名が刻まれている。また、小さな石碑には、文政13年(1830年)に鳥居を寄進したことが記される。

 

石碑

寄進の記念碑

 

参道を奥へ。正面に拝殿が見える。大きな木は「夫婦楠」と呼ばれている。

 

境内

真ん中に大きな木

 

夫婦楠

 

社殿は平成17年(2005年)に新築されたものである。拝殿は八棟造り、本殿は流造り。神紋の「九曜紋」も確認できる。

 

天之御中主神社の社殿

拝殿

 

拝殿前には狛犬がいる。表情には愛嬌がある。昭和8年(1930年)に造られたもの。

 

本殿を守る

狛犬

 

末社の塞神社(さいじんじゃ)。古くは「道祖神祠」「道祖神社」「さやの神」とも。もともとは宇宿と郡元の境(現在の鹿児島市日之出町)にあったもので、宇宿に入り込む病気を遮る神様だった。江戸時代に今の場所に遷された。御祭神は猿田彦神(サルタヒコノカミ)・八衢彦神(ヤチマタヒコノカミ)・八衢姫神(ヤチマタヒメノカミ)・道返神(チガエシノカミ)・鬼子母神(キシボジン)の五柱。


なお、塞神社の神祠は江戸時代のものである。かつての妙見廟の社殿を利用したものとのこと。

 

末社の一つ

塞神社

 

塞神社と並んで一つ末社がある。こちらは正一位白龍稲荷神社。御祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)。明治時代に京の伏見稲荷大社より勧請したもの。

 

小さな祠

正一位白龍稲荷神社

 

さらに塞神社の後ろのほうにも神様が並んでいる。地域で祀られていたものが、こちらに遷されたのだろう。タノカンサァ(田の神像)もいる。

 

神像や石祠

神様たち

 

宮司さんによると、タノカンサァ(田の神像)は鹿児島中央駅の近くから遷されたものとのこと。天之御中主神社が所有する土地があり、そこに置かれていたそうだ。

 

田の神像

タノカンサァはこんな表情

 

こちらは地神。天保3年(1832年)の銘がある。

 

神様

地神

 

「橋口石垣新調記」碑。天保年間のもので、「町田喜左衛門」「鎌田強兵衛」の二人の役人の名が刻まれている。

 

記念碑

「橋口石垣新調記」碑

 

 

「丸に十」の紋入りの手水鉢もあった。由緒はよくわからず。

 

「丸に十」の紋がつく

手水鉢

 


タノカンサァのすぐ横には蛇口がある。ここで井戸水を汲むことができる。本殿の地下約60mで湧き、「水分の御井戸(みくまりのみいど)」と呼ばれている。また、水は「妙見延寿水」と呼ばれている。昔から霊験あらたかな水として重宝されていたという。

 

水分の御井戸

ありがたい水

 

ここには、たくさんの神様がまします。素敵な神社だった。

 

天之御中主神社の公式ホームページはこちら。

www.myoukenjinja.com

 

 


<参考資料>
『三国名勝図会』
編/五代秀尭、橋口兼柄 発行/山本盛秀 1905年

『鹿児島市史 第三巻』
編/鹿児島市史編さん委員会 発行/鹿児島市 1971年

ほか